不等の戒律・後篇－仮説vs可能性

萬維網考古夜話第70話 9/Sep/2002

尾野善裕氏の論文〔1998〕を読んでいたはずが，その中に引用されていたシンポジウム本〔井上光貞ほか1979：130-131〕に寄り道しています。

(C) つまり、「辛亥年」が471年であることを説明するためには、いくつもの仮定が踏まえられているのであって，かつて471年説以外にも531年説が有力な説の一つとして主張されていたことには、充分注意しておく必要があるだろう（井上ほか1979中の斎藤忠の発言など）。〔尾野善裕1998：80〕

尾野氏の指摘の後半に合致する記述が，シンポジウム本には見当たりません。シンポジウムで531年説を熱く唱えているのは言語学者の大野晋氏だけ。確かにパワフルに主張しているのですが，「有力な説の一つとして」というのとは違う気がしますし，これは斎藤忠氏の発言ではありません。では，銘文発見直後のこのシンポジウムで，斎藤氏は何を言っているのでしょうか。

大野氏の独自の説に対し，歴史学者の井上光貞氏は，独特の語り口で471年説を主張します。それぞれの研究分野に基づき，それでいて個性にあふれる大野氏＝531年説と井上氏＝471年説。2人は考古学者の斎藤忠氏に援軍を求めます。……前話はここまで。では，続きです。

斎藤氏の立場

斎藤辛亥の年ですが、四七一年の場合には、いくつかの変転が所有者にあったことも考えられる。たとえば二つの問題が考えられないか。一つは、はじめの作られた銘文の主人公その者が葬られたということですね。もう一つは、その主人公が別な人にこれを分け与えた場合で、Aに与えたか、あるいはBに与えたか、いずれにしても本人その者でない場合です。四七一年という場合、こういう二つのケースが想定されます。そこで一番落ち着くのは、そこに二、三十年なり、あるいはもっと長く伝世の期間があったと考える考え方です。ところが、年代を六十年下げて五三一年と見た場合、それが余り長く太陽の光を見ないで、被葬者と一緒に葬られたとすれば、必ずしも矛盾しないと思います。〔井上光貞ほか1979：128-129〕

斎藤氏は，どちらの説も成り立ちうるという意味のことを言っています。井上氏は「二、三十年」という発言を聞き逃さず，「（伝世期間として）二、三十年くらいの差を考えるのが普通だ、というふうに取れるんですが、そうですか。」と問いただします〔井上光貞ほか1979：129〕。

斎藤そういう場合、鏡についてもいえるんですが、われわれの常識では考えられない、いろいろな背景がある。だから、すぐに二、三十年と単純に割り切るのは無理ではないか。いろいろなケースがあることを考えたほうがいいんじゃないかと思います。〔井上光貞ほか1979：129〕

井上氏が斎藤氏の発言を自説にひきつけて解釈していると感じ取った大野氏は，斎藤氏は両論ありうると言っているだけだと，軌道修正を図ります〔井上光貞ほか1979：130〕。
このときは，東洋史学者の西嶋定生氏が，古墳の築造年代は，伝世の可能性がある鏡や剣ではなく土師器や須恵器や埴輪で決まるのでは，という発言をして，いったん話題がそれます〔井上光貞ほか1979：130-131〕。

再び年代論の話に戻るとき，司会で文献史学者の直木孝次郎氏は小野山節氏や大塚初重氏の見解を引きながら，斎藤氏の6世紀前半というのは，6世紀初頭というニュアンスだと説明します〔井上光貞ほか1979：136-137〕。斎藤氏はこれに答えず，またもや大野氏と井上氏の激しい応酬があった後，次のように発言しています。

斎藤大分、考古学の話が出ましたが、一言、言いたいことは、考古学には考古学としての立場があり、文献に引きずられてはいけないということです。〔井上光貞ほか1979：139〕

井上氏が所用のため途中退席〔井上光貞ほか1979：167〕すると，井上氏不在の中，大野氏はまたも531年説を持ち出します〔井上光貞ほか1979：181〕。これに対し，西嶋氏は懐疑的に受け止め，斎藤氏はやはり慎重な姿勢です。大野氏は，

大野考古学のほうは、六世紀前半とおっしゃっているから、五三一年ということは、ちょうど前半の真ん中ぐらいだから、多少、揺れても……。（中略）五三一年というのは、ちょうど前半の真ん中ぐらいなので、ぎりぎりに入るという感じがしていますけど……。〔井上光貞ほか1979：185〕

