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博多出土高句麗土器と7世紀の北部九州

−筑紫大宰・筑紫遷宮と対外交渉−

出典:考古学雑誌第83巻第4号:東京・日本考古学会,80-107(1998)

日本で唯一と思われる高句麗土器の出土例を取り上げ,考察した。

執筆当初から,高句麗土器なら高句麗考古学における位置づけをすべきという指摘が朝鮮考古学者らから寄せられていたが,出土のコンテキストを読み解くことが基本的かつ最優先という考えから,あえて日本考古学における意義を議論の中心に据えた。

また,これ以前から,土器の製作技法よりも,朝鮮半島における群集墳と土器生産のかかわりや,日本で出土する場合の出土傾向の変動,といった部分に興味が移っており,そのような気分が文中にも見え隠れしている。舶載土器に関して以後に発表する見解のいくつかは,すでに本稿に盛り込まれている。(15/Apr/2002)

目次


1.はじめに

日本出土の朝鮮三国時代土器としては,新羅土器や加耶土器が多く取り上げられ,それらに数量的に劣るものの,百済土器も挙論されることがある。それらにくらべ,日本出土の高句麗土器は,数量的に目立たぬことなどから,あまり注目されていないようである。福岡市・博多遺跡群第17次調査で出土した高句麗土器長胴壺は,日本出土高句麗土器の既報告例として管見で唯一の事例である。

博多遺跡群第17次調査は,1981年から1982年にかけて福岡市教育委員会が実施し,1985年に概報『博多III』〔柳沢・杉山編1985〕が刊行された。概報には高句麗土器の実測図と記述があり,巻首図版に掲げられた方形周溝墓のカラー写真に高句麗土器も写ってはいるが,それが出土した遺構や出土状況,共伴遺物について,ほとんど記載がない。

この貴重な出土例も,1987年の埋蔵文化財研究会による集成『弥生・古墳時代の大陸系土器の諸問題』では取り上げられなかった〔大阪府埋蔵文化財協会編1987〕。この集成が,その後の舶載朝鮮三国時代土器に関する研究・集成の基礎となったため,結果的に高句麗土器の出土例はあまり言及されなくなったのであろう。そして,かろうじてその存在を記憶している人にも,「口縁部が開いていた」,「横帯状把手がついていた」などの虚像を抱かしめていた。(16/Apr/2002 この段落は明確かつ重大な事実誤認を含んでいる)

筆者は,実測図や写真など発掘調査の記録類と,出土遺物を調査し,すでにその成果の一部を公表した〔白井1996b〕。しかし,高句麗土器出土の意義と,今後の資料が活用される際の便宜を考えれば,遺物のみにとどまらず,それらを出土した遺構の発掘報告の体裁をとることが肝要と考えた。そこで本稿では,資料調査の成果に基づき,発掘調査に関与していない立場からあえて,高句麗土器を出土した土坑SK175とその周辺遺構を報告し,それらの所属時期,さらに高句麗土器出土の背景について考察する。

まず,次章で博多遺跡群の弥生・古墳時代像を再確認した後,第3章で博多遺跡群第17次調査土坑SK175を報告し,その所属時期を比定する。さらに第4章で,玄界灘沿岸での陶質土器出土傾向,北部九州の官衙遺構,文献にみる筑紫大宰や筑紫遷宮記事を手がかりに,高句麗土器出土の背景に触れる。

なお,本例の高句麗考古学上の位置を問うことは興味深い課題ではあるが,今のところその準備はない。

考古資料の検討に当たっては,それらのより後補的な属性から1枚ずつ丁寧にはぎ取って解析し,歴史の中に位置づけていくべきと考える。筆者はすでに,調査の経過と調査者の認識過程を推定し〔白井1996b〕,本稿で,出土地である北部九州の歴史の中に位置づけようとしている。この手続きの後に初めて,日本出土高句麗土器の高句麗考古学上の位置づけを論ずる期が熟すると考える。


2.奈良時代以前の博多遺跡群

中世の都市遺跡としても名高い博多遺跡群は,福岡市博多区の博多湾岸沿い,北流する御笠川,那珂川の河口に形成された砂丘上に立地する(Fig.2)。海側の「息の濱」と内陸側の「博多濱」(現在の祇園町交差点付近)という2つの砂丘からなり,第17次調査地点は博多濱の最高所付近に当たる。

現在も北部九州の経済に重要な地位を占める博多では,1977年の地下鉄建設工事に伴う調査をはじめとして,公共・民間の開発事業に伴う発掘調査が相次いでおり,これまでに100次を越える調査が実施されている。その結果,大まかな遺跡の推移は把握されてきたといってよい。

遺跡の初現は弥生時代前期に遡り,中期には集落と墳墓の分布が確認される。弥生時代後期終末から古墳時代前期にかけて遺跡は北に広がっていくが,中心は現在の祇園町交差点近くにあり,方形周溝墓や玉造工房が知られている。並走する溝は,あるいは古墳時代前期の道路遺構かとも考えられており〔杉山・柳沢編1985:10〕,墓道状の施設とみなす考えもある〔吉留1993:98〕。畿内系や山陰系・東海系などの搬入土器が多いこともこの時期の博多遺跡群の特徴である。

古墳時代中期には,明確な生活遺構は検出されておらず,埴輪を伴う全長56m以上の前方後円墳である博多1号墳が知られている〔井沢編1987;加藤ほか編1987〕。

古墳時代後期以降,特に6世紀後半から奈良時代までは,博多遺跡群に再び集落が営まれるようになり,その後の律令時代を通じて,対外貿易の一端を担っていたものと思われる。しかし,柳沢一男が「8世紀にいたるまで間断なく」集落が続くとする〔柳沢・杉山編1985:16〕のに対し,吉留秀敏は7世紀後半から8世紀初頭にかけての遺構・遺物が少ないことに着目し,この約半世紀,集落が途絶えたと推定している〔1993:102-103〕。少なくとも,前後の時期に比べて集落が縮小しているとはいえよう。

律令体制の崩壊とともに,貿易の中心は鴻臚館から博多に移り,さらに文永・弘安の役を経て鎮西探題が設置され,九州の経済・政治両面に重要な地位を占めるようになる。これ以後の博多遺跡群については,もはやいちいち述べるまでもあるまい。


3.報告−福岡市・博多遺跡群第17次調査土坑SK175

本章では,博多遺跡群第17次調査の一部(SK175,SB173とその出土遺物)を再報告する。

第17次調査は,福岡市博多区博多駅前1丁目97におけるビル建設に伴い,1981年11月6日(金)から1982年2月2日(火)まで福岡市教育委員会が実施した。福岡市の定めた遺跡調査番号は8132,遺跡略号はHKT-17である。この地点は博多遺跡群の中央部からやや南寄りで,調査前の地表は標高4.6mであった。隣接地,博多駅前1丁目98でも,第20次調査が1983年3月19日(土)から7月16日(土)まで実施されている。これらの調査の概要は,第21,22次調査成果とともに1985年に報告された〔柳沢・杉山編1985〕。

