補助金改革(三位一体改革)
先日、地方分権に関連して、いわゆる「三位一体改革」の方向性が示されました。
(1)国から地方への税源委譲
です。 ところがこの三位一体改革、特に鳥取県知事が地方分権会議議長をしている東芝会長を恨んで、関係ないはずの東芝という会社の製品の不買運動まで起こすなど、すこぶる評判が悪いです。 それはなぜでしょうか。 私は、これは根本に「補助金」に対する理解不足と、それを百も承知で確信犯的に嘘をついている一部の「改革派知事」や旧自治省出身の知事、そしてパフォーマンス国会議員などに惑わされているのではないかと思います。 このあたりを、書いてみたいな、と思います。 1.補助金とは 補助金とは、国が国以外の者の行う事務や事業に対し、その助成あるいは財政上の援助を与えるため交付するものです。 この「国以外の者」には地方公共団体のみならず、個人、法人さらにはNPOや技術組合などの団体も含まれます。
法令上は補助金以外に、「負担金、利子補給金、その他相当の反対給付を受けない給付金であって政令で定めるもの」を総称して「補助金等」としてまとめて扱います。
※一般にテレビで取り上げられる「補助金」はこの「補助金等」を指しますので、以下はこれを単に「補助金」といいます。
また、補助金には、「義務的補助金」と「奨励的補助金」があります。 「義務的補助金」とは、法律を執行する等、例えば義務教育など法律で定められた業務を実行する上で必要なものとして交付されるものです。 「奨励的補助金」とは、例えば道路のように国の政策を進めるに当たって地方自治体等に募集をかけ希望を募り、査定し、その結果交付するものを言います。一般には特に悪者扱いされる「補助金」はこの奨励的補助金です。 さて、補助金の考え方については次の通りです。 (1)一方的な交付
(2)申請者の一方的な受益
(3)特定性
よって、用途が自由ではありません。 こうしてみると、補助金がある程度縛られるのは当たり前のことといえます。しかしよく言われる「箸の上げ下げまで縛られる」というのは言い過ぎだと思います。
なお、自由に使える(使途が特定されていない)給付金の例としては地方交付税交付金等があります。これについては後で書きたいと思います。
事業全体の経費のうち国から交付される補助金の割合を補助率といいます。 よく誤解があるのですが、補助事業は公共事業の場合、国が何割、受益する地方自治体等が何割というように分担して負担します。
この補助率は対象事業によってそれぞれ異なっています。
また、特定の地域は法律により特例として補助率が(多少ですが)嵩上げされる場合もあります。
ですから同じような事業においてもその補助対象に制限が加わっていたり、補助率が異なっていたり、基準を満たさない場合は補助が受けられないということになるのです。 さて、補助金の交付を受けるということは、前述のようにその事業について地元負担があるということです(通称「裏負担」と言ったりします)。 よって、地方自治体は、(建前としては)補助金の申請に当たっては、「裏負担」を考慮しながら申請を行っているわけで、裏負担に耐えられない場合は補助金の交付申請を行いません。 しかし、この「裏負担」を考慮せずに「補助金=国が国の政策目的のためにお金を単にくれるもの」と勘違いしているのではないかと疑うような報道もあるのは残念です。 しかもこの「裏負担」には大きなからくりがあり、現実には例えば2分の1負担(裏負担1/2)とは言ってもそのまま負担するとは限らないのです。
ここで、単に補助金を批判したいがための論理のこじつけ、というか「わざと」一面しかみていない例を取り上げます。 このような説が「改革派」の意見として、マスコミを通じて流れているため、市民が真実になかなかたどりつけないように思えます。 確かに、補助金対象について、国の裁量が全て必要かどうか(地方に任せるべきではないか)という問題はあります。
