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日本出土の朝鮮産土器・陶器

−新石器時代から統一新羅時代まで−

出典:『日本出土の舶載陶磁』(2000)

目次

第1章で本稿の基本方針を述べている。第2章と第3章は,先史時代を扱っているが,第2章は既存研究の紹介にとどまった。

第3章では,無文土器と弥生土器の編年対比に関する私見を述べているが,高知市で開催された埋蔵文化財研究会での所感に基づいて一気に書き上げたもの。弥生研究では韓国での研究成果が意外に応用されておらず,改めて学史をたどると関係論文はさほど多くない。

第3章末を中心に,衛氏朝鮮の歴史的位置を重視する見解も述べた。なお,滑石混和土器については,従来「滑石混入土器」と呼ばれていたものだが,混和材として意図的に混ぜていることから,異なった用語を用いている。(15/Apr/2002)

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1.はじめに

本稿では、新石器時代から統一新羅時代までの朝鮮産土器・陶器が現在の日本国内からどのように出土しているか、概説する。

近年、朝鮮半島での考古学的成果は朝鮮各地の特色ある地域史の実態を明らかにしつつあり、また、日本各地での朝鮮産土器・陶器の出土傾向をみると、朝鮮産土器・陶器の存在が、それを出土した地域の歴史に大きな意味を持っている場合もあるように見受けられる。そこで本稿では、年代別に細分して叙述することは諦め、朝鮮半島における土器・陶器の地域性を重視し、それぞれについて日本国内での出土傾向を明らかにする、という構成とした。ただし、朝鮮産土器・陶器の出土傾向にいくつかの大きな画期が認められるので、それらにより4つの時代に分けておいた。各時代の詳細は次章以下に譲るとして、時代区分と大まかな内容をあらかじめ述べておこう。なお、日本列島も大きく分けて北の文化、中の文化、南の文化があり、それぞれ独自の時代区分がなされているが〔藤本1988〕、とりあえず朝鮮半島に最も近い中の文化、特に西日本の編年に対比しておいた。

朝鮮半島の新石器時代−日本列島の縄文前期〜後期(紀元前4〜2千年紀)は、漁撈などの生業に伴う土器の移動がみられる時期である。

朝鮮半島の青銅器・初期鉄器時代−日本列島の縄文晩期〜弥生中期(紀元前1千年紀)は、稲作農耕や金属器生産など新技術の渡来に伴う土器の移動が想定されている時期である。

朝鮮半島の原三国・三国時代−日本列島の弥生後期・古墳時代(紀元前1世紀〜紀元後6世紀)は、楽浪建郡から南山新城までであり、朝鮮半島でも日本列島でも、地域の独自の動きが目立つ。割拠と興亡の中で国家形成に至る時代であり、朝鮮産土器の出土傾向も特色にあふれている。

朝鮮半島の三国抗争期・統一新羅時代−日本列島の飛鳥時代〜平安前期(591〜935年)のうち、その当初の三国抗争期−飛鳥時代は、三国時代の最終段階ともいえるが、朝鮮産土器・陶器の出土傾向などからみて、それ以前とは交渉の内容が異なると考え、むしろ統一新羅時代−白鳳時代〜平安前期との対比を主眼においた。国家間交渉の時代であるが、徐々に民間の交易なども目立つようになっていく。本稿は統一新羅の滅亡(935年)をもって叙述を終えるが、奈良・平安時代の民間交易によると思われる新羅土器出土傾向が、以後の高麗青磁などの出土傾向に連なっていくのであろう。


2.新石器時代−縄文前期〜後期

朝鮮半島の新石器時代、日本の縄文時代は、ともに採集・漁撈・狩猟を主な生業とした時代である。一部に植物利用を発達させていたとしても、本格的な生産経済は次の青銅器時代、弥生時代に確立したと考えられる〔今村1999〕。

朝鮮陶磁の始まりは,いまだ不分明であるが,新石器時代早期には隆起文土器が現れ、日本の縄文前期に並行する。この時点から日本と朝鮮の交流がみられ、隆起文土器も日本での出土が知られている。李相均によると、アカホヤ火山灰の降下後、九州の轟式土器の担い手が山陰・山陽、さらに朝鮮半島南部で活動し、屈曲型器形や胴張型器形の土器がそれらの地に影響を与えているという〔李相均1994〕。

