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九州帝國大學朝鮮考古資料の収集経緯

出典:『九州考古学』第71号:福岡・九州考古学会(1996),90-103頁

資料調査を継続できない事情が生じ,総論篇として全体像を記したもの。実測図がまったくなく,収集経緯の分析に終始している。

つまみ食い的な紹介よりも,悉皆性を優先すべきとの考えによるものであるが,問題も残る。本稿の後にいくつかの機関を調査して知ったのは,戦前の福岡県では,旧制中学・高校でも身近な地域での表面採集などが行われており,その伝統は戦後の新制高校にも引き継がれているという事実である。九州帝国大学の朝鮮半島踏査は,その結果の,しかもごく一部であって,これだけを切り取って論じるのは勇み足であった。(18/Apr/2002)

要旨

本稿は,旧制・九州帝國大學國史學研究室が収集した朝鮮考古資料の全体像を概観し,その収集経緯を推定したものである。残された記録から,1930年代に計画的な古瓦収集が行われ,鏡山猛がその整理に当たったことがわかった。鏡山の努力は,彼と彼の後継者の研究の基礎となったと考えられる。

キーワード:朝鮮考古学,考古学史,鏡山猛,軽部慈恩,古瓦

目次


1.はじめに

筆者は現在,九州大学考古学研究室(以下,考古学研究室)所蔵の朝鮮考古資料を調査中である。これらのうちに「九州帝國大學法文學部國史研究室」と印刷されたカード(以下,九帝大カード)を伴うものがあり,國史學研究室(こちらが正式名称)による採集経緯をある程度知ることができる。

筆者は,

を,「九州帝國大學朝鮮考古資料」と仮称する。戦前に朝鮮半島で採集されたと推定されるものでも,九帝大カードが伴わないものは最終的に研究室にもたらされた時点が確定しないので,「九州帝國大學朝鮮考古資料」とは呼ばない。九帝大カードが日本出土資料(弥生土器など)に与えられた例もあるが,それらも本稿の関心外とする。

これまで筆者は,九帝大カードに示された採集経緯を充分に把握せぬまま資料を提示しており,資料の由来については不明瞭な説明にとどまっていた。そのため無用の憶測や誤解を生じた部分もあるらしい。一方,現在進行中の九州大学移転事業に対応するため,所蔵資料の再把握の動きが生じているようであり,全体像を明らかにしておく必要があると考えられる。

本稿では,九州帝國大學朝鮮考古資料の来歴を語る九帝大カードの記述から採集経緯を推定する。これにより,現在も調査継続中の同資料の全体像も表現されるであろう。


2.資料−九帝大カード−

九帝大カードは,「番號」「部門」「品目」「發見地」「發見年月日」「購入|寄贈|採取」「備考」の7つの欄からなる。「番號」と「部門」は,記載当初には空欄のままである。

資料の提示に当たり,筆者は九帝大カードに仮のカード番号を与え,カードに対応する遺物群にも,カード番号に応じて資料群番号を与えた。これらは便宜上設定したものなので,実際のカードや対応資料にこの番号が記されているわけではない。また,一部の遺物には戦後の考古学研究室により白色の数字が注記されており,これを「九大番号」と呼ぶ。遺物を個体別に記述する際には「軒丸瓦172」のように器種名と九大番号を併せ用いる。九帝大カードの「番號」や「備考」欄にナンバリングされたアラビア数字(以下,斜体で表記)は,戦後の九大番号の注記に対応する。したがって,九帝大カードの記載には,國史學研究室によるペン書きと,考古学研究室によるナンバリングとがある。さらに,遺物にラベルが貼付されている場合がある。重複関係からみて,九大番号よりも遅い時期に,公開・展示の都合から貼られたと考えられるものは,本稿では言及しない。

旧帝大カード

カード1

番號140
部門(空欄)
品目疏瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群1は軒丸瓦1点である。九大番号140が注記されている。墨書による注記はない。

カード2

番號144
部門(空欄)
品目疏瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群2は軒丸瓦1点である。九大番号144が注記されている。墨書による注記はない。

