■ヤシマ海軍の没落と再建〜40年戦役概略
40年戦役の開始時点までに、ヤシマ海軍は優れた練度と零式機械化兵を始めとする天使核兵器、加えて陸軍陰陽部との連携により、東南アジアから南方諸島を含む太平洋全域、さらに合衆国西海岸までを勢力圏に置いていた。
イスカンダル沿岸からマウリア洋、及びメガラニカ周辺部も影響下にあったとは思われるが、ヤシマ軍の戦略目標が統一帝国と連携しての“連邦”及び“合衆国”の挟撃に置かれたため、この地域への目立った侵攻は行なわれていない。
ともあれ、1941年冬に始まった太平洋方面の戦いは、1944年12月16日の日付変更線海域における合衆国太平洋艦隊の壊滅を以って終焉した。
これ以降、1947年の合衆国十字軍による逆侵攻開始までの間、太平洋を我が海としたヤシマ海軍は合衆国本土への大規模輸送任務に主戦略をシフトしつつ、制海権維持を目的とした大幅な再編と、コンロンからの豊富な資源による大艦隊の編制をも行なっている。
特に、ヤシマ海軍の覇権の象徴として計画された10隻の“高天原”級300m戦艦は、1945年5月の第2次ロッキー会戦以降、ヤシマ海軍の対天使戦力の切り札としても莫大な資源と資金が注ぎ込まれ、再建された合衆国艦隊に対し威風堂々と決戦を挑んだことで知られている。 ――だが、結果は悲惨なものであった。
当時の技術では止むを得ないとはいえ、決定力に欠ける対天使装備のみで天使兵と正面から交戦した結果、“高天原”級戦艦10隻は1ヶ月で全滅。さらに艦隊の中核となる主要艦艇とそれを運用する士官、熟練兵をも根こそぎ失ったヤシマ海軍は大幅な劣勢に追い込まれる。
これを繕う方策の一つとして打ち出されたのが、陸軍も含めた女性への軍職の門戸解放であった。これまで戦地ではごく僅かな例外を除けばほとんど見られなかった女性兵の姿も、1950年代以降はそう珍しいことではなくなる。余談だが、海軍の整備兵として南方諸島を転戦した中島三郎が、妻となる幼なじみ葵と前線で再会したのも、このことと無縁ではない。
(さらに余談だが、女性への軍職の門戸開放は必然的に彼女たちの社会進出をも促し、参政権や労働権など各方面において、ヤシマ=統一帝国の男女同権は40年戦役を経て加速度的に進んだ。ヤシマにおいて男女共学が当たり前になり、共働きが珍しくなくなるのもこの頃からである)
また、1950年代に実用化された第二世代人間戦車アペルギアの登場と、陸軍陰陽部の全面的な協力を得て、ヤシマ海軍は南方諸島全域を利用したゲリラ戦へと戦略を転換。天使兵と正面から戦うことを避け、複雑な地形と陰陽術を駆使した奇襲戦法は、通常兵力の磨耗しきった合衆国海軍を40年間足止めしえたとも言える。
これが逆に、“高天原”級の建造に伴い内地で寧艦状態にあった“大和”級戦艦が鎖国以降も身命を永らえた理由ともなった(※)。前線で求められたのは大艦巨砲の権化ではなく、軽快軽量かつ隠密性の高い駆逐艦や潜水艦となっていたのである。
40年戦役の中盤以降、ヤシマ海軍はできるだけ人的被害を抑え、広大な制海権を少しずつ削らせることで統一帝国崩壊時でも戦前までの領土を保つことに成功していた。また、陸軍陰陽部との連携が深まったことにより、ヤシマ全域を覆う八門結界の構築も比較的スムーズに進み、さらにウラジオストックなどから撤退する統一帝国の敗残兵の輸送にもヤシマ海軍は高い練度を見せたと言われている。 |