剛の最期5日間の記録 -1-

記録者:父

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平成9年5月30日(金)

午後5時30分頃、妻啓子より会社へ電話が入る。

剛が自転車運転中に転倒し、ケガをしたという知らせであった。

ケガの状態は、左手首部分の複雑骨折とのことである。

妻の話によると、事故現場付近の通行人より自宅へ電話連絡があり、本人が起き上がることができないので通行人が救急車を手配してくれ、最寄りの病院である『F病院』へ運ばれたということであった。

骨折手術をいずれの病院で行うかの選択について妻から相談を受けたが、極力早い処置をした方が良かろうとの判断で当病院にて手術を受けるよう指示をした。
というのも、その前に、妻が自宅に近い『O病院』を希望し、そのことを『F病院』の医師より『O病院』へ電話で依頼してもらうが、『O病院』側の対応は極めて事務的であり、医師に取り次いでもらえないままに拒否されたという事実を聞き、病院の「たらい回し」をされている間に時間が過ぎ、症状が悪化しては大変だという思いがあった。午後8時頃『F病院院に到着するが、その時点では未だ手術が終了しておらず病室にて待機、8時40分頃、手術を終えた剛が病室へ運ばれてきた。

手術の開始時刻は7時40分頃であったということなので、所要時間は1時間である。

病室へ運ばれてきてからの剛の様子は非常に苦しそうであった。

医師や看護婦に尋ねると、全身麻酔後の覚醒症状が現れているためで、目が覚めるまでの間、しばらくはこの状態が続くだろうが心配は無いとのことだったのでひとまずは安心する。

その後も剛は苦しさのせいか、ひどく動き回るため、点滴針が固定できないというので両手を包帯状のものでベッドのパイプに縛りつけたが、それでも擦り上がるようにしてもがいていた。

そんな状況の中で何度か「剛、しっかりしなさい」とか「もう手術は終わったんだから起きなさい」などと呼びかけたり、頬をたたいたりして麻酔から覚まそうと試みたが一向に意識を取り戻す様子はなかった。
ただ、その時に剛の口から「もう〜分かったよ、しんどいねん」という苦しそうな叫びが2度聞かれた。

結果的に、それが剛の最後の言葉となってしまった。

いまから思うと、その時のもがき様は、医師・看護婦の言う覚醒症状によってうなされていたものなのか、それとも他の何らかの身体の異変によって苦しんでいたのか、疑問である。

もっとも、この時点では麻酔さえ解ければ、早ければ日曜日にも退院できそうだという程度に楽観視していたので午後10時頃、付添いを妻に任せ、取り敢えず帰宅する。

以下、午後10時から翌朝4時までの様子は妻の弁によるものである。

私が帰った後も、約30分の間、もがき状態が続く。

その後しばらくして、身体のもがきは治まったが、今度は“からえづき”を繰り返すようになり、それが30分〜40分の間続いた。

午後11時頃、外科医師が退出し、代わって当直医が後を引き継ぎ、看護婦2人と合わせ3人体制で状態を見守ることとなる。

この頃より剛の身体の動きは比較的静かになったが、ただ呼吸のスピードが早くなり息づかいも激しくなる。

午前1時頃の体温測定で37度の後半の発熱となったため座薬を注入すると同時にアイスノンを頭・両脇・両股に設置し解熱に努める。

それからしばらくの後、剛の胸部・肩にピンク色の斑点のようなものが現れ始めた。その斑点は発生と消滅を繰り返す形で継続的に現れていたようだ。

また、その頃より両足と右手全体にかけてチアノーゼ現象(?)も現れ始めた。午後3時頃、この状況を見て、当直医の指示により抗生剤の投与が行われた。(抗生剤の投与はこれが2回目。1回目の時刻は不明)

その後も状態は改善せず、体温が39度まで上がり、血圧は160程度まで上昇する。午後4時前、剛の呼吸が一瞬止まったように思われたため、医師に告げたが、当直医は「止まってはいない」と答える。

その直後、剛の顔面が一挙に紫色に変色したため、医師が呼吸をしていない事を初めて認識し、あわてて手動式の呼吸補助器を使用するが状態は悪化する一方で私の到着時刻である4時30分頃から全身痙攣が始まった次第である。

その後、人工呼吸器に切り換えたが入室を禁止されたためその時刻は不明。

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