




■ 2000年5月19日 朝日新聞「論壇」 戸川 二美子 |
交通事故遺族に心のケアを
「行ってらっしゃい」。朝元気に送り出した我が子との再開が、救急救命センターの集中治療室か霊安室。我が子には似ているがとても我が子であるとは信じ難い。
これが「よくある交通事故」のよくある例だ。交通事故は現代社会ではごく日常的に起きる。
昨年の交通事故は85万件。死亡者は1万人弱。それゆえ、私たちの感覚は麻痺しており、被害者は単に「運が悪かった」と受け止められてしまう。
それでは「運悪く」命を奪われてしまった年間数百人にも上る子供の親たちは、その直後から、一体どのような心理状態・精神的痛苦を味わうのだろうか。
数年前に比べると現在は、犯罪被害者、交通事故被害者またその遺族への心のサポートが必要であるとの主張がされるようになり、民間のサポート機関も全国で10カ所以上が設置されている。
従って事故直後から精神的なサポートを受ける機会がゼロである場合は少なくなってきた。
しかし、交通事故は通り魔的殺人と同様、青天の霹靂であり当人(もし意識があれば)にも、「著しく驚異的で、なおかつ破局的な出来事」なのだ。
親たちはすぐさまサポートが得られたとしても、突然の我が子の死が理解できず、錯乱したままだ。人により違いはあるが、かなり時間がたってからも、生き残った自分を終始責め続ける。
自分の悲嘆と苦痛を理解されない故に疎外感を深め、次第に周囲から孤立していく。
生きる希望を根底から失い、虚無のうちに一日を生きるだけが精一杯になる。ゴミ捨てに出る、という簡単なことすら出来なくなり、普通の生活が送れなくなる。
これらの人々を「著しく驚異的な、あるいは破局的な出来事」の精神的後遺症である心的外傷後ストレス障害(PTSD)罹患者と認定することは無理であろうか。
私は6年半前に9歳の娘を暴走車に奪われた。一年後、夫は加害者の刑事罰の余りの軽さ(罰金刑50万円)に納得できず、民事訴訟を起こした。
その一項に、私のPTSDによる病休・休職への損害賠償、慰謝料請求を入れた。
たとえ10円玉一枚でも認定してもらいたい一念であった。診断書は当初入院していた病院の精神科医と、5年間にわたり月2回のカウンセリングを受けているPTSDの第一人者、武蔵野女子大の小西聖子教授による。
95年9月に出た一審判決では全面的に勝訴した。画期的であった。
その後、大阪でも交通事故とPTSDの因果関係を認めた判決があったが、こうした例はまだ少ない。
交通事故遺族の心の問題に関し2点問題提起したい。第一に早急にPTSDの臨床ができる専門家の養成を図ってほしい。
私の体験からも精神科医の中にPTSDについての実践的知識を持つ人が極めて少ないと思う。
2、3回は話を聞いてもらうがその後は入眠剤、抗うつ剤などを出して欲しいがためだけに通院している遺族も多い。
日本の精神科医にPTSDへの理解が不十分なのは、被害者心理学、精神医学が主に米国から移入されてまだ日が浅く、国内で臨床と研究をともに進めている専門家が極度に少ないことによるのだろう。
しかしこれは実は大きな問題を含んでいる。従来はひたすら忍耐を強いられてきた潜在的PTSD罹患者が、今後は多数顕在化するのは想像に難くないからだ。
その時対応できる能力を培った専門家が絶対的に不足する。第2に、サポート機関の設立を担ってきたのは大部分遺族自身であるという問題である。
92年に東京医科歯科大学内に開設された「犯罪被害者相談室」のきっかけも遺族の涙ながらの訴えであった。各都道府県の警察署内に被害者対策機関が設置され始めた向きは好ましい。
が、問題は「心」を共有する力量を持つか否かである。しかも素早く対応し必要な情報を提供しなければならない。公的機関の質、量の拡充を図り、自助団体への援助を要望したい。
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■ 2000年1月28日 朝日新聞「声」の欄 戸川 二美子
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事故の現場に礎(いしずえ)を建てたい
手元に一冊の通帳があります。開けられません。私ども二人の2年分の収入ほどの額が記されているそうです。娘の命の値段です。
娘は9歳半の夏、暴走車にはねられ、「かあさん」と呼ぶこともなく、この世から姿を消しました。その後、あれほど強いきずなで結ばれていた母子なのだから、娘は何としても私の所に戻ってくる。今日が駄目な ら明日は必ず。そうやって一日一日をしのいでまいりました。