と，斎藤氏の言う「前半」に期待しますが，この話に誰も乗ってきません。

斎藤発言は存在しない

またも長い寄り道になってしまいましたが，駆け足でシンポジウム本を読んでみました。参加者のうち，司会のため控えめな発言に終始した直木氏，銘文の解読に加わっていた岸俊男氏も，上の偏った引用（笑）に現れない部分で，重要な発言をしています。
さらに付録として甘粕健氏・佐伯有清氏・川口勝康氏・木下礼仁氏・東野治之氏による論文や参考資料が掲載されていますが，銘文の報道が9月19日，シンポジウムが10月14日・15日，直木氏の「はじめに」が11月3日，そして本の発行日が翌年1月5日ということからみて，これらは銘文発見から10週間以内で執筆されたはず。短期間に多くの頭脳が稲荷山鉄剣のため動員されたことがわかります。
この間に各分野の専門家がそれぞれの説を構築しており，また，この時点では，分野間での研究成果の相互依存があまり見られないことにも注意すべきです。
おもしろい本なので，興味がおありの方は図書館ででも探してみてください。

こうしてみると，斎藤氏は文献史学の成果に安易に寄りかからない代わりに，銘文解釈に対して，いずれの説にも言質を与えないように慎重に発言していることが窺われます。また，井上氏や大野氏のヒートアップに対し，中立を保つため一歩引いた表現にとどめているようにも感じられます。
ならば，尾野氏の言う「かつて471年説以外にも531年説が有力な説の一つとして主張されていたことには、充分注意しておく必要があるだろう（井上ほか1979中の斎藤忠の発言など）。」という書き方は，斎藤氏の発言を歪曲（捏造に近い）していることにはなりませんか。なぜ，「大野晋の発言など」と書かなかったのでしょうか。大野氏ではダメなんですか？
また，ほかに斎藤氏のそのような発言があるなら（ないはずですけど），「研究史をつぶさに繙」いた尾野氏のこと，そちらの発言が載った文献こそ引用すればよかったのに……。

と，ここで私は，前話のミスに気づいてしまいました。尾野氏は「研究史をつぶさに繙けば判ること」とは言っても，自分が研究史をつぶさに繙いたとは，言っていません。斎藤氏のように，言質を与えない発言になっているではないですか。
実は，これが尾野氏の論文を読むときの難しさです。断定された文が極めて少ないのです。尾野氏の文章は，一見明快で，歯切れがよく，非常におもしろく読めるのですが，今回，改めて一連の著作を検討してみると，尾野氏の文は語尾が意外に冗長で，ここで断定が避けられ，趣旨がぼかされています。そのため，憶測や印象批評を挟まずに文意を明らかにし，検証するという作業がとても難しいのです。語尾で検証可能性を減ずることによって，批判除けにしているというわけです。意図的ではないと思いますが（これは憶測ね）。
これは重大な事実です。語尾が長くて文意のぼかされた論文は，普通つまらなくて眠気を誘うものですが，語尾をぼかしながらも，歯切れよく威勢のいい文章として読ませてしまうとは，尾野氏のなみなみならぬ筆力を示しています。でも，結局，繙いたのか，繙かなかったのか……。

どうも，銘文発見当時の状況について，尾野氏の認識には疑問符がつきます。

(D) また、「辛亥年」が471年であったとしても、韓国の申敬澈が指摘する鉄剣の長期にわたる伝世の可能性もあり(註2)、関川尚功も述べているように，「辛亥年」は稲荷山古墳出土の須恵器の年代の上限を限定するものでしかない（関川1984）。〔尾野善裕1998：80〕

(D)には，きわめて常識的なことが書いてあります。なお，関川尚功氏の対応する記述は57ページです。引用にはページ数を書いて欲しいものですが，それ以上に，関川氏のこの重要論文が，こういう形でしか引用されないというのももったいない話です。
第67話で触れた，白石太一郎氏の論理〔白石太一郎1979：25-26〕と，それへの都出比呂志氏の読解〔都出比呂志1982：121〕に関すること，関川氏がちゃんと触れてるんですよね〔関川尚功1984：54〕。

(E) したがって、仮に「辛亥年」が471年であったとしても、TK23～TK47型式の須恵器の暦年代が6世紀側にズレ込む可能性を否定することはできない筈である。〔尾野善裕1998：80〕

(E)も，この文章の範囲内では正当ですが，学史はそうじゃないんだってば。

それは措いといて，ここの「可能性を否定することはできない」は，尾野氏の論理の特徴を示しています。(B)(C)のところで保留した「仮説」や「仮定」の問題とともに改めて触れ，今回のまとめとします。

