考古学のおやつ

高天原はなかった

萬維網考古夜話 第55話 18/Apr/2000

松菊里の話をすると,アクセスが少ない割にはコメントを頂くことが多いですね。それも,「白井の言うのはおかしい」とか,「従来説のこの部分は正しい」とかいうのは全くなくて,「もっとこんな情報もあるよ」とか,「こんな攻め方はどう?」とか,「てぬるい!」とかいうのばっかりなんですけど。いったい,従来説って何だったんでしょう?
それとも,あれかな?
もう,まともな神経の人はこのコラムを見てないってこと(^^;?それはそれで,安心していろんな話ができるけど\(^^)/。


むかぁし,むかし……。

此の豊葦原の瑞穂の國は,汝(いまし)知らさむ國ぞ

ここに,松菊里型住居松菊里型土器,大陸系磨製石器という三種の神器を携えた松菊里のミコトが天降ったのです。そして,

此地は韓國(からくに)に向ひ,笠沙の御崎を眞來通りて,朝日の直刺す國,夕日の日照る國なり。故(かれ),此地は甚(いと)吉き地

と言ったとか言わないとか。

おかげでもう,「松菊里のミコトが降り立った高千穂の峰はこれだ!」「いや,そっちじゃない,こっちだ!」と誘致合戦の激しさといったら,山梨県立博物館も真っ青の大騒ぎです。
でも,だれも松菊里のミコトの実在を疑おうとしません。だって,ミコトがいなかったら,ご同類たちとの楽しい口げんかもできなくなってしまうから。みんな,ミコトを崇める気持ちだけは一致しているのです。あ〜,気持ち悪い(--;。

それにしても,「松菊里」が頭に着く言葉はいくつあるのでしょうか。思いつくだけでも,松菊里型住居松菊里型土器松菊里式土器松菊里石棺墓松菊里型甕棺……,いや,もっとあるかな?
私も命名してみましょうか。松菊里型高句麗系百済土器とか。
せっかく命名するからには,松菊里の名を冠したほかのものと同時期だと誤解するのがお約束ですよ(:-P。

松菊里型住居松菊里型土器の時期が違う,ということはお話ししました。ですから,両者を一つの文化の両側面と捉え,しかも弥生早期の認識と見えないところでつながっている無文土器中期という概念も,当然危うくなってきています。中期をやめてしまうというのも一案かも知れません。
というのも,松菊里型土器=無文土器中期,孔列文土器=無文土器前期という考えのために,顧みられなくなってしまう資料がありそうなんです。
福岡市博多区・雀居(ささい)遺跡の無文土器は夜臼単純期の溝に大洞C2式土器と無文土器が入っているという重要資料〔松村(編)1995:50-51〕ですが,松菊里教の信者たちは,取りあげようとしません(都合が悪いのかな?)。

一方,松菊里型土器が夜臼単純期から厳然と存在すると信じている人は読み飛ばしたかも知れませんが,無文土器の出土例を集成した片岡宏二さんも,板付II式並行で出土する「松菊里型土器」の方が,オリジナルの松菊里型土器に似ていると認めておられます〔片岡1998:209〕。

では,それ以前の,あるいは各地の,オリジナルに似てない「松菊里型土器」とは何か。それは,松菊里のミコトを誘致するために動員された資料にほかなりません。つまり,並行関係が先に決められていて,それに合うような土器が求められているからです。信者たちは予言実行部隊だったんですね。


話を朝鮮半島に戻して,松菊里型土器について,その成立過程は,前々回前回で話題にした家根祥多さんの業績を軸に検討が進めばいいとして,終わりの方,粘土帯土器との関係が気になります。前々から,一部並行するのか単純期をなすのか,議論があるようですが,どうも松菊里型土器と粘土帯土器のつながりがよくわかりません。

以前,底部穿孔土器を調べたとき,集落出土の松菊里型土器に,底部穿孔例がなかなか見つからなくて苦労しました。慶尚道では,前期無文土器でも粘土帯土器でも住居跡から底部穿孔土器があるのに。単に類例を探し損なっただけか,それとも,何か文化的な違いがあるのか……。もし後者だとすれば,前期無文土器と粘土帯土器の間に松菊里型土器が挟まったらおかしいですよね〔白井1997〕。

