木村朗国際関係論研究室
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Last Update :03/05/28

 

 

 

No.49

 

TITLE:「米国の先制攻撃戦略に加担し、国民を動員・統制する有事関連法案をいますぐ廃案に!」 DATE:05.28. 2003 

      

小泉政権は、昨年(通常・臨時の2度にわたる国会審議で)「継続審議」となっていた有事関連3法案の「修正案」を今国会に再度提出し、最大野党である民主党との「協議」の上で会期内の成立を強行しようとしている。すでに衆議院では、与党3党(自民党、公明党、保守新党)と野党2党(民主党、自由党)の賛成でなんと出席議員の約9割という圧倒的多数の賛成で通過した。党内分裂の危機と自由党との合流問題を抱えた民主党が形ばかりの修正で21世紀の日本の進路・あり方を決定するこの危険な法律案の成立に手を貸したことを「政権担当能力を示すことができた」と胸を張っているのを見るのは、もはや滑稽を通り越して憐れという他はないように思える。

 また、ほとんどのマスコミはそれに対して異議申し立てを一切しなかったばかりか、まるで慶事でもあるかのように報道した。小泉首相が採択翌日の朝日新聞(法案成立を肯定的に報道!)を見て「これは本当に朝日(新聞)か?」と驚き、石破茂防衛庁長官でさえ「出席議員の約9割という圧倒的多数の賛成」を思わず「異常だ」と本音を漏らしたといわれるように、日本の議会とマスコミの対応はまさに「異常」な「翼賛状況」を示すにいたっている。「法治国家」であるはずの日本が憲法と本来両立不可能なはずの非常措置である有事法制の導入をあえて行おうとする「異常」を「異常」とも思わない「狂気」の域に達しているといわなければならない。

 この無抵抗状況を「私は目を疑う。人びとはいま、国家に動員され統制されることとなる法律をにこにこ顔で受け容れている。よく飼いならされた家畜のように。なんと愚かしいマスコミ。なんて愚かな世間。なんとばかげた国会。政府提出の有事関連三法案には出席した衆院議員四百七十七人のうち約九割もが賛成したという。これを称してファシズムというのだ。」「これからファシズムがはじまるのではない。おそらく、それはこの国ですでに大がかりにはじまっているのだ。徴候ははっきりしている。マスコミおよび民主、公明などの諸政党のあからさまな翼賛。『革新』の未曾有の衰退。……憲法は改定する手前ですでに事実上扼殺されてしまっているではないか。」(「反時代のパンセ−動員と統制-」『サンデ−毎日』2003年6月1日号を参照)という言葉で告発する辺見庸氏の問題提起に世間の人びとは一体なんとこたえるのだろうか。

今回提出された「修正案」は、昨年の政府原案と比較して、「武力攻撃事態」の定義や「国民保護法制」の位置づけなど多少の変更・修正は施してはいるものの、米国の先制攻撃戦略に加担し、国民を動員・監視するという本質的な危険性は何ら変わるどころか、「武装不審船・大規模テロ」対策が明記されるなどむしろ強められているといわねばならない。この法案の最大の目的は、「戦争ができる体制」(「戦時動員体制」・「国家総動員体制」)を作って、「米国の戦争」(とくに「朝鮮有事」)に日本が自衛隊ばかりでなく自治体や民間企業・一般国民も含めて総力を上げて全面的に協力できるようにすることにある。日本国憲法の三大原則である、「平和主義」、「基本的人権の尊重」、「国民主権(主権在民)」を、交戦権および集団的自衛権の行使と「領域外」での武力行使の容認(専守防衛の放棄)、米軍および自衛隊(小泉首相の反憲法的発言に見られるような、「軍隊」としての公然たる認知!)の軍事活動円滑化のための国民の権利と自由の制限(とりわけ「国民の知る権利」・「表現の自由」の否定)、首相・行政府への極端な権限・情報の集中と国会・国民関与の軽視、などという形ですべて否定する全くの憲法違反の悪法であることは明白である。まさに、下位法(=有事法制)が上位法(=平和憲法)を覆す「法の下克上」あるいは「法的クーデター」が現在進行中の翼賛状況化の中で静かに起きているといえよう。

「なぜ、いま有事法制なのか」「何のための有事法制か」については、すでに昨年の段階で平和コラムに書いた(それぞれ、平和コラムNo.42「日本は本当に法治国家・独立国家といえるのか−有事法制は憲法改正(集団的自衛権行使と自衛隊の軍隊化)に直結する!」および平和コラムNo.3「何のための有事法制か −"備えあれば憂いなし"は"攻撃は最大の防御"の裏返し−」を参照)。ここでは重複をなるべく避けて、そこではあまり触れられなかった問題を中心に述べてみたい。

