不等の戒律・前篇－井上光貞vs大野晋

萬維網考古夜話第69話 2/Sep/2002

やれやれ，2回も寄り道してようやく尾野善裕氏の論文にもどってきましたが，ここまで3回が伏線張りすぎなので，この先が読めてしまった方もいることでしょう。
そうすると，どこで閲覧者を裏切ろうか，別の悩みが生ずるわけですが，とりあえず先に進むとしましょう。

尾野氏が見た稲荷山鉄剣論

尾野氏は第67話で紹介した4項目を古墳中・後期の暦年代論の根拠だと主張したうえで，個別に批判を加えています。
そのすべてを検討していく余裕はないので，先を急いで，尾野氏の第2項目，稲荷山古墳の鉄剣銘文に関する部分のみを見てみます（個別に触れると期待していた方，ごめんなさいm(_ _)m）。
まず，最初の箇条書きのところを、もう一度引用しておきましょう。

2 埼玉県の稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚し、陶邑窯のTK23～TK47型式に並行するとされる同古墳の墳丘の造出し付近出土の須恵器を5世紀後半～末頃とする。（白石1979、田辺1981）〔尾野善裕1998：78-79〕

これに対し尾野氏が加えた批判を，便宜上，記号をつけて引用します。原文は(C)と(D)の間で段落が換わっています。

(A) この年代推定の大前提である鉄剣銘の「辛亥年」を471年とする考え方は、銘文中の大王名を「ワカタケル」と読み、雄略天皇を指すと理解した上で、いわゆる倭の五王の武と同一人物と見なし、中国史書（『宋書』）に記載されている倭王武の朝貢が5世紀後半であることを、その基礎としている。
(B) しかし、研究史をつぶさに繙けば判ることだが、銘文の大王名を「ワカタケル」と読むことも、「ワカタケル」が雄略天皇を指すとすることも、さらには雄略天皇が倭王武であるということすら、有力ではあっても仮説に過ぎないのだ。
(C) つまり、「辛亥年」が471年であることを説明するためには、いくつもの仮定が踏まえられているのであって，かつて471年説以外にも531年説が有力な説の一つとして主張されていたことには、充分注意しておく必要があるだろう（井上ほか1979中の斎藤忠の発言など）。

(D) また、「辛亥年」が471年であったとしても、韓国の申敬澈が指摘する鉄剣の長期にわたる伝世の可能性もあり(註2)、関川尚功も述べているように，「辛亥年」は稲荷山古墳出土の須恵器の年代の上限を限定するものでしかない（関川1984）。
(E) したがって、仮に「辛亥年」が471年であったとしても、TK23～TK47型式の須恵器の暦年代が6世紀側にズレ込む可能性を否定することはできない筈である。
〔尾野善裕1998：80〕

また(註2)が出てきました。今度はどうやら対応するものが文末にありますので，ついでに引用しときましょう。

(E) (註2)1998年3月に釜山大学校を訪問した際に、口頭で指摘を受けた。〔尾野善裕1998：91〕

銘文発見当時の議論

個別に見ていくと，尾野氏の論理の特徴がよくわかります。

(A) この年代推定の大前提である鉄剣銘の「辛亥年」を471年とする考え方は、銘文中の大王名を「ワカタケル」と読み、雄略天皇を指すと理解した上で、いわゆる倭の五王の武と同一人物と見なし、中国史書（『宋書』）に記載されている倭王武の朝貢が5世紀後半であることを、その基礎としている。

「その基礎としている」というところに，尾野氏の学史理解が簡潔に表明されています。「辛亥年」＝471年説は，文献史学の成果を借りたものだということで，箇条書きの第2項目に言う「「辛亥年」を471年とする考え方に立脚」に対応しています。

ところが，これは必ずしも銘文発見当時の議論に対応しません。
発見直後の70年代末，稲荷山古墳の馬具に対する（当時なりの）年代認識があって，471年説が選び出され，それから須恵器の年代論に結びついたのでした（第67話）。尾野氏がこの後で引用している本の中でも，甘粕健氏が銘文以外の考古資料から，稲荷山古墳を「六世紀初頭を前後する時期の造営とすべきであろう。」と述べています〔井上光貞ほか1979：207-208〕。
そして，80年代に白石太一郎氏の論理が文献史学の成果に寄りかかった感じに変容していきますが，そこで論じられる須恵器型式は尾野氏の言う「TK23～TK47型式」ではなくなっていました（第68話）。
尾野氏が言うとおりの学説は，少なくとも尾野氏の引用文献の中には，見つけることができません。

しかし，次のような反論は予想されるところです。
曰く，「研究論文で論じられていなくても，古墳研究者が漠然と，その程度の論理としてこの時期の須恵器の年代観を認識している，という意味の評論としては有効ではないか？そもそもの学史なんて，古墳研究者自身も，どの程度わかっていることやら。尾野氏は古墳研究者の認識不足を抉り出したのだろう。」

この論理は，一見，尾野氏を弁護しているかのようで，その実，「尾野氏の学史批判は印象批評に過ぎない」という批判にもなっています。私も，このご批判に同意します（笑）。尾野氏が古墳研究者の認識不足を抉り出せるぐらい，ご自身の学史認識も深まっていると，なお良かったんですけどね。

ここまでは第67話，第68話のおさらいでした。では，次。

(B) しかし、研究史をつぶさに繙けば判ることだが、銘文の大王名を「ワカタケル」と読むことも、「ワカタケル」が雄略天皇を指すとすることも、さらには雄略天皇が倭王武であるということすら、有力ではあっても仮説に過ぎないのだ。