第一,松菊里型土器の分布は朝鮮半島西南部に偏っていて,粘土帯土器の分布とは少しずれます。最近では,松菊里型土器中島式土器,さらに馬韓の領域が重なるという事実を指摘して,ここに一つの流れを見出そうとする意見もあります。
これまでの編年は,いわば“輪切り編年”でして,時期を設定されるとマインドコントロールにかかるという考古学者の弱点にみごとにハマっていたわけです。

と,ここまでは私も前から変だなぁと思っていたことですが,次の話は,複数の方から情報を頂きました。松菊里型住居に関する話です。

2月26日・27日に開催された第10回九州縄文研究会 九州の縄文住居で,これまで松菊里型住居と呼んできたような住居跡がたくさん報告されたのです。それも,従来言われていたよりも古い,縄文後期とかの例が。先日,やっと資料集を入手した(雨の中,箱崎の三月書房まで買いに行った)のですが,……う〜ん,ホントに載ってますねぇ。こんなに古いと,朝鮮半島の松菊里型住居よりも古くなるんですから,これ,松菊里教の信者さんからは●●●の陰謀とでも言われちゃいそうです。

そもそも,松菊里型住居の朝鮮半島での存続期間が短いと言うことがわかった時点で,これは何か特殊な状況下で顕在化するような遺構なのではないか,という,機能主義的な解釈を導こうとする機運が,少しはあったような気がするんですが,いつの間にか伝播論に傾斜して元の木阿弥の松菊里教になってしまったという経緯があるわけです。弥生研究者は一本取られた,というところではないでしょうか。

そんなわけで,松菊里のミコトの三種の神器から,松菊里型住居松菊里型土器ももぎ取られてしまいましたから,松菊里教の神学論争もそろそろ……。え?そうもいかない(^^;?


先日,時間稼ぎの小ネタに使わせていただいた兵庫県尼崎市・東武庫(ひがしむこ)遺跡の2号方形周溝墓ですが,ここの周溝から出た松菊里型土器は,胎土が地元のものと同じで,舶載品ではないそうです〔山田(編)1995〕。これについて,中村弘さんは,

時期は弥生時代前期に属し,畿内第I様式新段階に位置づけられるものである。この時期には,近畿地方においても粘土帯土器の影響を受けた土器が出現しており,年代的に中期無文土器まで遡らせることは困難である」〔中村1996:5〕

と,従来の無文土器編年を意識した上での困惑を表明されました。一方,大阪市立博物館(2001年3月31日閉館)の「大陸文化へのまなざし」展では,東武庫の甕と似たものが慶尚南道泗川市・勒島遺跡〔釜山大学校博物館(編)1989〕にあるから,後期無文土器かも知れないと,齟齬を解消しようとしています。ところが先日の九阪での竹村忠洋さんのご発表では,土器の年代や胎土の所見が報告書とは違っていて,従来説の松菊里型土器と,より近いものであるかのようになっていまして〔竹村2000:230〕,もう,訳がわかりません(^^;ゞ。

先日発刊された『突帯文と遠賀川』にも,「無文土器系土器」に関する論文があります。東武庫遺跡の松菊里型土器を中心に据えているわけではないですが,少しだけ言及されています。

内容はお読みいただくとして,無理やり要約すると,これまで諸見解が示されている近畿地方の「無文土器系土器」について,それらが具えている考古学的事実を洗い出して,現状でどこまで言えるか,を提示しておられ……え?そんな研究は当たり前だって?その当たり前が当たり前じゃなかったから,今みたいなことになってるんじゃないですか?

神話から歴史へ。その途を拓くには,従来の歴史観にとらわれずに,目前の考古学的事実を見据えることが必要のようです。そして,多士済々の考古学業界,その上,弥生研究者以外も,日々現場で考古学的事実に接しているわけですから,新解釈の第一歩は,すでに誰かが踏みしめているかも知れません。


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白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2000-2007. All rights reserved.