剛の最期5日間の記録 -3-

記録者:父

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平成9年6月1日(日)晴

私と妻と洋輔の3人は、ホテルのシングルルームの一室に泊り込み、午前8時に起床。前日はあまり眠っていなかったので(妻は一睡もいていない)この夜はよく眠れた。

病院で一夜を過ごしてくれた3人の友人と共に6人でホテル近くのハンバーガー店で朝食を摂る。

その後病院へ行き、病室へ直行。様子は昨晩とほとんど変化は無い。

とりあえずは安心するが、反面がっかりしたような複雑な心境である。

午後1時過ぎ、O医師と面談する。

脳死後の治療について、最大限の努力をしてほしいとの要望を伝えたところ、その方向で善処する旨の了解を得る。

O医師の話によれば、こういう状態に陥った際の家族が選ぶ道は3通りあるそうだ。

1つは、無駄な治療を打ち切って人工呼吸器を外し、人為的に心臓を止める。この場合2〜3分もあれば心臓死するらしい。

2つ目は、点滴によって体内に注入されている栄養剤の量を徐々に減らして行き、体力を消耗させることによって死期を早めさせる。

そして、3番目の方法は、最善・最大限の努力によって心臓の鼓動がある限り生命維持治療を続けて行くという道である。

我々夫婦は3番目の道を選択した。その理由は、できるだけ長く体温のある剛の姿を看守っていてやりたい。また、医者が何と言おうと一分の奇跡の可能性を捨てきれないという思い。そして何より剛自身が、脳は破壊されていようとも、きっとその心は未だ生きたいと願っているはずだと信じたからである。

その後、見舞いに来てくれていた友人のワゴン車で新居浜の両親、早苗等と共に一旦自宅へ戻ることにする。

私自身は、当日の事故現場付近で降ろしてもらい、放置したままの自転車をさがすことにした。

あらかじめ、消防署に電話し、事故場所を確認していたので簡単に見つけ出すことができた。

自転車は歩道の植木に並べるような形で置かれていたが、前輪部分のドロ避けがネジ曲がっており、その部分がタイヤに挟まったような状態になっていた。

恐らく剛はペダルを踏み外した拍子に足がドロ避けの方に伸び、タイヤとの間に挟まった恰好で左側に転倒し、身体をかばおうとして左手を内に折るような形で地面に落ち骨折したものと思われる。

自転車はとても乗れるような状態ではなかったので近くのバイク店まで手押しで運び、仮修理をした後、その日に剛が向かおうとした淀川の堤防まで行ってみた。

時刻は4時頃で、それは事故がなければ丁度、剛がそこで2日前に一人で遊んでいたであろう時刻と同じ頃であった。

ふとそんな感慨があふれてきて、野球をしている少年達の姿や川のほとりで水の流れをながめているうちに涙がとめどもなく流れてきた。

昨日改めて洋輔に話を聞き、剛は今までにも何度か一人で堤防へ出かけていたということを初めて知らされた。

何度か家族と一緒に、あるいは亡くなった栗原の父と一緒に遊びに出かけたことは覚えているが、それにしても剛は何故この場所をそんなに好んだのだろう。

自転車で1時間近くもかかる場所へ何故一人で何度も出かけて行ったのだろう。そしてそこで一人で何をして遊んでいたのだろう。

もしかしたら、剛は一人きりになれる場所をここにもとめていたのではないだろうか。親から目から見た普段の剛は、家族に対しても友達に対しても、いつも天真爛漫に振る舞い、何を言われようとも逆らうことをせず、へらへらと笑ってばかりいた。

自己主張をするような場面はほとんど見たことが無いし、そう言えば、剛に反抗期という時期があったのかどうか記憶に無い。

また、剛は友達の数が増えることを一番の自慢にしていた。実際、弟・妹に比べ家に遊びに来る友達の数は圧倒的に多かった。

腎性尿崩症という病気を抱え、他人とは違う日常生活をしているというコンプレックスを自覚する中で親に対し、友達に対し、自分というものを受け入れてもらうために、自分を殺し、相手に合わせる術を子供ながらに、知らず知らずの間に身につけていたのではなかろうか。そして、その反動、ストレスを解消するために無意識の内に一人になれる休息の場所を求めてひたすら自転車をこいでいたのだろうか。

そんなことを考えながら涙が乾くまでの間、そこで時を過ごした。

これからは、家族全員で、もちろん剛も一緒に連れてこの堤防へ何度もきてみたい。

その後、再び事故現場に戻り、そこから事故当日、剛が通って来たであろう道を想像しそこを辿りながら自転車で自宅へ向かった。

自宅へ帰ってみると、先着していた姪のまりちゃんと有卯子ちゃんが共作でたこ焼きを作ってくれていたので5〜6個つまんで食べた。予想以上においしかった。

その後、予め約束していた友人の軽自動車を借りに行き、その足で再び病院へと向かった。

戻ってみると兄が2階の待合室で待機してくれていた。そして私の顔をみるや否や「剛の尿量が極端に減っている」と苦い顔で知らせてくれた。

急いで病室へ行ってみると、その言葉の通り尿量が激減しており、その色もかなり濃いものに変わっていた。

看護婦に質してみると、原因ははっきり分からないが、決して良くない状況だと告げられる。また、尿量が減少したことを受け、それまで流していた愉液点滴を止め、栄養ミルクだけの補給に切り換えたとのことであった。

尿が出なくなることは、終わりに近づくおおきな要因となり、今後はその動向がポイントとなるであろうと知らされる。

午後9時半頃より妻と二人で『王将』へ行き、ギョーザとマーボ豆腐とビールを食す。

食事後、病院へ戻り1階の待合室の長椅子をベッド代わりにして午後2時半頃就寝。

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