隆起文土器は、瀛川洞式土器を経て櫛目文土器(水佳里式)に変化する。一方、九州の轟式土器も西唐津式を経て曽畑式土器に至る。櫛目文土器(図4)は、縄文前期後葉の曽畑式土器との類似性が論議されており、曽畑式土器が櫛目文土器の影響下で作り出されたとも考えられている。

その後、櫛目文土器は新石器時代終末まで存続し、一方で縄文土器は多様な器形変化を示すようになるが、日本出土の櫛目文土器もいくつか知られている。

木村幾多郎の整理を参考にしつつ、具体例をみていこう〔木村1997〕。

まず、隆起文土器は長崎県上県郡(対馬)上県町・越高遺跡(図1)、同町・越高尾崎遺跡、同県南松浦郡(五島列島)有川町・頭ヶ島白浜(かしらがじましらはま)遺跡B6グリッド6層〔古門(編)1996:9-10〕にみられる。特に対馬の2遺跡は、朝鮮半島に面する海岸沿いに位置し、同時期の縄文土器をほとんど含まず、漁撈を生業とする朝鮮半島南海岸の人々が活動した痕跡と考えてよい。これに対し、長崎県壱岐郡勝本町・松崎遺跡、佐賀県東松浦郡鎮西町・赤松海岸遺跡採集品〔明瀬(編)1989〕などの壱岐・北部九州では、形態は隆起文土器に類似するが胎土が在地の縄文土器に等しい土器が出土しているという〔木村1997:20〕。

このうち頭ヶ島白浜遺跡では、轟B式の文化層から隆起文系の赤彩土器が出土しており、河仁秀はこれを東北朝鮮の雷文土器の影響下に成立したものと捉えている〔河仁秀1996〕。

櫛目文土器もやはり対馬に多いが、長崎県上県郡(対馬)上県町・越高尾崎遺跡、同町・夫婦石遺跡(図2・3)、同郡峰町・佐賀(さか)貝塚、同県下県郡(対馬)豊玉町・ヌカシ遺跡、同県壱岐郡勝本町・松崎遺跡など、やや分布を広げる、晩期には、佐賀県東松浦郡呼子町・小川島貝塚の出土例がある。

また、地理的には大きく離れるが、青森県八戸市・売場遺跡で南朝鮮系の尖底深鉢形櫛目文土器が出土しているという〔定森1999:10〕。

このように、新石器時代の朝鮮産土器は極めて限られた分布を示す。これは、木村がこれらの土器の存在を漁撈具や貝製品における類似性とともに論じたように、生業を同じくするものたち同士の交流であったことを示している〔木村1997:32〕。


3.青銅器・初期鉄器時代−縄文晩期〜弥生中期

朝鮮半島は紀元前1000年ごろから青銅器時代に入ると考えられ、紀元前1千年紀後半には初期鉄器時代に移行する。この両時代を特徴づける遺物の一つが、いわゆる無文土器である。無文土器は大きく西北朝鮮・西朝鮮・東北朝鮮・南朝鮮の地域性があり、日本列島で多く出土するのは南朝鮮の無文土器である。その日本出土例は、すでに検討の対象となっており、詳細な分析も公にされている。さらに、最近では西朝鮮の無文土器の出土も知られるようになってきた。

かつて南朝鮮の無文土器編年は前期(孔列土器)と後期(粘土帯土器)に二分されていた。忠清南道扶余郡・松菊里遺跡〔姜仁求ほか1979〕の報告が刊行されると、藤口健二は松菊里型土器が前期と後期の間に位置づけられると考え、松菊里型土器に代表される無文土器中期を設定し、これを夜臼(ゆうす)式から弥生前期前半に並行すると考えた〔藤口1986〕。この編年は、後藤直が「弥生文化成立期に平行する時期を中期として限定できる点で評価できるが今後の検証が必要である」〔後藤1987:356〕と評したように、弥生文化成立過程の重要な段階である「弥生早期」の認識に深く関わっていた。この無文土器中期に松菊里型土器、松菊里型住居、大陸系磨製石器という、弥生文化の成立を象徴する文化要素が揃うと期待されたのである。

