サブスリーへの道


佐藤千恵子先生の
ウインドウスプリント

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95年の夏の終わりの事だった。
一通の通知が私の手元に届いた。
それは夏に行われた定期検診の結果であった。
本人しか見る事の出来ないその通知を空けて見た。
コレステロールOK、肝臓OK、腎臓OK、糖尿OK、肺OK、胃もOK、健康状態良好に見られた。
しかし最後の方を見ると見た事の無い言葉が書いてあった。
それは”軽肥満”と一言だけ書いてあった。
胃潰瘍の疑いとか、なら仕事を一生賢明やった結果だろうと思われるが、軽肥満、私にはショックであった。

軽肥満、この言葉を生まれた初めて診断された翌日より走り始めたのである。

そして、走り始めて3ヶ月で10キロ減量した。
3年でサブスリーを達成することができた。
今回はそのサブスリーを達成するまでの記録を作ったのである。

自分の記録を載せたりプロフィールを出す事が嫌だが、この手のHPが少ない事から、サブスリーを目指たい人、あと少しの壁にぶち当たっている人が多いため、参考になればと思いHPを作成した。
人によっては当てはまらないよと言うご意見も有るかと思いますが、あくまでも私の経験談を載せたのである。


<サブスリーとは>
サブスリーとはフルマラソン(42.195キロ)を3時間切って走る事で、男性の場合には3時間を切ることでランナーからレーサーへ、女性の場合は3時間半を切ることでランナーからレーサーへと呼ばれています。
サブスリーになって、市民マラソンでの入賞を狙えるようになり、レーサーと言われる意味が初めてわかりました。
また入賞以外にもサブスリー(男性の場合)になって始めて大きなレース(別府大分国際マラソン(別大マラソン)、福岡国際マラソン、そして東京国際マラソン)への参加資格が見えてくるようになります。


<学生時代〜社会人走る前>
学生時代に山岳部に在籍し、夏山から冬山、沢登、ロッククライミング(ただしロッククライミングは自信有りません)などで遊びまくっていました。
学校を卒業し、社会人になり山を続けいていたのですが危険である事で仲間が次々と山登りからスキーへ替わって行きました。
今から14年前、1986年の11月末、後輩と初冬の厳しい富士山に登ったのです。
その時後輩に、”先輩来年の春ここを滑ろうよ”と誘われました。
それまでにスキーは2回しかやった事がなかったのですが無謀にも来年はここ(頂上から)を滑る事を決心したのでした。
さて一度決めた約束後には引けず、その時のシーズンはがむしゃらにスキー場に通いました。
スクールも2度ほど通い、どうにかシュテムからパラレルまで出来るようになったのです。
その後、そのスクールで知り合ったインストラクターの方のスキー部に在籍をする事になるのですが...
そのインストラクターの方に富士に行く前、立山へつれていってもらいました。
標高2300mの室堂にテントを貼り、1週間山にこもりました。
剣沢、真砂沢などを滑ってきました。
そして5月の中頃、富士山の頂上から新五合目方面を7号目まで滑ったのでした。
5月とはいえ頂上直下はアイスバーン、1歩間違えると死に至る危険な行為でした。

その後スキーにはまり、基礎スキーから競技を始めたのです。
冬場にはスキーを行っていたのですが、夏場になるとたいしたスポーツもやらず体は太る一方でした。
お腹がかなり膨らんで、知らぬ間に体重は80キロに到着する寸前まできていました。
(ただし登山をやっていた頃も縦走がメインだったので体重が70キロ以上ありました)
スキー部に入り数年して(ちょうど平成1年)のころインストラクターから走る事を散々進められ走り始めたのでした。
1日3キロの距離を走ったのですが冬の時期になり止めてしまいました。
この時大町マラソンと言っても30キロのロードレースに参加しました。
結果は22キロぐらいで走れなくなり、制限時間ギリギリの2時間52分でゴールしました。
フルマラソンの距離だと4時間半〜5時間、それ以上かかったと思われます。
もう2度と長い距離、走りたくないとこの時に誓ったのでした....