博多遺跡群第17次調査の遺物と記録類(実測図,写真など)は福岡市埋蔵文化財センター(福岡市博多区井相田2-1-94)で収蔵・管理されている。筆者は主に高句麗土器とその出土遺構・伴出遺物について,1996年8月13日,11月22日,11月24日,1997年6月19日,20日,21日,10月11日に資料調査を実施した。

本章で使用した遺構実測図・遺構写真は,福岡市埋蔵文化財センターにおいて閲覧・借用した。遺構実測図の原図は塩屋勝利・柳沢一男・渡辺和子が作成し,遺構写真は柳沢が撮影したものである。遺物実測図・遺物写真は,筆者が実測・撮影した。製図は筆者が行った。

以下の記述では,遺構原図と報告書に従い,竪穴住居跡をSB,溝状遺構をSD,土坑をSK,そのほかの遺構をSXと記号化した。また,遺構図の方位は全て磁北である。

1) 写真の撮影順序

調査経過の復元は以前に述べた〔白井1996b〕が,遺構写真の撮影順序について言及が充分でなかったので,ここで略述する。遺構写真の,フィルム各ロール間の撮影順序は記録されていないが,36mmフィルムとブローニー判フィルムで同じ状況を撮影していることや,撮影された内容などから,復元できる。

まず,同一ロールの35mmフィルムに撮影されていることから,〈Ph.3→Ph.4→Ph.5〉,〈Ph.6→Ph.7〉は確実である。また,現状ではフィルムが切断されているが,同一ロールと判断できるブローニー判フィルムに撮影されていることから,〈Ph.2→Ph.3→Ph.4〉もほぼ確実である。

土器の出土状況を撮った写真(Ph.5〜9)のうち,Ph.5では土柱が円柱状に整えられておらず,高句麗土器の下方に見える土器片はほかの写真に見られないから,もっとも古いと考えられる。一方,Ph.9は,ある35mmフィルムで最後に撮影されたものであるが,ほかの35mmフィルムと同じく36コマのフィルムを用いたはずにもかかわらず,32コマ目のPh.9で終わっている。Ph.9以前に調査区は完掘され,調査区の壁の土層を撮っているから,Ph.9は調査終了間際,35mmフィルムの残ったコマを消費するため,この珍しい土器を撮ったものと思われる。したがって,Ph.9がこの調査の最後の写真である。Ph.5〜9を比較すると,土器片が出土位置から脱落していくさまが窺われる。したがって,〈Ph.5→Ph.6・7→Ph.9〉である。Ph.8とPh.6・7とでは,土器片が同程度に出土位置を維持しており,同じ機会に撮影されたと考えられる。

以上をまとめ,同一機会を《》に入れて表現すると,次のようになる。ただしPh.8は撮影機会2に属す。

〈撮影機会1《Ph.2→Ph.3→Ph.4》→撮影機会2《Ph.5→Ph.6→Ph.7》→撮影機会3《Ph.9》〉

このうち撮影機会1は,竪穴住居跡の調査が進み,高句麗土器も出土して,取り急ぎ撮影した状況と考えられる。撮影機会2は,調査区内を広範囲に撮った写真や主要遺構(方形周溝墓の主体部SX200など)の写真に後続しているので,全景写真の直後にまとめて個別遺構を撮影したようである。撮影機会3が最後の撮影機会であることはすでに述べた。そうすると,4×5判フィルムによる全景(Ph.1)は,撮影機会2にPh.5〜8に先立って撮影されたはずであり,土器片の位置も矛盾しないようである。

Ph.1からみて,撮影機会2の後に残る作業は遺構実測と土坑SK175出土遺物の取り上げ程度である。そうすると撮影機会3は,遺構実測がほぼ終了し,土坑SK175の遺物取り上げ直前であろう(この土柱から蓋1587,杯1590,四足杯1593が出土する)。土坑SK175の周辺遺構の遺物は1981年12月24日ごろの日付のラベルがつけられており,撮影機会1は12月25日(金)ごろ,土坑SK175の実測はその直後で,年内最後の仕事として行われたと考えられる。調査期間は翌1982年2月2日までであるから,土坑SK175周辺遺構を掘り下げて下の遺構を調査する時間を考えれば,撮影機会2は1982年1月中旬,撮影機会3は1月下旬ごろであろう。

2) 土坑SK175と出土遺物

(1)土坑SK175(Fig.4・5;Ph.1〜4)

5世紀代には,土壙SK175しかみとめられず,また遺物もごく少量である。」〔柳沢・杉山編1985:10〕という記述と高句麗土器の実測図・記述が,概報のSK175に関する内容のすべてである。結論から言うと,筆者はこの遺構を5世紀のものと考えていない。遺構の時期については後にも触れるが,「奈良時代遺物を最新とする包含層下」で古墳時代の遺構を検出したとする記述も参考となる〔柳沢・杉山編1985:10〕。

遺構の位置と形状 第17次調査と第20次調査の調査区にまたがって,木棺墓SX200(主体部)と周溝SD109からなる古墳時代の方形周溝墓SX200がある。土坑SK175は,SD109に重複して所在する(Fig.3;Ph.1)。標高2.7m地点である。遺構実測図の原図8132048によると,方形周溝墓SX200の周溝SD109の覆土と竪穴住居跡SB173覆土を切り,東端をピットに,北端を中世遺構に切られている。長軸を北西-南東(N-61°-W)に向け,長さ1.6m,幅1.3m,残存深さ0.2m(底面標高2.5m)の楕円形土坑である。

遺物の出土状況 遺構図に示された出土遺物は高句麗長胴壺23と甑1594である(Fig.5)。甑1594よりも長胴壺23の方が幾分高い位置で出土している(Ph.6)。後にも述べるように,甑1594は口縁部が3分の2周遺存しており,長胴壺23も大きな破片で,しかも割れ口が水平面をなして出土している。どちらも初めは完形に近かったものが,削平で失われたのであろう。土器を残すための土柱はいくつかの層に分かれており,上の方が土坑SK175の覆土,下の方が周溝SD109の覆土であることは想像に難くない。

(2)高句麗土器(Fig.6;Ph.10〜13)

23(長胴壺) 図は,報告書のそれ〔柳沢・杉山編1985:Fig.17-6〕と復元形が異なる。概報の記述は次の通りであり〔柳沢・杉山編1985:15〕,ほぼ追認できる。

SK175出土。口頸部を欠く。体部に2個の環状把手がつくと思われるが,現存部位には認められない。底部の遺存が少ないため,器形の傾きが若干変るかも知れない。復原底径18.2cm,現高32.8cm。体部の内外面はロクロナデだが,内面に成形時の指頭圧痕が残る。外面下位に回転ヘラケズリを加える。外面上位に図のようなヘラ記号を描く。胎土は精良だが小砂粒をわずかに含む。硬質の焼成とはいえ瓦質に近い。黄みをおびた灰白色。