しかし、後藤が松菊里型住居と松菊里型土器に前後の時間差があることを指摘した〔後藤1992〕ため、むしろ松菊里型住居の登場する夜臼式土器が松菊里型土器以前となり、松菊里型土器直前の無文土器に関する認識が必要となった。家根祥多は藤口の編年を「欣岩里式と松菊里式とのヒアタスに気付かずに両者を連続して捉え」た結果〔家根1997:43〕とし、忠清南道瑞山市・休岩里遺跡〔尹武炳ほか1990〕、同道保寧市・館山里遺跡〔尹世英・李弘鍾1996〕などの資料がこれを埋めるとみて、「欣岩里式→大坪里式→休岩里式→館山里式→古南里式→松菊里式→校成里式」という無文土器編年を提示した〔家根1997〕。松菊里型土器の登場過程を示した編年として、評価しうるものであるが、松菊里式と校成里式の関係に不明確なところがある。

従来の編年は、資料の不足から、南朝鮮の範囲内での地域性が充分考慮されぬまま土器型式の単純期が想定されていた、いわば“輪切り編年”であった。ここには、弥生文化の成立過程を説明する考古資料を求めていた日本考古学側の事情と、一方、新羅土器と加耶土器の分立以前に地域性の不明確な時期があり、その状況が無文土器後期にまで遡る、と考える韓国考古学側の事情があった。しかし、従来の編年観では、日本列島での無文土器出土傾向を充分に理解しえないと考える。そこで本稿では、南朝鮮の無文土器について、従来の編年を捉えなおすことにする。

まず、文化のまとまりとして認識しにくくなった「中期」を解消する。松菊里型住居や、孔列土器以後の無文土器(ほぼ、家根の休岩里式から古南里式に相当するであろう)に特徴づけられる時期を前期後半無文土器とし、孔列土器は前期前半無文土器とする。前期後半無文土器を「中期」として残すことも、その文化内容や歴史的意義からみて一案であるが、中期=松菊里型土器という図式から脱却する意味でも、ひとまず中期は設定しない。

後期は松菊里型土器と粘土帯土器によって構成されることになるが、両者の関係には不分明な部分があり、地域性を想定して一部並行とみなす藤口と、単純期をなして推移すると考える武末純一の意見がある〔藤口1986;武末1987〕。筆者は、両者の型式差の大きさや、それぞれ主たる分布地域が異なること、また、朝鮮半島東南部地域では前期無文土器にも後期無文土器(粘土帯土器)にも底部穿孔の甑(こしき)がみられるのに対し、西南部の松菊里型土器にはそのような甑が明確でない〔白井1997b〕、などの文化的な差から、必ずしも単純期をなして一方から他方に推移したとは考えない。そこでひとまず、松菊里型土器に代表される無文土器を後期西南類型の無文土器、粘土帯土器に代表される無文土器を後期東南類型の無文土器としておく。

(1) 前期前半の無文土器−孔列土器

孔列土器は東北朝鮮に由来すると考えられる前期前半無文土器であり、欣岩里式などに代表される。口縁部の下に円孔が開けられていることが特徴であり、器形は単純な逆円錐形で、底部は狭い平底である。日本列島では中の文化の縄文晩期・南の文化の貝塚文化中期に並行する。

これまで、日本列島でははっきり舶載といえる孔列土器は知られておらず、南九州のいわゆる孔列土器も、“他人の空似”とみる意見がある。最近、片岡宏二により日本の「孔列土器」出土例が整理された〔片岡1998b〕が,それによると、島根県八束(やつか)郡鹿島町・佐田講武(さたこうぶ)貝塚包含層、同県松江市・タテチョウ遺跡包含層〔前島ほか(編)1979〕、同市・西川津遺跡包含層〔内田(編)1989〕、同県飯石(いいし)郡頓原(とんばら)町・板屋III遺跡第1地点旧河川〔角田(編)1998〕などの島根半島地域に孔列が半貫通のより古い例が、佐賀県唐津市・高峰遺跡包含層〔内田(編)1994〕、福岡市早良(さわら)区・田村遺跡溝状遺構SD1000(突帯文土器段階)〔二宮ほか(編)1989:12、13〕、同市南区・野多目遺跡水路SD-02下層〔山崎(編)1987〕、北九州市小倉南区・貫川遺跡包含層〔前田(編)1988〕、同区・長行(おさゆき)遺跡B地区包含層〔宇野(編)1983:49〕、福岡県小郡(おごおり)市・津古土取遺跡包含層〔片岡(編)1990〕などの北部九州地域に、孔列が貫通するやや後続の事例が集中しているという。これらは互いに初現地の系統を異にするとも想定されているが、いずれも舶載品とはいえず、在地の縄文晩期土器に孔列が加えられたとみなされるものである〔片岡1998b:190-193〕。

