考古学のおやつ

下野の渡来人

萬維網考古夜話 第26話 19/May/1999,24/May/1999

5月7日に栃木に行って来たのは,栃木県内で出土したという新羅系陶質土器を見に行くためでした。現場の整理事務所という,なじみ深いところで,未報告例まで含めて,拝見してきたというわけです。これも関係者のみなさんのご協力のおかげです。ありがとうございましたm(_ _)m。

この2年くらい,どういう訳か私は7世紀の遺物に縁がありまして,昨年もその関係のを2本公にしており,実はもう1本,入稿したまま未発表のがあります。少しずつ対象が新しくなってる気もしますが,一応7世紀まででとどめる予定です。7世紀を扱うことになったのは,たまたまその時期の資料にぶつかったためでして,それでも扱っているとだんだん面白くなってしまうのが悪い癖です。そして,7世紀後葉から8世紀はじめの資料ばかりが出土する栃木県(旧下野国)は,非常に興味深い対象だったりします。

今回は,栃木で見てきた内容を中心に,下野の渡来人についてお話ししましょう。ただし,未報告のものや発掘調査中のもの(私が訪問した当日に出土したという事例まで見せていただきましたm(_ _)m)は,いずれ詳しく触れることもあるでしょう。

「萬維網考古夜話」は,もともとこういうノリのコーナーのつもりで始めたのですが,すっかり逸脱してますね,最近。あ,最近じゃなくて,発足当初からでしたね。おかしいなぁ(^^;ゞ。

やはり栃木の陶質土器が注目されたのは,芳賀町・免の内台遺跡と宇都宮市・前田遺跡の碗以来でしょう。免の内台遺跡は1981年から1987年にかけて,前田遺跡は1987年から1988年にかけて,それぞれ調査されていますが,それらは,まず『韓式系土器研究』誌上で紹介され,その後それぞれ報告されました。

宮崎光明・江浦洋,1989,「日本出土の統一新羅系土器「盒」」,韓式系土器研究II,大阪,韓式系土器研究会,45-52
山武考古学研究所編,1992,『芳賀町文化財報告第15集 免の内台遺跡発掘調査報告書』,芳賀町,芳賀町教育委員会
宇都宮市教育委員会,1991,『宇都宮市埋蔵文化財調査報告書第29集 前田遺跡−宇都宮市立上戸祭小学校建設に伴う発掘調査報告−』,宇都宮,宇都宮市教育委員会

これらの碗のうち,免の内台遺跡の例は,以前,東京国立博物館の特別展観『日本出土の舶載陶磁』(1993)や埼玉県立博物館の特別展『古代東国の渡来文化』(1995)の展示で見たことがあるものの,今回は見られませんでした。土器としての特徴は,前田遺跡の碗とほぼ同様です。免の内台遺跡では,8世紀初頭のものと思われる竪穴住居跡SI-306から出土しています。

埼玉県立博物館は2006年4月1日から埼玉県立民俗文化センターと統合し埼玉県立歴史と民俗の博物館

前田遺跡の碗の方を見ますと,口縁部直下の2条沈線,高台端部の特徴的な処理,白色粒子を含んだ胎土に甘い焼成と,新羅土器に類例を求めてよい特徴がそろっています。前田遺跡の碗は,8世紀前葉の竪穴住居跡SI-097からの出土です。ただ,なぜか埼玉県立博物館の展示では,免の内台遺跡のものも前田遺跡のものも,7世紀後半になっています。大阪府・太井遺跡の例に引っ張られたのでしょうか?

宮瀧交二編,1995,『特別展図録古代東国の渡来文化』,大宮,埼玉県立博物館

なお,1992年に発刊された免の内台遺跡の報告には,次の記述があります。

渡来系の遺物としては、本遺跡と同一遺跡である芳賀工業団地内遺跡SI-014からも統一新羅系の広口壺が出土しており、本町内では2点目の出土例となる。県内では宇都宮市上戸祭町前田遺跡で同様の埦が出土しているのが確認されている他は確認されておらず、県内で3点確認されている統一新羅系の陶質土器のうち2点が町内において検出されたことになる。〔山武考古学研究所編1992:342〕

この「広口壺」については,今回見ることができませんでした。

ところが,これらの新羅土器以前に報告された新羅土器があったことを,今回教えていただきました。それが石橋町・郭内遺跡の壺の口縁部です。報告書には「須恵器広口壺」となっています。

(財)栃木県文化振興財団編,1987,『栃木県埋蔵文化財発掘調査報告第94集 郭内遺跡・松香遺跡 主要地方道真岡・壬生線改良工事に伴う発掘調査』,宇都宮,栃木県教育委員会
石橋町は2006年1月10日から下野市

報告書では新羅土器とはなっていないのですが,免の内台遺跡や前田遺跡の例が新羅土器として着目されると,この壺の口縁端部の処理(内側に突き出す)や,口縁直下の2条沈線の具合,さらに胎土や焼成の具合などがが新羅土器の碗に酷似していると明確に認識されるようになりました。地元の人たちが,新羅土器を識別する“目”を獲得したわけです。やはり7世紀の後葉から8世紀初めの竪穴住居跡から出土しています。

