飛行機のパイオニアたち
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”勇気一つを友にして”大空に挑んだ人々と、 紙飛行機を楽しむ我々には、共通点が一つあります。それは 設計・製作・操縦を、すべて自分でやることです。 |
紙飛行機のはなし目次
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ジョージ・ケイリー卿 (イギリス)
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Sir George Cayley (1773-1857) | |
フランスでは1783年にモンゴルフィエ兄弟の熱気球が空への第一歩を踏み出し、 イギリスでは1782年にジェームズ・ワットの蒸気機関が 織物業の動力化で産業革命をもたらした進歩の時代。 古来から人類の夢であった鳥のような飛翔は、 まだ塔や橋からの無謀なダイビングで世間を騒がせる程度で、 実用化する兆しは見えませんでした。 はばたき機に否定的であったケイリー卿は、風を受けて上昇する凧に注目し、 1804年に凧を翼として利用した模型飛行機を作りました。 その後半部には風車の風見安定板が付いており、 飛行中の安定性に役立つはずでした。 すでに飛行機の基本レイアウトの大半を備えた、 驚くほど完成度の高い模型飛行機を使った実験により、 飛行の原理が明らかになりました。 ケイリー卿の非凡さは、すでに実用化され、 一定の効果を期待できる平凡なアイテムを、適切に組み合わせた点にあります。 1809年の「空中航行論」に記した飛行の原理は、その後の飛行機開発の礎となり、 今日では「航空の父」と呼ばれております。
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オットー・リリエンタール (ドイツ)
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Otto Lilienthal (1848-1896) | |
エンジンを飛行機に搭載する前に、まず機体の空気力学的な性能を 高める必要があるという信念のもと、リリエンタールは 生涯に18機種のグライダーで2000回以上もテスト飛行しました。 こうした研究と経験の積み重ねにより、グライダーの安定性と操縦性は 少しずつ向上し、うまく風に乗れば出発点より高く上昇することも、 360度の旋回も可能になりました。 しかし1896年8月9日のテスト飛行中、突風にあおられ姿勢を崩したグライダーは 地面に激突し、リリエンタールは死亡しました。 彼が考案したパイロットの体重移動による姿勢制御では、 突風のような乱気流に対し、安定性と操縦性が不十分だったのです。 この事故は、将来エンジンを搭載するため大型化しつつあった機体において、 パイロットの体重だけでは限界があることを示していました。 リリエンタールは、問題を分析して解決する知恵と、 危険に身をさらして実証する勇気を兼ね備えた、偉大な鳥人でした。 しばしば新聞で紹介されたグライダーと彼の勇姿は、 全世界に飛行機の実現が近いことを強く印象付けました。
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ライト兄弟 (アメリカ)
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Wilbur Wright (1867-1912) Orville Wright (1871-1948) | |
アメリカのデイトン市で自転車店を営んでいたライト兄弟は、 リリエンタールの事故死をきっかけに飛行機開発に加わります。 まず、当時のアメリカで飛行機械の権威だったラングレー教授から 資料を取り寄せ、飛行の原理や先人の研究成果を学び始めました。 その結果、あと2つの条件をクリアすれば、 飛行機は実現することを突き止めます。 第一はリリエンタールの事故死で限界が明らかとなった パイロットの体重移動に代わる方法を探り、操縦性を向上させることでした。 ライト兄弟は鳥の飛行中の姿勢制御に注目し、1900年に「たわみ翼」を開発します。 主翼をひねって左右の揚力のバランスを自在に調整することで、 パイロットは鳥と同じように姿勢制御ができるようになりました。 ちなみに紙飛行機の操縦も「たわみ翼」方式によるものです。 第二は十分な推進力を得ることです。ライト兄弟は少年時代に ヘリコプターのおもちゃで遊んだことがありました。 ヘリコプターは上昇するためにプロペラを回しますが、 横に向きを変えれば、前に進む力として利用できることに気付きました。 当時のわずか12馬力のエンジンでも飛べるようにと、 ライト兄弟はプロペラの風洞実験を繰り返し、その効率を高めました。 1903年12月17日、ノースカロライナ州キティーホークの砂浜で、 ライト兄弟は人類初の動力飛行に成功しました。 ケイリー卿の模型飛行機から100年、 リリエンタールのグライダー事故死から7年後のことです。 ライト兄弟が短期間で成功した理由は、 まず自分たちの技術的な位置を確認し、 目的達成までの最短ルートと障害を把握した上で、 開発コンセプトを決定したからです。 危険なグライダーや動力飛行を敢行する前に、 風洞実験や凧によるシミュレーションを繰り返すなど、 効率と安全面に配慮した開発プロセスも優れていました。
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Hideyuki Kikuchi (gotha@ops.dti.ne.jp)