さらに最近、沖縄県宜野湾市・宇地泊砂丘遺跡で孔列土器の出土が知られている〔任孝宰2000a〕。

一方、「孔列土器」として取り扱われている土器について、無文土器に詳しい後藤直が「孔列土器(欣岩里式)との関係は疑わしい」と断じていることも、付記しておくべきであろう〔後藤1987:356〕。

(2) 前期後半の無文土器−弥生文化成立期の無文土器

前期後半には孔列のない直立口縁の土器が主体となり、最初は口縁に刻みを施す場合が多いが、これもまた減少していく。住居には、中央土坑(どこう)とその長軸方向の両側に2柱穴を有する、いわゆる松菊里型住居が現れる〔後藤1982〕。これは前後の時代にはみられぬものであり、あるいは特殊な社会情勢下で顕在化する住居形態とみなすような、機能主義的な解釈もありえようか。

家根祥多は休岩里式ないし館山里式の時点に福岡県糸島郡二丈町・石崎曲り田遺跡(山ノ寺式)への移住がなされたと主張している〔家根1997〕。興味深い見解であるが、中園聡も指摘するように、「家根が同定する土器は従来無文土器とは認定されてこなかったものが多く」、今後の課題といえよう〔中園1999:25〕。

今のところ、日本列島での前期後半無文土器の出土例は北部九州と五島列島に限られているが、かつて松菊里型土器がそうであったように、ひとたび前期後半無文土器が弥生早期に並行するとなれば、疑わしいものも含めて、多くの類例が発見、再認識されることであろう。

福岡市博多区・雀居(ささい)遺跡群第5次調査溝状遺構SD-003下層出土の無文土器甕(かめ)は、夜臼I〜IIa式と呼ばれる「弥生早期」の土器と、東北地方の縄文晩期大洞(おおぼら)C2式土器が共伴しており、地域間の並行関係や、弥生文化の成立過程を知る上で、重要な事例である〔松村(編)1995:50-51〕。このほか、佐賀県唐津市・菜畑八反間遺跡第IX層出土の赤色磨研壺(図5)〔中島・田島(編)1982:335、337〕や、長崎県北松浦郡(五島列島)宇久町・宇久松原(うくまつばら)遺跡6号支石墓に供献された無文土器〔川道(編)1997:13-14〕があり、いずれも夜臼式単純期である。

なお、夜臼式の時期に北部九州に中央土坑を持つ円形竪穴住居が登場し、弥生時代の住居形態の一つとなっていくが、中間研志はこれを「松菊里型住居」と呼び、朝鮮半島との関係を想定した〔中間1987〕。

松菊里型土器(本稿の後期西南類型)が弥生早期に並行し、日本の農耕文化の源流となるという理解が流布しているが、もし,日本の松菊里型住居を朝鮮由来と考えるならば,弥生早期と前期後半無文土器が並行することは、これによっても傍証されよう。

(3) 後期西南類型の無文土器−松菊里型土器

いわゆる松菊里型土器とは、松菊里遺跡で出土した土器の中でも、長胴で外反口縁を持つ独特の器形のものをいう。これに伴出するほかの器種も合わせ、同時期の土器群として概念化した場合に松菊里式土器と呼ぶ。本章冒頭で述べたように、松菊里型土器は忠清南道を中心に朝鮮半島西南部に分布する。

日本出土の松菊里型土器についても、片岡宏二の業績が参考になる〔片岡1998b〕。それによると、確実に舶載とみなされる松菊里型土器は、いまだ見出されていないが、その類似土器の存在は、舶載品の存在や渡来人の活動を想定させるものである。

