考古学のおやつ

鶏口のレジェンド・前篇−伯孫派vs高貴派

萬維網考古夜話 第81話 13/Jan/2003

新年,明けましておめでとうございます。

最近は年末の政界プチ再編が恒例になってまして,これも例の政党助成金との絡みらしいんですが,去年もやっぱりクリスマス前後にミニ政党で動きがありましたね。

政権党……じゃなかった与党のミニ政党で,鶏口のはずの党首が自ら離党して与党第一党に復党して牛後に回ろうとする騒動が,まず発覚しました。このときは党内の説得で党首も離党を断念したのでしたが,今度は野党の有力者が離党してこのミニ政党と新党を結成,新ミニ政党の党首に収まりました。野党の牛後から新ミニ政党の鶏口に転じたのかと思ったら,与党第一党との連立は維持するというし,先ほどの元党首はやっぱり与党第一党に復党するし,登場人物たちは牛後牛後へと退いていくのでした。

蘇秦とことわざ

ここで出てきた「鶏口」とか「牛後」というのは,『史記』蘇秦伝などに出てくる蘇秦(そしん)の言葉なんですね。

蘇秦は中国の戦国時代,紀元前4世紀ごろの人で,縦横家(じゅうおうか)……弁舌が自慢の国際政治学者で後に政治家にもなった人(どっかで聞いたような話だ)です。勉強はしたもののプータローで,お嫁さんに叱られたりしながらも戦国の世に仕官の途を求めたのですが,最初に西の強国・(しん)に行ってみても時の恵文王から相手にされなかったので,一転,秦に攻撃されている諸国に行くことにしました。

(えん)でようやく話を聞いてもらえた蘇秦は,一度は仕官を望んだはずの秦に対抗するため各国で連合しようという合従策(がっしょうさく)を説いて回ることになりました。で,(かん)宣恵王に対して(漠然と「諸侯」に対して呼びかけたとする文献もある),民間のことわざを喩えに使って言いました。

「むしろ鶏口となるとも,牛後となるなかれ」(寧為鶏口,無為牛後

大きな勢力に従うよりも,小さな勢力のトップになれ,という意味です。さらに蘇秦はダメ押しします。

「王様は頭もいいし,強い軍隊も持ってるのに,秦の言いなりだなんて,恥かしいね」

などと宣恵王のプライドを刺激したのが効いて,韓も合従策に加わったのでした。

とまぁ,私がこの話をするにも,少しは準備が必要なわけで,漢文釈読の参考書をいくつか読んでみましたが,けっこう違った理解があるものです。
だいたいは,鶏口牛後いい意味にとって,人生の重要なキーワードにしているようです(冒頭のミニ政党の話も,わざとそのニュアンス出してます)。確かに,威勢もいいし,大勢に流されない態度は,それだけで何かかっこいいかもしれません。

一方で,一時は秦に仕官を希望して,ほかの六国をやっつけろと言っていた蘇秦が,秦への恨みで言った言葉だとして,過度に肩入れしない解説もありました。

まぁ,「鶏口牛後はいい意味に決まってる」と考えて多数派に属するのは,寧ろ牛後に回っているわけで……などと言ってると切りがありません。戦国の七雄(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)だって縦横家の皆さんだって,その場の状況を生き抜くのが精一杯(そうしないと,またお嫁さんに叱られちゃうからね)だったわけで,いい意味とか悪い意味というのは,読む側が勝手に自分を投影してるんですよ。

やっと本題

ここしばらく,戒律シリーズという疲れる話を続けてました。だいたいおわかりのとおり,私は戒律シリーズで通説に近い立場をとっています。
通説にもいろいろありますが,私のお話の範囲では,証拠や論理が蓄積されているからこそ通説なのだ,と思ってます。それでも人からは「“まず通説ありき”の考えだ」「“通説だから”従ってるんだろ」と見られるかも知れません。つまり牛後扱いというわけですね。

しかし,一方で本当に牛後に回っているだけの通説支持者もいるはずで,鶏口を自認する人たちにとっては,そういう人たちに我慢ならないということもあるようです。

「いやいや,ちょっと待ってくれ。戒律シリーズでは“通説”という言葉に,少し含みがあるよね。“通説”がどういう説を指すのか,今まで伏せたままだよ。これで通説を支持するも何もないだろう。」

あ,そのとおりですね。確かに戒律シリーズでは,わざと“通説”とは何か,を伏せてました。このままではさすがに不親切だし,今後の展開も考えると,通説はどうなってるのか,そろそろ話さなければなりません。

そこで,今回から2回にわたって,5・6世紀(特に5世紀後半〜6世紀前半)の暦年代論について,何が通説なのか,どうして通説になったのか,というお話をします。ものすごく大づかみな話なので,文献の引用とかは敢えて割愛して,できれば物語風にしましょうね。

