考古学のおやつ

集約の戒律・後篇−須恵器vs杏葉

萬維網考古夜話 第68話 18/Aug/2002

早く先に進みたいのですが,寄り道の2回目です(これほどの気合は帯金具以来ですね)。尾野善裕氏の論文で4項目に集約された古墳中・後期の暦年代根拠が,正当に導き出されたものかどうかを知るため,4項目すべてが登場する白石太一郎氏の論文を読んでいます。

白石氏の1985年論文

1985年論文で,今回のお話に関連する部分は,「二 古墳時代の暦年代」のうち,「2 中期(前III・IV期)古墳の年代」という部分です。ここで白石氏は,天皇陵の比定に偏った年代観を批判した上で,暦年代比定の手がかりを提示します。

考察の材料としてその有効性が期待されるのは、中期の一定の段階から古墳の副葬品にも加わる馬具と須恵器であろう。〔白石太一郎1985:228〕

「加わる」という部分を見逃してはいけません。この部分に,1985年論文が1979年論文と同じ論旨であることが凝縮されています。

朝鮮半島の資料との比較から、日本の須恵器の初現年代を明らかにすることが、今すぐには無理であるとすれば、(後略)〔白石太一郎1985:230〕

ほらほら。あくまでも議論の焦点は須恵器の「初現」なんですよ。

1985年論文では,尾野氏の挙げた第1項目・第2項目に当たる部分とともに,第3項目・第4項目に当たる部分が登場します。ただし,すでにお話ししたように,第2項目については白石氏の1979年論文と内容が違っています。それは第3項目とも微妙にかかわり,結果的に尾野氏の要約の正当性に抵触することでしょう。

それでは,尾野氏の第2項目に当たる稲荷山鉄剣の部分を見てみましょう。1979年論文とは,結論はわずかに違っていますが,論旨はすっかり違っています
まず,いきなり

稲荷山古墳出土の鉄剣銘の「辛亥」については、倭王武に比定されるワカタケル大王の想定在位年代との一致からも、これを四七一年とする説が有力である。〔白石太一郎1985:230〕

と,文献史学による研究成果を提示します。この時点ですでに,1979年論文とはスタンスが違っている気配が漂いますね。

というのも,1985年論文では,稲荷山古墳のくびれ部で出土した須恵器と鉄剣銘を対比させていないのです。この少し前に「辛亥銘鉄剣を出土した埼玉県行田市稲荷山古墳の須恵器は、貴重な手がかりを与えてくれる」と書いてあるんですが,貴重な手がかりをアテにせず,1981年に刊行された稲荷山古墳の報告書を元に,礫槨出土の馬具に含まれる三鈴付杏葉を根拠として,これらの馬具はTK47型式より新しいMT15型式の古い段階のものだと見解を変更しています。
1979年論文で「稲荷山古墳の馬具とTK23ないしTK47型式の須恵器との並行関係については,(中略)疑う余地はなかろう。」と書かれていたんですが〔白石太一郎1979:25〕,三鈴付杏葉が1979年論文の見解を吹き飛ばしてしまったようです。

鉄剣銘に対応させる須恵器型式がずれたことで,1979年論文での論理展開が使えなくなってしまった白石氏は,稲荷山鉄剣に未発見の埋葬施設があると考えてこれに須恵器を対応させ,須恵器と礫槨(銘文鉄剣や馬具が出土)とを切り離してしまいます。そして,1979年当時の馬具の年代観を使えなくなった代わりに,すでに通説化していた稲荷山鉄剣の年代観を用いています。
両論文の該当部分を比べてみましょう。

1979年論文1985年論文
馬具の年代観(文献史学による年代観)
鉄剣銘の「辛亥年」を471年に比定鉄剣銘の「辛亥年」を471年に比定
須恵器を5世紀末ごろと想定馬具を5世紀末ごろと想定
くびれ部で出土した須恵器TK23〜TK47型式に対比三鈴付杏葉を含む馬具を須恵器MT15型式の古い段階に対比
須恵器TK23〜TK47型式の暦年代比定須恵器MT15型式の暦年代比定

白石氏の論理の出発点は,それぞれの論文執筆当時の年代観です。しかし,白石氏らの1979年論文の時点での年代観が,文献史学者の銘文理解に作用していたはずなので,馬具の年代観を変更したのであれば,白石氏自身のはしごを外してしまったことになり,結局,落っこちるのは自分自身ではないでしょうか?

