森に帰ったしな乃
森にかえったしな乃 交通事故のない社会を目指して

        年賀欠礼状


      ミヤマオダマキ

年賀欠礼状

             もう一つの年賀欠礼状    
                   

  我が家では、娘の事故以来、あらゆる祝い事を絶ってしまいました。誕生日も記念日も、風のように、脇をすり抜けていきます。お正月もまた同様です。「おめでとう」と言い合うのがいやで、年賀状も廃止してしまいました。
  その代わりに書いたのが、いわゆる「年賀欠礼状」という、年末の挨拶状です。いつもは平常に振る舞っていますが、せめて年に一度くらいはと考えて、遺された家族の悲しみを綴っています。
2012年 賀状欠礼状
2012年 年賀欠礼状


2012年師走                悲しみのおすそ分け
 老いてなおカッコ好い、高倉健主演の映画「あなたへ」を観ました。先立った妻は、自分の遺灰を生まれ故郷の海に撒いてくれるよう、主人公に託します。そこは長崎県平戸島、薄香というひなびた漁港に沖する海のことです。
 実を言うと、平戸は我が父を育んだ郷里でもあります。いえ元和・寛永の昔より、四百年間の歴史を連綿と今に伝える、戸川家累代の故地でもあるのです。
 そこは私にとって暮らしたこともない、縁薄い地でしかありません。しかし終生望郷の念篤かった父からの感化もあって、死なば平戸に帰りなんと、我が胸臆にも秘めたる願いがありました。
 7年前の春浅きころ、ハンカチにくるんだ娘を連れて、私は平戸島に渡りました。そして薄香にほど近い小さな岬に、娘の一部を埋めて来たのです。
 その日は、抜けるような好天だったにも拘わらず、玄界灘の蒼い波が激しく岩を打ち鳴らし、何故こんな所に捨て置くのかと、娘の悲憤が聞こえる中で、辛い惜別の時を過ごしました。
 映画の主人公は、散骨を終えた後、妻からの呪縛を解かれ、一人で生きていく力を取り戻していきます。この結末だけは、私のその後の人生と、大きな隔たりがあるようです。 とまれ、虚構と現実が同じ舞台に立つ符合、故郷が発する磁力、家族を繋ぐ粘性等々。軽々な言葉では、とても言い尽くせない共感と感銘に沈んだ作品でした。
 さて、この冬、21年間続いた全国交通事故遺族の会が閉会しました。
 この喪失感を補うべく、来年は第三の人生を探して、魂の放浪が始まりそうな気配です。皆さんのご健勝を、偏にお祈りいたします。
  2012年 師走                永年頂いた真心に感謝をこめて


PS : この映画が劇場にかかったのは、2012年の8月でした。しかし俳優の高倉 健はその後療養生活に入り、2014年の12月に惜しまれつつ亡くなりました。よってこの映画は高倉 健の遺作となりました。


2011年師走                悲しみのおすそ分け
コマクサ この3月、千年に一度ともいわれる大地震が発生しました。その震災と、それに続く原子力発電所の事故によって、我が麗しの国は、根底から覆されてしまいました。人の命と営みとは、かくまで脆く、そして永遠とも思われた自然は、かくまで醜悪なものだったのでしょうか。ギリシャ神話にいう、パンドラの箱がぶちまけられたかの、災厄に満ちた世界の出現に、私はただ狼狽えてばかりです。
 8月も残り少なくなったころ、乗鞍岳へ高山植物に会いに出かけました。この信州を代表する山には、かつてよちよち歩きの娘を、背中に背負って登ったことがあります。亡き児と廻った思い出の地を再訪することは、とても辛いことです。でも、そこに行ったら、会えるかも知れないという誘惑を断ち切ることが出来ません。
 白い砂礫地に、駒草の花が咲いていました。この花の姿と色合いは、凡人の想像を超越しています。顔を近づければ、魅惑の香気が漂い、涼やかなオルゴールの音色が聞こえて来るような気がします。華の精が、もしも本当に居るとすれば、きっと、この小さな花袋の中にこそ隠れているに違いありません。
 いつか娘に会えたときの土産話にでもと、風に揺れる花に見とれていました。すると、私の肩にふうわりと娘が舞い降りて来て、わたしはいつだって飽きるほど見てるんだよ、と囁きました。娘は今、そんな美しい国で、幸せに暮らしているそうです。
 さてパンドラの箱には、いわゆる後日談があります。諸悪を吐き出しつくし、再び閉じられた箱の中には、プロメテウスが密かに隠し容れておいた「希望」が残っていたのです。来年は、絶望ばかりでは決してなさそうです。


