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日本出土の朝鮮産土器・陶器

−新石器時代から統一新羅時代まで−

出典:『日本出土の舶載陶磁』(2000)

目次

第5章では6世紀末以降の出土傾向を論じ,第6章でまとめをおこなった。

第5章(1)の百済土器については,獣脚硯に関する記述がやや不用意であり,その後,実物調査を継続中である。(2)の高句麗土器に関しては,以前の内容の焼き直しである。(3)の新羅土器に関しては,江浦氏・宮川氏らの努力の成果を利用させていただいた。(4)の施釉陶器については,ここ数年調べてきた成果を記述しているが,「三彩」「二彩」などの用語を不用意に用いている点は反省すべきであろう。施釉陶器のうち硯に関しては,説明不足のために誤解も招いており,補正の必要がある。中国における硯の動向については2000年秋に発表しており,いずれ朝鮮・日本との関係についても見解を明らかにしたい。

第6章では,おもに6世紀について,日本の中の政治動向と朝鮮南部の政治動向とが関係することに触れた。細部に違いはあるが,朴天秀氏らが最近精力的に公表された研究と触れ合う部分も多い。ただ,結論としてあげた項目のいくつかは,2001年の筆者自身の後続研究と矛盾を生じている。(15/Apr/2002)


5.三国抗争期・統一新羅時代−飛鳥時代〜平安前期

ここで三国抗争期とは、6世紀末以降、新羅が朝鮮半島を統一する676年までをいう。これ以前に三国では支配体制の変革が起こり、西方での隋唐帝国の出現による新たな国際関係に処するようになった。日本でも多くの地域で前方後円墳の造営が終了し、一方で飛鳥寺の建立、推古女帝の即位・聖徳太子の摂政就任と、支配体制と文化の変革は確実に進展していた〔白井1998a〕。

この時期を分離して取り上げるのは、朝鮮産土器・陶器の日本における分布がこの時期に特徴的なあり方を示すと考えるからである。まず、その直前の時期、6世紀後半は朝鮮産土器が日本で少量しか出土しないという特異な時期である。6世紀末に再び数多くみられるようになる朝鮮産土器・陶器は、大きくその分布を変えている。まず、特徴的なのは、それ以前にはさほど陶質土器が多くみられない畿内中央部に出土が認められ、ここに向かう経路上にも分布が知られることである。また、墳墓のほか、寺院・宮都・官衙と思われる遺跡からの出土が認められ、それらの大半は新羅土器・緑釉陶器である。

朝鮮半島の強い影響により作られたことが明らかな、石川県小松市・額見町遺跡のいわゆるオンドル状遺構が7世紀初頭ごろに始まることについて、定森秀夫は、この時期が新羅の朝鮮半島統一の時期と齟齬することから、「日本列島での朝鮮半島系の遺構・遺物の出現が、必ずしも朝鮮半島での政治的・社会的動向と連動していないということを示す」としている〔定森1999:51-52〕が、むしろ朝鮮半島系遺物が新たに多くみられるようになる時期に一致しており、朝鮮半島と日本列島との新たな交渉関係の始まりと軌を一にしているのである。

三国の抗争は、660年に百済が、668年に高句麗が、唐・新羅により滅ぼされ、さらに新羅は676年までに唐の勢力を駆逐し、朝鮮半島を統一した(統一新羅)。この時、倭政権も朝鮮半島情勢に介入し、干渉軍を送ったが、663年に白村江の戦いで惨敗した。この時、日本に百済貴族が多く亡命し、その後の内政や史書編纂に関わっている。

唐と新羅の関係悪化に伴って、日本と新羅は天武朝ころに復交し、新たに整備された大宰府(だざいふ)・鴻臚館(こうろかん)を介して盛んに新羅使・遣新羅使が往来した。

しかし、朝鮮半島北部から中国東北地方にまたがる渤海が727年に日本に使いを送って交渉が始まる(『続日本紀』巻第10神亀4年9月庚寅条)と、日本にとって対新羅外交の比重は軽くなった。735年には国号問題で新羅使を平城京から追い返すという事件があり(『続日本紀』巻第12天平7年2月癸卯条)、関係は険悪となる。

さらに755年に唐の節度使・安禄山が起こした反乱は、都から皇帝・玄宗が脱出するほどの戦乱となったが、渤海よりこの知らせを聞いた奈良朝廷は海防を厳重にし、また、新羅征討をも計画したという。

新羅は9世紀になると王位の簒奪など、政治の混乱が顕著となり、地方豪族が高句麗・百済の後継者を名乗って勢力を伸ばした。金城(慶尚北道慶州市)周辺を維持するのみの一地方政権に転落した新羅は、935年に高麗によって滅ぼされた。

(1) 百済土器

古代寺院の成立に百済系渡来人の活躍が伝えられ、また、百済系の瓦が葺かれているのとは対照的に、この時期の百済土器の出土はさほど多くない。調査の進展や、あるいは詳細な分析による資料の再認識がありうるにしても、新羅土器を上回る出土は望めないのではあるまいか。

この時期の出土と伝えられるものに、福岡市西区・広石古墳群I−1号墳出土の瓶(図48)〔山崎ほか(編)1977:40,42〕がある。この地域は独特な古墳がみられ、渡来人の活躍した可能性が高いところでもある。奈良県御所市・石光山43号墳出土の瓶〔白石ほか(編)1976:305-306〕、長野県長野市・長原7号墳出土の瓶も7世紀に位置づけられている〔定森1999〕。

この時期の百済土器として特徴的なものに獣脚硯がある。

集落からは、福岡県久留米市・荒木西ノ原遺跡の奈良時代包含層より出土した例〔鏡山1962〕がある。

官衙出土例としては、遺構には伴わないものの、福岡県太宰府市・大宰府史跡第105次調査溝状遺構SX3095で出土した水滴状脚の獣脚硯〔石松ほか(編)1988:15-16〕、奈良県高市郡明日香村・石神遺跡の整地層から出土した獣脚硯(図79)〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1985:64,66〕がある。

これらはいずれも、百済土器と推定されている〔杉本1987;千田1995〕が、出土した遺構には百済滅亡後のものを含む。なお、杉本は石神遺跡の例について、伴出の新羅土器に胎土・色調が似ると報告されたとしている〔杉本1987:17〕が,一般的な陶質土器の色調に似るのみである。