福岡市博多区・比恵(ひえ)遺跡群第30次調査貯蔵穴SU-021(弥生前期後葉)からは2点の松菊里型土器が出土している〔菅波(編)1992〕。田崎博之の観察によると、その胎土・焼成は弥生土器のそれと等しいという。1点は底部に焼成後の穿孔があり、朝鮮半島も含めて、集落遺跡出土の松菊里型土器で底部穿孔が確認されている唯一の例である〔白井1997b〕。比恵遺跡群の第30次・第31次・第37次調査地点は互いに隣接しており、弥生前期中葉から中期初頭に至る貯蔵穴群が広がっているが、調査された40基のうち10基から、都合17個体の弥生土器底部穿孔甕が出土しており〔菅波(編)1992・1993〕、松菊里型土器への穿孔、そしておそらくは土器の製作自体も、比恵の地で行われたと考えられる。このことは、比恵遺跡における弥生前期環濠集落の経営に、何らかの形で渡来人が関与したことを示唆するものである。また、変容が激しいが、同じ30次調査の貯蔵穴SU-017(弥生前期後葉)からも松菊里型土器に類似の器形を持った壺が出土している〔菅波(編)1992:63〕。

このほか、福岡市早良区・有田遺跡群第62次調査(有田七田前遺跡)包含層〔山崎ほか(編)1983〕、福岡県小郡市・津古土取遺跡貯蔵穴(図6)〔片岡(編)1990〕、同県筑紫野市・隈・西小田遺跡のような、北部九州の集落出土例がある。このうち、有田遺跡群の例は板付(いたづけ)I式に遡るとされているが、底部の作り方など、形態が似ておらず、これを松菊里型土器とみなす片岡宏二も、板付II式段階の諸例の方が本来の松菊里型土器に似ていることを認めている〔片岡1998b:209〕。

宇久松原遺跡支石墓での突帯文段階の事例について、片岡は松菊里型土器とみなしている〔片岡1998b:207〕が、前期後半無文土器の可能性があることはすでに前節で述べた。

さらに、山陰・山陽・四国での出土例も見逃せない。島根県八束郡鹿島町・古浦遺跡堆積層〔片岡1998b:206-207〕、鳥取県米子市・長砂第2遺跡〔平木・佐伯(編)1998:21、51;濱田2000:59、73〕、岡山県岡山市・津島遺跡〔片岡(編)1990:548-549;佐藤2000:59〕、愛媛県松山市・北久米遺跡〔正岡1993〕、高知県南国市・田村遺跡第17地点第IV層(弥生前期)〔高知県教育委員会(編)1986:335〕などの例がある。

近畿地方でも、兵庫県尼崎市・東武庫(ひがしむこ)遺跡2号方形周溝墓周溝で類似の例があるが、胎土は在地土器に等しく、舶載品ではないという〔山田(編)1995〕。中村弘は「時期は弥生時代前期に属し、畿内第I様式新段階に位置づけられるものである。この時期には、近畿地方においても粘土帯土器の影響を受けた土器が出現しており、年代的に中期無文土器まで遡らせることは困難である」〔中村1996:5〕と、従来の無文土器編年との齟齬を意識している。また、後期無文土器に類例を求める意見もあるようだ〔(財)大阪府文化財調査研究センター(編)1998:4-5〕。ところが最近、竹村忠洋はこの土器を畿内第I様式中段階に位置づけ、しかも胎土が在地産と異なるという、報告者とは異なる見解を発表した〔竹村2000:230〕が、その真意はよくわからない。

後期西南類型無文土器(松菊里型土器)はこれまで、日本の夜臼式期から弥生前期中ごろ(北部九州の板付IIa式)に出土すると考えられていた。しかし、上のように、日本出土の松菊里型土器とされる土器は、弥生前期中葉から後葉に主にみられ、研究者の認識とは異なることになる。

この原因は、「中期無文土器」概念に象徴される“輪切り編年”にある。弥生文化の成立を説明する意図から中期無文土器を弥生早期から前期中ごろと想定したために、弥生早期・前期初頭の松菊里型土器を追究する機運を生み、オリジナルから遠い事例や共伴関係の不明な事例も、より古い松菊里型土器として動員する結果となったのではあるまいか。一方、弥生前期末には「後期無文土器」である粘土帯土器(後期東南類型)が登場することから、同時期に位置づけられる遺構で松菊里型土器が出土すると不審なものと捉える現象も起きているのであろう。むしろ、参照されている編年を再考すべきであり、これに対する筆者の見解は本章冒頭に述べたとおりである。

