考古学のおやつ

集約の戒律・前篇−初期馬具vs須恵器出現

萬維網考古夜話 第67話 11/Aug/2002

当コラムの復活を飾った(つもりの)第65話が低アクセスで,まぁそんなもんかと思っていたところ,第66話でアクセスが倍増しました。どう考えても内容が乏しかったと思うのですが,わからんもんです。

尾野氏の1998年論文「中・後期古墳時代暦年代観の再検討」の購読もやっと4ページ目。前話は前置きだけで終わってしまいましたが,話にまとまりのあるところで少しずつ切っていくので,しばらくこの調子で進めます。では,前回の続きから。

集約の由来は何か

「II 研究史・これまでの5・6世紀年代観の根拠」で,尾野氏は「5・6世紀の年代観の根拠となっているのは、詰まるところ以下の4点に集約できるのではないかと思われる。」〔尾野善裕1998:78〕と,次の4点を列挙しています〔尾野善裕1998:78-79〕。

  1. 中国遼寧省にある馮素弗(415年没)墓から出土した木心金銅張輪鐙が、大阪府の七観古墳や滋賀県の新開1号墳から出土している木心鉄板張輪鐙に近い形状であり、これらが日本の古墳から出土する初期の馬具であることから、日本の初期馬具出土古墳を5世紀前半とする。(穴沢・馬目1973、白石1979)
  2. 埼玉県の稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚し、陶邑窯のTK23〜TK47型式に並行するとされる同古墳の墳丘の造出し付近出土の須恵器を5世紀後半〜末頃とする。(白石1979、田辺1981)
  3. 筑紫国造磐井の墓とされる福岡県の岩戸山古墳の墳丘から出土した須恵器のうち、最も古いものを陶邑窯のMT15〜TK10型式の過渡期に並行するものと見なし、これを古墳築造時のものと考えて、MT15型式とTK10型式の境を『日本書紀』に記載されている磐井の没年の527年頃とする(註2)。(田辺1981)
  4. 奈良県の飛鳥寺の下層から出土した須恵器を陶邑窯のTK43型式に相当するものとみなし、飛鳥寺の創建が587年であることから、TK43型式の開始を587年以前とする。(田辺1981)

「そうか,そんなに根拠が少なかったのか」「この項目,何だかおかしくない?」「いや,ほかにも根拠があったはずでは?」「第3項目の(註2)に対応する注が文末にはないよ」「あの〜ぅ,『の』が多すぎてスペルチェックに引っかかりまくりなんですけど……(^^;。」と,いくつも感想が聞こえてきそうですが,そのような反応をしていると,尾野氏の術中にハマってしまいます。

個別の項目や,それに対して尾野氏が加えた批判については第69話以降に譲るとして,今回と次回は,2つの問題を考えることにします。それは,

の2つです。これは,尾野氏が行う学史批判を読解するとき,常に念頭におかねばならない注意点です。

尾野氏は古墳研究を渉猟して4点に集約したのでしょうか。それにしては引用文献も少なく,1975年から1981年の文献に集中し,しかも須恵器に偏っています。この4項目の組合せ,どこかで見たような気がしませんか?
実は,この4項目は白石太一郎氏が岩波講座で挙げているのと一致しています〔白石太一郎1985〕。ただ,尾野氏が引く白石氏の2論文〔1979・1985〕と尾野氏の要約とを比べてみると,第2項目について,白石氏は1979年論文と1985年論文との間で,稲荷山古墳の鉄剣銘文に対応させる須恵器型式をTK23〜TK47型式からMT15型式に変更しています。尾野氏は,前者の方が,より業界の通説に近いという判断で,第2項目に前者の見解を要約しているのでしょう。

TK23〜TK47型式との対比説の方が,須恵器と暦年代推定材料のより直接的な対比を重視する尾野氏の論旨にかなっていた,という側面もあるでしょう。

そうすると,なぜ尾野氏がこの4項目を選んだか,という疑問は,なぜ白石氏がこの4項目を選んだか,という疑問を解いた後に解決されることでしょう。
ここで思い切り横道にそれて,白石氏の文意を読み取ることにします。まず,1979年論文の文意を振り返り,次回に1985年論文での見解と対比し,さらに白石氏の単行本〔2000〕とも比べてみることにします。(ここまでが今回の前置き)

白石氏の1979年論文

1979年論文では,「(3) 中期古墳の実年代」の節で,尾野氏が列挙したうちの第1項目と第2項目だけを挙げています。ただ,白石氏は箇条書きではなく,一続きの論旨として述べています。

この論文の最も重要な主題は,古墳の出現年代を3世紀後半に求める白石氏の主張にあります。ですから「(3) 中期古墳の実年代」の節も,中期のはじまりを古く考えることによって古墳の出現年代はやっぱり3世紀に遡るんだよ,と示す意味があります。