「繙（ひもと）く」という字は，尾野氏の論文で初めて知りました。「研究史をつぶさに繙」いたとは，ご苦労なことです。そう簡単には真似できません。真似しようにも，繙いた文献の名がほとんど挙げられていないので，かなわぬ望みなんですが(^^;ゞ。

しかたがないので，試みに，鈴木靖民氏が銘文発見の1年後に書かれた論文（尾野氏の引用文献には挙げられていない）を見ると，これは必ずしも「ワカタケル」の読みや比定に関する議論ではないのですが，銘文発見からわずか1年の間に，実に多くの見解が発表されていることがわかります〔鈴木靖民1979〕。これをいちいちチェックする余裕は私にはありません。断念しましょう。

普通，自論を立てるときに直接に関わらい問題ならば，専門家の評論や，議論の帰趨を見極めることで済ませますよね（言い訳）。そうしないと，どんなに研究が蓄積されてもスタートラインが昔のまま，ということになってしまいます。もっとも，尾野氏が学史を繙かれた努力自体は（事実なら）尊重すべきです。

さて，(B)の一文の問題は，実は学史を繙いたかどうか，ではありません。最後に登場する言葉です。
「有力ではあっても仮説に過ぎないのだ。」
それがなんなのだ？有力な仮説なら，それでいいではないですか。

人文科学では，仮説を積み重ねるも，論文の結論として掲げられるものが仮説に過ぎないのも，あたりまえです。わざわざ「仮説だ」と指摘することに，本来何も意味はないはずです。
この件は，続きの引用文を検討した後に，つまり次回になりますが，改めてもう少し丁寧に触れることにします。

緊急シンポジウム

(C) つまり、「辛亥年」が471年であることを説明するためには、いくつもの仮定が踏まえられているのであって，かつて471年説以外にも531年説が有力な説の一つとして主張されていたことには、充分注意しておく必要があるだろう（井上ほか1979中の斎藤忠の発言など）。

前半については，後にお話します。問題は後半です。
ここで尾野氏が引用しているのは，銘文発見後の1978年10月14日・15日（銘文の公表から1ヶ月たっていない）に各分野の専門家が集まって開いたシンポジウムの記録です。これは，当日の言い回しがあまり修正されずに載っているらしく，臨場感があり，銘文発見当時の雰囲気が伝わってくる，おもしろい本です。尾野氏が繙いたという銘文発見当時の文献のうち，唯一この本だけ書名を出しているのも，一気に読破せずにはいられぬような，この本の魔力のせいかも知れません。

しかし，尾野氏が要約している原文を見つけるのは，ちょっと骨が折れます。というのも，この本の中で531年説を主張しているのは，ひとりしかいないのです。それは言語学者の大野晋氏です。考古学者の斎藤忠氏が主張したわけではありません。では，斎藤氏のこのシンポジウムでの主張はどのようになっているのでしょうか。しばらく，このシンポジウムの論議を追ってみましょう。

司会の直木孝次郎氏が，まず稲荷山古墳の考古学的な意義を斎藤氏に尋ねています。一連の説明の最後に，年代の話が出てきて，「六世紀の前半かはじめ」という年代観を導き，幅を持たせて，「六世紀前半」と言っています〔井上光貞ほか1979：45〕。

これに対し，考古学にも関心の深い井上氏は，稲荷山古墳の年代について，白石太一郎氏らから聞いたという年代観を参考に，稲荷山古墳は5世紀なのではないかと問い掛けたりしています。斎藤氏と白石氏らの年代観のズレは，井上氏にはかなり気になっていた模様です。

当時，井上氏と白石氏は文化庁で国立歴史民俗博物館の設立準備に当たっていた。その後，井上氏は初代の館長となった。

さて，大野氏は，鉄剣銘に書かれている乎獲居臣の系譜を，大彦命の系譜や，『日本書紀』に登場する笠原直使主に結びつける言葉として次々に解釈し，そのために「余」を「ラ」と読んだり，東国訛りの使用を想定する，といった論理を駆使しています〔井上光貞ほか1979：66-78〕。
これに対し，井上氏は強く471年説を主張し，反論を繰り返します。両者の主張はそれぞれ確信に満ちていて，平行線を辿ります。ついに話題が「辛亥年」の比定に及ぶと，2人は斎藤氏に援軍を期待します。

さて，斎藤氏は，どう答えたのでしょうか……。と，ようやくおもしろくなってきたところで，この話題もまた長大になってしまいました。もうしばらくお待ちください。（つづく）

今回登場した文献

井上光貞・大野晋・岸俊男・斎藤忠・直木孝次郎・西嶋定生 1979『鉄剣の謎と古代日本』，東京，新潮社
尾野善裕 1998「中・後期古墳時代暦年代観の再検討」『第6回東海考古学フォーラム岐阜大会土器・墓が語る美濃の独自性～弥生から古墳へ～』，岐阜，東海考古学フォーラム岐阜大会実行委員会，75-94
関川尚功 1984「奈良県下出土の初期須恵器」橿原考古学研究所紀要考古学論攷第10冊，橿原，奈良県立橿原考古学研究所，35-74
鈴木靖民 1979「稲荷山古墳鉄剣銘乎獲居臣の研究史的検討」國學院雑誌第80巻第11号，東京，國學院大学，9-22