考古学のおやつ

5年後の読者

萬維網考古夜話 第21話 13/Apr/1999

先週から、やっとエンジンがかかってきました。というのも、以前ちょっと触れた福岡県三井郡大刀洗町百済土器の件ですけど、時間に余裕ができましたので、類例とかを調べ始めました。

せっかくお声をかけていただいて、車で送迎までしていただいたのに、ちょっと前まで何もしてなかったんですけど、調べてみて、やっぱり重要資料だとわかりました。いやぁ、いいもの見せていただきました。成果はそのうちお返しします。しばしお待ちください。

今回、調べものする関係で自分の学生時代の論文を引っぱり出して使いました。「自分の編年とは、忘れ去るものなり」というのかどうか知りませんが、どうも自分が書いたものはすぐ忘れてしまいまして、書き終わると何書いたかわからなくなるんです。ほかの人の編年は頭に入ってたりするんですけどね。無責任な話です。

誰か > これ、白井さんの編年だと、いつごろになりますか?
白井 > ぇえーっと、いつでしょう(^^;ゞ。今、抜刷が手元にないので、今度にしてもらえます(^^;?
誰か > は?

な〜んて情けない会話をしたこともあります(いえいえ、しょっちゅうです)。

覚えてない理由はそれだけじゃなくて、やはり学生時代に書いたもので、内容が未熟で恥ずかしいから読み返していなかったという実状もあります。姑息なことに、ほかの分野に興味がうつっていたこともあって、その後書いた論文でその名を挙げていなかったほどです。昨年書いたもので、初めて文献リストに挙げました。

今回、自分の編年を適用するのは最初あまり気が進まなかったんですけど、そんなこと言ってられないので、高杯を分類した部分を開いて、大刀洗町・西森田遺跡の高杯の実測図と縮尺をそろえて比べたりしてみました。

細かい内容は今後正式な形で出したいと思っていますが、冒頭でお話ししましたように、やはり今回の出土例は重要でした。しかし、その副産物というか、何というか、自分で言うのも恥ずかしいんですけど。

白井 > なぁんだ。この編年、使えるじゃない(^^。

などと不遜なことを思ったりもしました(いや、どうやら口走っていたらしいんですけど(^^;ゞ)。
もちろん、内容に不足があることは承知しているんですけど、本人も気づかずにいいこと言ってた部分などに今ごろ(自分で)気づいたというわけです。ちょっと手直しは必要ですので、西森田遺跡の百済土器に絡めて、遠からずサービスパックでも出しましょうか(^^。その場合のファイル名はp01sp02.htmlとかでしょうかね。


一昨年、1997年のことですが、1992年に書いたこの論文に対する反応が返ってきました。もちろん、それ以前にも口頭での反応は返ってきていたわけですが、今度は文字の形で、引用文献になって帰ってきたのでした。

当時(1997年)の私は、こちらのリストでもわかりますが、福岡にいたころに集めた実測図やメモを食いつぶして著作にしていたような状況で、年内にネタが枯渇という危機感の中にいました。実はそれって、最初の論文を夏に、修論を冬に書き上げた、あの1992年の年末以来の感覚でした。

ソウル夢村土城出土土器編年試案」を私の修論だと勝手に思いこんで、あろうことかほかの人にまでそんなデタラメを吹聴する人がいますが、同じ年に書いた二つの論文はテーマ自体もまったく別です。
よく、「修論じゃないんですよ」というと「何で(--#!」と怒る人がいますが、私を怒らないで、あなたが信じてるウソつきを怒ってください(そして、そんなウソつきを信じた自分自身を責めてください)。私はこの件でウソついたことないですから(ウソついても何の得にもならないしね)。
しかし、なんでこんな注釈つけなきゃいけないんでしょうね。困った業界だ……。

どうにもならない焦りの中で、自分の論文が引用されているのを目にしたわけですが、最初は、「あ、今ごろ反応が返って来た。この人、読んでくれてたんだー……。」ぐらいのもんでしたが、そんなことが何度か続くうちに、考えが変わってきました。反応が活字になって返ってくるのに5年かかるのかと。

そして、文字になって返ってきた反応は、それ以前の口頭での反応とは何となく違っていました。そして、それまで文章を書くときに漠然と予想していた「反応」は、詰まるところ、口頭でのそれを想定していたにすぎなかったと今さらながら思いました。

この間の5年間を、私も業界で過ごしてきましたから、一つのアイディアが活字になるまでの過程、ほかの人のアイディアが咀嚼される過程について、少しはわかるようになっていました。誰かの論文を入手して、それを自分の中に消化して、それについて何かコメントして、さらにそれが世に出るまでに、やはり時間が必要なのです。

最初は、「ここはそんなつもりじゃなかった」などと枝葉末節が気になっていましたが、だんだんと、「なるほど、あの論文はこんな風に読めるのか」と思い始めました。活字の中で帰ってきた、それぞれの論者がそれぞれの「学史」の中に位置づけた私の論文を見て、私は私自身の論文を、「自分史」の中でしか捉えていなかったことに気づきました。

ネタ切れがどうの、今回は好評だのというバカバカしい問題など、どうでもよかったのです。

そのころから、恥ずかしくて見たくもなかった学生時代の論文を、少しずつ読み直せるようになりました。かつて書いた文章をなかったことにして、自分だけ勝手に変わってしまったことが、許せない気がしました。私もまた、5年後の読者となったのです。

それから、自分でも文章の雰囲気が変わってきたと思うのですが、いかがでしょうか(変わってないかも(^^;ゞ)。今書く文章への反応を受け取るのは、今の自分ではなく5年後の自分かも知れないと思うと、文章を書く心構えも変わってきたのです。

この、反応が戻ってくるまでの一巡りの時間は、たとえ印刷業界の事情が変わろうと、インターネットでの情報交換が盛んになろうと、そう短くはならないような気がします。やはり、誰かの論文を読んで、それを自分なりに学史の中に位置づけて捉えるのには、人間の脳髄がそれなりの時間を必要とするはずだからです。


私はまだ業界でのキャリアが浅いので、5年という単位でしか考えられませんが、これから10年、20年たって、10年後の読者、20年後の読者となるにしたがって、自分の研究態度について、また考えが深まっていくかも知れません。この話自体も、何年か後に思い返して、そのときなりに捉え返すことでしょう。「こんなこと話さなきゃよかった」と思うかも知れませんね(^^;。しかし、もし、考えたことを書き残しておかなかったら、自分の考えをほかの人の目で捉え直すこともできず、独りよがりな「自分史」の中にだけとどめておくことになってしまうでしょう。

そして、「自分史」と「学史」の接点を得るには、やはり論文というメディアに討って出るしかありません。そして、あの「5年」という時の巡りを、経験しなければならないでしょう。その5年は、早いうちに経験した方がいいと思います。だから、私ぐらいから下の年齢の同業者たちには、いろいろ知った風な理由をつけてないで、さっさと見解を論文にして発表しろという言葉を贈りたいのです。今から5年後のことなんて考えなくていいですから。書かなきゃわからないこともある、しかも、書いてすぐじゃわからないからなのです。周囲の人たちも、「未熟者ー!10年早いわ!!」などと言わないで、書かせてやってください。

吉留さんのはじめの一歩 −中期旧石器の二つの発表−を読んで以来、「ちょっと遅れたけど、何か新年度らしい話を」と思って、辛口の話と2種類考えてたんですが、冒頭のような最近の事情もありましたので、この話にしました。「内容に納得いかん」という人もいるでしょうが、まぁ、いつものことですから……(^^;ゞ。


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白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 1999. All rights reserved.