考古学のおやつ

解放の戒律・後篇−須恵器vs陶質土器

萬維網考古夜話 第75話 14/Oct/2002

昨日(10月13日),八日市地方遺跡(ようかいちじかたいせき)の木製品の展示を見てきました。うっかり“速報展”的なものと勘違いして見に行ったのですが,実際には報告書作成作業が進められているので,まとまった点数を分類して解説をつけて樹種も明記して……,という至れり尽せりの内容でした。

さて,尾野善裕氏の暦年代論を読んできましたが,とりあえず江田船山古墳については今日で終わる予定です。

2本立ての論理

江田船山古墳で1873年に出土した風変わりな土器(蓋杯や提瓶)について,尾野氏のほか,中村浩氏と高橋徹小林昭彦両氏の見解を読んでみました。ここで,それぞれの説の結論とは別の面を比べてみます。すると,中村氏と高橋・小林両氏の説は結論こそ違いますが,その論理には共通の(尾野氏にはない)特徴があります。

第73話にも登場した小野山節氏の見解を紹介して)小野山氏の示された遺物の年代は、五世紀末と六世紀前半の二者である(19)。このように金属遺物についても、時期的な差を確認することができ、先にみた須恵器の結果と同一の結論となる。〔中村浩1985:41〕

中村氏は,須恵器編年や陶邑についての知見を生かして江田船山古墳の出土土器を分析する一方,結論のところで,上の引用のように,金工品の系譜や時期差の問題にも配慮しています。つまり,須恵器は須恵器として検討する一方で,金工品に見られる追葬の痕跡を,歴史的評価の受け皿としていました。そこでは金工品の時期差の認識は須恵器と別論理ということもはっきり書かれているのに,尾野氏はこの部分を読まなかったのでしょうか。

(稲荷山古墳の須恵器がTK47型式の古相とするなら)船山古墳の築造時期と殆ど同時期ということになる。九州と関東の前方後円墳に,同一時期の須恵器が共に雄略治世を窺わせる銘文を伴う鉄刀,鉄剣と共に出土するという事実は須恵器編年研究の見地からみても非常に重要である。〔高橋徹・小林昭彦1991:84〕

高橋・小林両氏は,須恵器だけでなく土師器や埴輪も分析し,提瓶については類例を挙げて,その型式学的位置を検討しましたが,その一方,上の引用のように,同じ王名を記した銘文鉄剣・鉄刀を出土した江田船山古墳と稲荷山古墳が同時期の築造ではないか,という歴史的評価の受け皿を用意していました。

それぞれの須恵器分析はそれなりに独自の論理を持って完結しています。須恵器分析と歴史的評価の受け皿,という2本立ての論理といえるでしょう。

中村氏の論文には,熊本県教育委員会などの調査資料が取り上げられていないので,上の対比には少し問題があります。
中村氏がその後(高橋・小林両氏より以前)に触れたものを見ると,「高杯などは稲荷山古墳出土例と同じ段階か、あるいはわずかに前後するものと見られる。(中略)銘文に共通するところが多く見られる両者に、須恵器の時期でも共通するものがあるというのは興味ある問題であり、今後に期するところ大である。」〔中村浩1990:83〕とあります。念のため。

どの歴史的評価が適当か,というのは今回の主題ではないので措くとして,尾野氏の場合,そもそも江田船山古墳の歴史的な評価にはまったく触れてませんし,金工品の年代差を考慮せず,須恵器の年代差を狭める作業だけで耳飾を須恵器の年代論に引き込もうとしているわけですから,1本筋だけの論理です。しかも,その須恵器分析?は偏(ひとえ)に報告書の不備に頼っていました。こんな頼りない1本筋で,いったい何を主張できるんでしょうか。