なお、弥生前期初頭・板付I式に伴う無文土器は、今のところ不明である。候補とされる事例はあるが、これもまた、松菊里型土器に対する旧来の認識を改めた上で検討されるべきであろう。

以上の数少ない事例から松菊里型土器の日本での出土傾向を見出すことは難しいが、ひとまず、北部九州に上陸して瀬戸内海沿岸経由で大阪湾に至る経路が考えられよう。

朝鮮半島西南部で松菊里型土器に後続するものとして、中島式土器が注目されている。つまり、後期東南類型無文土器(粘土帯土器)の変遷とは別に、松菊里型土器から中島式土器を経て馬韓に至る流れが存在したと考えるのである。今のところ、それらの分布が互いに似通っているという以上の検証は充分でないが、魅力的な仮説ではある。

(4) 後期東南類型の無文土器−粘土帯土器

粘土帯を口縁部に貼り付ける粘土帯土器は、後期東南類型の無文土器を特徴づける。前段階との型式上のつながりはわかりにくいが、あるいは北方からの影響であろうか。断面円形粘土帯土器(水石里式)と断面三角形粘土帯土器(勒島式)に分類されている〔武末1987〕。

水石里式粘土帯土器−弥生前期末〜中期初頭

粘土帯土器の日本出土例は、福岡市博多区・諸岡遺跡の弥生前期末の竪穴から出土した水石里式粘土帯甕(図11)〔後藤・横山(編)1975〕に後藤直が着目し「朝鮮系無文土器」の名称を与えて以来、多くの例が蓄積されている〔後藤1979・1987など〕。なお、諸岡遺跡の竪穴は、調査時点から、焼土塊が出土することや、その形態など、通常の貯蔵穴と異なることが意識されていた〔後藤・横山(編)1975:70-71〕が、忠清南道保寧市・寛倉里遺跡での類似遺構の検出、福岡県小郡市・西島遺跡や佐賀県鳥栖市・大久保遺跡での事例の蓄積〔宮田1997〕、実験考古学の成果〔久世ほか1997〕などを通じて、土器焼成遺構であることがわかってきた。弥生土器が朝鮮半島由来の焼成技術で製作されているという仮説も提出されており、諸岡遺跡における渡来人の痕跡は、いまだその重要性を失っていない。

出土例のうち、最も古く位置づけられるのが福岡県糸島郡二丈町・石崎曲り田遺跡黒色包含層出土の水石里式土器〔橋口(編)1983:134-135〕であり、この層からの出土土器の多くは板付I式であるが、包含層には弥生前期から後期までの遺物が含まれており、必ずしも板付I式並行とはいえない。

今のところ、水石里式粘土帯土器の出土例は弥生前期末〜中期前半に集中しており、玄界灘沿岸では諸岡遺跡のほか、福岡市西区・姪浜(めいのはま)遺跡〔長家(編)1996:60-61〕、福岡県糟屋郡新宮町・三代貝塚〔西田(編)1995:17、19〕にみられる。さらに、同県小郡市・横隈山遺跡〔後藤1979:492-493〕、同市・横隈鍋倉遺跡(図9・10)〔中島(編)1985〕、同市・三国の鼻遺跡〔片岡(編)1985〕、佐賀県小城郡三日月町・土生(はぶ)遺跡〔後藤1979:500-501〕、熊本県熊本市・江津湖(えづこ)遺跡〔後藤1979〕、同市・御幸木部(みゆききべ)遺跡〔後藤1979〕、同市・小瀬田遺跡〔片岡1999b〕、同県宇土市・石瀬遺跡〔片岡1999b〕、山口県下関市・綾羅木郷遺跡〔伊藤(編)1981〕、島根県簸川郡大社町・原山遺跡〔後藤1987:342-343〕、同県松江市・西川津遺跡〔内田(編)1989:33、37〕、鳥取県東伯郡羽合(はわい)町・長瀬高浜遺跡f1地区包含層(ともに報告されている弥生土器の大半は前期)〔財団法人鳥取県教育文化財団1983:166、171〕、愛媛県松山市・宮前川遺跡〔後藤1987:39〕、大阪府東大阪市・高井田遺跡〔田代1985;福岡1991〕、京都府亀岡市・太田遺跡〔田代1985〕など、西日本の広い範囲で確認されている。このほか、同時期に比定される無文土器高杯(たかつき)が福岡市西区・姪浜遺跡第3次調査土坑SK098〔長家(編)1996:39〕、福岡県小郡市・三国の鼻遺跡(図8)〔片岡(編)1985〕で、牛角形把手壺が福岡県小郡市・みくにの東遺跡(図7)〔後藤1979〕で出土している。

