考古学のおやつ

1998年の新羅緑釉陶器研究・後篇

萬維網考古夜話 第7話 5/Jan/1999

すでに何度も書いたことですが、みなさん、あけましておめでとうございます。ネタ切れギリギリでも懲りずに,今年も萬維網考古夜話を書き続けていきますので,よろしくお願い申し上げます。


今回は,第6話 1998年の新羅緑釉陶器研究・前篇の続きです。昨年末に公開した前篇では1998年7月までで終わっていました。今回は,1998年8月以降の動きです。

原稿が世に出る以前に,もう一つ,緑釉が絡む展覧会がありました。五島美術館の「日本の三彩と緑釉」です。8月末から始まったこれを見に行かないって話はありません。早速東急大井町線に乗って行きました。この展覧会では,日本中の緑釉と三彩が展示され,まるで九阪研究会の資料集がカラー版になったかのようでした。

日本で出土した新羅緑釉陶器も集められてましたが,「産地」がすべて「統一新羅」になっていました。従来説ということなんでしょうが,それでも,出土した遺構や伴う遺物の分析から,新羅の統一以前に遡るとすでに指摘されている事例も含まれているので,ちょっと“?”でした。

あとに登場される千田剛道さんが指摘されているように,この展覧会のカタログ(五島美術館版と愛知県陶磁資料館版は装丁が違うらしいのですが,愛知版は未見)には,全体の概説がなくて,個別の資料をどんな基準でそれぞれの年代・産地に当てているのか,今ひとつわからない部分があります。

愛知県陶磁資料館は2013年6月1日から愛知県陶磁美術館

その代わりなのか,カタログには4人の研究者による論考が載せられています。

これを読むと,楢崎彰一先生は

7世紀中葉代に新羅の緑・褐釉の硯・長頸瓶・壺・鉢・杯・棺台など、さまざまのものが齎され、奈良県・大阪府を中心に京都・三重・栃木・千葉県に広がっているが、……

と,書いておられます。先生が想定されている資料はだいたい想像がつきまして,個別には検討すべきでしょうが,ほぼその通りだと思います。新羅が朝鮮半島を統一した676年(668年という立場もある)以前に,日本で新羅緑釉陶器が確かに出土しているんですね。それだけに,カタログでの「統一新羅」は解せないですね。第一,楢崎先生って,開催館の一つ,愛知県陶磁資料館の総長ですよ。それとも「統一新羅」って様式名なのかなぁ。

新羅が朝鮮半島を統一する以前に,様式上の「統一様式」がある,という言い方は,最近の韓国の研究などで出てきますが,紛らわしいので私はそういう言い方はしていません。江浦洋さんも,「統一新羅土器」という言葉を最初だけ使っておられ,すぐにやめられましたが,論文のタイトルにまで出てきた言葉は,業界の中で尾を引いているようですね。ま,これは今回の話題と直接関係ないですが。

さらに,楢崎先生は,日本の彩釉陶器の流れをまとめた中で,

7世紀の新羅系緑釉陶器に始まり、……

と,日本の緑釉陶器の系統を新羅に求めておられるようです。

奈良国立文化財研究所(奈文研)の巽淳一郎さんの記述も,はっきりしています。

藤原京成立前夜にあたる7世紀中頃から後半期には、既に飛鳥を中心とする畿内地方には鉛釉単彩陶器(緑・褐・白釉陶)や三彩の存在が確認される。言うまでもなく、対外交渉を契機とし、前者は、百済、三国新羅、統一新羅から、後者は唐からの輸入品である。

何たって,「言うまでもなく」ですからね。でもこれ,前回触れた『明日香風』での見解と抵触すると思うんですけど,どうなのかな?

10月15日,私の新説が展開された「東京国立博物館保管新羅緑釉陶器−朝鮮半島における緑釉陶器の成立−」が世に出ました。このとき,展覧会はすでに愛知県陶磁資料館に巡回していました。

(4/Jan/2003補足)この論文は,内容に重大な錯誤が発見されたため,2003年1月4日より公開を停止しました。補足・訂正の準備が整い次第再公開の予定です。

2日後の10月17日,愛知県陶磁資料館で展覧会を記念するシンポジウムが開催されました。

このうち,4名の方はカタログと同じ人物が,同様の見解を披瀝されているのですが,資料集の巽さんの部分をみると,カタログとは少し違うニュアンスに読める部分があります。

律令国家成立前夜にあたる7世紀の後葉、東アジア諸国間における複雑な対外情勢、諸国間の交渉を契機として鉛釉陶器が将来され、やがて我国でも鉛釉陶器の生産が始まる。
現在、朝鮮半島系の鉛釉陶器は16ヶ所の遺跡から出土している。その多くは、統一新羅固有の印文単彩の鉛釉陶器であり、盤口長頸瓶・壺・獣脚円面硯・同蓋等の器種が知られる。

ありゃりゃ,『明日香風』の記述に戻ってますね。言い回しが似たところもあります。これだと,カタログでの7世紀「中頃」やら「三国新羅」の立場はどうなっちゃうんでしょうね(^^;ゞ。