カード3

番號139
部門(空欄)
品目疏瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群3は軒丸瓦1点である。九大番号139が注記されている。墨書による注記はない。

カード4

番號137
部門(空欄)
品目唐草瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群4は軒平瓦1点である。九大番号137が注記されている。墨書による注記はない。

カード5

番號141
部門(空欄)
品目唐草瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群5は軒平瓦1点である。九大番号141が注記されている。墨書による注記はない。

カード6

番號147
部門(空欄)
品目鬼瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群6は鬼瓦1点(鼻から上顎にかけての部分)である。九大番号147が注記されている。墨書による注記はない。

カード7

番號148
部門(空欄)
品目
發見地朝鮮慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取竹岡教授
備考(空欄)

資料群7は空心磚1点である。注記はない。

カード8

番號157
部門(空欄)
品目華瓦
發見地慶州
發見年月日(空欄)
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

資料群8は軒丸瓦1点である。九大番号157の注記と墨による「慶州」の注記がある。

カード9

番號150
部門(空欄)
品目疏瓦。新羅一統時代。
發見地慶尚南道慶州。
發見年月日昭和五年七月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

「慶尚南道」は「慶尚北道」の誤りである。

資料群9は軒丸瓦1点である。採集者は不明だが,九州帝國大學朝鮮考古資料のうち,採集時期の判明する最古の遺物である。九大番号150が注記されている。墨書による注記はない。

カード10

番號154
部門(空欄)
品目唐草瓦。新羅一統時代。
發見地慶尚南道慶州。
發見年月日昭和五年七月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

「慶尚南道」は「慶尚北道」の誤りである。

資料群10は軒平瓦1点である。採集者は不明だが,九州帝國大學朝鮮考古資料のうち,採集時期の判明する最古の遺物である。九大番号154が注記されている。墨書による注記はない。

カード11

番號(空欄)
部門(空欄)
品目(空欄)
發見地慶尚南道金海郡金海貝塚
發見年月日昭和六年七月六日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

資料群11は金海会峴[山見]里貝塚で採集された無紋土器甕2個体4片である。注記はない。2個体とも甕底部であるが,一方は円形の穿孔があり,他方は胴部外面が下端を除いて被熱赤化しており,2個体がセットの炊飯具であるなら,住居址出土品であろう。資料紹介準備中である。

カード12

番號(空欄)
部門(空欄)
品目(空欄)
發見地慶尚南道金海郡亀旨峯
發見年月日昭和六年七月六日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

資料群12は陶質土器壺1点である。注記はない。資料紹介準備中である。

カード13

番號171
部門(空欄)
品目平瓦破片
發見地朝鮮慶州皇龍寺址
發見年月日昭和七年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考銘入り「大」か

「發見地」は,「芬皇寺」の「芬」を「皇」に,「皇」を「龍」に書き改めている。

資料群13は平瓦1点である。九大番号171と,墨による「皇龍寺址 一千九百三十二・十・十七」の注記がある。「大」の押捺銘がある。

カード14

番號170
部門(空欄)
品目雄瓦
發見地朝鮮慶州皇龍寺址
發見年月日昭和七年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考銘入り「田」か

「發見地」は,「芬皇寺」の「芬」を「皇」に,「皇」を「龍」に書き改めている。

資料群14は丸瓦1点である。九大番号170の注記と,墨による「皇龍寺 昭和七・十・十七」の注記がある。「田」の押捺銘がある。

カード15

番號168
部門(空欄)
品目平瓦
發見地朝鮮慶州
發見年月日昭和七年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考銘入り「習部」

資料群15は平瓦1点である。九大番号168が注記されている。「習部」の押捺銘がある。

カード16

番號169
部門(空欄)
品目平瓦破片
發見地朝鮮慶州四天王寺址
發見年月日昭和七年十月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

