95年の夏の検診で軽肥満と診断され、軽肥満と言う言葉に刺激され次の日から走り始め、3年でサブスリーを達成するまでの記録を記載しました。
自分の記録を載せたりプロフィールを出す事が嫌いなのですが、この手のHPが好くなかったのと、サブスリーを目指たい人、あと少しの壁にぶち当たっている人が多いため、参考になればと思いHPを作成しました。
人によっては当てはまらないよと言うご意見も有るかと思いますが、あくまでも私の経験談を載せました。
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<サブスリーとは>
サブスリーとはフルマラソン(42.195キロ)を3時間切って走る事で、男性の場合には3時間を切ることでランナーからレーサーへ、女性の場合は3時間半を切ることでランナーからレーサーへと呼ばれています。
サブスリーになるまでレーサーの意味はわからなかったのですが、
サブスリーになって、市民マラソンで入賞を狙えるようになることがわかりました。
また入賞以外にもサブスリー(男性の場合)になって始めて大きなレース(別府大分国際マラソン(別大マラソン)、福岡国際マラソン、そして東京国際マラソン)への参加資格が見えてくるようになります。
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<学生時代〜社会人走る前>
学生時代に山岳部に在籍し、夏山から冬山、沢登、ロッククライミング(ただしロッククライミングは自信有りません)などで遊びまくっていました。
学校を卒業し、社会人になり山を続けいていたのですが危険である事で仲間が次々と山登りからスキーへ替わって行きました。
今から14年前、1986年の11月末、後輩と初冬の厳しい富士山に登ったのです。
その時後輩に、”先輩来年の春ここを滑ろうよ”と誘われました。
それまでにスキーは2回しかやった事がなかったのですが無謀にも来年はここ(頂上から)を滑る事を決心したのでした。
さて一度決めた約束後には引けず、その時のシーズンはがむしゃらにスキー場に通いました。
スクールも2度ほど通い、どうにかシュテムからパラレルまで出来るようになったのです。
その後、そのスクールで知り合ったインストラクターの方のスキー部に在籍をする事になるのですが...
そのインストラクターの方に富士に行く前、立山へつれていってもらいました。
標高2300mの室堂にテントを貼り、1週間山にこもりました。
剣沢、真砂沢などを滑ってきました。
そして5月の中頃、富士山の頂上から新五合目方面を7号目まで滑ったのでした。
5月とはいえ頂上直下はアイスバーン、1歩間違えると死に至る危険な行為でした。
その後スキーにはまり、基礎スキーから競技を始めたのです。
冬場にはスキーを行っていたのですが、夏場になるとたいしたスポーツもやらず体は太る一方でした。
お腹がかなり膨らんで、知らぬ間に体重は80キロに到着する寸前まできていました。
(ただし登山をやっていた頃も縦走がメインだったので体重が70キロ以上ありました)
スキー部に入り数年して(ちょうど平成1年)のころインストラクターから走る事を散々進められ走り始めたのでした。
1日3キロの距離を走ったのですが冬の時期になり止めてしまいました。
この時大町マラソンと言っても30キロのロードレースに参加しました。
結果は22キロぐらいで走れなくなり、制限時間ギリギリの2時間52分でゴールしました。
フルマラソンの距離だと4時間半〜5時間、それ以上かかったと思われます。
もう2度と長い距離、走りたくないとこの時に誓ったのでした....
年に数回夏山スキーに行ったのですが、上り坂ではヒーコラ言って、どんどん体力が落ちているのを感じていました。
その夏山スキーも白馬乗鞍頂上で打たれた雷、九死に一生を受け、どうにか下山できたのですがその事件を境に止めてしまったのでした。(その時近くの山で雷に打たれて死んだ人が出た)
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