年に数回夏山スキーに行ったのですが、上り坂ではヒーコラ言って、どんどん体力が落ちているのを感じていました。
その夏山スキーも白馬乗鞍頂上で打たれた雷、九死に一生を受け、どうにか下山できたのですがその事件を境に止めてしまったのでした。(その時近くの山で雷に打たれて死んだ人が出た)



<軽肥満との出会い>
そして月日もたち、1995年の8月、34歳中年に入り始めた夏の健康診断での結果です。
自分では正常だ、少し体重が重いだけ(80キロ)だと思っていたところに健康診断の結果が”軽肥満”アッパーカウントを食らった感じでした。
このままでは成人病にもなると言われまいました。
社会人のスキー部に入り、スキーをやっていた時ランニングを進められ、1年ぐらい3キロの距離を走っていたので、走るのが手っ取り早いと思い、次の日の朝から走り始めたのでした。
以前走った時に読んだ佐々木功さんの本を思いだしゆっくり走る事をしようと始めたのでした。
そのころはフルマラソンは夢の上の夢、完走も出来るものではないと思っていました。
ランナーズか何かの本で1日に10キロ走れば瘠せると書いて会ったのも思いだし、8キロ〜10キロ走る事にしました。
家の周りに米軍キャンプがあり1周すると8キロ、大回りで10キロ走れ、信号もなく走るには最高の環境だったのです。



<一気に減量>
無駄な贅肉が沢山ついてて、体脂肪も25%をはるかに越えていた体、ゆっくり走る事で脂肪を燃焼する事により、体重がどんどん落ちてきました。
1ヶ月で3キロの減量をしました。
これは面白い、体も軽くなってきたので更に続ける事にしました。
3ヶ月続けたら体重は10キロ減り、本に載っていた通りの減量は達成できたのです。
このころ親類や両親、仲間にどこかからだが悪いのではないかと思われ大変でした。
この頃は多分月間走行距離が200キロから250キロぐらいだと思います。



<思わぬ落とし穴>
体重が落ちたは良いのですが、極度の脱水症状が続いたのか、3ヶ月後の12月の終わり頃、目がチカチカしはじめました。
だんだんおかしくなり、とんぼの目のように被写体が何重にも重なって見えるようになってしまったのです。
年明けて病院に行ったら網膜静脈血栓と言われ、検査の結果手術をする羽目になってしまったのです。
またこれとは別に、大晦日からスキーに行き初日にこぶ斜面で転倒し膝をひねってしまいました。
体が軽くなって機敏に動けるようになったのですが、調子に乗りすぎたための膝をいためてしまったのでした。
96年は元旦から接骨院へ、休み明けで目の病院へそして手術、
2月には雪道で事故を起こしてしまい最悪な年の幕開けをいたしました。

走るほうは怪我にもめげず、続けましたが、冬場はスキーに行くため月間走行距離は稼げませんでした。



<フル初参加>
走り始めて1年、大町マラソンで誓った事も忘れ、フルマラソンにも出てみようかと筑波マラソンに申し込でしまったのです。
フルを完走するにはエアロビクゾーンを維持しないと行けないと言われていたのでこの時、妻に借金をして、分割でパルスグラフを購入したのです。
私の最大脈拍が220まで行くことを元に計算し、エアロビクスゾーンの70%ぐらいを最大にし挑みました。
ターゲットゾーンを155にしての初チャレンジでした。
エアロビクゾーンを越えていなかったので3時間35分で完走が出来たのです。

96年のシーズンは筑波に参加しただけでフルには参加しませんでした。



<ホノルルマラソンを目指して>
脈拍系についていたトレーニング方法を元にし、さらにLSDを続けることにしました。
ちょうどその頃スポーツクラブで走る仲間と知り合い、HASHと言う遊びを教わりました。
週1回HASHに参加して野山をかけることも始めたのです。
その走る仲間から年末のホノルルマラソンを誘われました。
妻も参加したいと言う事でこの年の目標をホノルルマラソンを完走に決めたのでした。
前年フルで完走したので何個かフルに出てみようと思いリベンジ兼ねて大町マラソンに参加しました。
そして大田原マラソンに参加して。
ホノルルへ挑みました。



<海宝さんとの出会い>
ホノルルマラソンに参加する直前、海宝さんと知り合いました。
海宝さんはウルトラマラソンの草分けみたいな人で、日本人で唯一トランスアメリカを2回それも連続完走している方です。
海宝さんから”走りたくても仕事の関係や病気等様々な理由で走れない人が沢山います。走れる時間が取れることは凄く幸せなんだよ。走れることを喜び感謝しなさい”といわれたのです。
そうから走る事がどんどん楽しくなってきました。