実は,戒律シリーズ本篇では,思うところあって,敢えてメタファー(比喩……特に隠喩)アナロジー(類比とか類似)を避けてきました。そのため網絡コラムらしからぬものになって,話し言葉の雰囲気も壊れてましたが,この前後篇では,少し肩の力を抜いていきます。このコラムの,以前の雰囲気に戻るでしょうか。

古墳の編年って

古墳時代は,どうして「古墳時代」なんでしょうか。

古墳がある……それが一番の特徴だから,です。そうとしか言いようがありません。古墳という政治的な記念物で認識される時代なんですね。縄文時代とか弥生時代というのは,乱暴に言うと,そもそもは土器(縄文土器・弥生土器)を指標にしていたわけで,その点で,認識のきっかけが違うんです。

「弥生」というのは,弥生土器が最初に認識された,東京の本郷弥生町の地名に由来します。

これは名前の問題にとどまりません。縄文時代や弥生時代の時期区分は土器編年が基準になっています。弥生時代の重要な画期が「前期末」などという,不可思議な呼び方の時期に起こってしまうのも,社会や政治の画期を認識する以前に“土器の違い”を認識したからです。弥生「前期末」は,名前だけ見ると一瞬のような言い方ですが,ある程度の(これまた便宜的な)大きさを持った「時期」です。

古墳の場合,目前にある巨大な政治的記念物=古墳が直接に基準となります。見かけの大きさや形(墳形)もそうですが,古墳には多くの遺構・遺物が伴っています。被葬者(埋葬されている人)を納める部分では,石室・石棺・粘土槨などがあり,その中には武器・武具・馬具・装身具・鏡・土器などが納められています。大きな古墳の場合は墳丘に埴輪が立てられていますし,墳頂や周溝では土器(土師器や須恵器)を使ったお祭りが行われています。
この,数え切れないほどの遺構遺物は,それぞれが個別に分類や編年がされていますが,それらは,ある1基の古墳を共有した存在するので,その配置組合せという面まで含めて,トータルに編年の対象となります。

これが古墳時代の編年の大きな特徴です。何か特定のものの編年が古墳編年のすべてを切り刻んでしまうのではなく,常に組合せが意識されています。

逆に,特定のものの研究をしても……というよりも,個々の考古学者は,そういう作業に従事していることが多いわけですが,それでも,古墳という場で,自分の研究する遺物や遺構がどのように位置づけられるか,を意識しています。
これは「相互依存」でも,「もたれあい」でもありません。そもそも,古墳という組合せの権化のような存在を相手にしているのですから,一部分を切り取って研究しても,組合せの中に書き戻すのは当然でしょう。

金属製品と伯孫派の活躍

でも,それは理想。古墳の発掘はそうそう頻繁にできるものでもないし,良好な組合せの例が揃うまでは,個別分野の編年をうまく組み合わせられませんでした。それよりも,この古墳は何々天皇の墓だからいつごろ……というような基準が使われたりもしていました。

しかし,古墳で出土する遺物の中には,中国や朝鮮半島とつながりの深いものもあるので,これに着目して,古墳の年代を推定する人もいました。例えば,小野山節氏などがそうです。馬具や装身具に着目していました。穴沢咊光氏は,中国や朝鮮半島から伝わってくる情報を日本に紹介して,日本との対比を盛んに進めました。こうして,70年代までに,主に金属製品による古墳の年代観が形作られてきました。
古墳を構成する要素のうち,主に金属製品を近隣諸国と対比する年代観を持った人たち……これをこのコラムでは伯孫派と呼んでおきましょう。

伯孫派なんて聞いたことがない……と思われるでしょう。それも当然。存在しない言葉をわざと使ったからです。伯孫派は,徒党を組んだ派閥のようなものではなく,私が今回の説明のために,新しい言葉を作ったのです。

須恵器と高貴派の台頭

一方,別の傾向も現れていました。須恵器研究です。古墳の副葬品論として議論されていた須恵器研究は,大阪府の陶邑窯跡群が調査されたことで,生産地での微細な編年へと大きく姿を変えました。特に,田辺昭三氏や中村浩氏の編年研究は,陶邑だけでなく,各地の須恵器とも対比されて,大いに利用されるようになります。

須恵器の相対編年だけでなく,暦年代論も起こりました。『日本書紀』の記述などを参考に,5世紀の後半に須恵器生産が始まると考えたのです。
このように,生産地での須恵器編年と『日本書紀』をもとに年代観を構築した人たち……これをこのコラムでは高貴派と呼んでおきましょう。ここでも,高貴派というのは私が作った言葉です。当人たちが名乗っていたわけではありません。

と,サブタイトルで出てくる人たちを紹介するだけで今回は終わってしまいました。蘇秦の話をしすぎですね。

次回は,稲荷山鉄剣の銘文発見以後の情勢をお話します。


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