舶載品でないが、嶋田光一は須恵器有蓋三足壺が6世紀末・7世紀前葉ごろ北部九州や東海地方に出現することを指摘し、大阪府・陶邑からの系譜ではなく、百済系統の可能性があるとし、工人の渡来を想定している〔嶋田1993〕。

百済の滅亡後、その故地でも早い段階で新羅土器がみられることは、忠清南道扶余郡・扶蘇山城〔白井1994〕や定林寺址〔尹武炳1987;李煕濬1994〕に明らかである。在地の伝統はいくぶん残ったであろうが、百済の滅亡は百済土器の終焉をも意味した。

(2) 高句麗土器−唯一の事例とその意義

永らく、日本では高句麗土器が出土していないと考えられてきた。『日本書紀』などの高句麗との交通記事も伝説的なものを除けば極めて乏しく、飛鳥時代に高句麗系渡来人の活躍があるとはいえ、実物資料としての高句麗遺物は乏しかった。

そんな中で、福岡市博多区・博多遺跡群第17次調査土坑SK175出土の高句麗土器・長胴壺〔柳沢・杉山(編)1985:15〕は、これまでに国内で知られている唯一の高句麗土器出土事例である。この高句麗土器については以前触れたことがある〔白井1996d・1998a〕が、現状での見解を明らかにしておこう。

この高句麗土器長胴壺は集落内の土坑SK175から、多量の須恵器とともに出土した。須恵器の多くは小田富士雄の編年による九州IV期に属し、ほかに九州VI期の須恵器もみられる。筆者は、土坑SK175に切られている竪穴住居跡SB173の出土須恵器が九州IV期に属すことから、土坑SK175出土の九州IV期須恵器は竪穴住居跡SB173からの混入とみなし、残る九州VI期須恵器が高句麗土器に伴うとした〔白井1998a:95-96〕。

しかし、ここにいくつかの問題がある。まず、竪穴住居跡SB173と土坑SK175からは、それぞれ少なからぬ量の須恵器が出土しているが、遺構間の接合資料は見出せなかった。もし、埋没過程で一方から他方への遺物の混入があったのなら、遺構間接合資料がありそうなものである。また、竪穴住居跡SB173に隣接する竪穴住居跡SB177もまた九州IV期須恵器を出土し、両住居跡が同時に営まれたとは考えがたいほど近接していることから、九州IV期の存続期間が長かったことがわかる。一方、博多遺跡群を初めとして北部九州の集落遺跡には九州V期須恵器が乏しい。さらに筆者は、発掘時に高句麗土器の出土位置を維持するための土柱が調査終了間際まで残されていたことを明らかにし〔白井1998a:83-84〕、調査の最後に高句麗土器の下の土柱から取り出された須恵器を特定した〔白井1996d〕が、それは九州IV期と九州VI期の須恵器が1点ずつであった。

以上から考えて、九州IV期と九州VI期の須恵器は高句麗土器とともに、この土坑SK175において共伴しているものと認識しなおしたい。最近、北部九州の須恵器編年の見直しを迫る声が盛んだが、そのうちの山村信榮が設定するC期に相当するかもしれない〔山村1999〕。

高句麗土器が博多遺跡群にもたらされる機会は、おそらく高句麗が唐・新羅との抗争により滅亡する直前ころであろうと考えられる。新羅の朝鮮半島統一過程で、倭政権が宮都を一時的に九州に移し、半島情勢に対処したことも想起されよう〔白井1998a〕。そうであれば、土坑SK175の出土遺物は、日本唯一の高句麗土器を含むことのみならず、伴出した須恵器の年代を天智朝初年と想定できる点で、重要資料といえよう。

(3) 新羅土器−印花文土器

この時期の新羅土器の特徴として、高杯や台付長頸壺の短脚化が挙げられる。多くの場合透窓も開けられなくなっている。また、文様では6世紀後半に始まった印花文の存在が無視できない。これらの器形や文様の変化は、統一新羅時代につながる要素の登場ともいえる。

なお、日本出土の印花文土器について、かつて「統一新羅系土器」として言及されたことがある〔江浦1987・1988〕。これらは、印花文を統一新羅以後とするかつての編年観に依拠したものであったが、提唱の当初から、江浦洋は統一以前の新羅に印花文が存在する可能性を意識しており、統一以前の印花文の存在が明らかとなる〔崔秉鉉1987;宮川1988〕と、江浦自身もほどなく「統一新羅系土器」の用語を用いなくなる。しかし、用語が一人歩きし、印花文を施す新羅土器を「統一新羅土器」とみなす傾向がいまだに続いていることは遺憾である。

再び筆者の新羅土器編年によると、新羅IV期以降がこの時期に当たる。なお、筆者は8世紀以降の新羅土器について編年案を持っていない。三国抗争期・統一新羅時代の新羅土器編年としては宮川禎一の研究〔宮川1988・1989・1993〕が有効であり、筆者もそれを利用してきた〔白井1998b・1999〕が、最近、宮川が自身の印花文編年に修正を加えている〔宮川2000〕ので、適宜これを利用する。

新羅IV期

新羅IV期は、口縁部を内側に強く折り込む形態の蓋に環状つまみがついて蓋の主流となり、一方、高杯にはIIIC期のそれを引き継ぐ短脚高杯が用いられ、結果的に杯・蓋の基本的な形態が同一となる。慶尚南道蔚州郡・温山6号墳〔沈奉謹1991〕、同道梁山郡・下北亭8号墳第2次屍床〔沈奉謹・朴廣春1992〕、同郡・北亭里1号墳2次床面〔沈奉謹1994〕の出土土器がそれに当たる。北亭里1号墳では新羅III期の台付長頸壺がともに報告されているが、台付長頸壺の平底化に伴う急速な型式変化がこの時期に位置づけられよう。つまり,IV期はIII期とV期の間の過渡的な段階と思われる。例が少なく、地域も偏っているのは、時間幅が極めて短く、こうした変化の進行した地域が限られていたことを示すかもしれない。

新羅領に編入された旧加耶地域では、前時期である新羅IIIC期まで、あるいはこのIV期までで廃絶、ないし造墓活動が衰える古墳群が多くみられ、このころ何らかの社会的画期を迎えたものとみられる。領内の人民を徴発しての南山新城の建設(591年)が、古墳の廃絶・減少に関連するとすれば、IV期は6世紀末ごろの時期であろう。