同時期に皇龍寺を踏査した鏡山猛が,採集者と推定される。

資料群16は平瓦1点である。九大番号169が注記されている。墨書による注記はない。

カード17

番號165-166
部門(空欄)
品目疏瓦
發見地慶州南山
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取田中満
備考(雄瓦)

「雄瓦」は「雌瓦」を書き改めている。

資料群17は軒丸瓦,丸瓦各1点である。九大番号は軒丸瓦に165,丸瓦に166が注記されている。軒丸瓦165外面に「慶州南山」,丸瓦166内面に「南山」の墨書による注記がある。

カード18

番號164
部門(空欄)
品目唐草瓦
發見地慶州南山
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取田中満
備考(空欄)

資料群18は軒平瓦1点である。注記はない。

カード19

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器破片
發見地慶州南山
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

同時期に南山を訪れた田中満の採集であろう。

資料群19は新羅土器12点,緑釉陶器2点,陶器2点,青磁2点,粉青沙器1点,白磁4点である。注記はない。陶質土器と緑釉陶器について既に報告した〔白井1995b〕。

カード20

番號161
部門(空欄)
品目平瓦「習部」
發見地朝鮮慶尚北道慶州郡慶州
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

資料群20は平瓦1点である。九大番号161が注記されている。墨書の注記「慶州」がある。平瓦161には「習部」の押捺銘がある。

カード21

番號162
部門(空欄)
品目平瓦「 」字入り
發見地朝鮮慶尚北道慶州
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

資料群21は平瓦1点である。九大番号162の注記と,墨で「産地不明 臨海殿附近カ」の注記がある。「 」の押捺銘がある。

カード22

番號172-178
部門(空欄)
品目
發見地慶州
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

資料群22は軒丸瓦3点,軒平瓦1点,平瓦3点,陶質土器2点(底部片と有足杯足部)である。九大番号は瓦のみに与えられ,軒丸瓦に172〜174,軒平瓦に175,平瓦に176〜178が注記されている。軒丸瓦173,軒丸瓦174に「皇竜寺」,軒平瓦175に「皇龍寺跡採集」,平瓦177に「慶州四天王寺跡」,平瓦178に「慶州四天王寺」,平瓦176に「臨海殿跡附近採集」,陶質土器2点に「慶州月城下」と,墨による注記がある。

カード23

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器
發見地慶尚南道釜山府牧島瀛仙町貝塚
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群23は櫛目紋土器数点と漁網錘である。九大番号はない。一部に墨書で「ゴヤ里」と注記されている。

カード24

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器
發見地慶尚南道釜山府牧ノ島瀛仙町貝塚
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群24は櫛目紋土器数点である。九大番号は注記されていない。

カード25

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器破片(百済時代)
發見地朝鮮忠清北道扶餘郡扶餘面
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

「忠清北道」は「忠清南道」の誤りである。

資料群25は陶質土器10点,陶器2点である。九大番号はない。墨書で「錦城山」や「扶蘇山城」と注記されたものがある。遺物はすべて小片であるが,新羅土器は百済滅亡(660年)直後の遺物と推定される。以前,陶質土器10点と陶器1点について報告した〔白井1994〕。

カード26

番號200-206
部門(空欄)
品目百濟瓦
發見地忠清南道扶餘郡扶餘
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群26は軒丸瓦3点,平瓦4点である。九大番号200〜206が注記されている。軒丸瓦201に「錦城山」「フヨ錦城山」,軒丸瓦202に「扶餘西馬山城阯」,軒丸瓦204に「西馬山城」,平瓦200に「扶餘」,平瓦206に「扶ヨ」の墨書による注記がある。「西馬山城」は扶余東郊の「青馬山城」の誤りであろう。

カード27

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器破片(三島手共他)
發見地朝鮮忠清北道扶餘郡扶餘面
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

「忠清北道」は「忠清南道」の誤りである。同時期に扶余を訪れた鏡山猛の採集であろう。

資料群27は粉青沙器13点である。九大番号はない。2点に墨書の注記「錦城山」がある。

カード28

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器破片
發見地朝鮮忠清北道扶餘郡扶餘面
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取(空欄)
備考(空欄)