まず第一に、「有事」とは何か、という問題である。批判的な論者の多くは、「有事」とは「戦時」であり、「有事法制」とは「戦時動員体制」に他ならない、と解釈・指摘している。わたしもある意味でその解釈・指摘は正しいと思う。しかし、政府側がなぜ「有事」と言い換えているのかを考えれば、その解釈・指摘だけでは不十分で、もっと他の効果をも狙ったものとしてとらえる必要があるのではないだろうか。それは、この曖昧な用語をあえて使うことによって、「平時(平和)」と「戦時(戦争)」の中間領域・「グレーゾーン」を恣意的に拡大・縮小する余地を残すことによって、「戦時の(なし崩し的)拡大」=「平時の(限りなき)戦時化」を意図的に演出することが可能となるからである。今回の法案では、「武力攻撃事態」の定義を、前回「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態」又は「武力攻撃が予測されるに至った事態」とあったのを「武力攻撃が発生した事態」と「おそれのある事態」を一括して「武力攻撃事態」とし、それとは切り離された「武力攻撃予測事態」との2本柱としている。また政府は前回と同じく、「武力攻撃予測事態」(「日本有事」)と「周辺事態」(とりわけ「朝鮮有事」)が重なる場合はあり得るとの解釈・立場をとっている。この定義の曖昧さ・不明確さは、有事法案の持つ最大の問題点で最も危険な落とし穴である。なぜなら、(政府関係者も認めているように)外敵による大規模侵略という本来的な意味での「日本有事」がほとんどあり得ない中で、「米国(ブッシュ)の戦争」すなわち米国による「先制攻撃」・「武力介入」によって生じた「周辺有事」(=「朝鮮有事」)に際して日本が米国に「後方支援」を行うことによって、それを敵対行為・戦争行為とみなした相手国によって日本が「反撃」・「攻撃」される可能性がはじめて生じ、その段階で日本が「武力攻撃予測事態」と認定して本格的に「参戦」することができるようにするのがこの法案の最大の目的であるからである。このように考えると、「有事」という用語・概念を使うことによって、「日本有事」と「周辺有事」の連動、あるいは「周辺有事」から「日本有事」への移行をあたかも自然なものとして国民に受け容れさせることを容易にしたといえよう。さらに、今回の法案で「武力攻撃事態」の定義の中に、「武装不審船・大規模テロ」対策が盛り込まれたことは、「武力攻撃事態」(すなわち「日本有事」)判断・認定における政府の裁量権をより拡大させる新たな問題を含むものとなったと指摘できる。

次に第二の問題として、「国(あるいは国家)の安全」と「国民の安全」の区別と関連、を考えてみたい。政府の説明によれば、有事法制とは、有事の際に「国民の安全」を守るために行われる「自衛隊および米軍」の軍事活動が「超法規的に」ではなく、あくまでも合法的に行われ「国民の権利と自由」の過度の制限・犠牲を強いることのないようにあらかじめ法的な枠組みを作って歯止めをかけるためのもの、とされている。しかし、はたしてこの説明を額面通りに受け取ることができるであろうか。実際には、有事法制とは、「国(あるいは国家)の安全」を守るために「米軍および自衛隊」が軍事活動を円滑に行うことができる環境・条件をあらかじめ保証・準備するための軍事最優先の法体系を意味しており、有事の際に「国(あるいは国家)の安全」を守るためには「国民の安全」や「国民の権利と自由」が多少犠牲になることは やむを得ないという考え方・発想を前提としているのである。それは、「有事の際に国民を保護するのは自衛隊の役割ではない。」「国および国民の安全という高度の『公共の福祉』のために国民の権利と自由がある程度制限されるのは当然である。」という国会での政府側の答弁でも明らかである。ここで注意すべきことは、「国および国民の安全」という言葉は「国(あるいは国家)の安全」と「国民の安全」を無前提に同一視したものであるが、現実には両者は必ずしも常に一致するとは限らないばかりか、両者が矛盾する場合にはしばしば「国(あるいは国家)の安全」が優先されるということ(このことを日本国民は沖縄戦や満州引き揚げの際に際にいやというほど思い知らされた!)をそのまま示した言葉であると理解・認識しなければならないということである。有事法制を整備するにあたって「国民の保護に関する法制」が一貫して後回しにされているという事実がまさにそのことを物語っているといえよう。

