考古学のおやつ

あこがれの松菊里・後篇

萬維網考古夜話 第54話 11/Apr/2000

もう,前回から40日経ってしまいました。少しだけ余裕もできたので,何とか後篇をお話しすることにします。

ご存じのように,『突帯文と遠賀川』というものすごい本も出たことですし,あまり目新しいネタも持っていないんですが,私もこの間の九阪で,延髄のあたりにがついてしまったというか,専門外の話だからといって定説に安住してもいられないなという気がして,ついつい話し始めてしまいましたので,一応の区切りはつけておこうと思います。そんなわけで,前回のような九阪直後の過熱気味の文とはちょっとつながりが悪いのですが……(^^;ゞ。


さて,前回,同じ松菊里の名を冠していても,松菊里型住居松菊里型土器とでは時期が違う,という,頭が混乱しそうな話になったところで,1か月半も放置してしまいました。

そもそも,なぜ時期の違う住居と土器に同じ松菊里の名が付いてしまったのでしょうか。端的に言って,同じ遺跡から出たからですが,さらにその背景には,弥生文化の成立を説明するなにものかを見出そうとする研究者の姿がありました。

かつて,南朝鮮の無文土器編年は前期(孔列文土器)と後期(粘土帯土器)に分けられていました。

忠清南道扶余郡・松菊里遺跡では,特徴的な器形の土器,松菊里型土器が出土していましたが,その報告書〔姜仁求ほか1979〕が刊行されると,藤口健二さんは,松菊里型土器が無文土器の前期と後期の間に入る土器と考え,「松菊里I〜III式土器」に編年し,欣岩里III式と松菊里I・II式によって無文土器中期を設定されました〔藤口1986〕。

このとき藤口さんは,無文土器中期が夜臼式から弥生前期前半にかけてと並行すると考え,これによって弥生文化の成立を説明できると期待しておられたようです。つまり,後藤直さんが

(藤口編年は)「弥生文化成立期に平行する時期を中期として限定できる点で評価できるが今後の検証が必要である」〔後藤1987:356〕

と評されたように,弥生文化成立過程の重要な段階,弥生早期の認識に深く関わっていたのでした。

一方,中間研志さんは1987年に松菊里型住居に関する論文を発表されましたが,ここでは,松菊里型住居に夜臼式〜板付I式ころの社会の変化を説明する役割が期待されていたように思われます。

なお,この論文では「日本例を『松菊里型住居』と呼んでおく」と断っておられること(その後,韓国でも松菊里型住居の細分がなされている現状では,日本のものを「江辻型住居」と呼んで名前を分ける案も魅力的)や,韓国の松菊里型住居(中間さんの用法に従えば「朝鮮半島に見られる類例」)での出土土器にあまり細かく触れておられない(松菊里型土器という言葉が登場しない)ことにも,注意しておくべきでしょう。

ここで,藤口さんの論文の方を振り返ると,こんな言葉があります。

(松菊里遺跡の)「住居址はすべて小型で,いずれも松菊里型土器の時期に属し円形住居址と長方形住居址は地点を異にして分布する。さらに両形態の住居址とも同一地区内で互いに主軸方向を異にし,時期差を反映している。」〔藤口1986:154〕

この「円形住居址」が松菊里型住居で,藤口さんが松菊里型土器と同時期として捉えていたことがわかりますが,その一方で,住居の形態や主軸方向,分布などで住居をいくつかの時期に分離できそうだという見通しを持っておられたことも窺えます。

さて,松菊里型土器が弥生早期に並行しそうだという藤口さんの考えと,松菊里型住居が弥生早期ごろに登場するという中間さんの考えが,それぞれの関心から導き出されました。ここまでは,同じ遺跡名を関していて紛らわしいものの,一人で両方の言葉を使っているわけではありません。

時系列としては前後するのですが,1986年には『岩波講座 日本考古学6 変化と画期』も刊行されました。

ここでは松菊里型住居松菊里型土器が一連の文章の中で登場します。この論文の第4章は「農耕の伝来」というタイトルですが,この章の3分の2は松菊里遺跡の紹介で,その中では,松菊里遺跡のものについて松菊里型住居という言葉を用い〔後藤1986:160〕ています(中間さんの論文が刊行されるより早い)。そして,「出土遺物は松菊里型土器と石器である。」という言葉もみられます〔後藤1986:160〕。

実はこの文でも,松菊里型住居松菊里型土器を一つの文化の別側面として積極的に評価するような論調ではないのですが,しかし,これを読んだ人は,松菊里と言う文化的なまとまりが厳然と存在するように受け取ったのではないでしょうか。


ただ,こうして学史を追っていくと,どうしても解せない部分があります。どうして,ほかの遺跡ではなく,松菊里遺跡に弥生早期を説明するなにかを寄ってたかって求めたんでしょう?「松菊里,松菊里」とうわごとのように言っている人にはわからないかも知れませんが,私みたいにひねくれた考えの者から見ると,これは不思議で仕方がないのです。

どうもその理由は,「松菊里」を冠していない部分に潜んでいるような気がします。松菊里遺跡が注目され,報告書刊行以後に松菊里の名を冠した概念が登場したのは,松菊里遺跡以前に存在した何かが,松菊里遺跡への期待を呼び起こしたからではないでしょうか。そしてそれは,石器ではないのかと思うのです。

考古学者が「あれも松菊里,これも松菊里」と言い出すより以前に,日本に大陸系磨製石器がどの段階で出そろうのか,また,それは起源地である朝鮮半島で,どの時点までに準備されるのか,という関心がまずあって,松菊里遺跡がその関心に応えるということがわかったとき,松菊里遺跡にみられる住居土器を,大陸系磨製石器の登場ごろに引きつけて考えるような機運を生んだ,と思えてならないのです。というのも,松菊里遺跡を重視する論文の中には,決まって石器に対する言及があるものですから。

この上,石器の学史まで調べる元気はないので,専門の方にお任せするとして,おもいつきだけをお話ししておきました。

さて,こんな具合で,松菊里の名に弥生文化の初源を説明する役割が期待される雰囲気にだんだんとなってきたわけです。

一度図式が固まってしまうと,あまり細かいことは気にされなくなるようで,現場の包含層から出た時期のわからない変な土器でも,

「これは松菊里型土器だ!だからこの集落は非常に古い農耕集落なンだ!!」

言挙げさえしてしまえば,もうだれも文句が言えない(と,言った本人だけが思っている)という風潮を生んだのです(←ちょっと誇張)。

ところが,1990年に休岩里遺跡の報告書が刊行される〔尹武炳ほか1990〕と,早くも翌年には,同じ名の住居土器の時期が異なるという後藤さんの研究が発表されました。

さらに家根祥多さんは藤口さんの編年を「欣岩里式と松菊里式とのヒアタスに気付かずに両者を連続して捉え」た結果〔家根1997:43〕として,孔列文土器と松菊里型土器の間の時期の土器型式(前回先松菊里型土器)の実態が明らかとなりました。


一応,前回の話に何とかつなげることができました。でも,まだまだ話せることがあるような,話そうとすると,また準備が大変なような……。こういうのは,だれか卒論ででもやってくれ,と思うのですが,いろいろと情報提供をしてくださる方もいらっしゃることですし,もし,余力があれば,次回,もう1回松菊里の話をします。


[第53話 あこがれの松菊里・前篇|第55話 高天原はなかった|編年表]
白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2000. All rights reserved.