2010年師走                悲しみのおすそ分け
ネパール カトマンズ ネパールの首都カトマンズに、パシュパトナートという、この国最大のヒンズー教寺院があります。人は死んだら何になる?星?風?いえいえ、ただの灰になるだけさ。こんな言葉が、ストンと胸に納まるような光景を、ここでは日常的に垣間見ることが出来ます。境内を流れるガンジス支流の河岸には、8基もの荼毘台が置かれ、その3、4箇所で、いつも大きな薪の山が燃されています。
 周辺には、死者が羽織っていた衣類を奪い合う、カミと呼ばれる不可触賤民や、川底の骨灰を掬って、金目のものを探す幼気な少年がいます。     
 何より驚かされるのは、岸辺の建物に長逗留して、やがて自分が焼かれる順番を待つ、たくさんの老人の存在です。あらゆる煩悩を削ぎ落とした彼らに、感情や言葉はすでになく、眼前の一部始終を、静かに見守っているばかりです。
 今迎えんとする死は忌避の対象ではなく、約束された輪廻転生へと続く、階段に過ぎないからでしょう。彼らの悟りきった表情に、妙な共感を覚えるのも、聖地に染みついた霊気の所以かも知れません。とは言いながら、17年という歳月を巻き戻せたとしても、この石台に娘を乗せようと、私は決して思いません。
 娘は現世に怨念を残し、私は追慕という煩悩を捨て切れないからです。あらゆるものを受容する寛大さなど、ついぞ求めないまま、今日も上辺だけの平穏を装いつ、つつがなき日々を送っています。
 今年、お付き合いいただいた皆さまに、篤い感謝の気持ちをお伝えして、年末のご挨拶といたします。


2009年師走                悲しみのおすそ分け
銀座の夜景 人間は2度死ぬ、という言葉があります。一度目は、その人自身が死ぬことで、2度目は、その人のことを覚えている者が死ぬことだそうです。
 私には、今とても恐れていることがあります。間もなくこの身に訪れようとしている痴呆や死により、娘がこの世にあったという確実な証が、跡形もなく消滅してしまうことです。まさに2度目の死を、娘は迎えようとしているのです。
 幸うすい児の記憶を、後生に残せまいかと足掻いてみましたが、気がつけば、所詮それらは私の脳内活動に限られていたようです。
 秋の夕暮れ、久方ぶりに銀座通りを歩いたときのことです。私の脇をすれ違うかにみえた見知らぬ女性が、つとその歩を緩めると、何故か私に目礼して、足早に離れて行きました。反射的に、私の脳内は高速演算を行い、我が娘の顔をその女性にと描き換えたのです。振り返った私は、人混みに紛れんとする後ろ姿に向かって、お前っ、こんなところにいたのか、と叫んでしまいました。
 今にして思えば目礼も、いえその女性の出現すら、宵闇に漂う、慕情という名の妖気だったのかも知れません。でも私にとっては、少女の娘が、うら若き女性にと変容した、記念すべき刹那でした。
 その夜、脳内の整理と神経の鎮静のため、疲れ果てて帰宅した私を迎えてくれたのは、写真の中で、16年間成長せぬままの幼女の笑顔でした。
 1993年、かの年交通事故で命を奪われた人は10,942人、うち女性は3122人です。娘の名前は何処にも無く、ただこの数字の中の一人であるとされています。
 来む年、皆さまのご多幸をお祈りして、年末のご挨拶といたします。 


