森に帰ったしな乃



          


■ [ 2016/ 2/ 9 ]   朝日新聞

信濃の国」歌えて当然? 長野県歌「県民の9割」でも波紋

長野県庁(写真右)そばの長野県歌「信濃の国」の歌碑=長野市

 県歌「信濃の国」=キーワード=が歌えない県民が約1割――。長野県が昨年末に発表したモニター調査の結果が、波紋を広げている。「県民誰もが歌える」として知られるため、県も「理由はわからない」と首をかしげる。一方、9割が歌えるという結果は、長野県ならではの郷土愛を示している。なぜ、これほどまでに根付いたのか。

 長野県のモニター調査結果によると、6番まで「すべて歌える」が18・6%、「1番は歌える」が60・8%、「部分的に歌える」が11・3%で、「歌える」割合が約9割だった。一方、70歳以上の約4割が「すべて歌える」と答えたが、20~60代は「1番は歌える」が大半。30代は「すべて歌える」「1番は歌える」の割合が低く、年代によって認知度が違うことも分かった。

 ■「忘れちゃった」

 松本市出身の専門学校2年有馬風樹さん(21)は「長野県の人なら知ってて当たり前」。長野市出身の高校1年丸山成葉さん(16)は「歌えるけど2番までが限界。むしろ他の県で歌えない人が多いなんて知らなかった」と驚く。一方、松本市出身の主婦檀原瑞穂さん(33)は歌えない。「忘れちゃった。学校では習わなかった。メロディーはわかるけど、6番まであることも知らなかった」という。

 2010年の地元紙の調査でも歌わない学校の増加が指摘されており、長野県は「県教育振興基本計画」(2013~17年度)で「全ての県民(県出身者)が歌える」を方針に掲げている。

 「『信濃の国』は、信州人の心の歌。歌えば思想や信条を超えてひとつになれるんです」と話すのは、長野市の太田今朝秋(けさあき)さん(93)。長野県の初代広報県民室長で、1968年の県歌制定時の責任者だった。

 歌は1900年に完成し、県内各地の学校で歌われて広まった。太田さんは歌が、県の分裂を救った時を鮮明に覚えている。

 ■分裂ピンチ救う

 48年、長野市の県庁舎の一部が焼失したことを発端に、長野県の南北の議員が対立。県を二つに分ける案が県議会の本会議に報告されることになった。

 長野県は元々、「信濃国」という一つの国だったが、1871年の廃藩置県で現在の県北部に長野県、南部に筑摩(ちくま)県が誕生。76年に北の長野県に併合される形で一つになったが、この時以来、南北の感情的な対立が続いていた。

 「分県案」が審議された1948年の本会議。怒号のなか委員長が登壇すると、傍聴席や県議会の周囲から「信濃の国」の大合唱が始まった。分県に反対する議員が住民約1千人を動員した「作戦」だった。県庁中に響き渡る歌声に、分県派にも「信濃の国は一つだ」という思いがこみ上げ、分県案は不成立となったという。

 当時、県庁林務部職員だった太田さんは「長野県という言葉を使わず、『信濃の国は一つ』という作詞者の思いが分県派にも伝わったのだろう」と振り返る。

 抜群の認知度から、68年に県歌に。現在もJポップ風にアレンジして運動会のダンスの曲に使われるなど、若い世代にも親しまれる。

 ■44都道府県で制定、浸透せず

 「全国都道府県の歌・市の歌」の著書がある中山裕一郎・信州大名誉教授(音楽教育学)によると、44都道府県が公式の都道府県歌を制定している。主に戦後、郷土愛を高揚させるために制定されたが、その役目を果たしているものはほとんどないという。

 最近、普及に熱心なのは宮崎県。1964年の県民歌制定から50年を機に、JR宮崎駅構内で放送したり、全小中高校にCDを配ったりするなど、県民の関心を広げようとしている。県広報戦略室の担当者は「県民意識を高め、若者の県外流出を少しでも抑えられれば」と話す。

 一方、大阪府には府歌がない。中山名誉教授は「『阪神タイガースの歌(六甲おろし)』という県民歌的な存在があり、必要性がなかったのでは」と指摘する。都道府県歌よりも、森鴎外作詞の「横浜市歌」など、市歌のほうが身近に歌われているところが多いという。

 中山名誉教授は「信濃の国」が広く認知されている理由の一つに、旧国名の「信濃」を使った点を挙げる。「南北の固有名詞を満遍なく入れて県民の地域ナショナリズムに訴えつつ、県全体としての共同意識を育むカギだった。常に分裂する危機をはらむ長野県だからこそ必要とされ、歌い継がれているのだろう」(井口恵理)

 ◆キーワード

 <「信濃の国」> 「信濃の国は十州に」から始まり、浅間山、天竜川、「旭将軍義仲」「象山佐久間先生」など地名や偉人が登場し、信州の風土と歴史を歌い上げた唱歌。6番まであり、すべて歌うのに5分以上かかる。日清戦争後の1899年、長野県師範学校(現・信州大学)教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌1900年に同僚の北村季晴が新たに曲をつけて完成した。同校の卒業生が教師として赴任した県内各地の学校で広まり、愛されるようになったとされる。県民公募で47年に作られた「長野県民歌」に取って代わり、68年に県歌に制定された。




     


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