考古学のおやつ

仮定の戒律−高井田山古墳vs皇南大塚

萬維網考古夜話 第76話 2/Dec/2002

尾野善裕氏の論文を読んできましたが,尾野氏が武寧王陵出土遺物と日本の古墳出土品を対比した,その「事例2」が大阪府柏原市・高井田山古墳の熨斗(ひのし:アイロンのこと)でした。……で始まる予定のまま,すっかり間があいてしまいました。

尾野氏の記述を検討しようにも,実は困った事態に陥っていました。本文の関係部分〔尾野善裕1998:84-85〕では2つ(たった2つ!)の文献が引かれていますが,そのたった2つの文献を,私はまだ見ていないのです。コラム再開が遅れた一因もここにありますが,まことに不勉強でお恥ずかしいm(_ _;m。
万全の準備で臨みたいものの,H氏のように,島田塚古墳の話を予習しながら待っている方もいらっしゃると聞くに及んで,ここは恥をしのんで先を急ぐこととしました。

そんなわけで,今回は尾野氏の本文中での引用が正確だと仮定して,尾野氏の議論が何に由来するか知らぬまま話をします。無知を憶測で埋めたらロクな批評にならないので,今回はどうしても周辺状況にばかり触れることになります。まったく不本意。こういう状況での再開は,やりにくいですね(^^;ゞ。

熨斗に関する尾野氏の記述

尾野氏は,日本の古墳から出土した熨斗4例のうち「武寧王陵例と同じように柄の部分まで銅で作られている構造のもの(この記述は不正確。ほか2例は柄が遺存しない)はさらに少なく,高井田山古墳と奈良県橿原市・新沢126号墳の2例だと指摘します。さらに,新沢126号墳の熨斗は北燕・馮素弗墓の熨斗に似ていて高井田山古墳の熨斗より古く,高井田山古墳の熨斗の方が武寧王陵の熨斗に似ていると言います〔尾野善裕1998:84〕。
これは,記述の範囲内では間違ってなさそうです。

一方,高井田山古墳の須恵器は,「一括して陶邑窯のTK23型式、即ち猿投窯系II期中段階並行期のものと見られる。」と判断しています〔尾野善裕1998:85〕。
この認定も,論者によって少し差はあるようですが,特に問題ありません。

したがって、武寧王陵出土品類似品が武寧王陵と同時代のものという仮定が認められるならば、猿投窯系II期中段階の年代の一端に520年台が含まれている可能性が高い。〔尾野善裕1998:86〕

つまり,従来は5世紀末ごろと考えられていたTK23型式を,武寧王陵の520年代まで引き下げようというのです。では,尾野氏の推定は正しいのでしょうか。

高井田山古墳の熨斗について,尾野氏の参考文献以外の研究を読んでみましょう。

毛利光氏・江氏の熨斗研究

高井田山古墳から熨斗が出土して間もない1991年,早くも毛利光俊彦氏が見解を発表しています〔毛利光俊彦1991〕。高井田山古墳の出典は「現地説明会資料」ですから,出土ほやほやの情報を盛り込んだのでしょう。毛利光氏は,尾野氏が挙げた馮素弗墓や武寧王陵のほか,中国の熨斗とも比較して,柄が中空のものと中実のものに分類できること(尾野氏が言う柄の構造とは,多分これを指す)もすでに指摘していますし,新沢126号墳と馮素弗墓,高井田山古墳と武寧王陵,という対比も示しています。

高井田山古墳例はBII2(柄端が龍頭で柄元が真直ぐなものに対する毛利光氏の分類名称−引用者)で,火皿と柄長がほぼ1:2である点,火皿の口縁内面に多数の沈線をめぐらし,体部外面に段をつくる点も新羅・皇南大塚北墳,百済・武寧王陵例と酷似する。〔毛利光俊彦1991:201〕

と,やっぱり武寧王陵と……な,なに?皇南大塚も?