「忠清北道」は「忠清南道」の誤りである。同時期に扶余を訪れた鏡山猛の採集であろう。

資料群28は青磁・白磁11点である。九大番号はない。白磁椀に墨書の注記「フヨ」がある。

カード29

番號192
部門(空欄)
品目唐草瓦
發見地朝鮮忠清道公州郡公州西穴寺址
發見年月日昭和八年八月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群29は軒平瓦1点である。九大番号192が注記されている。瓦当面裏に墨書で「公州西穴寺」と注記されている。

カード30

番號(空欄)
部門(空欄)
品目土器及陶器
發見地忠清南道扶餘郡扶餘邑附近
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取長沼教授、鏡山猛
備考(空欄)

資料群30は百済土器2点,陶器1点,粉青沙器1点,青磁2点である。注記はない。陶質土器2点は以前報告した〔白井1994〕。

カード31

番號193
部門(空欄)
品目
發見地忠清南道扶餘郡扶餘羅城
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取長沼教授
備考194-199

「發見地」の「扶餘羅城」のみ,インクが濃く,事後の補筆らしい。筆跡は同一である。

資料群31は平瓦5点,丸瓦1点,蝋石製品1点である。九大番号は平瓦に193〜197,丸瓦に198,蝋石製品に199が注記されている。墨書による注記はない。平瓦・丸瓦にはすべて押捺銘があり,長沼が押捺銘のある瓦を選んで採集したことを推定させる。平瓦193・197には,同一原体によると思われる押捺銘「未斯」,平瓦195に方形押捺銘,平瓦196,丸瓦198に円形押捺銘,平瓦194に形状未詳の押捺銘がある。

カード32

番號187-188
部門(空欄)
品目雌瓦
發見地忠清南道扶餘郡羅城
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考189

資料群32は平瓦3点である。九大番号187〜189が注記されている。墨書注記はない。平瓦187には紙片が貼られており,次のように記す。

「新羅時代ノ瓦
出場 畳重山
時日 昭和八年五月八日」

「重畳山」の所在は明らかにできなかった。

平瓦187は内方からの分割截線を明瞭に残す。平瓦188,199には外面に押捺銘がある。

カード33

番號183
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群33は軒平瓦1点である。九大番号183が注記されている。墨書による注記はない。

カード34

番號181
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群34は軒平瓦1点である。九大番号181が注記されている。墨書による注記はない。

カード35

番號184
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群35は平瓦1点である。九大番号184が注記されている。墨書による注記はない。外面に矢羽根状のタタキが施されている。

カード36

番號179
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群36は軒丸瓦1点である。九大番号179が注記されている。墨書による注記はない。

カード37

番號185・186
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群37は平瓦2点である。九大番号185,186が注記されている。墨書による注記はない。ともに押捺銘がある。

カード38

番號182
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群38は瓦片1点である。九大番号182が注記されている。墨書による注記はない。

カード39

番號180
部門(空欄)
品目
發見地京畿道開城府満月台
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群39は軒平瓦1点である。九大番号180が注記されている。墨書による注記はない。

カード40

番號(空欄)
部門(空欄)
品目青磁破片
發見地京畿道開城府邑内
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取鏡山猛
備考(空欄)

資料群40は青磁,粉青沙器である。注記はない。

カード41

番號(空欄)
部門(空欄)
品目
發見地忠清南道公州郡公州面西穴寺阯
發見年月日昭和八年十月 日
購入|寄贈|採取軽部慈恩
備考(空欄)

九帝大への寄贈品であろう。後章で触れる。

資料群41は平瓦1点である。注記はない。外面に用いた叩き板に「寺」字が刻まれており,外面に反転陽出している。

カード42

番號(空欄)
部門(空欄)
品目青磁
發見地朝鮮京畿道開城府
發見年月日昭和九年八月 日
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

資料群42は青磁2点,白磁1点である。注記はない。

カード43

番號(空欄)
部門(空欄)
品目青磁
發見地開平壌
發見年月日昭和九年八月 日
購入|寄贈|採取檜垣元吉
備考(空欄)