まず,尾野氏の第1項目に当たる初期馬具の年代観を述べています。そのうえで,初期馬具が出土した古墳(それが陪塚の場合は,主墳に当たる古墳)で出土した円筒埴輪が,川西宏幸氏〔1978〕のいうIII期とIV期のものであると指摘します。IV期の円筒埴輪というのは,III期の円筒埴輪から黒斑が見られなくなったもので,これはこのころ須恵器の焼成技術が埴輪生産に導入されたからだと考えられます。
こうして,初期馬具を出土する古墳の年代論は,須恵器の生産開始年代の問題にもつながってきます〔白石太一郎1979:24〕。

ここで白石氏は,尾野氏の第2項目に挙がっている稲荷山鉄剣を取り上げます。
まず稲荷山鉄剣と須恵器TK23〜TK47型式と対応させます。次に,小野山節氏の見解〔1975〕を例にあげて,「辛亥年銘の鉄剣の発見された礫槨の年代については,銘文発見以前から,出土した馬具の型式から500年前後に求める説が提起されて」いたと指摘します〔白石太一郎1979:24-25〕。これによって鉄剣銘の辛亥年として471年を選び出し,ここから須恵器TK23〜TK47型式を5世紀後半〜末葉に比定します〔白石太一郎1979:24-25〕。
ここまでは,考古学の研究成果のみを用いていて,文献史学の側の見解(銘文の解釈)は挙げていないことに注意しておきましょう。

稲荷山古墳礫槨の出土遺物に対する考古学的な理解のみによって,須恵器の年代観を論じた後,ようやく稲荷山鉄剣と船山鉄刀の大王名が共通であることに触れるのですが,ここでも「江田船山古墳の遺物群についても,これまた今回の稲荷山古墳鉄剣銘の発見以前から,考古学的には5世紀末葉を中心とする年代が想定できることが小野山節氏や穴沢咊光・馬目順一両氏によって指摘されていたのである。」と,従来の考古学的な研究成果を取り上げ,年代観を補強しています〔白石太一郎1979:25〕。
つまり,尾野氏の第2項目でいう「鉄剣の銘の「辛亥年」を471年とする考え方に立脚し」というのは,もしこれが1979年論文の要約であるならば,あまりに乱暴といわねばなりません。白石氏は,従来の考古学的な年代観に照らして471年説に軍配を上げ,翻って従来の編年の大まかな正当性を確認し,然るのちに471年説によって須恵器の暦年代を補正しているのです。

この後,TK23〜TK47型式以前の須恵器型式(TK73型式→TK216型式→TK208型式)を考慮すると,当時,最古の須恵器と考えられていたTK73型式は,5世紀前半になると考えて,ならば須恵器出現よりも前,古墳時代中期初頭の古墳は4世紀末〜5世紀初頭に遡ると主張しています〔白石太一郎1979:25〕。

ここで,白石氏1979年論文のうち,「(3) 中期古墳の実年代」の内容をまとめてみましょう。

尾野氏の要約では,白石氏の論旨が分断されている上に,第2項目について論理展開が違っていることが明らかです。また,尾野氏は,稲荷山鉄剣の辛亥年銘が発見される以前に考えられていた古墳の暦年代観について,配慮を欠いているようです。

と,言うよりも,配慮できない事情があるのでしょうが,それは何回か先にお話します。
なお,尾野氏の第2項目が適切な学史認識であるかどうかは,白石氏1979年論文の検討からだけでは断定できないので,後ほど改めてお話することにします。

特に重要なのは,白石氏は,「(3) 中期古墳の実年代」の節の内容を,初期馬具の出現≒円筒埴輪III期〜IV期の移行時期≒須恵器の出現時期に集約させているということです。稲荷山鉄剣はそのために登場しているのであって,古墳時代の暦年代根拠を羅列する意図ではありません。
この文意を正しく読解した例として,都出比呂志氏による見解を見ましょう。都出氏は,自身の暦年代論を述べるに当たって,白石氏の稲荷山鉄剣に関する一連の文章〔白石太一郎1979〕を「埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘にある辛亥年をA.D.471年とし,この古墳出土の須恵器の型式を定点とした逆算から須恵器生産の開始を5世紀前半とする。」と要約して,これにほぼ同意するといっています〔都出比呂志1982:121〕。白石氏が何を目指して1979年論文を書いたのか,わかっていたからでしょう(そう書いてあるんだから,そう読んで当然ですけどね)。

ついでに,白石氏が「(3) 中期古墳の実年代」の末尾に記した言葉を引用しておきましょう。

なお,6世紀以降の後期の古墳の年代については,現行の実年代観をそれほど大きく修正する必要はないものと考えている。〔白石太一郎1979:25〕

次に,白石氏が1985年に記した論文と比較してみましょう。1979年論文と比べると,2つの論文は同じ主題を論じているので共通した内容がほとんどなのですが,文章は全面的に書き直されていて,より充実しています。
しかしよく読むと,重大な相違点が……。(つづく


今回登場した文献(尾野論文を除く)


[第66話 共伴の戒律−陶邑vs神明遺跡|第68話 集約の戒律・後篇−須恵器vs杏葉|編年表]
白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2002. All rights reserved.