ちょっと情勢が変わってきました。ここは慌てず,ほかの人の論文も読んでみましょう。
尾野氏の論文以後ですが,江介也氏も見解を発表しています〔江介也1999〕。中国考古学を専門とする江氏は東アジア各地の出土例を細かく分類し,中国の熨斗と日本・朝鮮の比較も詳細です。高井田山古墳の熨斗は,中国での類例から「南北朝後期に存在する型式」としつつ,朝鮮半島に目を向けて,

朝鮮半島においてもこの型式は、六世紀前葉の百済・武寧王陵出土例(22)(図4(2))に見られ、火皿が浅く斜腹である点は異なるが五世紀後半の新羅・皇南大塚北墳出土例(23)(図4(4))も非常に近い。(中略)高井田山古墳には五世紀末という年代が与えられており、その点型式の年代観とは全く矛盾しない。〔江介也1999:190〕

と,やはり皇南大塚北墳の熨斗を挙げています。
そう。皇南大塚の熨斗も,武寧王陵や高井田山古墳の熨斗と同型式なのです。細かく比べれば,高井田山古墳の例には武寧王陵の例の方が近いのですが。

皇南大塚は,尾野氏の論文では出てきませんでした。尾野氏の参照文献に皇南大塚のことが載ってなかったのか,あるいは紀年墓でないために割愛したのでしょう。
では,皇南大塚とはどんな古墳でしょうか。

皇南大塚北墳の年代

韓国の慶尚北道慶州市にある皇南大塚は新羅最大の王陵です。墳形は瓢形墳(双円墳)で,男性を葬った南墳と,女性を葬った北墳が1つにつながっています。新羅の王と王妃でしょう。南墳より北墳の方が少し後に築かれたと考えられています。

江氏が言うように,皇南大塚北墳は5世紀後半くらいと考えられていますが,これには異論もあります〔李煕濬1995;李鍾宣1996など〕し,このコラムは暦年代論を評論しているので,安易に数字だけでモノを言うわけにもいきません。今日のところは,相対年代で皇南大塚,武寧王陵,高井田山古墳を比べてみましょう。

まず,皇南大塚北墳よりも1段階新しい新羅古墳が慶州・金冠塚です。皇南大塚と金冠塚の前後関係は,以前から墳墓の構造や遺物(装身具・土器)などによって検討されてきました〔毛利光俊彦1983;李煕濬1997〕。
この金冠塚の帯金具(今年日本でも公開された)とよく似ているのが,忠清南道公州市・宋山里1号墳の帯金具です〔穴沢咊光1972:73〕。この帯金具は新羅に多い型式なので,宋山里1号墳を金冠塚より古く位置づけるのは困難です。
そして宋山里1号墳は,武寧王陵以前の百済王陵と考えられています。

式a) 皇南大塚北墳→金冠塚≒宋山里1号墳→武寧王陵

つまり,皇南大塚は武寧王陵より明らかに古いので,高井田山古墳の熨斗を武寧王陵の年代まで引き下げねばならない根拠はないのです。

次に,皇南大塚北墳と高井田山古墳は,どちらが古いのでしょうか。皇南大塚北墳と日本の古墳は,馬具でも比較できますが,少し違う経路で比べてみましょう。
皇南大塚北墳のころ,新羅は加耶地域に影響力を行使したらしく,新羅土器が新羅の領域外に拡散します。皇南大塚北墳と同型式の高杯は,慶尚北道高霊郡・池山洞32号墳でも出土しています。大加耶の王陵と考えられる古墳です。
池山洞32号墳では,日本製と思われる甲冑(横矧板鋲留短甲・横矧板鋲留衝角付冑・頸甲)も出土しています〔藤田和尊1985〕。論者によって意見の差はあるようですが,須恵器に置き換えるとTK216からTK208型式ころの甲冑のようです。
また,池山洞32号墳と同じころの大加耶勢力下に慶尚南道陜川郡・鳳渓里20号墳がありますが,ここでは須恵器の高杯が出土していて,TK208〜TK23型式と考えられています〔酒井清治1993:901-902〕。

式b) 皇南大塚北墳≒池山洞32号墳(≒TK216〜TK208)=鳳渓里20号墳(≒TK208〜TK23)

そうすると,皇南大塚北墳は須恵器で言うTK208を中心とした時期のようですから,高井田山古墳がTK23型式に当たるなら,皇南大塚北墳が高井田山古墳より新しくなってしまう可能性はほとんどありません。