開平壌は開城の意であろうか。

資料群43は青磁12点である。注記はない。


3.踏査の経緯

(1) 記入者の推定

九州帝國大学朝鮮考古資料は,鏡山猛により整理されたものであることが知られている。これはカードからも窺われる。

カードの字体は,整ったもの,幾分崩れたものがあるが,「昭和」の「和」などをみると,基本的に同一筆跡である。同一人物が別時期に記入したとみてよい。また「竹岡教授」・「長沼教授」の記述から,彼らを特に職名をで呼ぶ立場にあった人物が記入者である。さらに,丁寧な楷書の文字(あるいは幾分行書化した文字)が多い中,「鏡」と「猛」のみ独特の崩し癖が見られ,記入者が「鏡」や「猛」を日常的に書き記す人物であったことを示している。

(2) 空欄の推定

前章で提示した九帝大カードから踏査の過程を導き出すに当たって,「發見年月日」や「購入|寄贈|採取」が空欄のものは資料として扱いにくい。しかし,ほかのカードとの比較から,これらについても推定が可能である。

「發見年月日」が空欄のカードは1〜8の8枚である。このうち資料群1〜7はすべて「竹岡教授」の慶州での採集資料であり,カード1枚に1点が対応し,墨書注記はなく,カードの整った筆跡も同様である。これらは同時にカードが作成・整理されたと考えられ,時期的にはもっとも遡るとみたい。残るカード8は檜垣元吉の慶州採集資料だが,九帝大カードでの檜垣の登場は1933年8月の慶州と1934年8月の開城であるから,カード8も1933年8月と考えられる。

「購入|寄贈|採取」が空欄のカードは9〜12,16,19,27,28の8枚である。資料群9〜12は採集活動の初期のものである。特に資料群9,10は九帝大カード1枚に対し慶州採集の瓦1点を納め,墨書注記がないことが,「竹岡教授」収集品(カード1〜7)に共通するので,竹岡の収集品かとも考えられるが,採集時期の判明するものに限って竹岡の名を書きもらすというのも解せない。資料群11,12も採集者が特定できない。資料群16は1932年慶州採集の瓦1点であるから,やはり1932年慶州採集の瓦1点ずつである資料群13〜15と同じく,鏡山採集品と推定できる。資料群19は1933年8月慶州・南山採集の新羅土器など,資料群27,28は同じく1933年8月扶余採集の粉青沙器,磁器などであるが,この月には,田中満が慶州・南山(17,18),檜垣元吉が慶州市街(20〜22),鏡山猛が釜山(23,24)・公州(29)・扶余(25,26)を訪れたことが九帝大カードから知れるので,地域を分担したと考えれば,資料群19は田中,27,28は鏡山の採集品と考えられる。

(3) 踏査地域の推移(Tab.1)

Tab.1 時期別の採集地・採集者
時期採集地カード・資料群踏査者
1930.07.慶州9,10(空欄)
1931.07.06金海・会峴里貝塚,亀旨峯11,12(空欄)
1932.10.17.慶州・皇龍寺13〜15鏡山猛
1932.10.慶州・四天王寺16〈鏡山〉
1933.05.08.畳重山32鏡山猛?
1933.08.慶州・南山17,18(,19)田中満
1933.08.慶州・皇龍寺,四天王寺,臨海殿,月城20〜22(,8)檜垣元吉
1933.08.釜山・瀛仙洞貝塚23,24鏡山猛
1933.08.扶余・錦城山,扶蘇山城,青馬山城25,26鏡山猛
1933.08.扶余27,28〈鏡山〉
1933.08.公州・西穴寺29鏡山猛
1933.10.扶余30長沼,鏡山
1933.10.扶余・羅城31長沼賢海
1933.10.扶余・羅城32鏡山猛
1933.10.開城・満月台33〜39鏡山猛
1933.10.開城・邑内40鏡山猛
1933.10.公州・西穴寺41軽部慈恩
1934.08.開城42檜垣元吉
1934.08.開平壌43檜垣元吉