さらに,筆者の観察により,上の内容を補い,あるいは改める点を述べる。

胴部3分の1周のみ遺存し,頸部を欠く。底部の遺存が少なく,径と傾きは確定的ではない。残高330mm,推定最大径270mm,推定底径166mm。若干の小砂粒と雲母を含むがきわめて精良な泥質胎土である。

底部から胴部に移行する部分の水平な剥離面を素地の接目とみなせば,円板巻上成形ということになる。内外面の丁寧な回転ナデ整面は,外面{上→下},内面{下→上}順と観察され,外面は特に平滑に仕上げられている。ナデにより仕上げられてはいるが,内外面とも押圧によるらしい多数の面をなし,あるいはタタキ技法によるかもしれない。胴部外面下端は回転ケズリ整面で腰部をなすが,{上→下}順,右回り(右→左)である。下段下端は底面よりやや高い位置にあり,腰部と胴部の器面が平行であるので,腰部ケズリは回転台から分離する以前の行為と思われる〔白井1997:147〕。外底面は無調整のようである。

また、胴部が白く平滑であるのに対し、胴部下端のケズリとその周辺は幾分灰色が強く、両者の境界では器面の薄く剥がれた状況が認められるので、化粧土が施されているようである(加藤良彦氏のご教示による)。

やや甘い感じの焼成で吸水性が強いが,硬質である。器面には焼成時あるいは再被熱によるかと思われる器面剥離部分が帯状にみられる。

「ヘラ記号」とされているものは焼成後に描かれており,いわゆる「ヘラ記号」と同列ではない。この,上が突き抜けない「大」字形線刻は,先細の硬い工具を用いている。おそらく金属製の工具であろう。

この土器を高句麗土器とみなすことについては,やや長文となるので本章5)に譲る。

(3)須恵器(Fig.7;Ph.14〜17)

1587(蓋) つまみとかえりのついた蓋である。1/4周が遺存遺存しており、最大径150mm程度に復元できる。胎土に白色砂粒を含む。外面暗灰色,内面・断口灰白色。つまみは基部から折れている。かえりは紐状素地を貼り付けており,高さは口縁端部と同じか,それより少し退化したぐらいである。九州編年でVI期と考えられる。

1588(杯) 高台を有する杯身小片である。径・傾きは不明。胎土に白色粒子含む。色調は青灰色である。底部内面は不整方向のナデが施されている。高台は九州編年VI期以降の特徴である。

1589(蓋) 1/6周が遺存する。胎土には白色粒子を含む。外面は黒褐色,内面は暗灰色である。天井部と口縁部の境は不明瞭で,口縁部は曲線的である。天井部外面は回転ケズリ整面されている。

1590(杯) 胎土に白色砂粒を含む。外面灰黄色,内面・断口灰白色。九州編年のIV期ごろに当たる。

1591(杯) 1/12周が遺存するのみで,径・傾きは不明確である。胎土に白色粒子を含む。酸化焔焼成され,外面灰赤色,内面・断口は灰褐色である。底部のケズリは遺存部分までおよばず,ケズリの範囲はあまり広くないと思われる。九州編年のIV期ごろに当たる。

1592(杯) 口縁部小片であり,径・傾きは明確でない。胎土は白色粒子を含むが精良である。内外面・断口とも灰青色である。九州編年のIV期ごろに当たる。

1593(四足杯) 無蓋高杯の杯部に足が生えたような形をしている。破片ではあるが,足の痕跡の配置からみて,足は4本あったと推定できる。下からみた図のうち,左側の足は焼成後に根元から脱落しているが,右側の足は焼成前に切損したか,あるいは最初からこのような短い足だったようである。胎土は砂を多く含む。内外面灰褐色。断口は器面から2mmまで灰褐色,中心は暗灰色。底部内外面に不整方向ナデ,ほかは回転ナデを施す。底部外面の非回転ナデは四足をナデツケたためのものである。

(4)土師器(Fig.7;Ph.18・19)

1594(甑) 土坑SK175と竪穴住居跡SB173の出土土器片が接合したが,出土状況から,SK175出土として問題あるまい。口縁部を下に,倒立して出土している。

口縁部が直立する甑である。口縁部付近が2/3周遺存しており,把手は根元から切損している。胎土は白色粒子と雲母を含む。全体に赤褐色であり,一部に黒斑が見られる。口縁部付近で紐積み成形の痕跡が明瞭である。口縁部内面のみヨコハケをほどこす。外面ハケメ,内面ケズリとも,タテの部分とナナメの部分がある。全体に雑な作りといえる。

1595(甕) 小片であり,径・傾きとも不確実である。胎土はわずかに砂粒を含むが精良である。内外面・断口とも橙褐色。全面にヨコナデ整面されている。

1596(口縁部) 小片であり,径・傾きとも不明である。内外面ともミガキ整面されている。

1597(口縁部) 小片である。胎土には砂粒を含む。外面灰茶色,内面茶褐色。

1598(移動式カマド) 基部小片である。外面はタテ方向のハケ,内面はタテ方向のケズリを施す。

1599(甕) 胎土には白色粒子を含む。内外面・断口とも黄褐色。外面にタテハケ,内面にヨコハケを施す。突帯上に木片木口を押捺して刻みを施す。

(5)小結

土坑SK175より出土した須恵器・土師器には,6世紀末から7世紀初頭ごろのものと,7世紀後半ごろのものとが混在しているといえよう。量的には前者が勝っているが,後者も出土状況などからして,偶然の混入とは考えがたいし,原則的には新しい方の時期を採用すべきであろう。

年代比定については,この土坑と切り合う竪穴住居跡SB173の出土遺物を検討した後,改めて触れる。

3) 竪穴住居跡SB173と出土遺物

(1)竪穴住居跡SB173(Fig.4,Ph.4)

標高2.5から2.7m地点に所在する,やや不整な方形住居跡である。方形周溝墓SX200の周溝SD109の埋没後に覆土を切って築造され,覆土は土坑SK175に切られる。遺存はよくない。北東-南西3.7m,北西-南東3.9m,残存最深0.3m(床面高2.4から2.5m)である。第17次・第20次調査で検出された当該期の竪穴住居としては最小の部類に属し,屋内施設は明確でない。

(2)須恵器(Fig.8;Ph.20・21)

図示したほか,甕の胴部片などもあるが,時期差を示さない。九州編年IV期に比定できる。

1600(蓋) 1/2周が遺存する。胎土は白色粒子を多く含む。外面青灰色,内面・断口灰青色。目跡状の緑褐色部分あり。天井部内面に板ナデ状の痕跡がある。天井部外面にはヘラ記号がある。