2008年師走                悲しみのおすそ分け
 イエスキリストが、ゴルゴダの丘で磔刑に処されたのち、母親であるマリアは、エルサレムから礫(いし)もて追われました。
 寄る辺を求めての流浪は、トルコ西部のエフェソスの外れに辿り着いて、ようよう終わります。彼女はセルチュク郊外の山中にひっそりと隠れ棲み、誰にも看取られることなく、その地で波乱の生涯を閉じたといわれています。
 今その住居跡には、「聖母マリアの家」という名の小さな教会が建ち、世界中の敬虔なクリスチャンが灯す燈明は、ついぞ絶えることがありません。
 先だってのこと、その地を訪ねた私は、キリストという息子に先立たれたマリア、すなわち同じ境遇の母親の膝下に跪き、願わくば我が娘に会わせてくれよと、一心不乱にに祈ったものでした。
 しばらくして、私は何かに導かれるかのように、フラフラと近くの松山に迷い込みました。やや開けた斜面に至り、ふと足下を見れば、霜柱と枯れ草を分けて、薄紅色の花が群れているではありませんか。程なくそれは野生のシクラメンだと判りました。厳冬の地になぜと思った瞬間、私の脳天を電光が走りました。マリア様が、奇跡を授けてくださったに違いないと。
 私は、小さな花を両の掌で包み込むと、たれ憚ることなく哭きました。
 マリアの山のシクラメンは、それほどまでに香しく、在りし日の娘の面影を映していたのです。その娘、生きてしあらば、まもなく25たび目の誕生日を迎えます。
 皆さまの来る年こそ、幸多かれと、お祈りいたします。


2007年師走                悲しみのおすそ分け
チベット ラサ ポタラ宮 26時間にもおよぶ長旅の末、ようよう列車は拉薩(ラサ)の駅舎にたどり着きました。
 時期は、チベットの遅い春。梅に桃、そして杏などが一斉に花をつける、まさに桃源郷のおもむきが、其処にはありました。宇宙の果てまで見通せるのではないかと思うほどの真っ青々な空が、自分の立っている標高の高さを教えてくれます。
 チベットといえば、日本とも馴染みの深い大乗仏教の国です。五体投地を続けながら、夥しい老若男女がジョカンというお寺を目指し、国中から這い上って来ます。
 人々を、何故にそこまで過酷な信仰に駆り立てるのかといえば、この国では輪廻転生、すなわち生まれ変わり思想が絶対視されているからです。
 私が長躯この地を踏んだのも、もしや蘇った娘に会えるやもという、切ない希いがあったが故です。しかし、通りすがるチベット娘の顔を執拗にのぞき込むものですから、「汝是国際的変態人奴」と睨み返されてしまいました。
 こうして、チベットでの目論みは儚く潰えましたが、何の役にもたたないと背を向けていた宗教に、少しだけ踵(きびす)をめぐらすことが出来たような気がします。
 定年から3年、考え方も生活も急速に矮小化しつつあります。この頃は、平気で半裁したレタスや大根を買うことが出来るようになりました。
 今日も姿を見せない娘の前に、欠かすことなく食事を並べ、さあさ食べろと急かしつつ、ただただ平坦に終わった一年を振り返っています。
 来る年、皆さま方の更なるご健勝を念じながら、年末のご挨拶といたします。


2006年師走                悲しみのおすそ分け
アルプス お花畑 スイスという国の名は、物心がついて後、とりわけ初期に覚えた名前だったように思います。閑の多さもあってか、時に海外にも遊びますが、どういう訳か、スイスにだけには行くまいと、心に決めていました。観光という言葉に、何処か後ろめたさがあったのかも知れません。
 しかし今年の夏、その禁を破って彼の国に足を運びました。まるで絵本の中のように美しいところでした。真夏の降雪を2日間も体験しました。
 氷河を見下ろす小高い山の頂きで、高山植物を数えて回りました。岩を伝う清水に手をかざして飲みました。牧場にのんびり寝そべる牛と、人生論を語り合いました。
 そして私は気づいたのです。何故それまでスイスに来ようとしなかったのかを。その原因は、テレビで繰り返し放映された宮崎駿のアニメ「アルプスの少女ハイジ」だったのです。娘とハイジの像が重なり合い、私の足を縛っていたのです。山、動物、そして何より花が好きだった子が、遠いスイスに帰ってしまったと、きっと認めたくなかったんですね。
 短い旅が終わろうとする日、アルプスから長く裾をひく緑の草原で、私は9歳のままの娘に逢うことが出来ました。彼女は黒山羊と戯れるのに忙しく、ついに私には気づいてもくれませんでした。でも、また元気なうちに行ってやろうと思っています。いつか私に振り向いてくれるまで。
 皆さんのおかげで、また新しい年を迎えられます。ご多幸を、心からお祈りいたします。