玄界灘沿岸では福岡市早良区・山崎古墳群C-1号墳出土の蓋〔濱石(編)1994:26-27〕が挙げられる。また、新羅III期までは周辺地域よりも陶質土器の少なかった福岡平野の例として、乙金山西麓に分布する福岡県大野城市・王城山C-9号墳石室床面出土の蓋、C-5号墳周溝出土の壺(図61)、C-6・7号墳間周溝出土の蓋、C-16号墳出土土器片〔酒井(編)1977;小田1978b〕がある。

畿内地域では、正確な所属時期は知りえないが、大阪市中央区・難波宮跡出土の台付長頸壺口縁部破片〔江浦1989b;埋蔵文化財研究会(編)1989;江浦1994〕が6世紀末ごろと思われる。

渡来系氏族・秦氏の墓所と推定される京都市西京区・大枝山(おおえやま)14号墳(陶邑TK209型式)出土の杯は、伴出の須恵器と胎土・色調がはっきり異なるという〔上村・丸川(編)1989:42,62-64〕。その形態は新羅IIIC期からIV期ごろと思われる。

新羅新羅VA・VB期

新羅VA期は壺形土器の胴部が丸く、最大径が高い位置にある。印花文は1b式が多く、1a式もいくらかみられる。なお、印花文1b式には、宮川がかつて1a式に位置づけていた文様の一部(筆者が印花文1a式新相と呼んだもの〔白井1998b:47〕)が繰り入れられている。

対馬には長崎県上県郡上対馬町・コフノ[阜采]遺跡9号遺構出土長頸壺底部〔藤田(編)1984:36-37〕がある。同郡峰町・下ガヤノキ遺跡採集の長頸壺(?)胴部〔清家1976〕は、コンパス文であれば、この時期としては異例である。

福岡市の早良平野は、この時期も新羅土器の多くみられる土地である。福岡市早良区・三郎丸B-3号墳では印花文1a式の長頸壺が出土している〔小田1988:78;二宮・大庭(編)1996〕。また、最近報告された同市西区・金武古墳群吉武G-4号墳周溝出土の新羅土器長頸壺も同様の事例である〔荒牧(編)1998:33-34〕。さらに、福岡県大野城市・王城山C-15号墳出土の土器片〔酒井(編)1977:125〕もこの時期であろう。

畿内では、京都市右京区・大覚寺3号墳出土の壺〔安藤1976a・b〕がある。

新羅VB期は、壺形土器の胴部が上下に潰れた感じになるが、曲線的な形を維持している。文様はほぼすべて印花文1b式(印花文1b式古相・新相〔白井1998b:47〕)である。

北部九州の墳墓では、福岡県大野城市・王城山C-11号墳周溝出土の長頸壺(図60)〔酒井(編)1977:85-86;小田1978b:124-126〕、同県宗像市・相原(そうばる)2号墳出土の壺胴部破片(図63)〔酒井(編)1979:11-12;宮川1991〕がある。墳墓以外では福岡市博多区・博多遺跡群第33次調査地点で、当該期の遺構には伴わないものの、12世紀中ごろから13世紀初めの井戸SE172〔加藤(編)1988:52〕から新羅土器が出土しており〔加藤(編)1997:Fig.6-64〕、器形や印花文より7世紀中葉とみなされる。この時期の博多遺跡群のあり方〔吉留1993〕からして、副葬品ではなかろう。博多が交渉の拠点の一つとして利用されていたことを示している。

畿内では奈良県宇陀郡榛原(はいばら)町・神木坂(かみきさか)3号墳出土の壺〔柳沢(編)1988:58-59,61-62〕が墳墓出土品である。このほか奈良県桜井市・阿部ノ前採集の壺〔清水1993:727-728〕などがある。

大阪市中央区・東中学校跡地出土の長頸壺(図64)〔伊藤1991:4〕は官道沿いの遺跡の出土例である。

新羅VA・VB期のうちでも、時期を細かく決めがたいものとして、山口県美祢(みね)郡秋芳町・国秀(こくしゅう)遺跡竪穴住居跡SB-26出土の高杯〔岩崎ほか(編)1992:23-24〕は、同じ住居からスラグの出土が報告されるなど、「冶金に関る遺跡」と考えられている〔岩崎ほか(編)1992:10、36〕。また、三重県鈴鹿市・伝石薬師東古墳群出土の印花文蓋は、器形は新羅III期に多いものであるが、三角形文をスタンプで表現するところからみて、7世紀以降のものであろう〔埋蔵文化財研究会(編)1989:608〕。

新羅IV期から新羅VB期(三国抗争期)の北部九州における新羅土器の様相をみると、博多の例以外は墳墓からの出土であることがわかる。いずれも丘陵に造営された群集墳であり、出土遺物の主体は大量に副葬された須恵器である。宗像地域や早良平野のような、以前から舶載土器の多かった地域のみならず、間の福岡平野で確実な副葬事例がみられることも、この時期の特徴である。分布地域は海から遠からぬ丘陵であり、後の大野城・水城(みずき)・基肄(きい)城ラインの海側に分布している。玄界灘沿岸地域では地域首長が独自に新羅地域と交渉して新羅土器を入手していたものと考えられる〔白井1998a〕。

これ以前の時期にあまり新羅土器の出土が知られていない畿内に新羅土器の集中がみられるのもこれ以後の特徴である〔定森1993:23〕が、九州で古墳からの出土が大半であるのに対し、畿内では宮都・官衙・寺院・生産関係の遺跡からも出土するという傾向がある〔江浦1987:119〕。江浦洋は、このころの古墳より出土する新羅土器を「氏族レベルあるいは個人レベルでの搬入」と推定している〔江浦1987:120〕。

すなわち、三国抗争期の新羅土器は、北部九州と新羅との交渉ルートを倭政権が利用することによって畿内まで運ばれたのであり、北部九州の在地首長は朝鮮半島との独自の交渉権を留保していたと考えられる。その前提条件として、本州に朝鮮産土器の乏しい6世紀後半において、北部九州に新羅土器が多くみられることに現れているような、この地と朝鮮半島との関係の深さが重視されたのであろう。

新羅VC期〜8世紀中葉

新羅の統一事業が成し遂げられるころ、印花文においても縦長連続文の採用によって新たな文様構成が生まれた。新羅土器は7世紀後半以降の日本列島にも多くもたらされたが、その分布は、6世紀末〜7世紀中葉のあり方とは異なっている。

