考古学のおやつ

引拠の戒律−高井田山古墳vs百済古墳

萬維網考古夜話 第83話 17/Feb/2003

昨年の後半に見切り発車した,この戒律シリーズでは,尾野善裕氏の古墳時代暦年代論を素材に,基本的に次のような手順でお話しています。

  1. 尾野氏の引用が適切かどうか,引用元の原文と比較する。
  2. 尾野氏の引用を離れて,そもそも引用元の原文に何が書いてあったかを調べる。
  3. さらに引用元以外の文献や資料を調べて,尾野氏が取り上げた資料が何を語るかを調べる。

早くから尾野氏の引用のいい加減さに気づいていた私は,読んだことのある文献でもできるだけ読み直して,読み間違えようのない文章もいちいちチェックし直して,それでも頻繁に尾野氏のでたらめな引用を発見してしまうので,尾野氏の引用文献をできるだけ収拾しようと試みていました。

実際には,引用元がほとんど参照できなかった大阪府柏原市・高井田山古墳の問題のように,3部構成が崩れることもありますが,方針は上のとおりです。

その結果,ネタによっては1,2,3の3部分すべてで,尾野氏の記述の誤りが判明することがあります。とはいえ,私がそういう部分を選んで紹介しているのも事実なので,即断してはいけません。

引用って!?

しかし,上の1(引用が適切かどうか)を問題として取り上げなければならないなんて,これはそもそも困った話です。先行研究に重要な事実や論理が提示されているときに,引用という方法で,「これは皆さん共有の事実ですよ」ということを示すとともに,記述の無駄な繰り返しを省き,先行研究の意義と知的所有権を認める,それが学術論文のルールでしょう。尾野氏はこの基本的なルールを,重要な部分で何度も裏切っていることになります。

Perlで最初にrequire "../lib/cgi-lib.pl";って書くようなもの?え,違う!?

もちろん,他人の記述を鵜呑みにせず,引用元に気を配るのは,読む側の心構えとして当然ですが,だからと言って尾野氏のやり方が容認されるわけではありません。尾野氏のやり方は,「野手が一塁に送球するウラをかいて三塁に走る打者走者!?」のようなものです。審判はセーフの宣告をしないし,一塁に送球した野手に落ち度はありません。打者の“頭脳プレイ”はシーズン後の珍プレイ特集以外では称賛されることがないでしょう。

反省

さて,上でちょっと名前の出た高井田山古墳ですが,第76話の冒頭で,私は次のような告白をしました。

尾野氏の記述を検討しようにも,実は困った事態に陥っていました。本文の関係部分〔尾野善裕1998:84-85〕では2つ(たった2つ!)の文献が引かれていますが,そのたった2つの文献を,私はまだ見ていないのです。コラム再開が遅れた一因もここにありますが,まことに不勉強でお恥ずかしいm(_ _;m。

言語道断。ほかの人が関係文献を疎かに読んでいるとキビしく糾弾するくせに,自分では関係文献を見ないで話をするなんて。この件,閲覧者のみなさまに申し訳なく思っておりますm(_ _)m。

さらに,尾野氏の原文を座右に置きながらこのコラムを楽しんでくださっている方がたは,原文を見てあることに気づき,ほかの皆さん以上に,私の行為にあきれ果てたことでしょう。

「『まだ見ていない』って,高井田山古墳の報告書すら見てないの!?」

そうなんです。尾野氏が本文でたった2つ引いたという文献の片方が,発掘報告書〔安村俊史・桑野和幸1996〕だったんですね。第76話の公開が遅れた最大の理由は,基本文献中の基本文献である報告書すら読んでいないためでした。尾野氏の議論は報告書を見なくてもあえなく否定されてしまうような脆いものでしたが,報告書を見ていなかった私は第76話・第77話で遠まわしな話に終始するしかありませんでした。

それでも,ようやく報告書を詳しく調べる機会に恵まれました。以前から,引用(尾野氏による引用は除く)によって,かなり充実した報告書らしいと思っていましたが,その予想をさらに上回るような内容の濃い考察が書かれていました。

そこで今回は,シリーズの流れからいうと少し後戻りになりますが,私自身の反省も込めて,尾野氏の論文から少し離れ,高井田山古墳の報告書,特に考察の部分を読んでみましょう。

考察の半分以上は石室

報告書のうち,「第7章 高井田山古墳をめぐる諸問題」は,次のような構成です。

もう,この章立てを見ただけでも,このコラムの第76話,第77話はいったい何だったんだろうと頭を抱えたくなってしまいます。このコラムで今さら口を出すことなんて,何もないじゃないですか!?