特に奨励的補助金の場合は、「補助金」がついたからといってそれは本来的に県の財産であるのではなく、国全体の財産のうち、他の都道府県などと比較して国策に合致した優先順位が上位であったから補助金がついたということで、その県の財産でなく都道府県(国)の共有財産なのです。 ここではそういった根本的に異なった発想であるためのおかしな批判を取り上げてみたいと思います。 (1)「無駄な工事をしないといけない」 「一定の基準を満たさないと国の補助が受けられない(あるいは補助率が減らされる)のでおかしい。そのためわざと無駄な部分も対象にして基準を満たすことで補助を受けようとせざるを得ない、よって無駄だ」 この場合たいていはセットで「国税と地方税の比率のバランスが悪い」「地方の財政状況を考慮すべき」という批判がついてくるのですが、本当にそうですかという気がします。 行政の考え方としては、小規模のものは自治体が自ら自主財源で行うべきで、何でもかんでも国(国税)から「少しでも金を取ってやろう」という発想が基本的に間違っていると思います。 「絶対必要な」小規模なものすら補助を受けないとできないほど財政が窮乏しているのでしょうか。 財政再建団体ならともかく、いくらなんでもこの批判は極論だと思います。 何よりの問題点は、最初の批判の「わざと無駄な部分を対象にする」というのは、「国からお金を取るためにわざと無駄な公共事業を国税から支払わせる」という点です。
県民は国民でもあるわけですから、無駄な要望はまわり回って結局県民の税金の無駄遣いなのです(都市部の市民よりは負担は減りますが無駄遣いには違いありません)。 このことを隠して、「国のせいで県は無駄遣いせざるを得ない」という何でも国に責任を負わせる類の発言は詭弁だと思います。1円でも金がほしいために県が真に必要な事業か精査していないのですから。 どっちにしても無駄な公共事業をするべきではありません。
(2)節約したら国庫に回収されて損 「教職員給与を組合と交渉して120億円削減しても、半分の60億円の国庫補助分は国に返さなければならない。一生懸命経費削減の努力をしても自由になる金は増えない。」 これも言葉のマジックです。 「国庫補助分を国に返さなければならない」というのは当たり前です。 補助金は都市部の住民も含め国民全体から集めたものを、政策目的に合致したものに対し出しているわけですから、補助が不要になった場合は返上してもらい、別の用途に使用(又は補助金自体を削減する)のは「国民全体」の観点からは行政の効率化ということで当然です。 言い換えれば国の補助分は「県のもの」ではなく、「国民全体のものをまわしてもらっていた」のです。
仮に国庫に戻ってくる60億を無駄に使ったらそれは国が悪いわけで、そこではじめて「国の無駄遣い」という批判になります。
本当に財政が厳しいのであれば、そのような多額の補助金が節約できるほど余裕ある運営をしていることを恥じても良いのではないでしょうか。
(3)正直者が馬鹿を見る? 上記と関連して「積極的に節約した方が補助金が減るのは不公平ではないか」 これは確かにお気持ちは分かります。 しかし、少なくとも分権を推進するのであれば、それを「国」に対して批判すべきではないと思います。
というのも節約すれば補助金は減りますが、同時に県税の負担の「裏負担」も減るのです。 裏負担を地方債にツケ回しをすることをやめ、身の丈にあった行政をする、それこそ本来の地方自治ではないのでしょうか。 (4)支出抑制を行っているので財源委譲を 一方、都道府県は厳しい支出抑制を行っているという意見もあるでしょう。
しかし、例えば給与でいえばラスパイレス指数(平均的給与を国家公務員と比較したもの。100が平均)が100より高い(要は国家公務員より平均して給与が高い)自治体もごろごろしています。都道府県のうち、14年4月でラスパイレス指数が100より低いのは実は大阪と鳥取だけなのです。
もちろん給与がすべてではないのですが、例えば長野県の田中知事は一期目の退職金2000万以上を返上していないと聞きます。財政危機といって大騒ぎしておきながら、2年弱で2000万の退職金を受領するというのは適切でしょうか。
さらに、塩尻に出張知事室を作ったり、あるいは別荘まで最近作って「米国のキャンプデービットにならった」といって無駄遣いをしています。
いずれにせよ、財政難を主張してこれ以上は削れないと言いつつ、その裏では知事主導の無駄遣いが行われるというモラルハザードが許されるのであれば、仮に財源委譲しても意味がないのではないでしょうか。
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