剛の最期5日間の記録 -2-

記録者:父

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平成9年5月31日(土)晴れ時々曇り

午前4時頃、妻の電話により自宅で目覚める。電話の内容は、「時々、剛の呼吸が止まるようになった。直ぐに病院へ来てほしい」ということであった。

それから約5分後、出発のための準備をしていると2度目の電話で「呼吸をしなくなったので急いで来てほしい」との催促があった。

タクシーを拾い、病院へ午前4時40分頃到着。

病室へに駆けつけると、剛は呼吸器の下で何とも言いようのない苦しそうな息づかいをしており、身体は既に痙攣を起こしていた。

私は、思わず「どういうことですか」と当直医に詰め寄ったが、医師から「部屋の外に出ていて下さい」と言われ、やむを得ず妻と共に廊下で待機する。

その後もずっと扉の隙間から中を覗き込んでいたが、様子は全く変わらないどころか痙攣がますますひどくなっているように思えた。正確な時刻は定かではないが、この時点の前後に人工呼吸器で酸素吸入を始めたようである。

同時に医師が他病院への転送を検討し始める。

まず、近場のK医大病院に電話依頼をしたが満床の理由で断られたようだ。そこで、こちらから、比較的近距離の総合病院である『KO病院』と『S医療センター』を指名したが、何故か電話すらしてもらえなかった。次に医師がダイヤルを回したのは、『M救命救急センター』であった。依頼の結果、了解が得られたことを受けて救急車の手配が行われた。

救急車が到着し、タンカで剛を運び込み、『F病院』を出発したのが午前6時頃だったと思う。

救急車には私が同乗した。車内でも酸素吸入を受けながら、剛の全身は激しく痙攣をし続けていた。

それまでの間に妻の母親、洋輔、早苗も病院に駆けつけていたので、妻を含め家族の4人はタクシーで救急車の後を追うようにして『M救命救急センター』へ向かった。

新居浜の両親には午前5時頃電話をし、およその経緯を伝えて置いた。

『M救命救急センター』に到着した時刻は6時40分頃で、到着後直ちにICU室に運ばれる。

その時刻は時間外であったため、当直医が取り敢えずの担当となったが、しばらくの後その医師より経過説明が行われた。

その内容は、・現在、容態を正確に把握するための検査をしている。・体温を下げるための処置をおこなっている。(搬入時には、42度の熱があったとのこと)・ナトリウムの体内量が異常に多いため、減らす処置をしている。・血圧を下げる努力をしているということであった。

その後11時30分頃、主治医より改めて経過説明があり、体温、ナトリウム量、血圧脈拍共に正常範囲までに回復してきたとの報告を受ける。ただ、CTスキャン検査によると、脳が全体的に若干肥大しているようであるとの説明が加えられた。

取り敢えず状態が落ち着いたので、幾分安堵し、病院近くのホテルへチェックインをした後、兄夫婦にも電話で事情を説明する。その後妻と二人で昼食を摂る。

午後2時頃、予め連絡をしていた妻の友人でU病院看護婦長をしているSさんと同じく看護婦の古屋さんが駆けつけてきてくれたので主治医に面談を求める。

Sさんが持参してくれた、剛のU病院での診断内容が記載された紹介状を主治医に手渡し、さらにU病院看護婦の立場として説明を加えてくれた。その面談の際に、主治医の方より、剛の血糖値が上がり始めたため現在インシュリンを点滴に加えているとのコメントがあった。

午後5時頃、ICU室より連絡があり、我々に入室するよう指示があり、私と妻、Sさん、Fさんの4人で入室した。

そこで、ICU室の責任者であるO医師より、現況の説明が行われた。

その説明を聞かされて、我々は失望のどん底につき落とされた。本当に目の前が真っ暗になったような思いがした。

O医師の説明の内容は次の通りである。

体温・脈拍等の数値は依然順調に推移しているが、脳の機能が著しく低下している。

2度目のCTスキャン検査の結果、最初のものに比べ、中心部の黒ずんだ部分がかなり薄くなってきている。

この事は、脳の働きの中で最も原始的かつ耐久力のある部分、すなわち脳幹と呼ばれている部分が破壊されつつあることを示している。

この状況では、恐らく他の脳機能は既に失われてしまっているであろう。

過去の経験の中で、現在と同様の状況から回復をした例はゼロである。

最終的な結論は保留するにしても、実質的には現段階において〈脳死〉状態である。ただ、身体そのものは未だ正常近く機能しているので、引き続き治療は行うが、今後については、積極的な治療は無意味なので現状維持を保つためだけの治療に専念する。

以上、絶望的な宣告を受けたのである。

最近、脳死論議を新聞・テレビでよく見聞きするが、全く他人事のように思っていた。まさか自分の子供がこんなことになるとは・・・・・

我々夫婦は、奈落の底に落とされたようなショックの中、剛の身体が温かいうちに、できるだけ多くの親しい人達に最後の姿を見てやってほしいという思いに駆られ、取り急ぎ剛と親しくしてくれた知人、友人宅へ電話をし病院への来訪をお願いした。その日の夜までに30人近くの人達が駆けつけてきてくれ、それぞれ涙ながらに奇跡を祈るように剛の耳元で励ましの言葉をかけてくれた。

むろん、剛の表情に反応はなかったが、その声はきっと剛の心に届いているであろう。

この時点から病室がICU内の個室に移された。そして、病院の配慮により、面会規則(午後1時〜2時・親族2名まで)が特例ではずされ、基本的に面会フリーとなる。

午後10時半頃、新居浜の両親と兄夫婦家族が到着する。年老いた母親の泣き叫ぶ姿を見るのが何よりも辛かった。

この日は、全員が2つのホテルに別れて泊まることにする。妻の友人の3人が病院に残り徹夜の待機をしてくれた。

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