まず、対馬においては長崎県上県郡上対馬町・コフノ[阜采]遺跡10号遺構出土の長頸壺(図65)〔藤田(編)1984:36-37〕がある。

北部九州では墳墓への副葬事例がなくなり、代わって限られた地点での出土が知られるようになる。大宰府では,福岡県太宰府市・大宰府史跡第54次調査整地層出土の壺〔石松ほか(編)1979:22-25〕,同市・大宰府条坊跡第115次調査SX164出土の長頸壺〔狭川1993:827-828〕、鴻臚館では、福岡市中央区・鴻臚館跡SD-08,SD-26、SB-31や整地層出土の土器片(図66)〔山崎(編)1993〕、同区・福岡城址内堀外壁石積出土の蓋〔折尾・池崎(編)1983:Fig.25-10〕が知られている。これらはいずれも倭政権の対外交渉機関(大宰府は西海道の内政機関を兼ねる)である〔白井1998a〕。また、福岡市南区・大橋E遺跡第2次調査SX08土壙で印花文2式、SX10土壙で印花文4式の土器片が出土した〔埋蔵文化財研究会(編)1989:138;横山(編)1990〕が、この遺跡は大宰府・鴻臚館を結ぶ官道・水城西門ルート〔山村1993〕上にある。また、福岡市博多区・井相田(いそうだ)C遺跡出土の新羅土器〔山口(編)1987:89〕は時期を限定しがたいが、この調査では主に奈良時代の遺構が調査されており、また、この遺跡が水城東門と博多を結ぶ官道・水城東門ルート〔山村1993〕上にあることは示唆的である。このように、北部九州では、この時期の国家的な交渉ルート上に新羅土器がみられるのであり、7世紀中葉以前のような、北部九州の在地首長に留保された対外交渉権が解消されていることがわかる〔白井1998a〕。

なお、福岡県久留米市・権現塚古墳周溝より採集された蓋〔立石(編)1995:103〕が知られているが、古墳と時期が合わず、筑後地方にこの時期の確実な新羅土器の出土は知られていないので、参考として挙げるにとどめる。熊本県・伝人吉出土の壺〔宮川1994〕も同様である。

瀬戸内海沿岸では、今のところ統一新羅土器がほとんど出土していない。これは,官道としての山陽道の整備にもかかわらず、新羅使が北部九州から海路で難波に向かうことが慣例であったため〔平野1988:34-35〕であろう。限られた事例としては、愛媛県周桑郡小松町・船山出土と伝える盒子がある。蓋が印花文3式、身が2式である〔正岡1995〕。また、内陸になるが、島根県鹿足郡津和野町から出土と伝える印花文盒子〔平野(編)1992:24〕は新羅VC期・印花文2式に位置づけられるものである。

畿内でも、新羅土器は主に宮殿・官衙関係の遺構から出土する。奈良県高市郡明日香村・石神遺跡南北大溝出土の長頸壺(図62)〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1985:64,66〕は、印花文1b式で、従来の編年では遺跡の年代からやや遡る時期のものであるが、出土状況からみて藤原宮期に位置づけられる。実は、宮川が7世紀前半以前に置いた印花文1b式を施す壺形土器は、藤原宮期の遺跡で多数発見されている。これは印花文分類の編年としての有効性に関わる、無視しえない資料である。

また、8世紀以降の宮都出土例として、千田剛道は平城京で出土した統一新羅土器4件(図69)を紹介している〔千田1989〕。

官道関係では、大阪府の事例が知られる。八尾市・東郷遺跡出土の長頸壺〔江浦1989a:56-57〕、羽曳野市・野々上(ののうえ)遺跡出土の長頸壺〔笠井ほか(編)1988:77,79〕、藤井寺市・国府(こう)遺跡(大津道推定地)出土の長頸壺片〔埋蔵文化財研究会(編)1989:356-357〕があり、東郷遺跡例は8世紀前半ごろと推定され、野々上遺跡や国府遺跡の例は奈良時代中ごろに位置づけられる。しかし、注意すべきは、野々上遺跡や国府遺跡の新羅長頸壺は印花文1b式であり、器形も新羅VB期に遡り、宮川や筆者が想定してきた年代よりも伴出する須恵器・土師器がはるかに新しいということである。しかも、飛鳥時代の土器の混入はほとんどなく、新羅土器だけが偶然に混入したとは考えにくいため、やはりこうした器形・文様が8世紀中ごろまで存続したと考えるべきであろう。

再び東郷遺跡例をみると、これに用いられたスタンプ文は、水滴形文と重弧文を合わせた形の縦長連続文である。類例は奈良県高市郡明日香村・石神遺跡にもある。宮川は、印花文1式から2式への変化について、三角形文+円弧文構成が崩れて生じた円弧文の大量押捺を経て円弧文を連ねた縦長連続文が成立したと説明づけたが、東郷遺跡や石神遺跡の事例は、三角形文+円弧文構成が忘失されぬままに(あるいは、むしろ忘失されなかったがゆえに)縦長連続文が成立した、という新たな説明を導くであろう。この場合、1b式はその型式設定の意義自体が問われることとなり、また、1b式と2式を時間差として分離することは難しくなる。

寺院では、大阪市天王寺区・四天王寺食堂跡〔中村(編)1986〕出土の印花文長頸壺と思われる肩部破片がある。共伴遺物は四天王寺創建ころのものという〔埋蔵文化財研究会(編)1989:352-353〕が、印花文は8世紀ころのもののように見受けられる。

生産遺構からの出土例は、大阪府南河内郡美原町・太井(たい)遺跡出土の碗(図67)〔江浦1987〕、奈良県高市郡明日香村・西橘遺跡廃棄土坑SX-07出土の蓋〔埋蔵文化財研究会(編)1989:473〕が挙げられる。また、報道によると、奈良県高市郡明日香村・飛鳥池遺跡から新羅土器の蓋が出土しており、官営工房での渡来人の活躍を示すとも考えられる。この土器は藤原宮期に時期を限定できそうであるが、その印花文は2式である。藤原宮期にみられる新羅土器壺の多くが印花文1b式であるのに対し、飛鳥池遺跡などの蓋が2式であることは、同時期でも器種によって文様の型式差があることを示唆する。

畿内ではこのほか、奈良県天理市・長林新池採集の壺〔村瀬1991〕、同県橿原市・南山古墳群出土の蓋〔阪口1986;宮崎・江浦1989:46,49〕がある。後者は古墳に伴わないようである。

