考古学のおやつ

失敗は宣伝の母

萬維網考古夜話 第29話 9/Jun/1999,12/Aug/1999

今日は気持ちが落ち込んでいます。「あ〜〜。やってしまったぁ。」
ひどいミスをしてしまったものです。少々のミスだったら,あるいは,ちょっとは盛大な(どんな表現だ)ミスでも,「ラッキー!いいネタもらった(^^。」ぐらいに思って喜んでしまうのですが,今回はそういうわけにもいきません。でも,やっぱりネタにしてしまいます。ただ,今回のお話は,ちょっと気乗りがしないのでした。


最近,やっと次の資料をゆっくり手元で参照できるようになりました。

この資料を私が持っていなかったことについては,何度もいろんな人にお叱りを受けているのですが,そおんなこと言ったって,持ってないものは持ってないのです(いきなり開き直り(^^;ゞ)。
この研究集会は1987年の2月7日・8日に行なわれたそうです。もう12年も前です。このころ私はまだ浪人生(ToT)でして,しかも(ほとんど世代の鍵層となった)共通一次試験と二次試験の間という時期だったのです。まだ「九阪」という言葉も知らぬころでした。二次試験に備えて(……なのかどうか,今となっては心許ないのですが(^^;),なぜか毎日1時間ずつ漢詩の参考書を読んでいるという,不可思議な受験生生活を送っていたのでした。あの漢詩がなんの役に立ったのか,今となっては誰も検証できません。

そんな具合でしたから,九阪研究会(埋蔵文化財研究会)の存在を知り,特にこの回の研究集会と資料集が自分にとって重要だと知ったころには,とっくに売り切れていたのでしたToT。

そんなわけで,この資料集が必要なときには,大学の研究室の所蔵本や,知り合いの持っているものを見せてもらい,必要なページはチョコチョコっとコピーしてしのいでいたのでした。そのたびに,あの3分冊のページを何度めくったことか。最近(ここ3年くらい)も,日本出土の新羅土器についてデータを集めていたこともあって,何度も覗いていました。

その資料集がやっと手元に。これで調べものが楽になるなぁ。これまでも,見たい遺物が見られなかったり,読みたい文献が読めなかったりと言うことはたびたびあったけど,やっとまた一つ,克服したなぁ(^^……などと思いつつページをめくっていたのでした。

あれ??

あ〜,なんか今,見覚えのあるものが目に入ったような気が……。よく見ると,あ,これは博多遺跡群(はかたいせきぐん)で出土した高句麗土器じゃないですか〔財団法人大阪府埋蔵文化財協会編1987:322-323〕。それで見覚えがあったんですね……って,
え〜〜(@_@;!!そりゃヤバイよ。

昨年,私は日本出土として報告されている唯一の高句麗土器であるこの資料を題材にして,1本の論文を出しました。

で,何がヤバイかというと,この論文の最初のページに,こ〜んな大間違いが書いてあるからです。

この貴重な出土例も,1987年の埋蔵文化財研究会による集成『弥生・古墳時代の大陸系土器の諸問題』では取り上げられなかった〔大阪府埋蔵文化財協会編1987〕。この集成が,その後の舶載朝鮮三国時代土器に関する研究・集成の基礎となったため,結果的に高句麗土器の出土例はあまり言及されなくなったのであろう。〔白井1998:80〕

うわーー。大間違いを偉そうに書いてるぞ。こりゃぁ,ひどい。こんなの全く事実に反しています。本当はしっかり載ってるんですから。一体どうして気づかなかったんでしょう。前後のページを何度も往復しているはずなのに。やはり座右に置いとかなきゃダメなのでしょうか。いや,そんなの言い訳にもなりませんね。

恐る恐る九阪資料の「福岡県」の部分の扉を見てみると,わぁ〜あ。恩人の名前がずらーっと並んでいるじゃぁないですか。これはますますヤバい状況です。ヤバすぎます。

この論文は1996年の次の口頭発表をもとに,だいたい1997年の一年をかけて内容を補足し,書き上げたものです。で,それ以前に「九阪資料には載ってない」と思いこんでいたので,改めて確認を怠ってたんですね……って,言い訳にならないってば(ドラえもんからいいわ毛でも借りて,頭に付けてみようか?)。