1601(杯) 傾きは不明確である。胎土は精良で,よく焼き締まっている。内外面黝黒色,断口灰黒色。

1602(杯) 1/6周のみの遺存で,径・傾きの復元には難がある。胎土は精良である。かなり硬質に焼成しているが,杯1601より甘い。外面黝黒色,内面黒色,断口灰紫色。

1603(杯) 胎土は白色粒子を含むが精良である。内外面・断口青灰色。幾分の吸水性を残している。

1604(杯) 胎土は白色粒子をわずかに含むが精良である。内外面・断口灰黒色。

1605(杯) 径・傾きの復元に困難がある。青灰色。内面に自然釉がかかり,剥離している。底部はヘラ切りのままである。

1606(高杯) 胎土は白色粒子含むが精良である。外面暗灰青色。内面・断口灰青色。底部付近にカキメが観察される。

1607(壺) 外面暗灰色,内面青灰色,断口暗灰色。口縁部外面はナナメ方向のタタキの後,回転ナデを施す。

(3)土師器(Fig.8・9)

1608(甑) 1/6周が遺存する。胎土は石英を含む。外面淡褐色。孔は6個以下であろう。底部に長方形圧痕が見られる。

1609(甕) 1/3周が遺存する。赤褐色。外面に黒色物質が付着している。

1610(甕) 胎土は白色粒子を多く含む。赤褐色。同一個体と思われる破片は多いが,接合しない。口縁部断面形が異なるので,2ヶ所で実測した。口縁部は素地接合痕を明瞭に残している。

1611(移動式カマド) 一部のみ遺存している。底部付近の内面は被熱している。

1612(蛸壺) 1/4周が遺存している。胎土に小礫を含む。胴部下半に黒斑がある。内外面ともていねいなナデが施されている。

(4)小結

出土遺物のうち,特に須恵器の形態から,竪穴住居跡SB173の所属時期は須恵器九州編年IV期,6世紀末から7世紀初頭ごろであろう。土師器もこれに矛盾しないようである。

4) 土坑SK175の時期比定

遺構の切り合いと,出土遺物の時期比定は矛盾しないと考える。

竪穴住居跡SB173出土須恵器(Fig.8)は九州編年IV期,6世紀末から7世紀初めに当たり,SB173の時期をIV期に比定することは差し支えない。

土坑SK175出土須恵器(Fig.7)は九州編年IV期とVI期のものがある。IV期の須恵器は本来,SK175に切られた竪穴住居跡SB173に属していたものの混入とみなされるので,SK175に本来属す須恵器は九州編年VI期のものということになる。したがって,SK175は須恵器九州編年VI期,7世紀後半に比定できる。

また,編年上の1時期内における細かい時間的関係は,論理上の困難もあるものの,須恵器蓋1587のかえりが口縁部とほぼ同じ高さであることから,VI期の中でも古い時期,7世紀第III四半期くらいに考えたい。

前述のように,土坑SK175より出土した長胴壺23と甑1594は破片も大きく,削平以前はもっと大きな破片,または完形だったと考えられる。さすれば,これらの土器のSK175における埋没は,何らかの廃棄行為の結果であったといえよう。すなわち,長胴壺23をほかの遺構からの混入とみなす必要はなく,これもまたSK175の時期(須恵器九州編年VI期の古い時期・7世紀第III四半期ごろ)に比定できる。

5) 長胴壺23の出自

長胴壺23の出自について,概報は次のように触れている〔柳沢・杉山編1985:15〕。

もっとも類似する例はソウル市城東区九宜洞遺跡の土器があげられる。九宜洞遺跡は遺跡の性格もいま一つ不分明で,かつ出土土器も高句麗・百済のいずれとも現状では決めがたい状況である。

このころは,まだソウル・夢村土城での高句麗土器の出土が知られておらず,九宜洞遺跡の土器の位置づけに結論が出ていなかったので,概報もそうした学史的状況を反映した書き方をしている。現在,九宜洞遺跡は5世紀前半から中葉ごろの高句麗遺跡とされ,夢村土城の高句麗土器は5世紀後葉から6世紀前半までの時間幅で捉えられている〔金元龍ほか1988;白井1992;崔鍾澤1995〕。いずれも製作地は明確でない。

結論的に言うと,長胴壺23は,百済・新羅・加耶の土器とは異質の印象があり,高句麗土器と考えられる。筆者は高句麗土器を直接観察する機会にほとんど恵まれていないので,先学の記述を見ていこう。

耿鐵華・林至徳〔1984〕は吉林省集安地域の高句麗土器を大きく3組に分け,墳墓の3時期に対応させている(和訳は緒方訳1987による)。胎土と色調・焼成に関して,第一組(前期)は「基本的に手製で,焼成温度は高くない。陶質は多くが夾砂粗陶で,夾細砂陶もある。泥質陶は比較的少ない。色調は,黄褐,紅褐,灰褐と均一でない。」〔耿鐵華・林至徳1984:56;緒方訳1987:26〕,第二組(中期)は「基本的に輪製だが,わずかに手製も継続保持される。焼成温度は,次第に高温になる。陶質は多数が泥質陶だが,少量夾砂陶もある。多くが灰色,黒色あるいは土黄色で,色むらがない。堅緻である。」〔耿鐵華・林至徳1984:57;緒方訳1987:29〕,第三組(晩期)は「陶質は,多くが泥質陶で,色調は純色になり,多くが灰,黒,黄色を呈する。焼成温度は高く,質は,堅緻になる。基本的に輪製であるが,わずかに手製もある。」〔耿鐵華・林至徳1984:60;緒方訳1987:29〕としている。

九宜洞遺跡の高句麗土器を検討した崔鍾澤は,次のように概観している〔1993:3-4〕。

大部分,粒子が非常に細かい泥質系胎土となっている。胎土に細かい砂粒の混入した例があるが,数的には微々たる量である。土器の表面色は黄褐色(または赤褐色),灰色,黒色の3種があるが,黄褐色が大部分を占め,灰色と黒色は少量に過ぎない。土器の表面が固くなめらかで光沢のあるものと,表面が柔らかく,触れると手にくっつくものがあり,後者がはるかに多い。出土したすべての土器が,平底の器形を持っており,頸部のある土器の場合,口縁部は数種の形態に細分される。

夢村土城の報告書では,「黒色・黒灰色・黄褐色の表面色を帯びて胎土の質が泥質であり,焼成度が高くなく軟質となっている土器で,表面を磨研処理した土器」〔金元龍ほか1988:74〕を,「九宜洞類型」(高句麗土器〔金元龍ほか1989〕)と呼び,「夢村類型」(百済土器)から分離している。

