1.信用が全くなかった室町幕府

 桃山時代以前の経済の特徴は基本的には自給自足でした。

 では自給自足できないものが欲しい場合どうするか。もちろんお金を使わなくてはなりません。室町幕府の税もそのため年貢と銭を併用していました。この場合の銭ははなんと平安時代のお金(皇朝十二銭)や中国から輸入したお金(永楽銭)、さらに金、銀そのものを使ってたんですね。イメージとしては、ドルと自国通貨を併用している発展途上国のような感じでしょうか?

 つまり室町幕府は信用がなかったため、自前の通貨を発行できなかったんです(ですから、今の世界の国々は紙切れでいいのですから、信用があるということですね!(自国通貨よりドルの方が好まれる国もありますが・・))。
 そんなわけで、明から貨幣をもらう権利を幕府のみとすることで、明国の信用を自分の信用として、それに代えようとしたのです。

 しかし西国の有力大名などは、対明貿易を行なうことによって金銀を入手可能でしたし、鉱山を保有している大名は金、銀を掘り出すこともできました。

 一方、経済の発達にともなって、貨幣は必要になりますが、自前の通貨を発行できない以上その数が全然足らないわけです。ですから、削れたりして質が落ちたものも止むをえず使って、それでも足りないので、大名たちが勝手に銭をつくっていました。

 ちなみに最も質の悪い銭をびた銭といいます。「びた一文払わねぇ」というのはここからきていて、最悪の質の銭一文すら払わない、ということなのです。

 いずれにせよ、経済的支配という観点からすると、室町幕府は実は最初から崩壊していたわけです。

 ここに、地域経済を把握する守護大名、戦国大名が存在している理由があったのです。

 つまり、物々交換に毛の生えたような経済であって、しかも貨幣(勝手に作った偽銭も含みますが)が中央政府と関係なく自由に入手できるならば経済的には独立できるわけです。しかも幕府は軍事力もありませんでした。
 ただ、大名たちも真に強固な経済的・軍事的基盤はなかったため、「権威」を必要としました。そのため大名たちは幕府や朝廷をつぶさず、利用したわけです。

 軍事力も経済力もない者はもはやお飾りでしかないわけです。

 一方大名たちも自らの独自の貨幣を流通させるほど強固な基盤をもっていたわけではありません。仮に自分達で勝手に偽銭を作っても、それはいわゆる「中銭」であって、(びた銭ほどではありませんが)自領外の商人にはそれ相応の扱いをうけます。
 仮に大量生産しても多くを自国領内で通用せざるを得ない以上、いたずらに自国領内の貨幣価値を落とすのみだったでしょう。貨幣価値を落とすということは、自国以外の物価が上がるということですから、良いことではありません。

 いずれにせよ、室町時代は貨幣不足による大デフレ時代であったといえます。この情況は、貨幣をどうしても必要とする時代が来るまで続いたのです。




<コラム:デフレとは>
 経済が発展するとお金(貨幣)が必要になります。でもお金がないと経済は進展しません。
 お金がなく、商品がいっぱいある場合、お金の方が価値があることになるわけですから、その分物価は安くなります。

 具体的には・・
 農業技術が発展して、今までより生産できるようになった場合、中央政府は貨幣を増やして、値段が下がらないようにしなければなりません。
 そうすれば、農作物を作れば作るほど儲かるのでさらに経済の発展が期待できます。
 これが経済の発展です。

 しかし、貨幣が増やせない場合、「作れば作るほど損をする」という異常な状況が生まれ、結果として経済は停滞します。これがデフレです。
 我々が経験しているいわゆる「失われた10年」はそういう時代です。
 そして室町時代もそういう時代だったのです。


 
おもしろ狂歌・落首その1

 「田舎にも京(今日)にも御所の絶え果てて 公方にことをかきつ元年」

 嘉吉の変(嘉吉元年)に、六代将軍足利義教が刺殺されたあと詠まれたもの・・。
 ちなみに、その3年前に、鎌倉公方足利持氏が自殺しています。
 昔は将軍のことを「公方」と読んでいました。当時京都と鎌倉にいた公方(鎌倉は副将軍のようなもの)が「嘉吉元年」に二人ともこの世を去ったこと(公方に事を欠く)を巧みに詠み込んでいます。
 定説では民衆は馬鹿みたいにかかれていますが、これ一つとっても民衆の教育レベルの高さが窺えます。

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