伏せられた可能性

前話でご説明したとおり尾野氏は,中村氏の論文を不適切に引用して,1873年出土の蓋杯と提瓶を中村氏の時期比定から解放する一方,2点の土器が陶邑ON22号窯の方に向かうよう,特定の可能性に光を当てていました。ON22号窯も,報告書の弱点を衝いて枝番号を外し,可能性を広げてありました。

ところが,1873年出土遺物をさまざまな可能性に向けて解放したかに見えた尾野氏ですが,1つだけ,これまでさまざまに考慮され,検討され,あるいは主張されてきた可能性は,決して解き放ちません。触れもしないのです。
それは,尾野氏が照らそうとする可能性の道筋とは,まったく違うものです。

江田船山古墳で1873年に出土した“須恵器”と呼ばれているものは,本当に(日本製という意味での)須恵器なんでしょうか?

(3) 土器の名称を須恵器あるいは陶質土器など異なる呼称を用いる場合がある。それは前者が国産であるのに対し、後者が舶載である場合の意味を含んでいるものと理解している。なお本稿の場合は、その可能性についての論究であり、須恵器(陶質土器)という表現を用いたいと思う。〔中村浩1985:43〕

中村氏は,江田船山古墳の1873年出土土器を,煩雑を厭わずしきりに「須恵器(陶質土器)」と呼んでいます。その理由は上に引用した注釈でおわかりでしょう。背景には,江田船山古墳の出土土器は百済土器ではないか,という意見の存在がありました〔中村浩1985:35〕。
検討の結果,中村氏は結語で「船山古墳出土須恵器」と呼ぶことになりましたが,蓋杯が金工品とともに舶載された可能性は留保しています〔中村浩1985:42〕。中村氏の論文では,土器の生産地を解決することがもっとも重要な主題で,そのために金工品の系譜や時期差にも配慮を示していたのです〔中村浩1985:41〕。

尾野氏の手品の第3のタネがこれです。尾野氏は中村氏の論文から「(陶質土器)」という部分に込められたニュアンスを取り除き,須恵器と決めつけて,陶邑編年への当て嵌めの中に議論を閉じ込めたのです。それは,中村論文の主題そのものを隠蔽する行為でした。蓋杯や提瓶が韓国製かもしれないということになると,“ON22号窯”の資料操作も意義が軽くなってしまうので,可能性そのものを無視したのでしょうか。

中村氏はその後もこれらを「須恵器(陶質土器)」と記しています〔中村浩1990:81〕。研究状況に配慮した公平な態度といえるでしょう。

大きいマトなら百発百中

蓋杯について,中村氏の実際の論理をまとめておきましょう。

  1. 江田船山古墳の蓋杯などが日本製か韓国製かという課題を提示する(第3のタネで伏せられる)
  2. 韓国での事例の蓄積は不十分と考え,陶邑に類例があるかどうかという論理に置き換える
  3. 蓋杯が須恵器とすれば,I型式1段階であろうという共通認識に立つ(第2のタネで伏せられる)
  4. ON22-I号窯の蓋杯に着目する(第1のタネで「ON22号窯」に摩り替えられる)

次に,尾野氏の批評をもう一度読んでみましょう。今回は(A)(B)(C)の記号をつけて引用します。

(A) この資料(1873年の出土資料−引用者)に検討を加えた中村浩は、蓋杯をI型式1段階(≒TK73型式)、提瓶をII型式1段階(≒MT15型式)以降のものとし、江田船山古墳に複数次にわたる埋葬があったであろうことを主張した(中村1979)。しかし、この中村の時期比定には再検討の余地がある。
(B) まず蓋杯であるが、中村も指摘しているように、類品が陶邑窯のON22号窯にある(図11)。
(C) 発掘調査報告(中村1976)によれば、3基の窯跡からI型式1段階(≒TK73型式)から同3段階(≒TK208型式)にわたる須恵器が出土しているというが、個々の遺物の出土位置・層位については明示されていない。したがって、報告書の範囲では問題となる蓋杯をI型式1段階(≒TK73型式)には限定できないのである。
〔尾野善裕1998:82〕