関東では、宮都・官衙以外の、この時期としては特殊な事例が知られている。栃木県の旧下野国河内郡を中心に分布する集落出土例である。やや瓦質焼成の碗が宇都宮市・前田遺跡竪穴住居跡SI097号〔宮崎・江浦1989:46-47;宇都宮市教育委員会(編)1991:169-170〕と栃木県芳賀郡芳賀町・免の内台遺跡竪穴住居跡SI-306(図68;7世紀末〜8世紀初頭)〔宮崎・江浦1989:46-48;山武考古学研究所(編)1992:224,319〕から出土している。また、栃木県下都賀郡石橋町・郭内(くるわうち)遺跡竪穴住居跡SI-03出土の壺形土器口縁部〔(財)栃木県文化振興事業団(編)1987:25,27〕も、近年は新羅土器と考えられている。これらはいずれも印花文を持たないものであるが、口縁部の沈線の様相など、極めて酷似している。集落での日常の使用に供する土器の可能性がある。

最近もさらに事例が増加しており、栃木県下都賀郡石橋町・惣宮(そうみや)遺跡では印花文土器が出土している〔(財)栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター1999:5〕。

このほか、免の内台遺跡と同一遺跡と思われる栃木県芳賀郡芳賀町・芳賀工業団地内遺跡竪穴住居跡SI-014から、広口壺が出土しているという〔宮崎・江浦1989:48;山武考古学研究所(編)1992:342〕。

これらの事例は、いずれも7世紀末から8世紀初めという極めて近接した時期であり、集落の出土例という共通性があり、土器も生活用の器種が主であるから、渡来人のこの地への移住が想定できる。ただし、新羅土器が少数にとどまり、竪穴住居の構造なども在来のものであることは留意すべきであろう。酒井清治は、『日本書紀』に持統元年から4年(687〜690年)にかけて、新羅人の下野移住が記されていることに着目しており〔酒井1996:188〕、妥当であろう。さらにいうならば、渡来人を下野・武蔵に移住させた記事が、庚寅年籍(690年)の作成を命じた詔(『日本書紀』巻第30持統3年閏8月庚申条、持統4年9月乙亥朔条)の時期に近く、安置記事の一部に「賦田受稟使安生業」の決まり文句がみられることを指摘しておきたい。つまり、近い将来の造籍事業を念頭に置いた移住・定着政策であった可能性を想定するのである。同様に高句麗人・新羅人の移住が記録されている武蔵国を初めとした地域でも、今後の調査成果が期待される。

以上、新羅が朝鮮半島を統一し、日本でも律令体制が整うころの新羅土器をみると、国家間交渉のためのルートがはっきり定まり、その途上に新羅土器が出土していることがわかる。北部九州では墳墓への副葬がなくなって官衙・官道での出土ばかりになり、在地首長が留保していた交渉権は、干渉戦争の時の筑紫遷宮期を境に倭政権によって接収されたようである〔白井1998a:104〕。

8世紀後半〜10世紀初頭

最近、宮都・官衙・寺院遺跡以外で8世紀後半ごろの統一新羅土器が出土しており、注目される。まず、島根県江津(ごうつ)市・古八幡付近遺跡で印花文の瓶の破片が出土したと報道されている。大阪市中央区・大坂城跡91年-34次調査谷状遺構(奈良後半)では雑器とみられる瓶が出土している〔積山1994:52-53〕。栃木県河内郡南河内町・落内(おちうち)遺跡では、印花文を施した碗が出土した〔下谷1998:4〕。栃木県では唯一時期的に離れた資料ということになる。

鳥取県倉吉市・大原廃寺講堂P2掘り方出土の蓋〔眞田ほか(編)1999:37-39〕は、文様などはないが、同じ調査で出土した須恵器とは明らかに異なるので、新羅土器と推定されている。なお、この寺では瓦により分期された第4段階(8世紀末)に新羅系の瓦が登場するという。この時期に比定してよかろう。

9世紀ごろに位置づけられているのが、福岡市東区・多々良込田(たたらこめだ)遺跡出土の瓶(図70)〔山崎(編)1985:103,108〕である。弧状の縦長連続文をC手法で斜方向に展開するという文様で、印花文の衰退を示している。

福岡市東区・海の中道遺跡では扁瓶(図71)が出土した〔山崎(編)1982:41,46〕。この調査では、中国銭の出土から遺跡の形成が「10世紀前半から中頃にかけて」と推定され〔山崎(編)1982:9〕、扁瓶は新羅末期に位置づけられる。海の中道遺跡は大宰府に関連した公的性格の強いものと考えられている。

この時期の新羅土器は、前段階で主体をなした宮都・官衙・寺院からの出土が減少している。大原廃寺からの出土はあるが、倉吉という立地や、新羅系瓦の存在から考えて、都を介さず直接に新羅と交渉した可能性がある。海の中道遺跡の扁瓶も、遺跡自体は公的性格を帯びるとはいえ、正式な国家間交渉による入手とは限るまい。

栃木の例は、前代に続く渡来人安置による可能性はあるものの、そのほかの出土例は、なおさら国家間交渉の可能性が低いものである。むしろ、民間の交易などに伴って土器が移動しているのではないだろうか。

当時、日本と新羅の公式の外交関係は衰退しつつあり、また、新羅も次第に力を失っていた。公式の交渉が衰退する一方で、在地への規制が弛緩し、公式ルートを介さない交渉(私貿易)が次第に盛んになったと考えられる。そこでは、北部九州から瀬戸内経由で大阪湾に至るルートにこだわる必要はなく、地域の事情でそれぞれの交渉を持ったことであろう。

いわば、本来の姿に戻ったのである。

(4) 施釉陶器−緑釉・二彩・三彩

三国抗争期に新たに日本列島で出土をみるようになるものに、百済と新羅の緑釉(鉛釉)陶器がある。

百済緑釉陶器は、かねてより6世紀末ごろに登場したと考えられてきた。全羅南道羅州市・伏岩里1号墳から出土した緑釉托盞は、忠清南道公州市・武寧王陵出土の銅托銀盞との比較や、伴出土器などから、6世紀前・中葉に位置づけられている〔韓永煕ほか(編)1999:184、186〕が、今のところ遊離した事例である。