これらの記述を比較すると,九宜洞遺跡の高句麗土器,さらに峨嵯山・龍馬山一帯で出土した高句麗土器〔崔鍾澤1995:37-38〕は,集安地域の第二組(中期)に,夢村土城から出土した高句麗土器は集安地域の第二組から第三組(晩期)に当たるようである。これは通説となっている年代観に矛盾しない。

博多遺跡群の長胴壺23は,色調が白いことは異なるものの,描写された高句麗土器と似ているようであり,特に集安地域の第三組(晩期)にもっとも近い。

「大」字形線刻に着目すると,高句麗土器にいくつか類例が認められる。長胴壺については九宜洞遺跡の例があり,胴部上位に「木」字形の記号がある〔金元龍ほか1988:図面100-(4)〕。九宜洞遺跡出土の椀類では「井」字形や「田」字形に「小」字形を組み合わせた記号が,椀の底部に施されている〔崔鍾澤1993:図面42-(1)・(5),図面48-(2)〕。ただし,「小」字形を陰刻ではなく陽出させた場合もある。また,写真により観察すると〔崔鍾澤1993:写真78〕,焼成前に施された記号もあり,博多遺跡群の長胴壺23に一致はしない。集安・民主六隊遺址出土鉢の底部に刻まれた「大大」形の線刻〔耿鐵華・林至徳1984:図二11〕は,集安という高句麗の中心地での例であるが,焼成前後いずれの時点で施されたものか,記述はない。

このように,全く同じ線刻はないものの,線刻も長胴壺23を高句麗土器とする一根拠にはなりえよう。

それでは,この高句麗土器長胴壺23が博多遺跡群にもたらされた背景はいかなるものであろうか。章を改めて,この前後の対外交渉史における位置づけを考えてみる。


4.考察−高句麗土器搬入前後の北部九州

1) 7世紀における玄界灘沿岸の朝鮮系土器

以下,北部九州や須恵器に限らない内容ではあるが,便宜上須恵器の九州編年による時期区分を用いる。なお,別稿において整理を試みるので,本稿では実測図の提示や細かい編年を割愛する。

IIIB期(6世紀後半) 陶質土器や金工品など,特に墳墓関係において,朝鮮半島との直接の関係が不明瞭になる。すでに指摘されているように,博多遺跡群では,この時期に再び集落が営まれるようになる。

IV期(6世紀末〜7世紀初) 状況が大きく転換し,朝鮮半島からの舶載遺物が再び墳墓に見出されるようになる。山口県豊浦町・心光寺2号墳〔山内1988〕,福岡市・山崎古墳群C-1号墳〔濱石編1994〕,福岡県大野城市・王城山C古墳群〔酒井編1977〕より出土した新羅土器,福岡市・広石古墳群I-1号墳〔山崎ほか編1977〕から出土した百済土器がその例である。新たな対外交渉の盛期を迎えたといえよう。

ただし,6世紀前半まで〔定森1993:23〕と異なり,陶質土器の分布が玄界灘沿岸から畿内の宮都に連なるルート上に集中し,特に畿内では宮都・官衙・寺院遺跡からも出土する〔江浦1987:119〕。

V期(7世紀前・中葉) 6世紀末以来の状況が継続している。福岡市・三郎丸B-3号墳〔小田1988;二宮・大庭編1996〕,福岡県大野城市・王城山C-11号墳〔酒井編1977〕,福岡県宗像市・相原2号墳〔酒井編1979;宮川1991〕より出土した新羅土器が知られている。

また,この時期集落が営まれていた博多遺跡群でも,新羅土器の出土が知られている。第33次調査地点(博多区祇園町)は,今回問題としている第17次調査地点から約200m西方である。残念ながら当該期の遺構に伴なってはいないが,12世紀中ごろから13世紀初めの井戸SE172〔加藤編1988:52〕より,新羅土器が出土しており〔加藤編1997:Fig.6-64〕,器形や印花紋より7世紀中葉とみなされる。

VI期(7世紀後半) IV・V期(6世紀末〜7世紀中葉)の玄界灘沿岸においては墳墓に副葬されることが通例であった陶質土器は,いずれも官衙に関連した遺構から出土するようになる。太宰府市・大宰府条坊跡第115次調査SX164〔狭川1993:827-828〕,太宰府市蔵司・大宰府史跡第54次調査整地層〔石松ほか1979:22-25〕や,福岡市・鴻臚館跡SD-08〔山崎編1993:68〕,福岡城址内堀外壁石積〔折尾・池崎編1983:Fig.25-10〕から出土した統一新羅土器がその例である。

V期からVI期へのこのような転換期に,博多遺跡群の高句麗長胴壺23もまた位置づけられる。博多遺跡群において,この時期に集落自体が縮小するらしいことも重要である〔吉留1993:102-103〕。

2) 7世紀における北部九州の官衙遺構

博多遺跡群の高句麗土器の時期に,北部九州における陶質土器の出土傾向が変わることがわかった。その背景が政治的な画期によるものならば,北部九州のこの時期の官衙遺構にも何らかの変化があるはずである。そこで,官衙遺構について諸説をみていく。

比恵・那珂遺跡群 菅波正人は,博多遺跡群よりも御笠川・那珂川を約1km遡った福岡市・比恵・那珂遺跡群の大型建物の変遷を整理し,さらに『日本書紀』に記載された「那津官家」や「筑紫大宰」との対応について見解を披瀝している。それによると,7世紀前半から中ごろにかけて那珂遺跡群を中心に倉庫群が分布し,対応する建物は不明であるが瓦がみられることから,官衙の存在を想定し,「筑紫大宰」(後述するように,前期筑紫大宰)に該当する可能性を示唆している。また,7世紀後半以降,那珂遺跡群にこのような倉庫群が見られなくなることを指摘し,内陸の太宰府地域にその座を譲ったものとみている〔1996〕。

大宰府政庁跡 一方,福岡県太宰府市都府楼地域での大宰府政庁跡の調査から,官衙遺構は3期に分けられ,このうち第I期は,後の朝堂院的な配置の礎石建物とは違い,掘立柱建物であることが特徴であり,その時期は7世紀後半とされている〔横田1983〕。比恵・那珂遺跡群に倉庫群がみられなくなった後を承けたものとみなされる。

鴻臚館跡 さらに,福岡市・福岡城地域にも,筑紫館・鴻臚館に比定される遺構群が知られている。山崎純男によると,鴻臚館のI期遺構はそのうちもっとも先行した遺構群で,柵列と門の跡がみられる。ほかの建物は確認されておらず,山崎はその理由を儀礼のための広場の存在に帰している〔山崎編1993:12〕。九州編年VI期の須恵器蓋・杯により,7世紀後半に比定される〔山崎編1993:68〕。すなわち,鴻臚館I期は大宰府の政庁第I期に並行する部分があり,この時期に鴻臚館跡でも特殊な儀礼遺構が登場すると言える。