後藤は諸岡遺跡の遺構を検討して、この遺跡を渡来人の集団が一時的に滞在していた「宿営地」であり、「一定の目的をもって朝鮮南部からやって来て再び故郷に帰って行った人々の遺跡」と考えた〔後藤1979:513-518〕。また、土生遺跡は諸岡遺跡と違い、弥生集落の真っ只中で、「擬朝鮮系無文土器」も生み出されていることから、「彼らがこの地にやって来た目的が諸岡遺跡の場合とことなるのか(たとえば移住)、同じであったとしても、目的を達成したのちもなんらかの事情で(自発的にもしくは状況に強いられて)弥生社会の中に生活し始めたのかは即断しかねる」と、興味深い示唆をしている〔後藤1979:518-519〕。さらに、片岡宏二は新資料などを用いてこの問題に取り組み、特に、このころが国産青銅器の生産開始期に当たることから、鋳銅関係の考古資料の分布と丹念に突き合わせ、その結果、渡来人の一時的な居住と、それによる技術移転を主張している〔片岡1997〕。

勒島式粘土帯土器−弥生中期後半

弥生前期末から中期前半にかけては粘土帯土器の出土がかなり知られているが、弥生中期後半の九州・本州・四国には確実な出土例が乏しく、わずかに福岡市博多区・那珂遺跡群第30次調査掘立柱建物跡SB-01の柱穴SP-08で出土した粘土帯土器〔山口ほか(編)1992:55〕や山口県下関市・六連島(むつれじま)遺跡(図13)〔杉原1987〕,同市・秋根遺跡〔伊藤・山内(編)1977〕の出土例が、この時期に当てられ、ほぼ勒島式に該当する。特に那珂遺跡のそれは柱の抜き取り跡に納められたものであり、須玖II式の甕口縁部破片を伴っており、しかも慶尚南道泗川市・勒島遺跡9号住居址出土の粘土帯土器〔釜山大学校博物館(編)1989〕に似ているから、並行関係を示す資料として重要である。

このほか、山口県宇部市・沖ノ山遺跡では、半両銭と五銖銭を大量に入れた粘土帯土器の甕が江戸時代に発見されている〔小田1982〕が、五銖銭の年代が紀元前1世紀後半に当たるようであるから、やはり弥生中期後半ごろであろう。

後藤は、九州・本州・四国で無文土器の出土が激減する一方、長崎県上県郡(対馬)峰町・大田原カモト遺跡(図14)や同県壱岐郡芦辺町〜石田町・原の辻(はるのつじ)遺跡(図12)のように、弥生中期前半まで無文土器がみられなかった対馬・壱岐に一転して無文土器の出土が知られるようになるとして、分布の変化を壱岐・対馬が日朝交渉において「積極的な仲継者としての位置を獲得したため」とみなし、そこから、「交渉の主導権が小地域社会からそれらを統合するより上位の集団・支配者層へと移り、交渉の規模と性格が拡大・変化した」と読み解いた〔後藤1979:523〕。その後、原の辻遺跡でも水石里式粘土帯土器が知られるようになり、そのうちには弥生前期末ごろに当たるものもあるようである〔武末1995;片岡1999c〕が、大まかには後藤の洞察を追認できる。

最近の研究によると、弥生中期後半に並行するころすでに南朝鮮でも瓦質土器が成立し、無文土器の流れを汲む土器と並存していた〔高久1999〕。無文土器に限らず、弥生中期後半は日本での朝鮮半島南部に由来する遺物(後に述べる弁・辰韓地域瓦質土器など)の出土が目立たない。一方、この時期から北部九州では甕棺墓の副葬品に西漢鏡などの中国系遺物が登場し、あるいは楽浪土器の搬入が始まった可能性がある。これらは国際環境の大きな変化を示唆する。この時期に北部九州などで集落の集住化が起こると考えられることは重要である〔白井1996a〕。