順に見ていきましょう。この考察のうち,注を除く本文の半分以上が,最初の「1.横穴式石室について」のために割かれています。当然でしょう。高井田山古墳のような興味深い初期横穴式石室を報告するのに,何も考察しないわけがありません。報告者は,高井田山古墳が発掘されてから報告されるまでの間に発表された各研究者の意見にも触れながら,見解を述べていきます。

「a.石室の構造」で高井田山古墳の横穴式石室の構造を復元した報告者は,「b.畿内の初期横穴式石室と高井田山古墳」で多くの例を挙げて比較検討し,特に,高井田山古墳よりも少し古い大阪府藤井寺市・藤の森古墳との比較から,高井田山古墳の「直接の祖型を百済に求める」という見解を示しました〔安村俊史・桑野和幸1996:144〕。一方,奈良県生駒郡平群町・椿井宮山塚古墳について,理由を挙げて「直接の関係は認められない」と言っています〔安村俊史・桑野和幸1996:150〕。

横穴式石室の日韓比較

畿内の初期横穴式石室を見渡した報告者は,高井田山古墳と百済熊津期の横穴式石室の比較を始めます。まず,高井田山古墳の石室が吉井秀夫氏の言う「表井里式」に該当することを確認すると,さらに宋山里古墳群の石室(報告者は言及していませんが,これは「宋山里型石室」に当たります)と比較して,平面形態などが違っていても,構築技術では共通していると指摘します〔安村俊史・桑野和幸1996:155-156〕。そして,「宋山里古墳群の石室に先行する横穴式石室との関係を考えてみる必要がありそうである」という考えに辿り着いたのでした〔安村俊史・桑野和幸1996:156〕。

ここでは,さりげなくも重要なことが書かれています。つまり,百済熊津期(特に前半)の石室に階層性を認め,平面形は違っていても構築技法は共通という可能性を指摘しているのです。また,すでに椿井宮山塚古墳について「おそらく、椿井宮山塚古墳の方が少し新しく、宋山里古墳群などの石室の影響を受けているのではないだろうか」という指摘もしています〔安村俊史・桑野和幸1996:150〕。報告者は控えめな言い方ながら,百済熊津時代の墓制について次々に鋭いところを衝いているのです。

しかし,ここで報告者の考察は頓挫します。これは報告者のせいではありません。熊津期以前,百済漢城期の横穴式石室は,いまだ確実な例が知られていないからです。はっきりした源流を「これだ」と指摘できなくても,報告者の考察は充分に行き届いたものです。

私が第77話でお話した横穴式石室の対比は,報告書でほぼ論点が尽くされていたと言っていいでしょう。第77話は主に百済の側から,報告書は主に日本の側から語られているという違いがあるだけです。報告書を読んでいたら,第77話なんか,準備しなかったかもしれません。

このように詳細に石室の系譜が語られているのですから,第77話で紹介した洪潽植氏の研究と,報告書との対立点は明らかでしょう。

この違いこそが,主要な争点で,尾野氏が重視する熨斗は,傍証に過ぎないのです。

深まる謎

こうして何度も感心しながらこの報告書を読み終えてみると,『金田一少年の事件簿』のように,そこいらじゅうに「!?」が飛び出してきます。新たな謎です。

このような行き届いた報告書のどこに,尾野氏の奇説を生み出す隙があるというのでしょう。尾野氏はこの報告書を,本当に読んだのでしょうか!?

私は関係者に謝罪しなければなりません。第76話・第77話で,まだ見ぬ報告書について言及を避けながらも,「報告書のどこかに,尾野氏の付け入る隙があったんだろうな」とひそかに思っていたことを。まことにお恥ずかしい。

尾野氏が高井田山古墳の報告書を読んだのなら,この古墳を含めた畿内最古クラスの横穴式石室が475年(百済の熊津遷都)を微妙に前後する時期に位置づけられる,ということはわかるはずです。それを覆して別の年代を主張したいのなら,洪潽植氏のように独自の石室編年案を組み立て,階層性や歴史的意義を解明しなければなりません。石室の問題を無視して,熨斗のことだけで洪潽植氏と同意見を装うなど,報告書と洪潽植氏の双方の研究成果を軽んじていると言えるでしょう。この報告書を読んでもなお,そのような学問状況が読み取れないのであれば,私がインターネットのコラムで少々がんばっても,事態は改善されないのかもしれません。がっかり(-_-;。

ついでに言うと,「2.副葬品について」「g.須恵器」「型式と年代」のところでは,白石太一郎氏が1985年論文で意見を変えたことによって田辺昭三氏・中村浩氏らと年代観が違っていること前話でいう新説派旧説派の対立に対応)も正しく指摘されています〔安村俊史・桑野和幸1996:174〕。ま,こういう指摘は尾野氏の読んだはずの文献の到る所で見つかるんですけどね。

そもそも武寧王陵出土品の似たもの探しという論法自体の罠に尾野氏がハマッてしまったわけですが,もう少し自分の引用文献を読めば,危機を未然に避けられたことでしょう(私ももっとラクに話を進められたことでしょう)

これ以上言葉を重ねても以前の話の繰り返しなので,今日はこのへんでやめます。やはり,コラム公開ぎりぎりまで,いや,公開を遅らせてでも,原典にこだわっておくべきだったと,改めて反省いたしております。

次回は,これまで読んだ部分の続きに戻る予定です。(つづく)

(24/Feb/2003)この予告は実現できませんでした。すみませんm(_ _)m。

今回登場した文献


[第82話 鶏口のレジェンド・後篇−旧説派vs新説派|第84話 套餐の戒律・前篇−初期馬具vs馮素弗の馬具|編年表]
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