官衙遺構と陶質土器出土傾向 ここで注目すべきは,官衙遺構の所在地の変化と,先に述べた陶質土器出土傾向の変化が,その画期をほぼ同じくしていることである。6世紀の「那津官家」に比定される比恵遺跡群,7世紀の「前期筑紫大宰」に比定される那珂遺跡群とも,陶質土器などの朝鮮系遺物は知られていない。7世紀後半(大宰府跡政庁第I期・鴻臚館I期)に大宰府跡や鴻臚館跡で陶質土器(統一新羅土器)が出土していることはすでに述べたとおりであるから,大宰府跡政庁第I期の官衙遺構が那珂遺跡群のそれを引き継いだものならば,那珂遺跡群からも陶質土器が出土してよさそうなものである。

6世紀の那津官家存続期には,陶質土器の日本での出土自体が乏しいのでよいとしても,7世紀の前期筑紫大宰存続期には,玄界灘沿岸の墳墓や畿内の宮都・寺院関連遺構で陶質土器の出土が知られているのであるから,前期筑紫大宰相当地点での陶質土器の未発見は重要である(遺構に伴う遺物自体が極めて少ないことも留意すべきではあるが)。

そこで,7世紀前・中葉には,玄界灘沿岸のみで墳墓からの陶質土器出土が目立つことに着目したい。畿内や東国でもこの時期の墳墓からの新羅陶質土器・緑釉陶器は見られるが,畿内出土例の多くは宮都・官衙・寺院・生産関係の遺跡からのものである〔江浦1987:119〕。この時期,対外交渉の主導権が玄界灘沿岸の在地首長の手中にあり,畿内政権の対外交渉も,彼らに一部依存していたと考えてはどうだろうか。

7世紀後半に玄界灘沿岸の墳墓に陶質土器が見られなくなり,一方,太宰府市都府楼地域や福岡市福岡城地域で統一新羅土器の出土が知られていることは,それら地域に所在した畿内政権の出先機関に対外交渉の主導権が移ったためと考えられる。

3) 筑紫大宰の役割と移転

ここで,考古資料による所見を傍証するため,『日本書紀』にみえる,この前後に北部九州に所在したと考えられる畿内政権の出先機関「筑紫大宰」について,問題を整理してみたい。なお,史料には文飾の可能性もあるので,官司名などは,必ずしも当時そのように呼ばれていたとは限らぬものとして,話を進める。

那津官家 まず,筑紫大宰の前段階に存在したと思われる那津官家については,朝鮮半島情勢に対応した軍事的性格を有するとの説〔田村1976〕もあるが,那津官家の初出であり,唯一の記事である『日本書紀』宣化元年(536)5月辛丑の条の詔勅には,外交との関連は明言されていない。むしろ,主体は「屯倉」記事であるといえよう〔鈴木1970:77-78〕。また,詔勅のほかの部分より,筑紫・肥・豊の屯倉を那津のほとりに「聚建」したことに史実性をより認める説もある〔倉住1983:146-148〕。すなわち,那津官家を外交や軍事のため官司と解釈することは難しい。八木充は,その後那の津を特定する史料が見られないことを指摘している〔1983:322-323〕が,外交・軍事上の独自の決定権がなければ,言及されるはずもない。

敏達12年(583)7月丁酉の条・是年の条にみえる火葦北国造阿利斯登の子で,百済から達率の位を得ていた日羅のような存在は,この時期の九州在地首長の朝鮮半島との関わりかたを示している(葦北は北部九州ではないが)。また,畿内政権が日羅を利用しようとしたことは,対外交渉に在地首長の協力が必要で,独自の外交チャンネルが未発達だったことをも示していよう。

那津官家に比定される比恵遺跡群の大型建物群は,「三国屯倉」の「聚建那津之口」にふさわしい。また,内政・外交いずれへの活用が期待されていたとしても,穀物の大量備蓄が那津官家の目的であったならば,渡来系遺物の出土が知られていないことも不思議ではない。

筑紫大宰の時期区分 筑紫大宰の初見は,『日本書紀』推古17年(609)4月庚子の条であり,名称は多様であるが,大宝令で「大宰府」となる以前の官司とみなされる。また,天智3年(664)以降は記事も豊富になり,皇極2年(643)以前の断片的なそれとは区分されるので,倉住靖彦に従って本稿でも「筑紫大宰」を2分し,推古17年から皇極2年までのそれを前期,天智3年以降を後期とする〔倉住1987:56〕。

前期筑紫大宰の成立 前期筑紫大宰に関する記事は,いずれも筑紫大宰が百済・高句麗使の来着を報告したという奏上記事であるが,「奏上言」(推古17年4月庚子の条)や「馳駅奏」(皇極2年4月庚子の条・6月辛卯の条)以上の行為は見当たらず,外交関係の独自の決定権や,軍事・内政上の権限を有していたことを示す記述はみられない〔倉住1991:221-222〕。一方,後期筑紫大宰には奏上記事がみられない。奏上記事は前期筑紫大宰に特徴的なパターンであり,独自の原史料の存在を示唆している。

上に述べたように,前期筑紫大宰の初見は推古17年である。田村圓澄は,前期筑紫大宰成立のきっかけを前年の隋使裴世清来日に求めている〔1976:40-41〕が,これは,那津官家を軍事的色彩の濃いもの,前期筑紫大宰を外交的色彩の濃いものとみることに由来している。しかし,上述のように,那津官家関係記事は宣化元年条だけであり,記事自体の文飾もある。推古17年以前の対外関係記事にことごとく那津官家の介在を想定するのは無理があろう〔八木1983:321〕。

ここで注目したいのは『日本書紀』崇峻4年(591)11月壬午の条である。紀男麻呂ら2万の軍勢が「建任那官家」(8月庚戌の条)のため筑紫に派遣され,崇峻暗殺事件(592)の後,推古3年(595)7月条の帰還記事まで4年間,渡海しないまま筑紫に駐屯している。この派遣軍の駐屯が,前期筑紫大宰そのものとは言えないまでも,その成立を促したのではなかろうか。というのも,これは欽明23年(562)の加耶滅亡時以来29年ぶりの派遣軍であり,軍勢も多い。欽明23年7月是月の条は,591年にも筑紫に派遣される紀男麻呂の手柄話という側面もあり,史実性を疑うならば,遡って欽明17年(556)正月の条,交戦記事まで遡れば欽明15年(554)12月の条以来となる。また,崇峻4年以後,派兵計画を含む外交記事が頻出している。

飛鳥寺の創建(588年),推古即位に伴う飛鳥(豊浦宮)遷宮(592年)など,内政上の画期もある。

また,崇峻4年は,新羅が南山城を建設したという『三国史記』真平王13年(591)7月の条と年次が一致する。しかも金石文『南山新城碑』によって,南山新城はこの年に京内外の支配地の人民を徴発して築城したと確認できる。考古資料に照らすと,加耶地域併合後に新羅化した石室墳として存続していた群集墳の多くは,このころ縮小または廃絶する〔白井1996a〕。南山新城の建設は,併合後の旧加耶地域における支配体制の変革を象徴するとも考えられる。この時期に畿内政権が派遣軍を編成したことは示唆的である。