採集活動を年代順に並べると,ほぼ南から北へ行動範囲が推移している。1934年8月以降に踏査が行われていたなら,平壌,さらに集安に及んだかも知れない。カード43の「開平壌」は資料群42,43を対照して開城の意と推定したが,あるいは平壌であろうか。

(4) 調査地点の選定(Tab.2)

Tab.2 地点別の採集時期・採集者
地域地点時期採集者カード・資料群
慶州皇龍寺1932.10.17.鏡山猛13,14
1933.08.檜垣元吉22
四天王寺1932.10.〈鏡山〉16
1933.08.檜垣元吉22
臨海殿1933.08.檜垣元吉20〜22
月城1933.08.檜垣元吉22
南山1933.08.田中満17,18(,19)
(不明)1930.07.(不明)9,10
1932.10.鏡山猛15
(不明)竹岡教授1〜7
公州西穴寺1933.08.鏡山猛29
1933.10.軽部慈恩41
扶余扶蘇山城1933.08.鏡山猛25,26
錦城山1933.08.鏡山猛25,26
青馬山城1933.08.鏡山猛25,26
羅城1933.10.長沼賢海31
1933.10.鏡山猛32
(不明)1933.10.長沼,鏡山30
1933.08.〈鏡山〉27,28
釜山瀛仙洞貝塚1933.08.鏡山猛23,24
金海会峴里貝塚1931.07.06(不明)11
亀旨峯1931.07.06(不明)12
開城満月台1933.10.鏡山猛33〜39
邑内1933.10.鏡山猛40
(不明)1934.08.檜垣元吉42,43

採集地点は,金海や釜山を除けば,慶州の新羅時代宮殿・古寺・仏跡,公州の古寺,扶余の山城・羅城,開城の高麗時代王宮跡と,瓦の散布地を選んでいる。瓦の採取が主目的だったことを窺わせる。檜垣元吉が青磁ばかり採集した回もあるが,全羅南道や仁川・広州を訪れておらず,青磁が目的とは思えない。

(5) 採集者ごとの特徴(Tab.3)

Tab.3 各人物の採集地と採集遺物
人名時期採集地採集品カード・資料群
竹岡教授(不明)慶州瓦各種,磚1〜7
鏡山猛1932.10.17.慶州・皇龍寺13,14
1932.10.慶州平瓦15
1932.10.慶州・四天王寺平瓦片16〈氏名空欄〉
1933.08.釜山・瀛仙洞貝塚土器23,24
1933.08.公州・西穴寺唐草瓦29
1933.08.扶余土器・瓦25,26
1933.08.扶余粉青沙器・磁器27,28〈氏名空欄〉
1933.10.扶余土器30〈長沼と連名〉
1933.10.扶余・羅城雌瓦32
1933.10.開城・満月台33〜39
1933.10.開城・邑内青磁片40
檜垣元吉1933.08.慶州・皇龍寺,四天王寺,臨海殿,月城瓦・土器20〜22
〈1933.08.〉慶州華瓦8〈時期空欄〉
1934.08.開城府青磁42
1934.08.開平壌青磁43
田中満1933.08.慶州・南山17,18
1933.08.慶州・南山土器19〈氏名空欄〉
長沼教授1933.10.扶余土器30〈鏡山と連名〉
1933.10.扶余・羅城31
軽部慈恩1933.10.公州・西穴寺41
(不明)1930.07.慶州9,10
1931.07.06金海・会峴里貝塚,亀旨峯土器11,12

竹岡教授」採集遺物はすべて慶州での採集品で,採集時期不明である。瓦が大半であり,カード1枚に遺物1点という対応関係も特徴である。新たに採集した遺物というより,すでに存在していたコレクションを整理した様相である。鏡山がこれらの整理を手始めに九州帝國大学での瓦調査を開始したとも考えられる。