(24/May/1999補足)この件に関して,情報をいただきました。ありがとうございましたm(_ _)m。それによりますと,
報告書作成時点でその担当者もこれが異質な「須恵器」であることを十分に認識していろいろな研究者に尋ねたのですが,免の内台遺跡や前田遺跡で下野の新羅土器の存在が明らかになる直前の時期のことであり,当時の認識では須恵器として報告することがやむを得なかった
という事情があったそうです。
埋文担当者は,現場で出くわす未知の遺物の正体を見極める努力をしていますが,多くの制約のために正体を明らかにでぬまま報告せざるをえない場合もあります(私の実体験でもあります)。私としては,今回の話を通じて,この「努力」の部分を強調したかったのであり,もとの報告で「須恵器」となっていることについて原報告者を悪くいう気は全くなかったのですが,至らぬ文面によって別の意味に読めてしまったようで,私の表現に対し心配された方もおられたようです。実際,公開当初の文は配慮を欠いた表現になっておりましたので,少し改めました。
不用意な表現によってご迷惑をおかけした方々にお詫び申し上げます。

蛇足ながら,もう少し補足しておきます。
訪問した当日,私は最初,郭内遺跡の土器を新羅土器と納得できず,その旨を申し上げたのですが,地元の方たちから,これを新羅土器と考えるようになった経緯,その理由とする属性について指摘していただき,初めて「なるほど」と納得したのです(この話を伏せていたのは,ある意味,姑息だったかも知れませんね)。
この体験が,この話をしようとしたきっかけでもありました。今回の趣旨を改めてご理解いただければと思います。

これらは,印花紋がない新羅土器が,地元の人たちの経験の蓄積によって見出されていった例です。栃木県は,印花紋のない新羅土器の方から認識されていったこと,集落から出ることなど,特異な経緯を経ているわけです。

それに対して,最近でははっきりと印花紋が施された,紛れもない新羅土器が出土しています。石橋町・惣宮遺跡では,長胴の壺と思われる破片が出ています。

また、県内ではめずらしい出土例となりますが、朝鮮半島で作られたと思われるスタンプ紋が施された土器も見つかっています。〔『栃木県埋蔵文化財センター通信 やまかいどう』No.21:5〕

この土器は,これまで住居跡でいくつか出ていた碗の類とは胎土の感じも焼成の具合も違っていまして,精良な胎土を暗灰色に焼き締めています。別の遺跡でも,未報告の印花紋長頸瓶が出ていますが,やはり同じような胎土です。器種の違いに関わるのかも知れません。これらの例については,今後報告されるでしょう。

実は,当日に観察ミスしてたんですねー(^^;ゞ。私は,遺物を見せてもらうと,見たまんまをすぐ喋ってしまうんですが(うるさいだろーな……黙ってるよりはマシだと思うんですが),その中で,いい加減なこと言ってたんですね。今度栃木の人に会ったら訂正もしておきます。

土器のほかに,緑釉陶器も出ています。前にお話しした前田遺跡の報告では,竪穴住居跡SI-144のカマドから出土した緑釉陶器が出ています。この陶器の位置づけについて,報告書はほとんど記述していません(碗の方は触れている)が,巻頭のカラー図版に載せているところを見ると,希少なものという認識はあったようです。そして,埼玉県立博物館の特別展には出品されているので,1995年の時点までに,新羅緑釉陶器として明確に認識されるようになったのでしょう。そして,酒井清治さんが1996年に詳細な紹介をされています。

酒井清治,1996,「下野国出土の統一新羅系緑釉陶器」,韓式系土器研究VI,大阪,韓式系土器研究会,184-189

さて,この緑釉陶器には,「器種は何か」という問題があります。報告では,開いた方を下にして「蓋」,酒井さんの紹介では,開いた方を上にして「器台」という見解を示しています。なお,両文献の間の埼玉県立博物館の展示では,カタログに写真は載っていないものの,器種としては「蓋」と掲載しています。そして,私はこれを,報告書とも酒井さんとも違う考え方ができないかなと思っています。

ここまでの例は,だいたい7世紀の後葉から8世紀の初めに集中するようです(これは,これまでも指摘されている通りです)。地域を聞いてみると,だいたい旧河内郡におさまるそうです。ただし,調査の頻度に地域差があるので,決めつけはできません。これらは,いずれも集落遺跡から出土していて,渡来人の居住した証拠のようですが,住居の構造自体は日本のもの(オンドル状遺構などがない)ですし,土器も大半は土師器・須恵器です。また,前後の時期にほとんどつながりがありません。

そうすると,すでに国内に居住していた新羅人が関東に移住してきたようです。『日本書紀』の持統元年〜4年(687〜690)の,新羅人を関東に移した記事との対応が,すでに指摘されています。この事業が庚寅年籍の直前というのも思わせぶりですね。

さて,下野の新羅土器というと,7世紀末から8世紀初めに集中しているわけですが,例外があります。今回は見られませんでしたが,下野薬師寺付近にあるという南河内町落内遺跡では,8世紀後半以降の新羅土器の碗が出土しており,『栃木県埋蔵文化財センター通信 やまかいどう』No.18に写真が載っています。

ここで思い出されるのは,最近島根県江津市・古八幡付近遺跡で発見されたという新羅土器の瓶です(きまぐれNEWSLINK:4/28)。これも8世紀後半頃のものです。新羅土器が日本にもたらされる時期にも偏りがありますが,ひょっとして,8世紀後半に小さな波があるのかも知れません。

まだまだ検討すべき問題があるようです。

さて,下野から話が少しそれますが,私は複数の人たちから,「武蔵国新羅郡というのは,新羅の情勢と関係があるはずだから,その証拠を教えろ」と言われたことがあります。郡の動向は,地元の事情と,公民制の頂点に立つ朝廷の事情が作用しているはずで,どうしていきなり海の向こうに話が行ってしまうのかよくわかりませんが,そういう先験的なやりかたは,どうも好きになれません。新羅土器への認識を少しずつ蓄積して,鑑識眼を養っている人もいるということを,改めて強調しておきましょう。


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白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 1999-2007. All rights reserved.