一方、新羅緑釉陶器については統一以後のものとする考えが根強かった〔李浩炯1992〕。しかし、この間進展していた印花文の研究などから、統一以前の新羅緑釉陶器の存在は明らかである〔白井1998b〕。また、日本出土の事例については最近集成が行われており〔愛知県陶磁資料館・五島美術館(編)1998〕、参考になるが、資料の解釈に若干疑問もある〔千田1998〕。

筆者のみるところ、截然とは分かれないが、百済緑釉陶器の胎土は白色か青灰色のような冷たい色調、新羅緑釉陶器は淡黄色のような暖かい色調が多いようである。また、器形や文様(連弧文か印花文か)などももちろん手がかりとなる。

また、二彩・三彩のような多彩釉の陶器は、今のところ百済・新羅の故地に遺例が知られていない。

ただし、施釉されているから舶載、というわけにはいかない。大阪府南河内郡河南町・塚廻古墳の陶棺は緑釉が施されているが、陶棺の朝鮮半島からの輸送は考えがたく、すでに国産が始まっていたとみなさねばならない。また、奈良県高市郡明日香村・飛鳥池遺跡では、藤原宮期の富本銭など、「銅の工房」「鉄の工房」「金・銀・玉類の工房」の各種工房が調査されているが、その中に「複合鋸歯紋状の刻線紋を施した鉛釉土器があり、またこれと同質のラグビーボール形と短冊形をした小型土製品も出土した」という〔花谷1999:122〕。藤原宮期には鉛釉技法が定着していたと考えられ、以下にみる施釉陶器が必ずしも舶載品とは限らぬことを、留意しておくべきであろう〔巽1998:20〕。

百済緑釉陶器

奈良県橿原市・藤原京六条三坊東西溝より出土した緑釉獣脚硯(図80)〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1987:20-21〕は、千田剛道により百済製品と推定されている〔千田1995〕。胎土なども百済のそれに近そうであるし、脚部・口縁部の作出法も、忠清南道・伝扶余出土例〔百済文化開発研究院事務局(編)1984:290-291〕に似ている。

京都府城陽市・久世廃寺講堂周辺整地層で出土した硯の蓋と考えられる緑釉陶器〔近藤ほか1981:32〕や、大阪市中央区・大坂城三の丸谷部9c層から出土した緑釉円面硯蓋(図78)〔(財)大阪文化財センター大坂城跡発掘調査事務所ほか1991:42〕は、口縁部に並ぶ円文がスタンプでなくヘラガキであることから、あるいは百済系統かと思われる。

いずれにしても、新羅緑釉陶器よりも少数であることに変わりない。畿内地方にしか確認されていないことは、新羅緑釉陶器のあり方と同様の傾向を持っているといえる。また、なぜか硯ばかりであることは興味深い。

新羅緑釉陶器

新羅緑釉陶器の分布は、三国抗争期・統一新羅時代の新羅土器とは異なり、九州に出土例がなく、大半が畿内中枢部に分布し、ごく一部が関東地方からの出土である。一方、宮都・官衙・寺院からの出土が多いことは新羅土器と同様である。土器編年でいう新羅VB期以降のものである。

宮都関連では、奈良県高市郡明日香村・石神遺跡の第11次調査でローマングラス形の緑釉杯が出土している〔愛知県陶磁資料館・五島美術館(編)1998:45〕。奈良時代には平城宮東院出土の緑釉印花文瓶(図75)があり、千田剛道によると、「統一新羅の製品は宮・京ともにみいだされるが、施釉のものは宮内に限られる」〔千田1989:36〕という。

官衙・官道に関係する出土例としては、大阪市中央区・東中学校跡地の土坑出土の緑釉長頸壺片(図73)〔江浦1988;伊藤1991〕がある。上町台地の北端という交通の要衝に位置する。大阪府藤井寺市・小山遺跡SX202では緑釉と印花文を施す瓶が出土している〔新開(編)1997:49〕。縦長連続文をA手法(単純押捺手法〔宮川1988・1989〕)で押捺することから、7世紀後半の印花文2式のようにも見えるが、8世紀以降に多いとされる隆帯文を縦に貼付した後に縦長連続文を押捺しているので、A手法以外は用いえなかったのであろう。縦長連続文以外のスタンプも、8世紀ごろのものとみて問題なく、しかも、SX202では8世紀中葉の平城宮土器III中段階の須恵器・土師器が出土している。したがって、この緑釉陶器も8世紀ころのものとみるべきであろう。同じころの大阪府下の官道付近に新羅土器の出土が知られることも想起される。

寺院址からの出土例のうち、奈良県高市郡明日香村・大官大寺下層SK121出土の緑釉壺口縁部破片(図74)〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1976:33-34〕は、遺構の年代から7世紀第3四半期に比定されている。同村・豊浦寺跡出土の緑釉長頸壺破片(図76)〔奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部1986:65-66〕は、出土した遺構こそ10世紀と後の時代のものとはいえ、印花文1b式であり、型式上、7世紀中葉に遡りうる。口縁部は欠くものの、肩部のかなりの部分と高台の一部があり、胎土や色調は大官大寺のそれに酷似する。内面にも施釉されており、東京国立博物館保管の長頸壺〔白井1998b:39-41〕とは異なる様相を示す。完形に復元できないものの、かなりの破片が揃っているところからみて、伝世の後、遺構と同時期に廃棄されたのかもしれない。奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町・法隆寺西院金堂基壇羽目石裏込め土出土の緑釉獣脚硯〔平城宮跡発掘調査部1981:53〕も、金堂は7世紀後半の建立であるが、千田剛道によると8世紀後葉以降の統一新羅製品であるという〔千田1995:833〕。

関東地方では千葉県富津(ふっつ)市・野々間(ののま)古墳より出土した緑釉長頸壺・蓋(図77)〔石井1977〕が著名である。三国抗争期−飛鳥時代の7世紀中葉ごろに比定される〔白井1998b〕。関東にこの時期流入した新羅緑釉陶器については、今のところ事例も限られており、解釈に窮するところである。言われているように、倭政権経由とすべきかもしれない。

また、緑釉陶器は栃木県宇都宮市・前田遺跡SI144号住居跡のカマドからも出土している(挿図4)〔宇都宮市教育委員会(編)1991;酒井1996〕。開いた部分を下にして蓋とする案〔宇都宮市教育委員会(編)1991:247〕と開いた部分を上にして器台とする案〔酒井1996:187〕とが示されている。ヘラ切り未調整の状態からして、開いた部分を上とみなすのは妥当であるが、自立させるには不安定であるし、円柱状の部分の側面に施釉後についた指紋があり、この部分は見えにくい場所として認識されていたようである。そうすると、器台というよりも、盤口長頸瓶の蓋(栓とでも言うべきか)とみなしてはどうだろうか。いずれにしても、竪穴住居跡に伴う新羅緑釉陶器として貴重な事例である。これは栃木県で同時期にみられる統一新羅土器と一連のものであろう。