おわかりでしょうか。中村説のまさに要点そのものが,すべて尾野氏によって伏せられていたのです。
こうして3つのタネの仕込まれ,骨抜きにされた“中村説もどき”は,ただ単に「ON22号窯」という適度な大きさのマトを導き出すための狂言回しとして登場しました(B)。だから尾野氏は,すぐに話を報告書の不備に転換し(C),ON22号窯のマトに蓋杯と提瓶を命中させ,自分に都合のいい結論に導くことができたのです。
尾野氏の手品,ご理解いただけましたか。

最近の研究動向

さて,中村氏の初出から20年以上が経っています。韓国での発掘成果も増えました。1873年出土の蓋杯を韓国産の土器とする説も,改めて主張されています。尾野氏の論文より後のものを,いくつか紹介しましょう(この前後篇,本当はこれが一番話したかった)

これら(江田船山古墳の蓋杯−引用者)を須恵器とみる意見もあるが、全羅南道斎月里古墳(50)や鈴泉里古墳群(51)ではこれらによく似た形態の蓋杯が出ており、色調や手持ヘラケズリの多用などからみても、筆者は全南地域からの搬入品の可能性が高いと見ている。〔武末純一2000:111〕

このように,武末純一氏は全羅南道地域に由来を求めています。確かに全羅南道には,似たような蓋杯があります。蓋杯という器形自体,全羅南道に多いことは,たとえば酒井清治氏が著書の中で繰り返し解説しています〔酒井清治2002〕。

一方,全体の形状や整面技法,受部・口縁部の処理が百済土器と一致しているとみて忠清道地域の典型的な百済土器とする説もあります〔白井克也2001:79〕。……なんだか,見覚えのある名前が目の前を横切ったような気もしますが,この説には,朴天秀氏の賛意もいただいています〔朴天秀2001:79〕。

一方,提瓶については,まだ未解決の問題が多いのですが,ひとまず須恵器の型式変化に組み込むことは難しいようです。というのも,この提瓶は平底碗の口縁部を塞いだ形をしていて,通常の提瓶とは異なっています。このことは高橋・小林両氏の実測図〔高橋徹・小林昭彦1991:82〕に的確に反映されていますが,尾野氏が参照した文献の中でも,たとえば中村氏が指摘しています〔中村浩1985:33-34〕し,単行本(尾野氏は単行本への再録を参考文献リストで指摘している)の口絵写真でもはっきりわかります。本村豪章氏も写真を示しています〔本村豪章1991:222〕。

1873年出土土器の産地について,いまだ定説はありませんし,今すぐにその系譜や年代が解決するわけではありませんが,尾野氏のように,ごく一部の先行研究だけを取り上げ,可能性を恣意的に解放したり伏せたりして,特定の須恵器型式を武寧王陵に並行させようとしても,そこにはいくつも無理が重ねられていることが,前々話前話と今回とでおわかりいただけたことでしょう。

このように問題が多いので,江田船山古墳の年代や意義を論ずる人は,1873年出土の蓋杯や提瓶を議論の中心には据えず,ほかの,より確実な議論の可能な遺物を論理の受け皿として準備していたのです。

というわけで,江田船山古墳の話だけで5回もかかってしまいましたが,結局,尾野氏は江田船山古墳のことをどの程度知っていたのでしょうか。
尾野氏の知識は,わずかな参考文献の,そのまた一部の記述の中にすっぽり収まっています。文献リスト以外への知識の広がりを予想させるものがありません。これでは,“目的のために本当は何を批判すべきか”,さえもわかりませんよね。

次回からは高井田山古墳のお話の予定で,その後ついに島田塚古墳ですよ。(つづく


今回登場した文献

次回登場予定の文献


[第74話 解放の戒律・前篇−蓋杯vs提瓶|第76話 仮定の戒律−高井田山古墳vs皇南大塚|編年表]
白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2002-2006. All rights reserved.