考古学のおやつ

ペーパー協奏曲・前篇

萬維網考古夜話 第43話 13/Oct/1999

連日本業が忙しくて準備がままならない当サイトですが,最近,ネタの蓄積は少しできています。というのも,遠出が多くて忙しいといっても,旅先では先方の勤務時間が終わるとこちらの仕事も否応なく終わるので,……って,こんな発想がすでに悲しいToT。

旅先でネタを見つけてきたり,旅先で文章化することは多いので,逆に,しばらく遠出がないとネタに困るようになります。

ただ,ネタがあっても仕上げる時間が取れないため,やっぱり更新はつらいんですけどね。

こんなことしてないで論文書けという声もありますが(^^;ゞ。


「日本史論文の書き方」という本がありますね,その本を見たとき,考古学にもそんな本がほしいなと思いました。で,もし出すなら,それなりに売れてほしいから,都出比呂志先生あたりをそそのかして……と思ったわけですけど,とうてい実現不可能なので,当サイトで細々と関連の記述を公開しています。以前,ほえづらコラムでも少し触れましたし,番外編で都出先生の名前が少し出てくるのも,そのあたりを意識していたわけです。

中尾堯・村上直・三上昭美編,1992,『日本史論文の書き方』,東京,吉川弘文館,ISBN4-642-07291-8
佐伯弘次先生(九州大学)以外はみんな私立大学の人という不思議なメンバーで書かれた本です。
実は,岡内三眞先生の「考古学論文の書き方」という文章が存在します。一読をお薦めします。ただ,この文章は,「この文章を岡内先生に書かせた背景にはどんな状況があったんだろう」と想像力を刺激するので,読むと邪念が湧いてしまいます。え?どういう意味かって?だから,読んでみてくださいよ(^^。
岡内三眞,1993,「考古学論文の書き方」,遡航第11号,東京,早稲田大学大学院文学研究科考古談話会,49-58

それでも,この夏以来(……と言っても今も夏みたいな天気ですが),トンデモ論文やトンデモ本(ただし,プロの学者が書いたもの)探しに走ってまして,ある国立大学所属の歴史学者が書いたひどいトンデモ本を見つけたのですが,ひどすぎてネタにできないでいました。そうしたところ,最近南河内考古学研究所では,活字版論文をHTML版にするとき,尾注(おしまいの方にまとめてつける注)をハイパーリンクで処理するのが一苦労と聞きました。そこで,今回は「注」の話題を中心に,論文の書き方を考えてみましょう。

「注」には「註」という用字もありますね。
これは本来「注」字が正しかったところ,宋学者が「註」字を用いたために「註」字も使われるようになったと言うことです。私はどちらかというと「註」字を主に使ってきましたし,業界では「註」字を好む人が少なからずいるようですが,この話では「注」字を用いることにします。
「尾注」については後篇でご説明します。

へぇー。そうなんだぁ。
当サイトの著作集にはそんな苦労ないですよ。だって,注がないから。まぁ,補注はつけたことがありますが。

尾注がないと楽ですよー。まず,書くのが楽,次に校正が楽(この効果は大きい),読むのも楽(字が小さくならないから老眼の人にも優しい^^),ついでにHTML化の時にも楽だったのかぁ……いいことずくめですね(^^。

私も以前は尾注をつけてたことがあるんですよ。たとえば卒論。尾注がやたらに多くて,本文はほぼ規定(100枚程度)どおりになってるんですが,その後に尾注と文献リストが延々続いて,読みにくいったらありゃしない。自分の論文でなかったら,ネタにして酷評してやる〈笑〉。

最近でも『朱雀』では尾注がついてますが,これは共同執筆(^^;……なぜ「^^;」なのかは『朱雀』第11集の原本を見てね^^)ですし,雑誌側の方式にしたがったものですが,参考文献の提示にほぼ限られてますからから,例外といったところでしょう。

さて,朱雀は別として,なぜ卒論のときにつけていた尾注がその後なくなったのか,その経過を振り返ってみます。

あれは卒論を全面改稿(ソウル夢村土城出土土器編年試案)していたころだったと思います(あるいは修論のときだったでしょうか,いずれも同じころ−1992年−ですが)。私は紛れもなく自分が書いた大量の尾注にすっかり困っていました。自分のつけた尾注に困っていれば,世話はありません(^^;ゞ。

そこで,自分がつけている尾注を見渡して,どうも,「どんな内容の話が尾注にまわされるか」の基準がいい加減だなと感じましたので,本当に必要な尾注か,個別にチェックしてみました。

この際だから,言っても言わなくてもいい,アリバイ工作のような尾注は一切省きましょう.あれも,これも,それも……。あ,けっこう多いですね。

それから,本文で言ってもいいことや,まして,本来は本文で言うような重要なことは,本文にできるだけ繰りこみましょう。そうすると,今度はこれも,これも,これ,も,……
あ,あれ〜!?

気づいたら,尾注がひとつも残ってませんでした。何ページもわたって続いていたはずの尾注は,注として残しておく価値のないものばかりだったのです(文献は別の形で載せていた)。


それならと,それ以来私は尾注をつけないようにしていました。補注は時々つけますけど。せっかく尾注をなくしても,なんだかんだで書き忘れなどがあって,つい補注が必要になっちゃうんですよね。

しかし,そうすると,尾注って何のためにあるんでしょう?どういうことを書けばいいんでしょう。私にはよくわからないですね。本文に書くほどじゃないけど,書かずにすますわけでもないこと,って何でしょう。

う〜ん。わからん。これまで,いろんな論文に尾注がついてても,「そういうもの」と思っていましたが,書く側になってみて,すっかり困ってしまいました。注ってなんでしょう。本当に必要なんでしょうか。

やたら数の多い尾注とか,ほとんど1本の研究ノートになりそうな長大な尾注とか,本文に書いてもよさそうな論旨が展開している尾注とかは,いったい何なんでしょう。すっかり本文と注の協奏曲と化しています。昔,小学館の『コロコロコミック』のページの端に書いてあった「立体編集」とかいう意味不明のコピーは,ひょっとしてこういう状況を言うのでしょうか。

ただ,私も卒論のころはそういうのを目指していたフシもあるから,エラソーなことは言えないんですよね(^^;ゞ(言ってるけど)。

なるほど,これぞ注だ……という珠玉の注はどこにあるのでしょう。

後篇は,「注」とはなにか,という固〜い話から始めることとしましょう。


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