さらに,第73話を思い出してください。熊本県玉名郡菊水町(2006年3月1日から和水町)・江田船山古墳の「新しい共伴遺物群」(須恵器のMT15〜TK10型式に相当)は武寧王陵と対比されていました〔岡安光彦ほか1986〕。

式c) 武寧王陵≒江田船山古墳の「新しい共伴遺物群」(=MT15〜TK10)

式a)b)c)をまとめて,高井田山古墳を当て嵌めると,こうなります。

式d) 皇南大塚北墳(≒TK208)→高井田山古墳(TK23)→武寧王陵(≒MT15〜TK10)

では,暦年代は……といきたいところですが,そこまで話すと論文になってしまうので,やめておきます。興味のある人は,7月の発表が印刷物になる日をお待ちください。皇南大塚北墳の熨斗がある限り,そう簡単に高井田山古墳と武寧王陵は同時期にできないぞ,ということだけ伝われば,ひとまず目的は達しました。

仮定と前提

もう一度,次の文を読んでください。今度は記号をつけて示します。

(A) したがって、武寧王陵出土品類似品が武寧王陵と同時代のものという仮定が認められるならば、猿投窯系II期中段階の年代の一端に520年台が含まれている可能性が高い。〔尾野善裕1998:86〕

この文の続きは,次のとおりです。

(B) もっとも、この年代観は武寧王陵出土品類似品が長期にわたって伝世していないことを前提としてはいる。〔尾野善裕1998:86〕

尾野氏は,「仮定」と「前提」のうち「前提」の方について,本文では「敢えて大きな時間差は想定しないでおくこととする」と言いつつ,註で話を補っています。

(註4)(中略)高井田山古墳の青銅製火熨斗や江田船山古墳の心葉形垂飾付耳飾に伝世を想定することもできないではないが、いずれの場合も現在の一般的な暦年代の理解からは、かけ離れる一方である。〔尾野善裕1998:91〕

この(註4)は本文の(註3)に対応するようです。第67話第72話で少し触れたように,尾野氏の1998年論文では,本文に示された註番号と,文末の実際の註番号とが、必ずしも一致していません。意味の対応を基準に,本文と文末の対応を整理すると,次のとおりです。

本文
(註番号)
p.75
(註1)
p.79
(註2)
p.80
(註2)
なしp.86
(註3)
p.87
(註5)
p.87
(註6)
p.90
(註7)
文末(註1)なし(註2)(註3)(註4)(註5)(註6)(註7)

熨斗の日本での伝世を考慮する(註4)が,年代の上方硬直性を無意識に措定していておかしい,というのは第72話で一度お話ししました。尾野氏は(B)の「前提」について,どう考えても自分に有利だと雄弁に主張するのに,(A)の「仮定」は吟味しません。熨斗の百済における伝世や,型式存続期間については何も語らないのです。しかし,尾野氏が語らなかった皇南大塚北墳の存在で,「仮定」は苦しくなりました。

ここから,尾野氏の議論に潜む問題が見えてきます。尾野氏は日韓の熨斗を論ずるかに見えて,実は武寧王陵の側から日本を見る視点に囚われています。武寧王陵の副葬品が韓国考古学の中でどう位置づけるか,あるいは熨斗の東アジア的な広がりなどを,考慮していない(わかってない?)のです。
尾野氏の筆致はある程度整っているので,皇南大塚北墳の熨斗を知らない読者は,武寧王陵に話題をひきつける記述の陥穽に気づきにくいことでしょう。

本筋は横穴式石室

高井田山古墳については,類例の少ない熨斗などではなく,ある程度の資料数が揃い,型式学も通用し,何よりも興味深い初期横穴式石室を論ずる方が面白くはないですか?

……え?話をそらしてる?
いえいえ,そんなことはありません。高井田山古墳の真髄は初期横穴式石室。これこそ本筋で,尾野氏の方が本筋をハズしてる,というのが今回の趣旨のはずだったんですが,ついに皇南大塚北墳の話だけで終わってしまいました。高井田山古墳の話は1回だけのつもりだったんですが,申し訳ありません。次回に食い込みます。(つづく


今回登場した文献

次回登場予定の文献


[第75話 解放の戒律・後篇−須恵器vs陶質土器|第77話 隔世の戒律−熨斗vs横穴式石室|編年表]
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