2005年師走                悲しみのおすそ分け
平戸 薄香の漁港 九州の西北端、玄界灘に浮かぶ平戸島は、父が生まれ育った所、いえ、さらに昔を辿ることのできる先祖の地です。
 桜にはまだ早い3月、45年ぶりに平戸を訪れました。穏やかな島民の顔、そして、あくまでも澄み切った蒼い海が、父に連れられて旅した当時を、鮮やかに思い起こさせてくれました。
 平戸のホテルに泊まったその真夜中、ふと目覚めた私は、窓から見た幻想的な光景に、魂を揺すぶられることになりました。
 砂浜に、寄せては返す波頭が、砕ける瞬間、暗闇を割くかのように青白い光が横走りして行きます。息を呑むほどの神秘的な現象でした。
 その正体は、無数の夜光虫という微生物なのですが、私には、遠い過去の人からの語りかけのように思えてなりませんでした。
 そして3日目は北九州に踵を返し、東松浦半島の突端に宿を取りました。どんな伝説を秘めているのでしょうか。悲しくも切ない、「呼子(よぶこ)」という名の小さな漁師町です。その日私は、玄界灘に落ちていく夕日に向かって、何度も何度も子の名を呼びました。
 還らぬ娘を待って12年、はや暦も一巡しました。大病から定年退職という大事のあった去年に比べ、暇つぶしに忙しい一年でしたが、まずは息災であることを、報告させていただきます。
 皆さまには、来る年もご多幸をと、ひたすらお祈りいたします。


2004年師走                悲しみのおすそ分け
映画 世界の中心で愛をさけぶ 夏の猛暑、台風の波状攻撃、そして新潟県中越地震と、異常現象は果てなく続き、気象学的記録と、私たちの記憶をすっかり塗り替えてしまいました。
 それにしても、今年はなんと激動の一年であったことか。
 新春早々、母の死を皮切りに、8月には自身の肺がんで、右肺の一部を切り取る手術を受けました。その自宅療養中に還暦を迎えてしまい、11月には、そのまま定年へとなだれ込んでしまいました。
 春は台北で食欲を満たしました。夏には、ロンドンからパリへと芸術鑑賞行に酔いしれました。
 故郷では、還暦祝いの催しがあり、懐かしい友と旧交を温めました。映画『世界の中心で、愛をさけぶ』を妻と見て、柄にもなく大泣きしてしまいました。
 こうした出来事の合間を、交通事故関係のボランティア活動がビッシリとカレンダーを埋めてくれました。しかし、いずれも重さとまとまりがなく、強く握れば、指の間からバラバラとこぼれていってしまいます。
 喜びも悲しみも、ともに分かち合う「娘」という接着剤が欠けていたからです。やはり今年も、悲しみの勝った一年でした。
 ようよう年末に来て、少し落ち着きを取り戻しつつあります。
 来る年、皆さま方の、ご多幸をお祈りいたします。


2003年師走                悲しみのおすそ分け
リシリヒナゲシ いつ何処にいても、娘が私を見つめています。
 台所には、お握りを頬ばりながらの娘がいます。寝室の娘は、利尻山の長官小屋前で、得意顔のVサイン姿です。思えばあの日、私や妻に向け、かくも魅惑的なまなざしを送ってくれた娘。10年経った今も、少女のままのあどけなさが痛ましく、つい視線を逸らしてしまうことがあります。
 今年8月、新居に移り住みました。同居の息子夫婦とは、古くなったサラダドレッシングのように完全分離してしまい、私たち夫婦と娘だけの時間が激増しました。
 夕食、娘は妻の隣りに座り、徹底した拒食症を、今日も黙って叱られています。家のあちこちに置かれた花は、何ゆえそこにあるのか、それぞれに理由をもっています。
 拾ってきた木の実や、いただいたお菓子が、然るべき場所にさり気なく置かれています。
 秘密を共有しあった3人の、3人だけの静かな暮らしがそこにあります。
 娘が写真から抜け出ることがないように、私たちも、時間の澱みにたゆとうています。 藤村が千曲川旅情で、「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ」と歌ったような、変わることない漂泊暮らしです。
 10年目にして、やっと国政選挙に参加してきました。人の命を大切にしてくれそうな人と政党に、10年分の重い一票を投じてきました。
 皆さまには、今年もお世話になりました。この場を借りてお礼を申しあげます。来る年もご健勝であらせられますよう。