この白石氏の見解変更が,日韓をまたがる暦年代論の混乱に結びついていきます。このことは,(結論の類似性のみを挙げて対比する人もいますが)尾野氏の議論とは無関係なので,このシリーズの後にでも改めて話題にしましょう。

実は,尾野氏が第2項目で言う「鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚」というのは,1985年論文になら対応しています。しかし,1985年論文では尾野氏の第2項目に言うTK23〜TK47型式ではなく,MT15型式を稲荷山鉄剣に対比させているのであり,白石氏はMT15型式を稲荷山鉄剣に対比させたからこそ,従来の考古学の成果をそのまま利用するわけに行かず,「鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚」せざるを得なかったのです。
尾野氏の要約はやっぱり粗雑だったのでしょうか。

焦点は須恵器の初現年代

白石氏の論旨に戻りますと,ここから須恵器の初現に年代を遡らせる部分は,ほぼ1979年論文と共通しています。そしてこの後に,尾野氏の挙げた第3項目と第4項目が出てきます。
ここで思い出してください。白石氏のこの部分は「2 中期(前III・IV期)古墳の年代」のはずでした。しかし,第3項目・第4項目は後期古墳に関わる須恵器型式を論じています。この齟齬は,白石氏のこの部分の記述が,須恵器の初現年代(それは古墳中期の出来事のはず)の問題に収斂されていることを念頭におかなければ理解できないでしょう。

白石氏の1985年論文は,2000年の論文集に再録され,その中でいくつかの記述が改められました〔白石太一郎2000〕。
この節のタイトルも,単行本では「2 中・後期古墳の年代」に変更されています。
本文も,読み比べると少しずつ微妙な違いがあります。
全体の論旨はそのまま生かし,変更の多くは,字句や事実関係の修正です。変更箇所を見ると,研究の進展や新資料に細かく目配りして内容を改善する一方,初出のころの論旨を変えないように配慮されています(流石!)。
ところが,稲荷山鉄剣から飛鳥寺下層までの部分はかなりの修正が入っていて,全体的に須恵器の暦年代観を古いほうにずらしています。

岩戸山古墳に触れた第3項目は,これがMT15型式の下限(単行本ではさらに新しいTK10型式)と考えことに記述のきっかけがあります。稲荷山古墳をMT15型式の上限と考えたことと整合性があると主張しています〔白石太一郎1985:231〕。白石氏の1985年論文になって,尾野氏の挙げる第3項目が登場するのは,白石氏が稲荷山鉄剣に対応させる須恵器型式を変更したことと絡むのではないか,と私は疑っています。
飛鳥寺下層の須恵器に触れた第4項目も,年代観の整合性を確保する目的で登場します。だから第3項目も第4項目も須恵器の暦年代観なのでしょう。

やはり1985年論文も初期馬具の出現≒円筒埴輪III期〜IV期の移行時期≒須恵器の出現時期という問題(つまり1979年論文のときと同じ)に議論の焦点があるようです。そうすると,1979年論文と並んで1985年論文も,古墳時代中・後期の暦年代推定材料やその根拠を網羅するようなものではなかったことになります。

また,第4項目の後に,白石氏は再び次のような言葉を記しています。

六世紀代の須恵器の暦年代については,現行の年代観にあまり大きな見解の差はないようである。〔白石太一郎1985:231〕

このあたりの年代論が須恵器の初現年代の議論に集約されている上に,通説との差をあまり意識していないのなら,特に古墳時代後期については,この論文を箇条書きに組替えても暦年代の根拠を列挙したことにはならないでしょう。