仮説とは何か

この件に限らず，尾野氏は「仮説に過ぎない」とか「可能性は否定できない」といった言い回しが多いのです。しかし，人文科学は仮説や仮定の繰り返しです。固定した何かから不動の結論が演繹されるわけではありません。つまり，仮説まみれや可能性まみれなのです。
しかし，考古学などの人文科学は昨日も今日も明日も行われているし，論文の内容がいいだの悪いだのという議論が成り立っています。なぜでしょう？

それは，仮説や可能性が互いに等価ではないからです。いくつもの証拠に支えられた，ものすごく高い可能性に，ろくな根拠もない微弱な可能性をぶつけても，意味がないのです。考古学の論理や方法というのも，いかに蓋然性の高い仮説を導くか，ということにあります。
そして，尾野氏もそれを知っています。

尾野氏は，自説を述べるに当たって，考古学の原則的な方法論を論ずることが何度かあり，その中では，聞くべき意見が数多く述べられています（特に，古墳時代以外を論じた論文に多い）。その中には，まさに，蓋然性や信頼度という言葉を用いて，より高い可能性を目指していく過程も説明されています〔尾野善裕2001：137-138〕。

この論文の末尾には，以前の論文の誤植を詫び，訂正した部分があります〔尾野善裕2001：139〕。これは誠意ある態度です。ならば，誤植だらけで文意の取りにくい1998年論文にも，どこかに正誤表があるはずです。いまだにまったく情報が寄せられておりませんが，今も情報募集中です。1998年論文の正誤表を見かけた方はご一報ください。

考えてみれば当然で，仮説や可能性をすべて等価にしてよいなら，尾野氏が自ら論文を書く意義すら失われてしまうのです。しかし，古墳時代須恵器の年代に関する通説（と尾野氏が呼ぶ，限りなく架空に近い学説）を論ずる時には，可能性の高さを論じないようにします。それでいて自説を主張するためには，別のからくりが必要になります。2つのからくりのうち，1つだけお話しておきましょう。

つまり，否定したい可能性は「仮説に過ぎない」と論評し，支持したい仮説は「可能性は否定できない」と論評することによって，冷静中立な筆致と見せかけつつ，自説を刷り込んでいきます。尾野氏は自ら課していたはずの戒律を一時封印して，可能性の多寡を論ずるのは後回し……というより，多くの場合は別の資料に目を向けさせようとします。可能性を完全に等価にするのでもなく，可能性を再検証するのでもなく，論評の対象と言い回しを恣意的に組合せ，言いっ放しにすることで，通説に対する信頼を突き崩そうとするわけです。

まじめに可能性を比較していけば，通説を支持せざるを得なくなると悟っているから……というのは，憶測ですよ。憶測（笑）。

これに成功すれば，尾野氏が示す新たな可能性について，それをほかと比較する基準は失われている，という寸法です。こうして尾野氏の論文は本題に（このコラムも本題に）入っていきます。

武寧王陵登場

さて，実に4回をかけて，尾野氏の1998年論文のうち「II 研究史・これまでの5・6世紀年代観の根拠」の部分を読みました。尾野氏は，日本国内には暦年代の根拠がないと言う結論（これ自体はわかりきってたことですが）に達し，外国資料に根拠を求めます。そして，韓国の忠清南道公州市・百済武寧王陵に注目します。語り尽くされるほど語られている武寧王陵と，日本の古墳出土品とを今さら比較して，新たに何が言えるのかと思ったら……（つづく）。

今回登場した文献

井上光貞・大野晋・岸俊男・斎藤忠・直木孝次郎・西嶋定生 1979『鉄剣の謎と古代日本』，東京，新潮社
尾野善裕 1998「中・後期古墳時代暦年代観の再検討」『第6回東海考古学フォーラム岐阜大会土器・墓が語る美濃の独自性～弥生から古墳へ～』，岐阜，東海考古学フォーラム岐阜大会実行委員会，75-94
尾野善裕 2001「「戊申年木簡」・尾張国分寺と猿投窯－猿投窯系須恵器編年の再構築・補論－」『第1回東海土器研究会資料須恵器生産の出現から消滅－猿投窯・湖西窯編年の再構築－』，（発行地不明），東海土器研究会，133-140
関川尚功 1984「奈良県下出土の初期須恵器」橿原考古学研究所紀要考古学論攷第10冊，橿原，奈良県立橿原考古学研究所，35-74
白石太一郎 1979「近畿における古墳の年代」月刊考古学ジャーナルNo.164，東京，ニュー・サイエンス社，21-26
都出比呂志 1982「前期古墳の新古と年代論」考古学雑誌第67巻第4号，東京，日本考古学会，119-122

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