2002年師走                悲しみのおすそ分け
大樹 9年という歳月を、今日もまた思い返しています。娘が生まれてから充実の9年、そして突然照明が落ちた舞台のように、暗転した生活。
 もがき苦しんでふとみれば、さらに9年の歳月を積み上げてしまいました。
 去年の命日、暴走族だった加害者が焼香に訪れ、彼が人の親になったという冷酷な事実を、不用意にも、この私に聞かせてくれました。
 その夜、タオルを口に押し込んで、どれほどの時間を泣いたことか。
 天の為せる業とはいえ、あまりの不公平さに、私はありったけの悪態を並べて神を呪いました。そして今年の命日、30歳になった彼に、以降わが家の敷居を跨がないよう命じました。帰り際、彼が落としていった小さなため息は、どんな言葉の代わりだったのでしょうか。
 やがて潮のように、ジワジワと足もとから満ちてきた虚脱感が、今ちょうど肩の辺りまで来て止まっています。溺れてしまっても構わないのに、この潮は決して私を溺れさせてはくれません。
 サント・ブーヴは、「思い出は、植物に似ている」といいます。9年間の思い出は、ジャックの豆の木のように巨樹化し、しかも年中美しい花を咲かせている不思議さ。それは、娘が生身の人間から、伝説上の人物に替わったことの証かも知れません。いま胸を掻きむしるほどに焦がれるもの、それは娘の肉声と表情、何よりこの手で触れることができるもの。
 今年もまた、多くの人から慰められました。来る年も、皆さまが健やかに過ごされることを、心からお祈りいたします。   
    


2001年師走                悲しみのおすそ分け
映画 鉄道員 『鉄道員(ぽっぽや)』という映画は、ご覧になりましたか。映画の中でのワンシーン。高倉健の扮する主人公“乙松”が振り返ると、そこには駅長帽を被った“雪子”役の広末涼子が直立で敬礼しています。満面の笑顔で。
 浅田次朗の原作にはなかった、映画ならではのクライマックスシーンです。
 この雪子とは、幼くして死んだ乙松の娘でした。明朝には死ぬ定めの父親の前に、17歳に長じた姿を現わした、すなわち死んだ子の幽霊ということになります。
 我が家の娘も、雪子と同じ年齢を重ねました。いえ、健やかに成長していればの、またまた詮無い愚痴話です。
 人生の激動期、華々しい舞台に登場した少年がいた一方、実習船えひめ丸のような凄惨な事故や、犯罪の場に遭遇した少年もいます。
 巣立ちを前にしての娘。その瞳は何を語り、その言の葉は誰の心を動かすのでしょうか。やがて羽ばたく先は、何色の宙(そら)なのでしょうか。
 巷では「死ぬよりも、死なれる方が辛い」と言います。私も、そう思っていました。今はこの独りよがりの傲慢さに恥じ入るばかりです。
 人生で、もっとも煌びやかな季節を共にすることがなかった娘こそが、やはり一番不憫なのです。ジャニス・イアンは『17歳の頃』という曲の中で、「恋人の優しさだって、わたしは知らないで来たの」と歌います。
 成長を止められてしまった娘は、「パパのお嫁さんになる」なんて、今もまだそんな悲しいことを言ってくれるのでしょうか。
 今年一年いただいた、ご厚情に心から感謝いたします。