気付いてみれば早7年近い時が流れていました。幽明の境を自在に越えてゆかれる心持ちがしています。死者たちのいる世界が何と親しく思えることか。
私の心は止まったままですが、肉体の上には容赦なく時間が刻まれます。
考えるだけでも頭が爆発しそうな、娘の命の値段の後始末も考えなくてはいけないようです。
私は鈍い頭で考えて一つの結論を得ました。死者の礎を建てたい。事故の現場に。一人ひとりの命の重み、無念の思いを忘れないために。
ヨーロッパの街のれんがの壁にさりげなく刻まれている死者の名と生年と没年。そのように日本の道端や交差点、そのほかの所に小さな一枚ずつのプレートを建てたいのです。被害者の身勝手な思いでしょうか。
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■ 2000年2月1日 朝日新聞「声」
高校教員 遠藤芳男さん(埼玉県東松山市 49歳) |
事故現場に礎、願いをかなえて
先月28日の声欄に「事故の現場に礎を建てたい」という投書があった。
我が家の近くの雑木林を抜ける道のカーブに5年ほど前まで、小さなモミの木が植えてあった。
その木の根元に直径十数センチの白い石が置かれ、その石に薄れた字で、次のようなことが書かれていた。
この急カーブで自転車に乗った通学途中の男の子が、スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれなかった乗用車にはねられ、13歳で亡くなった。
今後の事故防止と、我が子の霊を慰め、亡くなった場所を忘れぬために植樹した、と。 少年の家族の、悔やんでも悔やみ切れぬ心情を思うと、子を持つ親として胸の詰まる思いがする。
そのモミの木も白い石も、道路改修の折りに行方不明になってしまった。もう、あそこで事故があったことすら、忘れられてしまっている。
事故から十数年以上たっているので、仕方のないことかもしれないが、遺族の方々の胸には、13歳の学生服の息子さんが忘れらぬ思い出とともに生き続けているのだろう。
事故の現場に礎を建てたいという気持ちは、決して身勝手な願いではない。道路わきに置かれた白い花束を見て、スピードを緩めるドライバーも多いのだ。
事故防止のためにも、関係者の一考を期待する。
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■ 1998年12月17日 朝日新聞「声」の欄 戸川 二美子
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交通事故死に、取り組み長く
超党派の議員連盟「交通事故問題を考える国会議員の会」発足の記事を読み、感慨ひとしおです。
今年は日本の交通死亡事故史において画期的な年でした。片山隼君のご両親の粘り強い行動が20万人もの人々の心を動かし、マスコミも巻き込んで、ついに検察の不起訴処分を取り消し、再審理を引き出しました。その中で人々の目に明らかになったことが何点もあります。
1、死亡事故捜査では被害者が口をきくことが出来ないため、必ずしも事実が把握されるといえぬこと
2、その捜査結果と、加害者の一方的な証言により、調書が作成されること
3、その調書に基づき、刑事罰が下されること
4、現状では、死亡事故の加害者の多くが起訴されないこと
5、被害者の遺族は蚊帳の外に置かれていること
私も大切に育てていた娘を5年前に交通事故で亡くしました。目撃者はゼロで、位置関係やスピードなど納得できない点が多々あったものの「調書によれば」の一言で片づけられました。
加害者は略式起訴で罰金50万円。9歳半の娘は、彼には50万円の痛手で終わりました。
交通事故死亡者は毎年一万人もいるのに、身内に被害者が出るまで、多くはひとごとです。「交通事故に遭う」のは「運が悪い」の代名詞さえ使われ、私たちの感覚がマヒしていることを示しています。
議員連盟の方々の、息の長い、地味ではあっても実効のある取り組みを期待しています。
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■ 1998年6月29日 朝日新聞「声」の欄 戸川 二美子
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命の尊さ託す、事故現場の花