鏡山猛の採集資料が最多であるが,瓦の散布地のほか,瀛仙洞貝塚を踏査したことが目を引く。1933年には2度朝鮮を旅し,10月のそれは長沼賢海に同行している。行動範囲も鏡山が最も広いが,1934年の採集資料は見られない。

檜垣元吉は鏡山と踏査時期が一部重なるが,1934までの採集資料が残されている。慶州と開城を訪れているが,慶州では瓦が中心,開城では青磁が中心という特色を持っている。

田中満は1933年8月のみ慶州・南山を踏査している。このときは檜垣の慶州市街,鏡山の釜山・公州・扶余と地域を分担したと考えられる。

長沼教授」は鏡山の師である長沼賢海を指す。長沼は1933年10月に鏡山とともに扶餘を踏査したのみである。1933年は,朝鮮半島踏査の最も盛んな時期であり,國史學研究室の人材を計画的に派遣していたさまが窺われる。

軽部慈恩は九州帝國大学や九州大学の関係者ではない。節を改めて述べよう。

(6) 軽部慈恩関係資料の意味

軽部は早稲田大学卒業後の1927年に公州高等普通学校に赴任し,1945年に帰国するまで公州を拠点に発掘・採集活動をしており,終戦で帰国した後は日本大学に勤務した。

資料群41は九州帝國大学朝鮮考古資料で唯一軽部が関わっているが,1933年10月の國史學研究室は扶余(長沼・鏡山)と開城(鏡山)のみを踏査している。公州を通過したにしても,この月の公州採集遺物は資料群41のみである。

軽部は公州西穴寺址と出土瓦について所論を発表しており〔1929a・b〕,カード41の「昭和八年十月 日」は,長沼・鏡山の踏査時に軽部が自己所有の西穴寺採集瓦を持参・寄贈したことを意味すると考えられる。

ところで,鏡山は同年8月すでに公州・扶余を訪れているし,九州帝國大学の名をもってすれば,朝鮮總督府や各帝國大学の学者などの援助を仰ぎえたであろう。九州帝大でも,朝鮮半島の案内人には事欠かなかったはずである。軽部は長沼・鏡山の案内役とは考えにくい。

また,軽部が1935年東京帝大に寄贈した遺物が東京大学考古学研究室に所蔵されており〔白井1993〕,このほかの研究機関にも,軽部の戦前の寄贈資料が所蔵されている由である。九州帝大への寄贈も,こうした寄贈活動の一環とみる方が合理的である。当時学界で権威のあった研究機関に手持ち資料を寄贈していた軽部は,九州帝大國史學研究室の長沼賢海が踏査を行うことを,1933年8月の鏡山の公州訪問で知り,10月に瓦を長沼に届けたのではあるまいか。

軽部は当時学界を牛耳っていた帝國大學の出身ではなく,植民地権力の中心からも外れていた。彼の盛んな発掘・採集活動や執筆活動,さらに寄贈活動は,彼なりの上昇志向の発露であったのかもしれない。

1945年の終戦時,軽部の収集資料は公州に残したとされているが,その行方は明かでない。國史學研究室への寄贈資料は,その動機・経緯に問題とすべき点があるとしても,戦前の寄贈のため現代に伝わった貴重な資料である。

(7)資料取り扱いの特徴(Tab.4)