また,高橋照彦さん(奈良国立博物館)の見解に,こんな内容があります。

百済が日本と親交の深かったことは周知の通りであり、百済ではその滅亡以前に緑釉施釉技術を有している。白村江の戦いによる敗戦などに伴って、百済からそれまでにない多数の渡来人を日本は受け入れており、その中に技術者なども含まれていたことが窺われるので、まったくの憶測ではあるが、それを契機に日本へ技術が伝わった可能性を考えておいてもよいだろう。

これって,緑釉技術が新羅から伝わったという「陶磁器の文化史」展カタログの話と食い違ってるんですよね。で,前回少し言及した『陶説』での発言から考えて,どうやら高橋さんは「陶磁器の文化史」展が始まる以前に,愛知のシンポジウムでのような考えに到達していたと思えるんですけど,会ったときに聞いときゃよかったなぁ。

さらに,京都文化博物館定森秀夫さんは,刊行間もない私の新説に言及され,新羅緑釉陶器の成立年代が通説より100年遡るという見解を基本的に追認されました。

実はこの時点で,私は自論の載った『MUSEUM』No.556を,まだ手にしていませんでした(^^;ゞ。こんな通説に逆らう新見解が発表後わずか2日で取りあげられるなんて,この情報過多の考古学業界では珍しいことと言えるでしょう。

もちろん,刊行前に内容を定森さんにお伝えしていたわけですが。

11月になって,九州大学宮本一夫さんから電話があり,以前私が紹介した九州大学所蔵の新羅緑釉陶器を,どこかの研究者が実見に訪れたと知りました。

資料紹介した遺物がほかの研究者に検討してもらえることは,それ自体非常に光栄なことですが,今年私が気にしてきた緑釉陶器を見てくださる方がいるとは,珍しい偶然もあるものと思いました(実は,偶然ではなかった)。しかし,九大の緑釉陶器を調べてたころは,新羅土器や緑釉陶器について,私の理解も乏しいころなので,ちょっと恥ずかしいですね。

12月5日・6日に京都で行われた第10回東アジア古代史・考古学研究会交流会で,奈文研の千田剛道さんがされた発表は,日本出土の三彩・緑釉という観点から,五島美術館・愛知県陶磁資料館の展覧会を中心に,問題を指摘されたものでした。論点は多岐にわたっていましたが,非常に興味深いものでした。新羅緑釉陶器に関しては,これまたありがたいことに,私の見解にも触れていただき,基本的には賛同していただきました。また,11月に九大を訪れた研究者が,ほかならぬ千田さんであったことも,この席でわかりました。

なお,今年の二つの展覧会もそうですが,この千田さんの発表も,「日本で出土する鉛釉陶器」がテーマなので,私の興味とは,ちょっと違うんですよね。もちろん,私も日本で朝鮮半島産の窯業製品が出土するときの様相には興味がありますが,今年出した論文では,その点はあまり強調しなかったんです。そのために豊浦寺の緑釉陶器に全然言及しなかったことは,しっかり指摘されちゃいました(^^;ゞ。

でも,私は単に豊浦寺の緑釉陶器に言及しなかっただけですが,千田さんと同じ奈文研の巽さんは,これを「統一新羅時代」のものの例に挙げてるんですねどね。え?五十歩百歩?(^^;ゞ

さらに,このときに,直接お会いすることが久しくなかった高橋照彦さんに再会することもできました。

考古学情報が膨大になりすぎて,専門も細分化された現在では,研究の進展に立ち会えるって実感は,なかなか得にくいんですよね。これで最後かも知れない,ささやかで貴重な体験でした。

ただ,気をつけなきゃいけない点があります。

前回・今回と,私は自分の考えを便宜上「新説」と呼んでいますが,すでにお話ししたように,必ずしも私が“まったく新しく”言いだしたことじゃないんですね。ここでは省略しますが,論文の学史のところに書いたとおり,これまでの研究の流れからいって,いずれ誰かが正面切って論ずるはずのことだったんです。それが私の役割となったのは,たまたま素材となる資料に恵まれたためでした。また,関係資料が展覧会などで取りあげられ,特に「日本の三彩と緑釉」展で国内出土の事例が集成されるなど,関係資料に対する関心が研究者の間に高まる契機もありました。こうしてみると,やはり実物の考古資料が動くとき,学史も動くのだなと感じます。

その一方で,前々回も少し触れましたが,「資料に語らせる」のはほかならぬ考古学者の側です。“資料が出てくれば勝手に研究が進む”わけでは決してありません。考古学者は考古資料に畏れ,その周囲を右往左往するだけの存在であってはならないし,実際,私が1篇の論文を世に送り出すために,関係の考古資料をめぐる考古学者の過去の仕事を参照しましたし,直接・間接の助言や協力もありました。特に,今年がたまたま日本出土の鉛釉陶器について多くの発言がなされた年であったことは,大きな幸運でした。

それにしても,鋳造鉄斧とか,手焙形土器とか,今回の緑釉陶器とか,寄り道的な研究は取りあげてもらえるのに,どうして自分の主力を傾注した研究は,相手にされないのかなぁ。贅沢な悩みではありますが。


次回は,黒塚古墳の三角縁神獣鏡,報道解禁1周年を勝手に記念したお話の予定です。


[第6話 1998年の新羅緑釉陶器研究・前篇|第8話 対決の敗者−黒塚古墳報道解禁1周年|編年表]
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