こうした様々な事情により,畿内政権が朝鮮三国の情報を収集するため那津の倉庫群に近接して設置した官司が前期筑紫大宰ではあるまいか。

日本列島に再び陶質土器が多くみられるようになる須恵器九州編年IV期もこのころに当たり,前述のように,その分布は6世紀前半までとは異なる。須恵器の九州編年IIIB期とIV期の境は,陶邑におけるTK43型式とTK209型式の境にほぼ一致すると考えられるが,白石太一郎は飛鳥寺下層の須恵器により,その時期を590年ころに比定している〔1985:231〕。寺院建立や瓦の生産、前方後円墳の終焉など,考古資料からも,この時期に画期を求めることができる。

さらに,比恵・那珂遺跡群の大型建物群がその中心を那珂遺跡群の側に移してくる時期にも当たるが,畿内と異なり,北部九州の官衙遺構からは朝鮮系遺物の出土が知られておらず,対外交渉権が在地首長の手中にあったと考えられることはすでに述べた。これは,前期筑紫大宰関係記事のあり方と矛盾しない。

後期筑紫大宰と防衛施設 後期筑紫大宰には,軍事機能が濃厚という見方は,通説といってよかろう。『日本書紀』天智紀には,国防施設の整備を示す記事が連年のように記されている。すなわち,664年には防・烽を設置し,水城を築造,665年には大野城と椽城の築造,667年には高安城・屋嶋城・金田城の築造が知られている。このうち福岡県太宰府市の水城跡は,築堤前後の溝の存在により〔城戸編1994:130〕,福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町の大野城も主城原地区の建物跡などにより〔横田1995:16〕,7世紀後半に始まるものとみなされ,『日本書紀』の記事は傍証される。

このころから記事が増加する後期筑紫大宰は,大野城・水城との「総合防備計画」〔八木1983:338〕,「マスタープラン」〔倉住1987:54-55〕に基づいて選地されたと考えられている。さらに八木は,665年,667年,672年の唐使の筑紫到着から進表までの時間差に着目し,いずれも2,3日を要していることから,「筑紫大宰が着津地から、二、三日の行程の地にあった」と論じている〔1983:339〕。後期筑紫大宰は太宰府市都府楼地区の政庁第I期の掘立柱建物群に比定するのが通説であり,疑いの余地はあるまい。

筑紫大宰の都府楼地区への移転の時期は,国防整備のきっかけが白村江の戦い(663年)にあるとすれば,663年から665年までの間であり,比恵・那珂遺跡群や大宰府跡での考古学的所見に符合する。

饗客施設(筑紫大郡・筑紫小郡・筑紫館) やや遅れて,『日本書紀』に,筑紫で外国使を饗応した記事がみられるようになる。酒寄雅志は饗応に着目し,天武元年(672)以降の記事より,「筑紫の地が日本の外交交渉において独自に判断を下し得るだけの公的機能を与えられていた」と推測した〔1979:36〕。その舞台となったのが,持統2年(688)2月己亥の条の「筑紫館」,天武2年(673)11月壬申の条の「筑紫大郡」,持統3年(689)6月乙巳の条の「筑紫小郡」である。

八木は饗応についても,673年,675年,677年,685年,686年に,筑紫で饗応した当日に外国使が帰国していることに着目し,「筑紫大宰とは別に、筑紫の津辺において饗客の施設が整備された」とみなした〔1983:339〕。この饗客施設は福岡市福岡城地域の遺構群(鴻臚館跡)に比定するのが通例である。

平野邦雄は筑紫大郡・筑紫小郡・筑紫館が「那津官家」を継承したものであり,前期筑紫大宰と同時期に成立したと考えている〔1990:11-12〕。これら饗客施設を難波におけるそれとの比較によって明らかにすべきという平野の指摘は重要であるが,初出記事や対応する考古資料よりもはるかに時代を遡らせる結論には従いにくい。むしろ7世紀後葉にいたって,都と難波の関係に擬せられる関係が,後期筑紫大宰と筑紫の饗客施設とのあいだに成立したと考えるべきである。

7世紀後半の官衙遺構と陶質土器 長々と通説をたどってきたが,以上より,筑紫大宰の所在地と機能が7世紀第III四半期を境に変化し,筑紫に畿内政権の代理として外交上の独自の権限が与えられたことが読みとれた。この画期は,朝鮮半島の統一戦争と,それに畿内政権が干渉したためと考えられる。

そして,筑紫における国防体制の充実,『日本書紀』後期筑紫大宰関係記事の頻出に呼応するように,大宰府跡と鴻臚館跡で陶質土器(統一新羅土器)が出土するようになり,一方,北部九州の墳墓から新羅土器の出土がみられなくなることはすでに述べたとおりであり,やはり文献史料と対応している。

大宰府跡と大野城・基肆城・水城からなる地域は,地勢上の理由もあろうが,7世紀中葉までに新羅と独自に交渉していた早良地域(山崎C古墳群・三郎丸B古墳群),乙金山西麓(王城山C古墳群),宗像地域(相原古墳群)よりも内陸で,福岡県大野城市・春日市・太宰府市におよぶ牛頸窯跡群から遠からぬ地域として,筑紫大宰の移転地に選ばれたのであろう。673年以後,海岸近くに饗客施設が設けられるのは,新羅との友好関係が樹立され,在地首長に対する支配も安定したことを示している。

4) 筑紫遷宮と北部九州在地首長の地位

『日本書紀』によれば,百済の滅亡(660年),高句麗の滅亡(668年),安東都護府の撤退(676年)と続く新羅の朝鮮半島統一過程で,中大兄皇子(天智天皇)を首班とする畿内政権は宮を一時的に九州に移し,半島情勢に干渉した。

百済が滅亡すると,翌661年3月,斉明天皇と中大兄皇子は北部九州の岩瀬宮(改称して長津宮)に至った。朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町大迫遺跡,朝倉郡杷木町杷木宮原遺跡・志波桑ノ本遺跡・志波岡本遺跡の大型建物跡群を宮とその周辺の官衙に比定する説がある〔小田1992a・b,1993〕)に2ヶ月だけ遷宮してはいるが,斉明天皇の没後,中大兄は長津宮に戻り(日付の異同はあるが斉明7年8月甲子の条,天智即位前紀斉明7年7月是月の条),天智即位前紀斉明7年9月の条にも「皇太子御長津宮」とある。10月に斉明天皇の遺骸が出航し,11月に飛鳥で殯を行ったとするので,このとき中大兄も飛鳥に戻ったのであろう。