今まで間違ったこともけっこう書いたことはあると思いますが(それはそれで問題ですが),今回のはひどい。学史を完全に取り違えています。研究の姿勢そのものを問われかねません。その上,何でまたこんなバレやすいミスをやってしまったんでしょう(^^;(バレなきゃいいって訳では決してないですが。)


実は,こういう基本的な事実関係の間違いを,以前もやらかしたことがあります。

この中で,短頸壺を分類した部分があり,肩部の紋様が上下を横沈線で区画しないヘラ描き波状紋帯になっているものの例として,忠清北道清州・新鳳洞13号土壙墓の出土例を挙げています〔白井1992:58〕。ところが,ソウル・夢村土城の土器編年と称しながら忠清北道の例が出ているだけでもヘンなのに,あろうことか,この土器の紋様はヘラ描き波状紋ではなく,先端が二股の工具で描かれているので,例に挙げたらまずい土器だったのです。

1991年の夏,論文を入稿した少し後に,夢村土城(オリンピック公園)の中にある夢村遺物館に行ったときに,この土器の実物を見ることができまして,そのときにヘラ描き波状紋でないことに気づき,「あ,まずいよー。」と思ったのですが,結局直す余裕がなかったのでした。

「あぁ,失敗したなぁ,卒論の時から間違ってたんだろうなぁ。」

この論文は卒論のリライトだったので,もとの卒論の方も見直してみました。すると,こんな記述が見つかりました。

他地域の類品をみると、忠清北道清州・新鳳洞13号土壙出土品(第8図-5)は肩部に複線波状文を2段に巡らせ(C-3に類す)、胴部は叩きの痕跡がみられる(第8図-7)。

「複線波状文」?つまり,卒論の時(1990年)には工具の先が2本に分かれていると気づいていたと言うことですよね。雑誌掲載用に書き直すうちに,最初の観察を忘れてたんです。なんて間抜けなんでしょう。ちなみに「第8図-7」というのは,『百済土器図録』に載った写真です。

もう一つちなみに,卒論の時には「文」に糸扁がついていなかったんですねー。「C-3」というのは卒論の時の分類です。

これもムチャクチャ恥ずかしいミスでしたが,今回のもひどいなー。


今回のミスの話に戻りましょう。

抜刷に添える訂正文を,今,考えているところです(このページをプリントアウトしてそのまま添えたら,やっぱり失礼だろうな(^^;)。論証が甘いとか,解釈が違うとかはともかく(それもまずいだろ),文献の読み込みが甘いのはいただけません。ミスに気づいてから半日は,「3分に1回ため息ついてる」と人から指摘されるぐらい落ち込んでいました(これは誇張じゃありません)。

こんな私が,一方では,読んでない文献を引用してる人の批判とか展開してるんだから,お笑いです。
もうとっくに誰かが気づいて,酒の席のネタにでもしていることでしょう(頭の片隅で「それはそれでオイシイ」などと思ってしまう自分が怖い(^^;)。

そんなわけですので,このページをお読みになった皆さん,私の論文のうち,上の方で引用した部分は削除してくださいm(_ _)m。そして,このページをご覧になっていない知り合いの方にも,教えてあげてください。
学生さんや後輩くんにも,こういう恥をかかないように,強く指導しましょう。
もし,お知り合いの方が,私の論文をまだ読んでおられなかったら,「白井のバカな間違いが載ってるから読め!」と強制しましょう。考古学雑誌を取っていない人だったら,コピーして読ませてあげましょう。

このページには特に大学からの閲覧が多いのですが,なぜかほとんど見てくださらない大阪大学岡山大学の人にも,「いいネタありますよ(笑)」と言って宣伝しましょう(^^。

(12/Aug/1999補足)最近,岡山大学からは頻繁にアクセスがあります。

あれ?いつの間に論文の宣伝になったんだ?


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