Tab.4 遺物の取扱い
カード品目地名時期採集者点数墨書
1疏瓦慶州(空欄)竹岡教授1
2疏瓦慶州(空欄)竹岡教授1
3疏瓦慶州(空欄)竹岡教授1
4唐草瓦慶州(空欄)竹岡教授1
5唐草瓦慶州(空欄)竹岡教授1
6鬼瓦慶州(空欄)竹岡教授1
7慶州(空欄)竹岡教授1
8華瓦慶州〈1933.08.〉檜垣元吉1あり
9疏瓦慶州1930.07.(空欄)1
10唐草瓦慶州1930.07.(空欄)1
11土器金海1931.07.06(空欄)2
12土器金海1931.07.06(空欄)1
13平瓦片慶州1932.10.17.鏡山猛1あり
14雄瓦慶州1932.10.17.鏡山猛 1あり
15平瓦慶州1932.10.鏡山猛1
16平瓦片慶州1932.10.〈鏡山〉1
17疏瓦慶州1933.08.田中満2あり
18唐草瓦慶州1933.08.田中満 1
19土器慶州1933.08.〈田中〉21
20平瓦慶州1933.08.檜垣元吉1あり
21平瓦慶州1933.08.檜垣元吉1あり
22慶州1933.08.檜垣元吉9あり
23土器釜山1933.08.鏡山猛あり
24土器釜山1933.08.鏡山猛
25土器扶余1933.08.鏡山猛12あり
26百済瓦扶余1933.08.鏡山猛7あり
27粉青扶余1933.08.〈鏡山〉13あり
28磁器扶余1933.08.〈鏡山〉11あり
29唐草瓦公州1933.08.鏡山猛1あり
30土器扶余1933.10.長沼,鏡山6
31扶余1933.10.長沼賢海7
32雌瓦扶余1933.10.鏡山猛3(紙片)
33開城1933.10.鏡山猛1
34開城1933.10.鏡山猛1
35開城1933.10.鏡山猛1
36開城1933.10.鏡山猛1
37開城1933.10.鏡山猛2
38開城1933.10.鏡山猛1
39開城1933.10.鏡山猛1
40青磁片開城1933.10.鏡山猛
41公州1933.10.軽部慈恩1
42青磁開城1934.08.檜垣元吉3
43青磁開平壌1934.08.檜垣元吉12

資料の取り扱いを見ると,いくつかの特徴が看取される。まず,資料群ごとの個体数を見ると,土器・陶磁器は複数であることが大半であるのに,瓦の場合はカード1枚に1個体が対応することが多い。瓦の方を重視していたことはここにも窺われる。また,多数の瓦を1つの資料群にまとめているのは,1933年8月と10月に顕著であり,この時期が國史學研究室の採集活動の最盛期であることは偶然ではあるまい。

次に,墨書による注記は1932年10月と1932年8月の採集品に限られ,この時期に踏査に臨んだ鏡山,檜垣,田中の採集品はともに墨で注記されている。1932年10月以降カードの記載が完備されたものが多くなるところをみると,このころ踏査の方針・計画が明確化され,現地での注記を頼りにカードに記入するという方法が採用されたものと考えられる。こうした墨書注記は,1933年10月以降まったくみられなくなる。何らかの方針の変更が推定される。


4.おわりに

九州帝國大学朝鮮考古資料は,國史學研究室が瓦を計画的に採集・整理したものである。その中心人物であった鏡山猛は,これに先立つ旧制・福岡高校在学中に,九州の古代寺院址で瓦を採集していたらしく,九州帝大に進んで視点をさらに朝鮮半島に広げたことは十分考えられる。採集遺物の整理は丁寧であり,こうした研究姿勢が,その後の鏡山の研究成果,また九州大学における瓦研究につながったのであろう。

本稿で全体像を示した九州帝國大学朝鮮考古資料について,筆者は今後も資料化を継続する心づもりである。本稿の記述に誤りがあれば,随時補訂も加えていこう。ただ,一部の誤解を解くために蛇足を述べるならば,九州帝國大学朝鮮考古資料のうち,陶質土器の報告はほぼ終了している。第2章で再確認されたい。

本稿の対象外としたが,九州帝國大学朝鮮考古資料のほかにも,朝鮮考古資料が考古学研究室に所蔵されている。このうち高句麗瓦は今津啓子〔1988〕が報告した。来歴不詳の古新羅土器は筆者〔1995a〕が一部を報告し,今後も報告を予定している。

今後の報告を約しつつ筆を置くこととする。

本稿作成に当たり,西谷正,宮本一夫,中園聡の諸先生・諸氏のご理解,小田富士雄,亀田修一,重藤輝行,高久健二,吉井秀夫の諸先生・諸氏のご教示を得たことを記し,謝意を表します。


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