二彩・三彩陶器

二彩陶器としては、奈良県橿原市・下ツ道(しもつみち)東側溝〔竹田1994:550;林部(編)1993:58〕、三彩陶器としては同県生駒郡斑鳩町・御坊山3号墳(図81)〔奈良県立橿原考古学研究所(編)1977〕からそれぞれ出土例がある。いずれも水滴状の脚を持つ獣脚硯である。これらについては、朝鮮半島ではなく、中国・唐のものという理解が一般的であろう。

特に後者については、報告において「中国、あるいは中国文化圏のどこかで、初唐前後に作られた」と幅のある認識を示していた〔奈良県立橿原考古学研究所(編)1977:31〕が、李知宴が隋末唐初と位置づけたことが通説に大きく作用している〔李知宴1993〕。しかし、李知宴は製作地について何ら論証せず、硯を中国の陶磁史に位置づけようとしているだけであり、朝鮮製や日本製の可能性は、最初から考慮されていない。朝鮮半島で多彩釉の陶器が知られていないことは事実であるが、それを生産しうる技術は当時の朝鮮半島にも、また、日本列島にも存在したと考える。したがって、下ツ道、御坊山の硯の製作地も、中国製から日本製までの幅広い可能性の中から考察すべきであろう。

筆者は、2点の硯の外堤下半が厚ぼったく作られていることに着目したい。忠清南道扶余郡・錦城山朝王寺址出土品〔百済文化開発研究院事務局(編)1984:289、433-434〕や同道・伝扶余付近出土品〔百済文化開発研究院事務局(編)1984:290-291〕、また、先に百済製品として紹介した奈良県橿原市・藤原京六条三坊東西溝出土の緑釉獣脚硯(図80)には、いずれもこの特徴がみられる。これは、獣脚の作出法に関わる技術的な理由から起こる現象ではないかと考えられる。一方、中国の獣脚硯には、あまりみられない特徴である〔吉田1985・1992〕。水滴状の脚の場合は作出法が異なるであろうが、近しい工房であれば、技術の援用や形態の類似が生じてもおかしくない。また、御坊山例の蓋とよく似た形態の灰色土器が、百済滅亡(660年)時の王宮跡と考えられる忠清南道扶余郡・官北里遺跡で数多く出土している〔尹武炳1999〕。

こうしたことから、いまだその故地に多彩釉の陶器が発見されていないものの、奈良盆地より出土した二彩・三彩陶器が百済製である可能性は捨て難い。


6.おわりに

長々と朝鮮産土器・陶器の日本における出土例をみてきた。5000年に及ぶ変遷であり、論点が定まらなかった面もあるが、特に交渉ルートとその変動について、若干のまとめをしておこう。

まず、感じられるのは、生まれながらの“交渉の窓口”や“表玄関”など存在しない、ということである。対馬・壱岐や北部九州は、確かに朝鮮製土器が目立つが、多くの場合、それは在地において必要とされたからであって、必ずしも日本の諸地域を代表して交渉していたわけではない。それは、対馬に出土しないが九州や本州の特定地域には出土する土器、北部九州に出土しないが本州の特定地域には出土する土器、などから明らかである。そうした個別の特性を無視して、「朝鮮半島に近いから朝鮮産土器も多い」といった単純な図式の中に事例を合理化してはならない。

第2に、九州玄界灘沿岸と本州日本海岸の広い範囲に渡来があるが、いずれの地に渡来するかは、大まかには出港地の違いに対応しているようである。そして、起源地の違いが到着地の違いに対応するなら、対馬が必須の中継地ではなかったことは、ここでも傍証されよう。

第3に気づかされるのは、瀬戸内海を東西に往来するのは必ずしも主要な交渉ルートではないということである。松菊里型土器や馬韓土器、三国時代の軟質土器は瀬戸内海を経て大阪湾に至るルートを経た可能性があるものの、ほかの土器も含めて一般的とは言い難い。また,瀬戸内海沿岸に分布しつつ大阪湾岸に及ぶ場合と,直接大阪湾岸に至る場合とがあり,両者は交渉の背景が異なっていたと考えられる。

以上の傾向を、朝鮮産土器の地域性が特に著しい5・6世紀についてみていくと、興味深い分布とその変動が読みとれる。便宜上、新羅土器編年に従って時期を細分し、叙述してみよう。

新羅I期並行期の上限は大庭寺TG232型式ごろであるが、下限となる須恵器型式は特定しがたい。5世紀中葉ごろであろう。

対馬に咸安地域加耶土器が多いのは、最も近い対岸であるためと思われる。いわば“近所付き合い”であろう。

北部九州には、集落で金海・釜山地域加耶土器と馬韓土器がみられるが古墳に副葬されるのは馬韓土器であり、初期須恵器には泗川・固城地域加耶土器の影響がみられる。馬韓と小加耶(泗川・固城地域)は隣接しており、蟾津江河口から渡海したものと思われる。

大阪府では馬韓土器がみられるが、主に集落の出土であり、古墳では金海・釜山地域土器がみられ、北部九州とは逆転した様相を示す。

本州日本海岸・東日本に金海地域加耶土器と新羅土器が多くみられるが、新羅土器の一部には釜山地域のものを含むであろうから、これらの多くは洛東江河口から出航したものであり、対馬を介さず日本海岸に上陸したのであろう。日本海岸から滋賀・岐阜を経由して東日本へのルートが想定できる。また、咸安地域加耶土器も少数ではあるが、金海地域加耶土器・新羅土器と同様の分布といえる。

和歌山への金海地域加耶土器の渡来は陸路ではなく、関門海峡から四国の南側を通過したかもしれない。

新羅II期並行期の上限は陶邑TK23型式以前のいずれかの時期であろう。下限は陶邑MT15型式ごろである。5世紀後葉から6世紀前葉に当たる。

対馬では前段階の咸安地域加耶土器に代わって、泗川・固城地域加耶土器が多くみられるようになる。

北部九州では陶邑TK23型式ごろ、百済南遷の影響で百済土器が登場するが、ほどなく目立たなくなり、代わって泗川・固城地域加耶土器がみられるようになる。馬韓土器もこの時期まで副葬されている。やはり蟾津江河口付近からの交渉ルートであろう。また、6世紀に入って高霊地域加耶土器がみられるようになる。