また,大海人皇子(天武天皇)の子で,娜大津にその名を取ったという大津皇子は,持統即位前紀朱鳥元年(686)10月庚午の条より,663年の出生であるから,白村江の敗北時まで大海人皇子が長津宮で派遣軍の指揮を執ったことがわかる。天智3年(664)2月丁亥の条には天智天皇が「大皇弟」(大海人)に命じて新冠位を制定したとみえるので,大海人も敗戦後飛鳥に戻ったのであろう。

当時における遷宮の意味を詳論する準備はないが,この間,天皇の居所とは別に,「政策遂行の基地」として長津宮が一貫して利用されていると読みとりたい。数次に亘って大軍を派遣するこの干渉戦争の渦中で,豪族軍と兵糧を結集する拠点が,天皇とともに漂泊を繰り返すとは考えがたいからである。

長津を「那珂津」とみなし〔坂本ほか校注1965:348頭注13〕,長津宮を福岡市・那珂遺跡群の付近に比定することもできよう。前期筑紫大宰に比定される大型建物群がみられることから,那珂遺跡群に宮が置かれた可能性が考えられる。派遣軍の将軍である阿倍比羅夫が,『続日本紀』養老4年(720)正月庚辰の条で「筑紫大宰帥」と記されたことも,筑紫大宰の所在地が干渉戦争の拠点となったことを示すのではなかろうか。

このころ,高句麗使は661年,662年,666年正月・10月に来日している。いずれも来日経路は記されていないが,筑紫遷宮以前の660年に来日した高句麗使相賀取文が,正月に筑紫,5月に難波に至り,7月に帰国したと記されており,その後の高句麗使も筑紫経由だったと考えられる。特に,「高麗言」(天智即位前紀斉明7年12月の条),「高麗乞救」(天智元年3月是月の条)とのみ記す遣使は,長津宮が機能していた時期でもあり,応接や情報聴取を筑紫(長津宮)で行ったであろう。天智7年(668)7月の条に「高麗従越之路,遣使進調」と記すが,これは近江遷宮(667年)後であるし,わざわざ「従越之路」と記すことも,「風浪高」く帰国できない状況の前提という意味のほか,異例の遣使経路であったことを示していよう。

この前後の対外関係記事に照らせば,渡来した高句麗使は即時に全員が長津宮を訪れたわけではなく,宮の外で待たされたることが通例であったと考えられる。長津宮の存在が推定される那珂遺跡群よりも海側の博多遺跡群で高句麗長胴壺23が出土していることは示唆的である。

陶質土器の出土傾向に見られるような,この時期を境にした変化は,単に干渉戦争の遂行だけでなく,北部九州の在地首長の地位に変動を引き起こすような施策が実施されたことを示す。九州の中小首長の子弟や部姓の者が派遣軍に動員されたことは,『日本書紀』の復員記事によって知られる(天智10年11月癸卯の条,天武13年12月癸未の条,持統4年9月丁酉・10月乙丑の条,持統10年4月戊戌の条)。その後,国防のための土木工事が相次ぎ,後期筑紫大宰には皇族や中央豪族が任命され,外交上の独自の判断を下しうるようになる(前節)。干渉戦争とその後の土木事業という人的・経済的動員の機会に,対外交渉権の一元化が図られ,北部九州の在地首長に留保されていた対外交渉権が畿内政権の手に渡ったのであろう。持統5年(691)正月丙戌の条にみる筑紫益のように,地元出身で後期筑紫大宰に勤務した者もいたが,在庁官人としての永年勤続で表彰されなければ,その働きを後世に伝えられることはなかったのである。

干渉戦争が「筑紫遷宮」という異例の方法で遂行されたことも,こうした変化と無関係ではあるまい。

5) 高句麗土器搬入前後の北部九州

本章では,1)2)で考古資料により,3)4)で文献史料により,博多遺跡群第17次調査土坑SK175出土の高句麗長胴壺23の背景について考えてきた。行論上,話の前後するところがあったので,ここでまとめ,博多遺跡群に話を戻すことにする。

博多遺跡群では,6世紀後半から集落が再び営まれていたが,6世紀末ごろ,政治的・文化的な変化を背景に,北部九州の在地首長と朝鮮半島との盛んな交渉が顕在化し,新羅・百済の陶質土器が流入するようになった。畿内政権も,内政を整えた新羅との敵対的な立場から,派遣軍を筑紫に駐屯させ,前期筑紫大宰を設置して外国使の来日を連絡させたが,行政制度の未発達などから,対外交渉の権限は北部九州の在地首長に多く留保されていた。博多遺跡群は,その重要な窓口となっていた。

しかし,7世紀中葉,百済が唐・新羅によって滅ぼされると,筑紫遷宮という手段で在地首長を畿内政権の政策(干渉戦争・国防整備)に動員し,外交交渉権を奪って畿内政権に一元化した。この時期,博多遺跡群に高句麗から長胴壺23ももたらされた。

大海人皇子が筑紫を去った後も,畿内政権は後期筑紫大宰に皇族や中央豪族を配し,外交交渉と防衛を担当させた。統一新羅との交渉権は後期筑紫大宰が独占した。国際関係が緊張し,在地首長の独自の交渉権が喪失されたことで,博多遺跡群の集落は一時的に縮小した。


5.おわりに

福岡市・博多遺跡群第17次調査土坑SK175より出土した高句麗土器長胴壺を再報告し,その位置づけを考えてきた。それによると,『日本書紀』の伝説的な記事を除いて,おそらく日本と高句麗がさかんに交渉した,ほとんど唯一の機会であった7世紀後半に比定できる。その背景に,朝鮮半島の政治変動があったことはもちろんであるが,単に朝鮮半島情勢のため従属的に生じた現象ではなく,律令国家の成立過程において,日本の内政,そして北部九州の政治的地位に生じた大きな変動との関連をも考慮すべきであろう。

しかし,今後,高句麗土器の報告例が増加したり,7世紀の朝鮮系遺物の分布を大きく描き替える事例が新たに見出される可能性もある。今後,各地の調査成果をさらに検討する必要があろう。また,今回は充分に生かし得なかった文献史学の成果にも,配慮していかねばなるまい。

博多遺跡群第17次調査では百済系土器や楽浪系土器も出土している。これらも再検討を要するものであり,今後の課題としたい。

本稿を契機に日本出土高句麗土器が再認識され,資料の新発見・再発見を促しえたならば,望外の幸せである。

高句麗土器出土事例の存在を指摘してくださった重藤輝行氏,調査・原報告者として再報告を許可された柳沢一男氏,資料調査に協力された吉留秀敏氏,また,関連資料の調査や考察の過程でご教示を賜った加藤良彦氏,亀田修一氏,久住猛雄氏,佐藤一郎氏,菅波正人氏,高久健二氏,武末純一氏,立石雅文氏,常松幹雄氏に,謝意を表します。


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