(1/Sep/1999補足)途中に長文の補足を加え,一部内容を組み替えました。
なぜあのとき埴輪の話になったのか,どうしても思い出せません。酔っぱらって忘れてしまったのではなく,あの時点で,話の必然性がよくわからなくなっていました。
ここは,とりあえず怒っとくところかな,くらいのことは思ったような気が。なぜ?
怒るのはほかに上手な人もいるけどね。
だいたい,懇親会のころを見計らったはずが,それから1時間待ってしまったあたりから間が悪かった(^^;ゞ。
8月21日土曜日に『福岡考古』第18号が発刊されました。この雑誌としては3年ぶりの発刊となるようです。
ご覧になるとおわかりのように,資料紹介を主体に,数ページずつの文が載っていますが,ひとりだけ,異様に長いページ数を占めている人がいます。何て間の悪いヤツでしょう。そう,実は私なんです。
白井克也,1999,大野城市出土新羅土器の再検討−須恵器との並行関係ならびに流入の背景−,福岡考古第18号,福岡考古懇話会,21-36
投稿規定では6ページが上限だったらしいんですが,実際に雑誌が出るまで,誰もそんな重要なことを教えてくれないんだもの(^^;。しかし,バランス崩してるなー。
で,副題を見ていただいてもわかるように,須恵器との並行関係について,例によって不遜な発言をしているのですが,発売日早々にお買いあげいただいた尾野善裕さんからは,
「今どきこんなこと書くなんて,勇気あるなぁ(^^と思ったら,脱稿が2年前ですね。」
とか言われてしまいました……って,誰のせいでこうなったんですか,尾野さん(尾野さんに言わせれば,山村さんのせいらしいが……直接にはそうでしょうね)。
今回出たのは,昨年まで寄り道していた(これまで寄り道以外のことをした記憶はあまりないが)7世紀三部作の完結編,と言いつつ最初に書いたものです。後の2本は,このコーナーで話題にしたこともある次のものです。
この2本を書くときは,当然今回の大野城の話を前提にしていたわけで,例えば緑釉陶器の紹介で土器編年に図がないのも,この大野城の紹介に載る予定だったからでした。また,高句麗土器の話と比べていただければ,高句麗土器に関連して勉強する以前の,そのきっかけとなった認識がバレてしまいます(^^;ゞ。校正でもほとんど直さなかった(新羅土器の編年のうち印花紋の絡む部分はいくぶん補正した)ので,ほぼ2年前の文のままです。あー恥ずかしい。
やっぱり恥ずかしいのは編年の部分で,今まで内容の伏せられていた編年が公になって,「なんだ,白井って編年できないんじゃん」とバレたんじゃないかな,ってあたりです。
それでも,上の方で出てきた尾野さんの発言は,そう言うところじゃなくて,もっとこの論文の核心に近いところの話です。つまり,須恵器の編年と実年代の部分です。
ここ数年,須恵器の実年代観を修正しようという動きがあって,最近は尾野さんに会うたびにその話だったわけです。そんな中で,九州のIV期がどうの,V期がどうのと実年代込みで書いているわけですから,まぁ,勇気があるというかなんというか。
先ほどちらっと名前の出た山村信榮さんは,次のような論文を発表されています。
北部九州の須恵器の実年代観に再考を迫る内容で,読むと頭を抱えてしまいます。今,このページを見て頭を抱えている人もいることでしょう。こういう動きがある中で7世紀三部作(山村さんに言わせると,「7世紀から一部8世紀の三部作」だったりして(^^;ゞ←シャレになってない)を書いてしまったわけです。
確かに,九州のV期の須恵器って集落ではよくわからないので,ひょっとして墳墓にしか良好なセットがないんじゃないか,ぐらいの気持ちはあって,それで高句麗土器や緑釉陶器の話では少しぼかしてるんですけど,よりによって一番無批判なヤツが最後に公になってしまいました。
そんなわけで,尾野さんとはすっかり不倶戴天の仲になって,「抜刷を神社の鳥居に五寸釘で打ちつける」とか「新月の夜は出歩かない方がいい」とかと会話を交わしているのでした(第三者には楽しげに談笑しているように見えるらしいが)。
なぜか山村さんとはそういう仲にならない。
でも,尾野さんの論文には第三者の文章を経由して私の文が紛れ込んで足りするんですね,これが。
−−ここから1/Sep/1999補足−−
と言うのは,尾野さんが昨年発表されたこの論文です(これも頭が痛い(^^;ゞ)。
この文の冒頭,次の記述があります。
既に指摘があるように,<古墳>の初現に連動させて,中・後期古墳の暦年代を引き上げるのは,一つの解釈に過ぎないのであって,各時期ごとに暦年代比定を詰める作業が重要であることは間違いない(久住1998)。〔尾野1998:75〕
ここで登場する「久住1998」というのは,素人のたわごとの仮説(今週の発見)で登場した彼が史学雑誌の「回顧と展望」に書いたものです。
暦年代論については,多くの論者にその傾向があるが,仮に定型化した古墳の成立がより遡るとしても,中・後期古墳も同時に古くなる,というのは一つの解釈に過ぎない。弥生時代の暦年代の一点が古くなると言う理由で古墳の成立を遡らせるのも同様である。厳密には各時期ごとに暦年代比定を詰める必要があろう。〔久住1998:33〕
そして,朝鮮半島との並行関係について触れた後,こうも書いています。
(前略−ちょっと乱暴に略した(^^;ゞので,ぜひ原文も読みましょう)現状では相対的な並行関係をまず明らかにし,共通認識を得る作業が必要である。〔久住1998:33〕
で,これは本人も認めていたことですが,この記述は私の文章を再編したものだったんですね。
理化学的年代の一事例が前後数百年の実年代観に連動し,古墳の出現年代が遡ると中期古墳の実年代が連動するというのは解釈の一種であって,すべてではない。実年代の定点間を等分しても各時期の実年代を定めえぬことは常識のはずであるが,「連動」は形を変えた「等分」癖であり,この癖は日韓の交差編年の努力によって解消していくべきであろう。〔白井1996:110〕
かなり根を詰めて書いた文章なので,今読むと疲れますね(^^;ゞ。「一事例」という言い方がかなり乱暴だし。
この文章を前後切り離して,少し文章を解きほぐしてアレンジしたのが「回顧と展望」の文章です。それはいいとして,尾野さんの文章と,私の文章が,それぞれどういう場で発せられているかを比較してみると,面白いかも。
昨夜は抜刷が見つからなくって,この部分はお話しできませんでした(^^;ゞ。
−−ここまで1/Sep/1999補足−−
実年代を少しぼかそうとはしたものの,緑釉陶器では並行関係のところがけっこう微妙になるし(飛鳥IIIの扱いとか〔白井1998b:49〕),高句麗土器の方は,先日お話しした学史軽視事件に加え,今年になって発表された次の文献がけっこう痛かったのです。
う〜ん,どうしてこう間が悪いかなぁ。
うちに帰ると,灯りもついていないのに,無人の部屋で人の声がします。なぜだろう。
どうやら,慌てて外出したので,TVのタイマーを解除していなかったのです。
にしきのあきらが走っていました。
4週間ぶりとなると,全然書けませんねー。なぜ一つの話で10000バイトとか書いてたんでしょう。今回はリハビリ代わりで短めに(^^;ゞ。