尾野氏の集約と白石論文との間に横たわる深い溝

さて,尾野氏の集約した4項目が白石氏の1985年論文にすべて登場することから,これが尾野氏の元ネタではないか,という見通しのもとに,2回にわたって白石氏の論文を読んでみました。ここまでの話だけでは,尾野氏の集約の過程は論証できないのですが,尾野氏が白石氏の論文を読んでいること自体は明らかなので,白石氏が本当は何を主張していたのか,を尾野氏の議論と対比して,この前後篇をまとめておきましょう。

暦年代論の教科書として岩波講座に入っている白石氏の1985年論文は,部品にバラすのではなく,全体としてその構成を評価すべきだと思います。
尾野氏は,国内の暦年代推定材料は当てにならない,中国や朝鮮と対比をすべきだ,という意味の主張をして,その後の議論に結び付けますが,そんなこと,多くの考古学者にとっては先刻承知の一般常識です。尾野氏が暦年代根拠の集約のネタの1つとしたであろう白石氏の1985年論文にも書かれています。

この時期(弥生・古墳時代−引用者)の考古資料の暦年代を決定する方法としては、まず中国や朝鮮半島製の紀年銘資料やこれに準じる中国などでほぼ製作年代の明らかな遺物との共存関係によって、暦年代を推定する方法がある。〔白石太一郎1985:236-237〕
日本列島のように、高文明圏の周辺に位置する地域の「原史時代」にあっては、こうした隣接文明圏の紀年銘資料や年代資料による暦年代想定が最も優先されるべき暦年代決定法であることを認識する必要がある。〔白石太一郎1985:238〕

この論文の一連の記述を通じて,白石氏は弥生・古墳時代の暦年代を決定するためのさまざまな材料(外国資料・紀年資料・文献)を挙げています。そして,暦年代を論ずるときの留意点(伝世・伝播の所要時間・信憑性)を解説するとともに,さらには自己の暦年代観をも述べています。決して古墳時代の暦年代研究やその根拠を網羅しようとはしていません。6世紀以降の外国資料を割愛しても白石氏の判断では,論述の目的を達成できたのでしょう。

むしろ,白石氏は外国資料との対比を重視しています。今後のお話を少し先取りして言えば,尾野氏が論じている江田船山古墳の遺物と武寧王陵の遺物との類似性も,白石氏は自ら指摘しているではないですか〔白石太一郎1997:227〕。
外国資料との対比をする気がなければ,1992年に加耶と倭の文物交流を探る研究プロジェクトなど行わなかったでしょうし,2002年にその成果を大々的なシンポジウムとして世に問うこともなかったはずです。

どうも,尾野氏の集約は,そうした論文の背景や論旨を配慮しないままに行われているようです(集約の過程を明らかにしていないので,今ひとつよくわかりませんが)。しかし,この集約が尾野氏のその後の議論につながっていきます。
特に,白石氏が須恵器の初現年代を論ずる目的で挙げた須恵器暦年代の根拠を古墳中・後期の暦年代の根拠として誤って集約してしまったことは,尾野氏が論文の中で古墳時代の暦年代と須恵器の暦年代とを常に混同したり摩り替えたりすることの原因となっているのではないでしょうか(読んでて混乱するんですよね)。

「ちょっと待て。このコラムも,論理の摩り替えじゃないのか?
尾野氏の引用文献は白石氏の論文だけじゃないだろう。まして白石氏の1985年論文は,尾野氏の4項目そのものには引用されていない。
4項目の集約を白石氏の1985年論文と比較しただけでは,印象批判にしかならないぞ。」

おお,鋭い指摘。そう。この話は,ちょっと結論を急いでいます。尾野氏の4項目で行われた学史認識とその批判は,尾野氏が引用したほかの論文も含めて,個別に検討しなければなりません。ここで,2回にわたった寄り道から軌道を元に戻して,尾野氏の論文の検討を再開しましょう。
尾野氏は次に,集約した4項目を個別に批判していきます。尾野氏の学史認識と批判を眺めましょう。(つづく

申し訳ありませんが,次回までまた少し間があきます。すみませんm(_ _)m。

今回登場した文献(尾野論文を除く)


[第67話 集約の戒律・前篇−初期馬具vs須恵器出現|第69話 不等の戒律・前篇−井上光貞vs大野晋|編年表]
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