(5) 古朝鮮土器−滑石混和土器

最近、沖縄県の貝塚文化後期の遺跡で、九州由来の弥生土器に混じって、滑石の大きな破片を胎土に含む無文土器が知られるようになってきた。下地安広はその例として、浦添市・嘉門(かじょう)貝塚、読谷(よみたん)村・大久保原遺跡、同村・中川原貝塚、宜野湾市・真志喜荒地原第一遺跡を挙げている〔下地1999〕。いずれも壺形土器(下地は甕と呼ぶ)で、肩部が内傾しつつそのまま口縁部となり、口縁部を肥厚させて終わる。文様はみられず、滑石の光沢が印象的である。沖縄の貝塚時代の土器とは考えがたく、また弥生土器でもない。

滑石混和土器にみられる形状・胎土は、楽浪郡時代(紀元前1世紀以降)の遺物と似た部分があり、そのように紹介されてもいる〔下地1999;国立歴史民俗博物館(編)1999:108;任孝宰2000b〕。しかし、楽浪土器と完全には一致せず、器種構成にも問題がある。また、楽浪の滑石混和土器は内面に布目を残す場合があり、型作り成形である〔後藤1982:265〕が、今のところ楽浪の滑石混和土器には布目の報告がないようである。

沖縄以外の日本列島出土楽浪土器は、長崎県壱岐郡芦辺町〜石田町・原の辻遺跡の滑石混和土器を除いていずれも瓦質土器であり、滑石混和土器だけが出土する沖縄の状況とは異質である。

そして最も重要な点は、楽浪郡は弥生中期後半(北部九州の編年で須玖II式)以降に存在したのであり、日本列島での確実な楽浪土器が、ほぼすべて弥生後期の遺跡から出土していることである。輸入鋳造鉄斧では、弥生中期初頭から前半は戦国系鋳造鉄斧、弥生中期後半は西漢系鋳造鉄斧が出土し、朝鮮半島北部の政治変動に対応している〔白井1996a〕。嘉門貝塚の例では弥生中期後半までの南部九州系弥生土器を伴うものの、読谷村の2例は弥生中期前半までの土器しか伴わないから、滑石混和土器どうしの類似性、弥生後期以降に日本列島で出土する楽浪土器との隔絶を考慮すると、楽浪建郡以前にその由来を求めるべきであろう。

楽浪建郡以前の北部朝鮮の無文土器文化については、その実態が不分明であるが、滑石混和土器は建郡以前から楽浪土器に引き継がれたものである。さすれば、筆者が日本出土戦国系鋳造鉄斧の直接の由来と考えた衛氏朝鮮や、それ以前の、文献にいう箕子朝鮮がその候補となろう。弥生前期末から中期初頭の青銅器の流入を箕子朝鮮政権の瓦解に求める説も想起される。

沖縄の滑石混和土器は、南部九州の弥生前期中葉から中期前半にかけての弥生土器とともに、青銅器片などを伴う場合がある。弥生前期末から弥生中期初頭には、北部九州に朝鮮の青銅器が流入するが、この時期、北部九州を経てはるか沖縄まで朝鮮半島からの物資の流れが及んだと考えることは、決して突飛ではあるまい。ただし、「沖縄諸島で出土した弥生土器をみる限りでは、北部九州や中部九州地域と沖縄諸島との直接の交渉を裏付けることはできない」という指摘もある〔中園・上村1998:78〕。

一方、長崎県壱岐郡芦辺町〜石田町・原の辻遺跡出土の滑石混和土器は、大同江流域にみられる植木鉢形土器(花盆形土器)であり、内面に布目も観察できる〔武末1995:170-171〕。高久健二によると、口縁部断面四角形の植木鉢形土器は、後の時代にもわずかに残るものの、楽浪墳墓I期・II期(楽浪建郡直後の紀元前1世紀ごろ、弥生中期後半に並行)に多く〔高久1993〕、また、楽浪建郡以前からの在地の土器であるから、あるいは古朝鮮土器かもしれない。

滑石混和土器については、まだ認識されたばかりであり、今後の資料の蓄積と分析の進展、また、朝鮮半島、中国各地の土器との対比が待たれる。


4.原三国・三国時代−弥生後期・古墳時代


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白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2000-2012. All rights reserved.