今朝、夫と小さないさかいがありました。昨日用意しておいた花を、現場に持って行ってくれなかったからです。
夫は「おれだって、いやなんだ。持って行きたかったら自分で行けばいいじゃないか」。
私が現場に持って行かれるなら持って行く。でも一度も、あの子が命を奪われた場所の近くに行くことすらできない。
私どもの末娘は9歳半の、これから楽しみというかわいい盛りに、ある日突然、この世から姿を消しました。暴走車にはねられ、壊れた人形のようになって。もう5年近くになります。
今日こそ「ただいま」と元気よく帰ってきてくれる。明日目が覚めたら元通りの生活に戻っている・・・。
娘の死を受容できぬまま、錯乱した頭と、からっぽな心を抱えて一日一日をやっとしのいでいます。月日を重ねるにつれ、悲嘆は増すばかり。よちよち歩きのころから花を摘み、いとおしんできました。娘に花を見せてやることだけは続けてきました。
事故現場には夫か、もう「兄ちゃん」と呼んでくれる妹のいなくなった兄が運び続けました。
全国の交通事故死亡者は年間1万人。死者の無念の思いを忘れてもらわぬよう、すべての遺族が現場に花を供え続けたら、車の利便性を享受するだけで、事故などひとごととしか感じない人々に、車社会について考えていただけるのではないでしょうか。
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■ 1994年3月23日 朝日新聞「声」の欄 戸川 孝仁
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幼く逝った娘、散骨し慰める
たった9歳という幼さで娘が逝ってしまって半年が過ぎました。交通事故という突然ふってわいた出来ごとに私たちは打ちのめされ、いまだに悲嘆のどん底にあります。
娘が不憫(ふびん)でならず、まだ遺骨は手元に置いてやっていますが、妻は自らの手でかわいい 骨壺を(こつつぼ)を焼いてやり、娘はいま、その中に納まっています。
約半分量残った遺骨を、私は機会をみて散骨しています。生前の娘は自然が大好きで、常に花に囲まれて育ちました。
梅園の紅梅の根方、野水仙の原など、娘が喜びそうな場所、そして娘が生前、その足跡を残した、例えばがんばって登った山の頂など、さらにいつかは娘と一緒に行きたかった旅先にも連れていき、景色のよい所を選んで散骨するのです。
散骨とはいっても、ほんの少量の遺骨を深く掘った地中に埋めるのですが、こうした行為を快く思わない人もいるのではないかと思います。
そのため、散骨は必ず人目を避け、場合によっては夜陰に乗じて行うこともしばしばです。
何とも気のめいる、悲しい行為と日々ですが、これが不運に死んだ娘への親としてしてやれる唯一の務めであると、私は確信しています。
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■ 1993年9月13日 朝日新聞「声」の欄 戸川 孝仁
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交通死の娘に心込めた葬儀
自転車に乗った9歳の娘は、暴走してきた乗用車にはねられ、短い人生を路上に散らしてしまいました。狂乱状態の私たち親でしたが、周りの人たちに叱咤(しった)され、ともかく葬儀をということになりました。
自然が大好きだった娘にふさわしい葬儀をという母親の願いから、私たちは従来の形式にこだわらない形式にしようと決意しました。
まず一切の宗教色を除くこと、子供を中心としたわかりやすく、共感のもてるもの、そしていまわしい交通 事故を糾弾する3つの方針をたてました。
祭壇の中心には山野をイメージした、たくさんの花だけで飾ったモニュメントを造り、花の昆虫や本も配しました。
その中に娘が今まで残した絵や焼きものなどの作品を展示し、近くの壁には娘の生いたちをあらわす数十点の写真を、母親のコメントつきで張りだしました。
会はお別れ会とし、娘を可愛がってくれた近所の老人やクラスのお友達のおもいで話を中心に、娘のピアノ発表会のテープや宮沢賢治の朗読をバックに流しながら献花でしめくくりました。
何はともあれ終了後、参会者からほめていただきました。
たくさんの友人の寝食を忘れたボランティアがあったればこそとも思いますが、私たちは娘のために一番良かれと思う形の葬儀ができたことに満足しています。
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