<通勤ランを始めた切っ掛け>
ホノルルも終わり、海宝さんと知り合った後の98年元旦
スキー場の宿で1日8キロ〜10キロしか走れない、とくに冬場はスキーに行ってしまい月間走行距離が150キロぐらいになってしまう。
どうすれば伸ばすことが出来るかなと考えたのです。
毎朝妻を車で送り、会社に行っていたのを妻が車で通勤し、走っていけばその分距離を伸ばす事に気づいたのです。
通勤ランと昼に走れば1日最低で14キロは走れることに気づきました。
早速冬休み空け早々通勤ランを開始したのです。
冬場でも月間走行距離が200キロを越すようになりました。



<25キロで魔物に捕まる>
フルに参加し始めて6度目の霞ヶ浦マラソン
この時天気も良くいつもだと脈拍を170以下で走っていたのにターゲットゾーンを180以上して走りました。
もう少し早いタイム、サブスリーを狙いたいとスケベ心を出してしまったのです。
やはりオーバーペースす。
乳酸が溜まってしまい、25キロで魔物に捕まってしまいました。
その後何キロか歩いてしまいました。
結局4時間8分もかかってしまいました。
さすがに悔しく、この日を境にまた月間走行距離が伸びるようになりました。
この時点で自分は脈拍が170以下だとエアロビクゾーンで、180以上だとアネロビクゾーンであることがわかったのです。



<荒川フルマラソンでリベンジ>
霞ヶ浦マラソンで失敗して1ヶ月後、またターゲットゾーンを下げてのリベンジでした。
この時は3時間23分で無事完走ができました。
170以下がエアロビクゾーンである事が確信をもてました。



<六無月喜多マラソンで後半を追い上げる>
六無月喜多マラソンに参加しました。
この時は前半抑え、残りのハーフから脈拍を上げていくことを試してみました。
六無月喜多マラソンでは自己ベストを更新し、3時間11分50秒で完走出来ました。
ハーフ過ぎて皆が走れなくなって着ている時にスピードを上げて追い抜く快感を味わったのでした。
なんとなくレース配分もわかってきました。



<大町マラソンで更なるテスト>
大町マラソンのコースは登り下りの多いコースで、六無月喜多マラソンよりはキツイものだと言う事はわかっていました。
前回スパートで余裕があったのを思いだし、今回もラストでスパートする気持ちで参加しました。
4月から月間400キロを越えるようになり、その成果も現れてきました。
六無月喜多マラソンよりも少し高めの脈拍値で走ったのですが余裕がありました。
残りの7キロは下り坂である事を知っていたのでスパートをかける事にしました。
脈拍を最高値近くまで上げてのスパートでした。
どんどん追いぬき、ゴールしました。
前回のタイムを3秒更新し、ゴール後も余裕でした。
この時妻と大町に住む友達はまさか私がゴールするものだとは思っておらず、友達の家でノンビリ食事をしていたとの事でした。
登り下りの厳しいこのコースをこのタイムで走れるなら1ヶ月半後の筑波マラソンでサブスリーを狙えると言う自信が付いたのです。



<サブスリー達成>
10度目のフルマラソン、今回は脈拍のターゲットゾーンを少し上げて180近くで走ろうと思いました。
今回つぶれても2週間後のクラウンメロンマラソンがあるし、1月は館山若潮マラソンもあるので気楽な気持ちでした。
筑波では脈拍を175平均でサブスリーが達成できたのです。
180近くまではエアロビクゾーンである事をつかむ事もできました。

走り始めて3年、10回目の大会でようやくサブスリーを達成できました



<後記>
霞ヶ浦で潰れて、月間走行距離が伸びた頃、毎月高尾山にトレーニングに走る仲間と知り合い、行くようになりました。
霞ヶ浦で潰れて月間走行距離が伸びた事により体重も68キロ代から62キロ代へさらに減って行きました。
昼のランニングコースも坂道を取り入れたりしました。
最初の2年間、遅筋を鍛えるLSDを続けたおかげで、速筋を鍛えるトレーニングに耐えられるようになりました。
走る以前にスキーをやっていて、スキーの基本となる上体をぶらさずホールラインに垂直、そして足の使い方(踵から内側を通って親指に行く)等がランニングにも役立っていた事を先日佐藤千恵子先生から教わりました。
靴に関しても3時間半代の時はサッカニーのJAZZを履いていたのですがサブスリーを目指すようになりレーシングモデルであるサッカニーのタヤを履くようにしました。
サイズは大きめで足の親指で地面を蹴れるようなサイズの物にしました。
色々な複合的な切っ掛けが思うように働き、偶然にもサブスリーを達成できたのではないかと思います。
後少しでサブスリーの人〜これからマラソンをはじめる人の参考になれば幸いであると思い、今回HP作成をさせてもらいました。
本分を読んでくださいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ感想聞かせてください。
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もお待ちしています