中四国には高霊地域加耶土器と新羅土器がみられる。高霊地域加耶土器はこの時期に目立ち始めるが、朴天秀が想定するように、蟾津江河口付近に積出港を確保し、交通路を整備したことに関係するであろう〔朴天秀1998:107-108〕。泗川・固城地域加耶土器や馬韓土器と似た交渉ルートといえるが、ただ、九州のみならず、四国・東日本に交渉ルートが延びている。

本州日本海岸・滋賀・東日本地域には新羅土器がみられるが、金海地域新羅土器を含み、ほぼ前段階の金海地域加耶土器の分布地域を踏襲している。金官加耶が新羅の勢力下に入っても、同じ交渉ルートが維持されたことを意味するのであろう。また、高霊地域加耶土器もみられる。

大阪湾岸には瀬戸内ルートで馬韓土器が出土するが、陶邑TK23型式ごろまでで、馬韓の滅亡のためみられなくなる。また、内外の情勢は難波津の機能に何らかの変更を迫ったようである。

新羅III期並行期の上限は陶邑TK10型式、下限は陶邑TK43型式である。6世紀中・後葉に当たる。

この時期に舶載される朝鮮産土器は、ほぼすべて新羅土器である。しかし、前段階まで新羅土器の多かった本州日本海岸・滋賀・東日本地域への新羅土器の搬入は目立たなくなる。代わって新羅土器が目立ち始めるのが対馬と北部九州地域である。いずれも新羅II期並行期までは新羅土器が少なかった土地である。

もしも、金官加耶の投降(532年)とともに洛東江河口から本州日本海岸・滋賀・東日本地域への交渉ルートが途絶したという想定が許されるならば、いくつかの推論を導くことができる。

すなわち、新羅II期並行期の本州日本海岸・滋賀・東日本地域の新羅土器は、やはり金海地域を介したものであり、金海地域との交渉は5世紀半ばまでで途絶えたわけではなかった。また、新羅に金官加耶が投降したことは、積出港としての洛東江河口の使用権を金官加耶が放棄したことを意味すると考えられ、それ以前の交易には金官加耶の裁量権が多く留保されていたのであろう。これは、朴天秀の想定とは異なる〔朴天秀1995〕。

一方、新羅III期に北部九州と和歌山に搬入された新羅土器は、国内での再移動の可能性が少ないものであり、それぞれ独自の交渉ルートを維持していたと思われる。

このころ対馬にも新羅土器が多くみられることは、一つの手がかりとなる。すでにみたように、対馬での朝鮮産土器の出土傾向は、日本列島のいずれの地域とも一致しない。むしろ、最も近い地域との“近所付き合い”が目立つのであり、新羅III期に至って新羅土器が対馬で多くみられるのは、慶尚南道の南海岸に新羅の勢力が及んだからであろう。その向かう先は、大加耶と百済が積出港とすべく争っていた蟾津江河口が考えられる。

したがって、新羅II期と新羅III期の間に起こった朝鮮半島での政治変動は、交易権をめぐる争いを伴ったと考えられる。

これを『日本書紀』の記事と対比してみよう。滋賀・北陸・東海地域という、洛東江河口を介した新羅土器分布地を基盤に政権についた継体は、「南加羅」(金官加耶)を新羅から救うため干渉軍として近江臣毛野を派遣するが、筑紫・豊・火(北部九州)という、蟾津江河口を介した泗川・固城地域加耶土器分布地を基盤に持つ筑紫君磐井に阻まれ、新たに政権中枢の大豪族である物部麁鹿火(『古事記』では大伴金村も)を派遣して磐井を滅ぼしたという(巻第17継体21年夏6月甲午条〜22年12月条)。これもまた、洛東江河口で進行しつつある交易権の変動に対処するため、交易ルートの権利を争ったものと思えてくる。

結果、6世紀中葉・後半には、北部九州と限られたいくつかの地域のみが新羅との交渉を維持することとなる。この時期の日本列島は、金工品(大刀・馬具など)のいわゆる「倭風化」が進展する。『日本書紀』にはこの後も朝鮮半島関係の記事が多くみられるが、これに対する具体的な対外行動の記事は意外に少ない。高霊・大加耶の滅亡(562年)に際して軍事介入したかに見える記事(巻第19欽明23年7月是月条)はあるが、これは591年(巻第21崇峻4年11月壬午条)に筑紫に派遣される紀男麻呂の手柄話が遡上して語られているという側面があるし、紀氏独自の交渉であったかもしれず、過大な史実性は期待しにくい。

一方、このような舶載遺物の欠如とは別に、最近検出例を増しているオンドル状遺構を伴う竪穴住居跡のうち岡山県赤磐郡山陽町・門前池東方遺跡の例は6世紀後半に位置づけられている〔則武ほか1994:50〕。古墳の出土品が主体になる陶質土器・金工品のあり方と、具体的な渡来人の活動に関わる住居跡の様相が異なることも考慮しなければなるまいが、ただ、「高霊大加耶が滅亡する前後だから、渡来人の痕跡が増えて当然である」といった予見は必ずしも通用しないようである。オンドル状遺構が6世紀後半に特に多いという印象も受けない〔松室1996〕。

本稿の対象範囲でみる限り、北部九州が交渉の窓口となり、瀬戸内海を経て大阪湾に至るルートが確立されるのは、飛鳥時代から奈良前期までの2世紀にも満たない期間である。もともと、6世紀後半に北部九州のみが新羅と交渉をしていたことと、倭政権が難波津を積出港としたことという、2つの条件が瀬戸内ルートを要請したのであり、その後、倭政権が北部九州の在地首長から対外交渉権を接収して、初めて国家の公式ルートとして確立されたのである。しかし、国家間の関係が悪化すれば、すぐにこのルートは主役の座から転落した。

すなわち、交渉の窓口や公式ルートは、それらに付託しようとする存在があってこそ成立するのであり、そうした要請が弱まれば、各地ではすぐさま地域ごとの特性に根ざした対外交渉を再開した。『三国志』や『隋書』に記す交渉ルートは、皇帝と倭王という権威によって要請されたものであり、必ずしも一般的なものではなかったのである。


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