考古学のおやつ

鉄の掟・予告篇

萬維網考古夜話 第19話 31/Mar/1999

最近コンピュータの2000問題が騒がれていますが、萬維網考古夜話にも9000話問題100ネタ問題があります。

このコーナーは、継続的な話題をお話ししているわけではないので、どの話が第何話になるか、公開の日まで自分でもわかりません。準備していた話が、その直前のできごとのせいで変更になったこと(第4話)もありました。そんなわけで、準備している話に話数をつけていると、いろんな事情で不都合が生じます。しかも、複数のネタを同時に準備しているので、未公開の話題にうっかり通し番号をつけていると、ちょっとした原因で混乱のもとになります。

そこで、ファイル名がyw0001.html(これは第1話ですね)のように4桁の数字で話数を表現しているのをいいことに、一番上の桁に「9」を入れた話数を使って準備中のネタを整理しています。2つ目と3つ目の位は、ネタごとの番号で、一番下の位は原則として「1」にしていて、前後篇とか、話の間に関連のある場合はこの一番下の桁で1、2、3……と区別しています。

そんなわけで、第17話 誰が指南車を発明したかも第18話 第三の選択も、実は計画段階では9021話yw9021.html)でした。同じ話数なのは、第17話を公開してから第18話を書き始めたので、第18話を書くときに「9021」が開いていたからです(というよりも、第17話自体「第三の選択」という名前で書き始めて、話が長すぎて本題に入れなかったので、総論部分だけ「誰が指南車を発明したか」と名付けて先に公開したのです)。
同様に、第13話 禁じられた楽園は9142話、第15話 考古学者,応答せよは9071話でした。

ネタがそんなに多くないし、話数も少ないので問題ないのですが、もし9000話になったり(なるもんか)、準備中のネタが100個になったら(ならないってば)破綻してしまいます。16進数にしようかな?

このお話は、計画段階では第9011話です。つまり、この方法で計画段階の話数を整理し始めたとき、最初に計画した話です。


鉄器文化研究会の研究集会が朝霞市(埼玉県)で開催されるという情報自体は、その少し前からありました。ところが、その日時やら、場所やらが、どうしてもわからないのでした。

A氏 > 白井、鉄器文化研究会は行くだろ。
白井 > 行きたいんですけど、時間も場所もわからないんです。
A氏 > そんなはずないだろ。
(そんなはずないたって、事実なんだけどな(--#)
A氏 > そのうち、連絡が行くよ。

こんな会話を何人と、そして何回、繰り返したことでしょう。でも、けっきょくその連絡は来ませんでした。だいたい、「そのうち、連絡が行くよ」なんて言う代わりに、「12月の20日と21日、朝霞市コミュニティーホールだよ。」と一言言えば済むことじゃないですか。

私と鉄器文化研究会とは、もともと直接には関係がない(個別の研究者との面識ならありますが)ので、研究会が私に何かを連絡する義理はありません。本来、連絡が来るはずもないのですから、連絡がなくても研究会側の落ち度ではありません。蛇足ながら、誤解のないように申し添えます。

そんなわけで、研究集会の日程もプログラムもまったくわからず、朝霞と言うだけで正確な場所もわからず、知っている人も教えてくれず、なぜか代わりに「なぜ知らないんだ!?」と叱られるままに日を過ごしてしまいました。
結局、1997年12月20日(金)だったか21日(土)だったか(どちらか忘れた)に、犬木努さんから