追記
<走る仲間について>
私の場合走る仲間に恵まれていたと思います。
ダイエットで走り始めて3ヶ月が過ぎ、スポーツクラブで走る年配の方(60代)と知り合いました。
その方に最初は20キロのロードレースにつれて行ってもらいました。
HASHと言う走る遊びも教わりました。
そしてホノルルマラソンにも誘われて行きました。
その人の紹介で海宝さんと知り合えました。
海宝さんに色々と教わりました。
親交を深めていくと沢山の有名な方たちを紹介してもらえました。

スポーツクラブでは山に強い女性と知り合いました。
高尾山や自宅周辺のマラニック、山中湖へのランニング合宿などたくさんの事を教えてもらいました。
その人のおかげで先日も佐藤千恵子先生のクリニックに参加させてもらい目からうろこが出るほどの事を教わりました。


丁度サブスリーを達成した頃、ランナーズのHPを見ていたら、高木さんち産地直送便を発見しました。
これはインターネットで月間走行距離を競うHPで、このHPのおかげで月間走行距離がうなぎ上りに伸びていきました。またここに参加されている皆さんとも大会でお会いし、交流を深め、大変素敵な仲間たちと知り合えました。

またスポーツクラブでも走る仲間と沢山出会い、毎週一緒に走ってもらったり、休みの日に一緒にマラニックをしてもらったりしています。

ウルトラマラソンでも沢山の仲間ができました。
ウルトラはマラソンと違い、競争でなく共走であります。
走るたび多くの仲間と知り合えます。


走る仲間に恵まれ、どんどん楽しくなる事も速くなった切っ掛けだと思っています。
これからも仲間を大切にしたいと思っています。



<伴走について>
伴走は走るための活力となります。
走れる喜びを知る事が出来るのです。

昨年秋頃から視覚障害者の伴走に参加しています。
伴走を通して様々な事を体験しました。
障害者の方々の外に出て走る事の出きる喜びを教えてもらいました。
生きる喜びも教えてもらいました。
視覚、聴覚障害者の伴走をやりましたが、その人は凄いPowerの持ち主でした。
その人は雪国に住んでいます。
冬は走れないので部屋に自転車を入れてこいでいるそうです。
雪が無くなるとグランドにアンカーを打って紐をつけてぐるぐる回って走るそうです。
恵まれない環境でも20キロを1時間30分代で走ってしまうのです。
私は、凄い恵まれた環境に住んでいるのだなと思えるようになります。

尚、伴走に関しまして、くにさん門さんのHPをご覧下さい。



<怪我について>
肩の靭帯を伸ばす。歯は折る。腕はひびが入る。顔から流血する。
数え切れないほどスキーでは怪我しました。
しかし打たれ強いのか、馬鹿なのか、怪我は名誉の勲章程度にしか思っていませんでした。
走る事による怪我や故障はさくら道以外は経験が無いのです。

しかし走り始めてから、スキーで3回ほど怪我は起こしました。

走り始めた年、大晦日に膝を痛め元旦草々接骨院に通いました。
その時目も病気になり同時通院となりました。
翌年、翌々年は故障しなかったのですが、
昨年の99年2月に、何時も行っているスキー場で転倒をして足首と膝を捻挫しました。
全治1ヶ月間ぐらいかかりました。
そして今年も2月に同じスキー場の同じ場所で転倒し、肩と腕を痛めてしまいました。
これも全治1ヶ月かかりました。
怪我をすると走れなくなります。
その期間走りたい気持ちが集うのです。
走れる喜びを知るのです。
怪我してもこれは自分へ走る気持ちを沸きたてるいいチャンスだと思い、治療に励む事が出来ました。





太っていた頃と、最近の写真を比べて見ました。
1992年10月11日
30キロを2時間52分
多分フルだと5時間以上
体重 78キロ
2000年7月29日、30日
24時間走
体重 62キロ

”2002 Soochow International Ultramarathon Results(IAU 24Hour Asian Championships)”


後記
サブスリーへの道を作成して2年が過ぎた、さくら道も完走し、24時間走で200キロも超える事が出来た。
これからも新たな目標を作り頑張っていきたいと思う

さくら道に関しては完走記を作成したので読んでもらいたい。


2001年 さくら道完走記(さくら道完走への道)


2002年 さくら道270キロ ウルトラマラソン  皆でつかんだ時間内完走
これは視覚障害者の伴走でさくら道を走った。
視覚障害者が200キロ以上のレースで時間内完走したのは、国内・海外も、これが初めてではないかと言われている。

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