考古学のおやつ

考古学のお通夜−7世紀はどこだ・前篇

萬維網考古夜話 第49話 28/Dec/1999

ご報告が遅れましたが,先月の末に奈良までとある研究会を聞きに行きました。

(^o^)/ 帝塚山考古学研究所歴史考古研究会・古代の土器研究会共催 飛鳥・白鳳の瓦と土器−年代論−
1999年11月27日(土)〜28日(日):奈良国立文化財研究所平城宮跡資料館講堂/奈良県奈良市(14/Nov/1999)

発表内容は以下の通り。

そうそう,当日のプログラムを挙げてて,今初めて気づいたんですけど,「飛鳥・白鳳時代」ってどう定義すんの?どこまで「飛鳥」でどこから「白鳳」?これ自体けっこうな問題だと思うんですけど。

ま,それはおいといて,この類の話は,ちょっと前までの私にはあまり縁がなかったはずなのですが,昨年の年末今年の正月にかけて7世紀のお話をしたように,とってもまずいタイミングで発表してしまった7世紀三部作のせいで,すっかり他人事でなくなってしまったのは,第38話 冷蔵庫サタデー−間の悪い三部作でお話ししたとおりです。それにしても,ひどいタイトルだな,第38話は(^^;ゞ。

この研究会の内容,特に畿内関係について,南河内考古学研究所の喫茶室で議論が(というより,一参加者に対する聞き取り調査かな?)展開されていますので,畿内方面の件についてはそちらを参照してください。
考古学のおやつ」は関東から発信していますが,私が関東のことに疎い(おい(--#)ため,「最も地域に密着しない考古学サイト」となっております。関東のことは聞かないでください。

私に少しでも発言できそうなところというと,山村さんが話されたあたりの九州の件と,洪潽植さんが話された新羅土器と須恵器の並行関係の話ぐらいだと思いますので,少しそのお話をしましょう。


山村さんのお話では,山村さんのところに近くの自治体の人たちから「おかげで報告書のまとめが書けんとやないか」と電話がかかって来るとか。ま,電話かけたくなったことは私にもありましたが(^^;,冗談はさておき,このエピソードは,ある種の両面性を物語っているような気がします。

もし,山村さんの考える編年が,笑って無視できるような代物であれば,報告書のまとめが書けないはずはないのです。無視すりゃいいんだから。しかし,実際には,それによって従来の考えが破壊されてしまう部分と,むしろ遺跡を理解しやすくなる部分と,両面が認識されているから,さてどうしたものかと,まとめが書けなくなってしまうのでしょう。

具体的には,集落の須恵器の出方を理解するには,山村編年により話がうまくつながるような気がします。一時的にそこらじゅうの集落が廃絶する,といった奇怪な現象を想定しなくてすむし,一括遺物の中にやたらに“別の時期の須恵器が混入”していることも,新たに捉え直せるでしょう。
一方で,土器の型式差から群集墳への追葬の回数や間隔を推定するような研究は,すっかり破綻して仕切り直しになってしまいます。

さて,山村さんの話を一旦お休みして,洪さんのお話ですが,こちらは,一体どんな話になるか,私にとっては特に興味深いところでした。そして,非常に意外な内容だったと言っていいでしょう。

日本の須恵器の実年代観は古すぎる,という結論になるのは予想していましたが,私にとって意外だったのは,今回の趣旨とは少しはずれる,6世紀の部分です。特に6世紀の前葉・中葉あたりの部分は,私が考えている編年とあまり変わりません。だったら,ここから並行関係を論ずると,6世紀の須恵器の実年代観は,あまり修正しなくていいということになり,結局,日本の須恵器の実年代観が全般に古くしすぎとはいえなくなりますよね。

ただし,土器どうしで比べたときの並行関係と,馬具・石室などそのほかの考古資料で比べたときの並行関係は必ずしも対応していないので,これで並行関係に関する問題が解決するわけではありません。

そうすると,討論の時に白石先生が,洪さんの考えは須恵器の初現を遅くしたり稲荷山鉄剣を60年引き下げる考えと一連のもので,受け入れがたいと発言されたことも,お二人の認識としてはそれぞれその通りなのでしょうが,私には別の意味に聞こえます。むしろ今回の編年の発表によって,5世紀以前の実年代引き下げと7世紀の実年代引き下げが連動しなくなった……と言って言い過ぎなら,連動させなくてもよくなった,と思うのです。

6世紀後葉以降の部分については,洪さんの編年は私の考えるものとかなり違っています。違いを逐一挙げていっても仕方がないし,一部は後篇でお話しすることになるでしょうから,方法上の問題を少し挙げておきます。

洪さんの編年は属性分析によったと言っていますが,ちょっと疑問符のつく属性分析です。高杯の場合は2段透しか1段透しかによって,蓋の場合はつまみ形状によって,壺の場合は台脚か高台かによって器種を細別してしまい,例えば2段透しの高杯と1段透しの高杯の杯部どうしの対比が充分でない気がします。細分自体にも問題がある(2段透し高杯の片方の段の穿孔が省略された事例は「1段透し」になってしまう)し,一旦器種を分けてしまうと,両者は遺構での共伴関係でしか対比されません。また,それぞれの属性を見ても,型式学的に変化して行ってない部分があります。そして,結局は各器種の1型式にそれぞれ1時期が与えられています。

つまり,実は属性分析ではなくて,いくつかの一括遺物を配列した上で,各器種の諸属性を「抜き書き」して説明しているのです。これは,山村さんが批判的に言っておられた「箱を積み重ねるように」して組まれた編年ではないのでしょうか。

ところが,型式学や遺構での一括遺物の解釈にシビアな態度を取っておられるはず(その中には聞くべき意見も多い)の壇上の土器研究者たちは,方法的には反しても須恵器の実年代引き下げという結論に共通する洪さんの編年に,一人を除いてまったく論評しないのでした。

これについて,終了後に尋ねたところ,「遠来の客に対して,それは言えない」という声が聞かれました。

さて,寄り道から山村さんの話に戻りましょう。
洪さんの編年について,土器の発表者でたった一人言及したのが山村さんでした。それによると,九州の須恵器の実年代は,手がかりがなくて決めかねる,洪さんが示された編年表を見ていると,新羅土器との共伴例が手がかりになるかも知れないという気がする,という趣旨でした。これは,別に洪さんの編年を認めたってわけではないのですが,でも,そんな風に誤解されかねない発言でした。

それに,実際は日本の土器と新羅土器の良好な共伴事例は多くないし,新羅土器にも地域差はあるし,器種構成から切り離された土器片をどう取り扱うか,九州から出土した場合,その出土状況をいかに解釈するか,土器の地域編年よりもはるかに難しい問題を抱えてしまうんですけどねぇ。どうするんでしょう。

さて,論評ばかりでなくて,新羅土器と北部九州須恵器の並行関係について,後篇でちょっとだけ整理するととしましょう。あ,上で人のこと批判してるからって,期待しないでください。私は編年いい加減だから,かなり大まかです。幸いにもこのコーナーのアクセスは激減してますから,何でも言いたい放題ですしね(笑)。

今回のタイトル「考古学のお通夜(© N. Yamamura 1999)」は山村さんからパクらせて頂きましたm(_ _)m(だからコピーライトのマーク付き)。「お通夜」じゃなくって「おやつ」だってば:-P。

洪潽植の潽=[水普]
[第48話 妥当と安定−投稿規定の型式学・後篇|第50話 干支2運の遡上−7世紀はどこだ・中篇|編年表]
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