「今日(または明日)、鉄器文化研究会だね。」

と声をかけていただいて、初めてまさにその日が来ていることを知ったのでした。ありがたや……m(_ _)m。

そんなわけで、研究集会の2日目だけなんとか見に行くことができました。行ったら行ったで、またも何人かから、

「どーして昨日は来なかったの?」

はいはい、そーですか。

思えば、このとき情報の干潟に置かれたような状況が、「考古学のおやつ」を始めた遠いきっかけになっているような気もします(当時、著作集の準備だけは始めていました)。

ま、その点は別の機会に譲るとして、この研究集会にどうしても行きたかったのは、朝霞市・向山(むかいやま)遺跡で出土したという鋳造鉄斧が見たかったからです。私が調査した福岡市・比恵遺跡の二条突帯鋳造鉄斧は、1996年の春に報告したのですが、そのころから、「朝霞で同じ鉄斧が出ている」という話が聞こえるようになってきました。「宮ノ台だった」ということもわかりました。私としては「同じ鉄斧」が「宮ノ台」だとちょっと困るなと思っていたのですが(なぜ困るのかは今回は省略)、詳しいことを聞こうにも、「同じだった」「似てた」「突帯があった」というだけで、何だかわからず、図と写真を見たという人に聞いても、「いや、あれは全然違う」というだけで、どう違うのかわからず、図も写真も目にできぬまま時間だけが過ぎていたからでした。

やっと目にした鉄斧は……あ、今回はまだ「予告篇」でしたね。また今度。

研究会の最後に、穴沢義功先生(だったと思う)がおっしゃられた言葉で、

私たちはこれまで、たまたま私たちのところに来た鉄器を分析してきました。

というような意味の言葉がありました(うろ覚え)。

たまたまぁ?……私がそれなりに苦労して分析してもらった鉄斧もたまたまなの??あ、そうか。鉄器の出土自体が偶然性が強い上に、それが分析される事例も限られているわけだから、やっぱりたまたまなんですね。う〜ん。でも、それは私としても困ります。もっと分析事例が増えて欲しいもの。

一連の話が終わった後、もう一度触れたいとは思っていますが、比恵遺跡の鋳造鉄斧を分析していただき、報告に仕上げるまでには、いろいろなことがありましたし、多くの人の協力がありました。私も、あの鋳造鉄斧も、本当に恵まれていたんです。だからこそ、どんな幸運が研究成果を生み出したのか、伝えていかなければならない気がします。


しかし、何もできないまま1年が過ぎようとしていました。1998年11月の末か12月はじめのある日、東京国立博物館の企画課長・安藤孝一さんが、1冊のカタログを私に示しました。

「これ、君がやったの?」

元興寺文化財研究所で行われた特別展「いにしえの金工たち〜古代金工技術の復元〜」(1998年10月25日〜11月8日)のカタログでした。その8ページに、懐かしい比恵の鋳造鉄斧が載っていたのです。私が「やった」というのは、鉄斧を切断して分析したもらったことです。

その鉄斧が発見されてから切断・分析されて、報告されるまでは、ほぼ私が福岡で過ごした時間と重なっています。そのときのいろいろな思い出を、思い出すままに話していると、安藤さんは、

君、その話はどこかに書き残しておかなきゃ。

と指摘されました。そうですよね。いえ、ずっとそう思ってはいたんですけど。

行政の緊急調査で、金属器の専門でもない(弥生の専門でもない……あ、日本考古学の専門でもなかったな)一埋文担当者が掘り出した鉄斧が分析されるまでの過程を、やはりどこかに残しておかなきゃ。そうだ、始めたばかりの萬維網考古夜話がある。いつかこれを話題にしよう。

そして仮に第9011話の名を与え、ついにその公開の日が来たのですが、思った通り、予告篇だけで終わってしまいました(^^;ゞ。だって時系列を整理するのはややこしいし、登場人物は多いし、記録は散逸しかかってるし、……でも、話し始めておかないと、いつになっても本篇にならないので。

そんなわけで、いろんなことを言いかけたままの予告篇でした(途中で話がそれてたしね)。本篇はいつになるかわからないので、期待しないで待っててくださいね(このコーナー自体、いつまで持つものやら(^^;)。


[第18話 第三の選択|第20話 公正なる仲買人−偏在する考古学情報|編年表]
白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 1999. All rights reserved.