3.桃山時代の経済

 この時代は秀吉により2つの大きな革命的な政策がとられます。
 この2つの政策、教科書ではさらっと流れて、それほど強調されません。しかしこれが江戸時代へ続く「近世」という時代の基礎となります。まさに江戸時代の土台を作ったといえます。
 教科書では朝鮮出兵や家康対秀吉など、どちらかといえばマイナスの面が強調されていますが、もう少しこちらについて言及すべきだと思います。

 さて、その注目すべき政策、1つ目は太閤検地です。
 これはすべての土地(家や屋敷も含むのです!!)を「石高」で評価するという点で画期的でした。つまり世界史上類例をみない、穀物がものの単位となる状況の出現です。

 米を単位とすることで、米が生産物でありながら、貨幣となる摩訶不思議な状況。いわば金の成る木を育成しているようなものです。しかし、これは考え方としては中世に戻ったようなものですから、商品が増加するにつれて矛盾が生じてきます(作れば作るほど損をしていく=価値が下がる)。いわば自ら銭を生産できなかった豊臣政権時代の苦肉の策と言えましょう。
 もちろん、史上初めて(おおむね)全国の生産力を把握できたのは非常に大きな意味をもっていました。

 しかしその最大の意義はやはり「一地一作人原則」の確立でしょう。

 従来は、領主が農民から税をとっていましたが、力を持った土豪が人(小作人)を使って、収入を得ることも日常的でした。そのため、小作人は二重の税に苦しむとともに、一方の土豪は武装することで、小領主にもなっていました。よって小作人を使って、税さえ納めれば移動も可能です。対領主という点では拘束を受けないので武装して対抗することすら可能だったのです。
 そのような半武装生産集団に対しては、強力な軍事力以外では領主が権力を行使することは難しいものがあります。この点、戦国大名の衰退が一気に進むことの一因となっています。力がなくなったとたんに土豪を抑えられなくなるのです。

 しかし、太閤検地によって納税者と耕作者が同一として固定され、土豪が小作人から徴税することは禁止されます(これを「作合否定」といいます)。特定耕地を特定農民が耕作することが確定したことで、領主からの直接的支配を受け、かつ移動の自由もなくなります。すなわち、階層社会が形成され、領主の圧倒的権威が確立するわけです。
 実は対毛利戦の最中すでに同様の検地が行なわれていたのです。支配地に対して検地を行なうことで、生産高と耕作者を確定し、領主がそれを把握することによって、領主の絶対的支配を確立するということを秀吉は一方面軍司令官の時代から行なっていたのです。これがどういう意味を持つのか理解した上でやっているとしたら天才としか言いようがありません。

 そしてもうひとつが「兵農分離」です。
 石高制によって耕作者が確定させられるということは、農民か武士かを確定しなければならないということです。織田信長の強さは、鉄砲もさることながら常備軍にもあったといいます。つまり他大名が半農半武士であったために農繁期等の動員が難しかったのに対し、信長は確実に動員できる兵士が多かったということです。そしてこのことは、非生産階級である武士という階級を形づくることになりました。

 秀吉はこれを一歩すすめて、いわゆる「身分統制令」によって生産者と支配者を明確に分けました。すなわち地元の小領主は中央政府の部下(大名)またはその部下の部下(大名の家臣)となるか、または商人、農民として生きていくか。決断の時が来たのです。
 前述したように、太閤検地によって領主の農民に対する直接支配権が確立した場合、これまでの小領主は収入源を断たれることになりますから、決断しなくてはなりません。大名の家臣となって、非生産者階級となるか、大農民として生きていくか。

 こうして半農半武士の者がいなくなり、それぞれの身分が明らかとなってきたのです。 
 さらに「刀狩」によって農民から武器を取り上げることにより、一層その支配関係を明確にしていったのです。
 
 このような政策は経済的にはどういう意味をもつのでしょうか。

 それは新しい流通体制の形成です。

 非生産者階級である武士の誕生により、農民や商人は武士が住む城下町へ商品を持っていかないといかないということになりました。そして商人は輸送コストなどを考えると、これまでの「市」から、消費者である武士の住むところへ居を構えたほうが得になります。こうして城下町へ定住することになるのです。
 そして年貢として収められる米は、換金しなければなりませんから城下町に集められることになります。城下町中心経済の確立という点で非常に大きな意味を持っていたのです。そしてこれは江戸時代の流通体制の土台ともなるのです。

 このように、豊臣秀吉の時代は江戸時代と比べ、政策がいい加減に行われ、そのため体制があっという間に崩壊していたように思われてますが、経済的には、実は江戸時代の経済体制の土台となっていたとともに、当時としては卓越した「体制」の意識のもと行われていたのです。
 
 <ポイント>
 太閤検地や一連の政策は旧来の矛盾を除き去り、新たな流通体制への政策の革命的出来事でした。
 また、身分を固定することによる社会的分業の考え方も画期的です。
 こういった意味で、秀吉というのは経済を理解する希有な大名であり、それの才覚により天下を手中にしたと言っても過言ではないでしょう。

 
<コラム:「二公一民」の真実>

 教科書では「二公一民」として、桃山時代の税を教えています。つまり66%が税と言うことです。これは本当でしょうか。

 嘘です
 もちろん、だからといって重税が無かったというわけではありませんが、一般には領主が稲の実りを考慮し(専門的には「検見法」といいます)、毎年自由裁量で決定していました。もしそれでうまくいかず、もめた場合、初めて「二公一民」ルールの登場となるのです。いくらなんでも実りが悪い時に重税かけたら共倒れですからね。 


おもしろ狂歌・落首その3

「露と落ち露と消えにし我が身かな なにはのことも夢のまた夢」

 秀吉の辞世の句です。元は聚楽第落成の日に詠んだ歌だそうですが。
 秀吉の晩年は、甥の秀次の乱行、長男の夭逝、淀殿と北政所の対立など、良いものであったか疑問です。
 日本史上空前絶後の出生を遂げた人物、豊臣秀吉が詠んだ歌として、「夢のまた夢」というのは非常に印象深いものがあります。

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