3.教師は「自分の思想」を教えるな

 教育現場については私は勤務しているわけではないので少ない体験や友人からの話などを基にしていることを初めにお断りしておきます。

 さて、教育現場についての問題は「優秀な教師」が外され、組合活動やイデオロギー活動に熱心な教師の方が力を持っているケースがあることでしょう。

 これは特に公立学校において顕著です。

 この点の最大の問題点は「教師の思想主張を授業に持ち込む」ことです。

 実際教師も人間ですから、主義主張は自由です。しかし、肝心の授業をほったらかして特定政党機関誌の販売や推薦をしていたり、またいくら憲法の授業だからと言って10点の配点で内申や受験がかかっている中学3年の中間テストに「天皇制について授業中の話を参考に書きなさい」という問題を出す(現物を見ました)などは異常としか言いようがありません。

 こういった主義主張が絡む問題で一番大事なのは生徒の自主性、考える力を養うことです。ですから、どちらかが悪でどちらかが善どちらかが間違っていてどちらかが正しい、というのは生徒が判断することです。

 教師は材料を提供するだけです。それを一方的に自己の主張だけ強調したらどうでしょう。その教師が信用を失うか、生徒が一面的な見方だけを信用して偏った人間になるかのどちらかでろくな結果ではありません。

 戦前、偏った皇国史観を国が主導となって教え、戦後はその反省が生かされるどころか、今度は国=悪、国旗国歌反対、これを否定しなかったものは「右」、という逆の、極端な方に触れてしまいました。
 どちらもよくないことです。

 さらにこれは規律という面でも問題があります。

 例えば某国立大学で、国旗掲揚等を思想の自由の観点から拒否するという総長か学部長がいましたが、ならばなぜ彼は国立の大学でメシを食ってるのだ、と言いたいです。なぜそれなら私立大学へ行かないのか。
 いうなればジャイアンツに入団した選手が僕はジャイアンツが嫌いなので帽子をかぶりません」と言っているようなものです。
 そんなことはあり得ないですね。会社に入って朝礼があれば、気に入らなくても出席して朝の標語などを言わなければならないわけです。世の中はそういったものでしょう。

 しかし、そういった「当たり前のこと」を思想を理由に教師自らが否定したら、それが「自由」だと教えていたら。その教育を受けた生徒はどうなるでしょう。
 つまり彼らは「社会における集団行動の中での規律」という学校教育の中で重要なポイントを学べないことになるのです。

 もちろん、理不尽な体罰などをはじめとする不当な行為に対しては従う必要はありません。しかし、そうでない場合は、ある集団の中では気に入らなくても守らなければならないルールがあることを少なくとも教師は示すべきです。

 それは「自由を金で売った」とか「権力の横暴」ではないのです。

 生徒への教育より自分の思想を優先する教師はいりません。最低限のするべきことを否定し、ゆがんだ教育を行う教育者はやはり教壇を去るべきです。しかしそういった教師が力を持っている、ここに戦後教育の根深い闇があります。

 この点については例えば広島県の「破り年休」に象徴されるように、組合活動が「通常勤務」として公然と認められていることにも現れています。
 私は霞ヶ関で思います。時々平日にデモ行進している学校の先生は平日なのに授業はどうしているのであろう、と(研究日?)。

 一般の私立学校では、日曜日や研究日は休養に充てるか、自分の勉強に充てますが・・。

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