2000年師走                悲しみのおすそ分け
キンモクセイ 金木犀(きんもくせい)が金粉のような小花をまき散らすと、晩秋の庭に大きな満月が出現します。
 これを手のひらでかき集めては空に投げ返す、そんなたわいない遊びを、飽きることなく繰り返す娘がいました。季節が巡り来るたび、この妖精のような娘を思い出しては涙すること頻りです。
 7年前に邂逅する材料が、今でも家の内外にたくさんあります。かつて娘が、我が家に持ち帰った花の種からは、白粉花(おしろいばな)が毎年確実に花を付けます。野すみれは、舗装された道路のわずかな隙間にも根を張って、根絶されまいと抗い続けています。
  大事な生命が泡沫(うたかた)のごとく消え、名すら持たぬ草花がしぶとく生き続けるさまを見るにつけ、うつし世のはかなさが思い知らされます。
 ドクダミという嫌われ草があります。その花の、濃密な白の美しさを教えてくれたのは娘でした。白膠木(ヌルデ)という毒木の絢爛たる緋色を教えてくれたのも、また然りです。
 幼き娘が遺していった記憶は、常にわが胸臆に隠れ棲み、折にふれては鮮烈に蘇り、また新たな悲しみを残していきます。この娘をして、守り得なかった己が身に今日も負い目の念を募らせながら、また一つ齢を重ねようとしています。
 今年一年、皆さまから頂戴した水魚の交わりに深謝しながら、来る年のご多幸をお祈りいたします。


1999年師走                悲しみのおすそ分け
クリ 世に言われるように、親の子自慢くらい、耳に煩わしいものはありません。ということで、今回は娘の悪いところだけを数え上げてみようと思います。
 節分の豆を、撒く前につまみ食いしました。喉の薬にと造っておいた花梨(かりん)のシロップを、いつの間にか一瓶舐め切ってしまいました。友達から借りた漫画を、こっそりとベッドの陰で読んでいました。冷房をガンガンかけて、布団にくるまって震えていました。当時高校生だった兄の喫煙を告げ口しませんでした。綺麗な花を見つけると、それが他人の庭に咲くものであっても、こっそり一輪摘んで来ました。果樹園から転がり出た栗を持ち帰りました。
 悪事の数々として思い出せるのは、たったのこれくらいです。むろん、娘に帰する究極の罪は、親より先に逝ったことですが、これは娘の意志が求めたことではないので、あえて問わないことにします。
 さて、こんな些細で、しかも可愛いらしい罪の数々も、積み上げていけば、やがては命を召し上げられるような大罪となるのでしょうか。天の摂理とは、かくも偏向に満ち、非情なものなのでしょうか。
 これを因果応報と呼ぶのであれば、娘の何千何万倍の悪逆を重ねた私を、なぜ神は生き長らえさせておくのでしょうか、改めてお聞きしたいものです。私は、例え地獄への片道切符を握らされようと、万物の主を呪い続けます。
 日々細りゆく記憶の糸を手繰り寄せながら、焦る私は娘に言ってやります。なぜもっとたくさんの悪戯をしていってくれなかったか。親が子を叱る喜びを、思いっきり味合わせてくれなかったかと。今我が家では、娘のおねしょの跡が残る敷布団が、何ものにも換え難い家宝となっています。


1998年師走                悲しみのおすそ分け
サクラ 娘がまだ小学一年生だったある秋の日、わたしと娘は2人して、甲州の低山に遊んだことがあります。辺り一面、染まるような紅葉に囲まれての昼食時、わたしは、いかにもしたり顔で娘にこう尋ねました。
 「樹の一歳は人の一生に似る。春他に先駆けて、豪華な花を咲かすサクラと、秋の締めくくりに、あざやかに葉を色づかせるモミジの2通りがあるなり。さらば娘よ、君はいずれの人生を歩まんとするや」と。
 やや間をおいて、娘は「サクラモミジ」と一息に答えました。
 それから半月後、晩秋の日曜日、娘はわたしの手をひいて、近所の桜の木の下に立たせました。その指さす先には、錦もかくやと思うほど、艶やかに色づいた、桜の紅葉があったのです。
 この時わたしは、遠く離れて見る椛(もみじ)と、近くに寄って見る桜や、そのほか柿や花みずきなど、身近にも美しい紅葉(もみじ)があることを、娘から教えられました。 運命のいたずらは、この娘を花や紅葉で着飾ることなく、幼木のまま断ち切ってしまいました。
 娘が交通事故で死んでまだ5年、我が家は依然として喪の内にあります。かかる言い訳で恐縮ながら、年賀を欠礼するご無礼をお許しください。
 末筆ですが、本年一年のご厚情を心から感謝いたします。


      


森に帰ったしな乃