そして第三の問題として指摘しておきたいのが、日本政府と米国政府、あるいは米軍と自衛隊との関係である。両者の関係が最初に問われるのは、「有事」すなわち「武力攻撃事態」の認定・判断を行う場合である。政府は「武力攻撃事態」は「日本有事」であり、「周辺有事」の場合以上に日本が主体的に認定・判断を行うことは当然可能でありなんら問題はないという前提に立って考えているようである。しかし、はたして実際にそうであろうか。「武装不審船」事件の場合、それを「発見」する発端は米軍からの情報提供であった。この事実が示しているように、軍事衛星など多様な情報収集手段を保有する米軍の情報に依存せざるを得ないという事情は、「周辺有事」やそれと連動した「日本有事」すなわち「武力攻撃事態」の場合でも基本的に変わらないと考えられる。その結果、日本政府による「武力攻撃事態」の認定・判断が米軍の情報や米国政府の意向に過度に依存して歪められる可能性を排除することはできない。またすでに述べたように、有事法制の目的は、「米軍および自衛隊の軍事活動円滑化」を保証することにある。しかし、今回の法案では、「米軍の軍事活動円滑化に関する法制」が日本側のコントロールに服することを嫌う米軍および米国政府の意向によって先延ばしにされた。こうした経緯を考えれば、この先作られることになる「米軍の軍事活動円滑化に関する法制」が米軍に便宜を与えることを最優先するあまり、「有事(=戦時)」における米軍(およびそれを支援する自衛隊)による対応が日本国民への人権への配慮を欠いた問題の多いものとなる懸念はきわめて大きいといわねばならない。平時における沖縄での米軍の目に余る行動ばかりでなく、対テロ特措法に基づいて在日米軍基地の警護に出動した自衛隊が米軍とともに国民に銃口を向けて警戒・監視している現実を見れば、将来の「武力攻撃事態」における最悪のシナリオ(例えば、韓国で最近起きた女子学生轢死事件のように信号無視の猛スピードで出動する米軍車両によって市民が撥ね飛ばされたり、米軍による過剰な掃討作戦・鎮圧行為の巻き添えになって日本国民の犠牲者が続出するなど)を想像するのはあながち根拠のないことではないと思われる。

「有事法制」とは、現在審議中の3法案だけでなく、個人情報保護法(国民への監視・検閲を強める、この危険な法律も先日ついに成立した!)はむろんのこと、すでに施行されている住基ネットや国旗・国家法、盗聴(通信傍受)法、周辺事態法、対テロ特措法等をはじめ、これから制定されることが意図されている数多くの個別法を含む全法体系のことである。教育基本法改悪とそれに続く憲法改悪がその最終的な完成になることはいうまでもない(日本人拉致問題で“ブレーク”して有力な次期首相候補の一人に躍り出た安倍晋三官房副長官は「自分が首相になれば憲法改悪を当然行う」と公然と言い放っている!)。

 9・11事件以降の米国は、アフガニスタンに対する「報復戦争」に続き、圧倒的反対の国際世論と国連・国際法を無視する形でイラクに対する「予防戦争」(先制攻撃による政権転覆行動)を強行した。日本政府は、この明らかな国際法違反の「侵略戦争」を終始一貫して支持し、米国主導の不当な「占領行政」にも積極的に加担しようとしている。またブッシュ政権の強硬派(新保守主義)がイラクの次の標的を北朝鮮に定めようとする動きが出ている中で、日本はそれに呼応するかのように北朝鮮敵視政策へと急速に転回し朝鮮有事を前提とした有事法制を本格的に整備して朝鮮半島を舞台とした近未来の戦争への道に次第に踏み込もうとしている。日本国内では、昨年9月17日の日朝首脳会談で拉致問題が全面的に浮上したのを契機に一挙に排外主義的風潮が強まり、この高まる北朝鮮脅威論を背景に対北朝鮮強硬派(安倍晋三官房副長官・石破茂防衛庁長官を中心とする日本版ネオコン・グループ!?)が台頭し対基地(先制)攻撃論や核武装論など軍事的な強硬意見が有事法制必要論と結びつく形で相次いで出ている。つい先日開かれた日米首脳会談でも北朝鮮問題が主要議題にのぼり、日米両国政府は朝鮮半島問題の平和的解決を表面上は唱えながらも、その一方で核開発・拉致問題では安易な妥協はあり得ないとの認識で一致し、また経済制裁・海上封鎖の発動や最後の手段としての軍事力行使を排除しない姿勢を見せている。しかし、こうした日米両国による強硬路線が朝鮮半島問題を真の解決に導くどころかイラクに続いて朝鮮半島に戦火を招来することになりかねない危険な冒険であることは誰の目にも明らかであろう。

わたしは、平和憲法の精神を守りそれを活かす立場から、日本政府に対して、こうした危険な北朝鮮敵視政策を直ちに止めて朝鮮半島問題の平和的解決のために真剣な外交的努力をすることを強く求めるともに、朝鮮有事を想定した戦争協力体制を整備するための有事法制の整備・導入に断固反対することを表明したい。

 2003年5月28日

                                                                                    木村 朗               

 

                        

 

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Composed by Katsuyoshi Kawano ( heiwa@ops.dti.ne.jp )