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1999/12/30, いとうくにお
家内の実家からのアクセスです。
むらかみさんが書いていますが、確かに今年はいろいろな教団が物議をかもしましたね。最後にオウムがものものしく舞台に再登場したという感じでしょうか。魂のことをする教会も、そうでない教会も、外側からみるとその違いは紙一重というか、よく見極めなければ区別することも難しいのかもしれないと、そういうことも感じました。あれだけの事件を起こしたオウムの場合においても、いまだに多くの信者が信仰を捨てずにおり、上祐氏もどうやら松本被告へ帰依する気持ちを保っているようですが、それをみると人間の心の闇の深さといいますか、信仰の問題のやっかいさといいますか、そういうものにちょっとビビッてしまいそうです。
なんさん、まり恵さんのモデルのことですが、ある一人の女性がモデル、ということではないようです。大江さんが何かの集まりでたまたま見かけた女性の印象とか、象徴的なイメージとしてのベティさんとか、そういったものがミックスされたものらしいですよ。まり恵さんは確かに魅力的ですね。僕は、『個人的な体験』の火見子なんかもガールフレンドとして魅力的だと思いますね。
1999/12/30, なん
 少し旧い話題になってしまいますが、皆さんの話題によくのぼっているswitchという雑誌おもしろそうですね。『人生の親戚』についての特集が組まれている回は、是非図書館ででも探して読んでみたいです。まりえさんには、モデルがいたんですね。個人的にとても感慨深いです。ある時期の私にとって、彼女こそが理想の女性でしたから・・・。
 ところで、ふだらく渡海について、少し調べものをしているところなのですが、大江さんの何かの小説の中で、誰かが愛媛の室戸岬から渡海するというエピソードがありませんでしたっけ。自分でも一通り探してみたのですが、見つからないので、ご記憶にある方は教えてくださるとうれしいです。
1999/12/30, むらかみ
 こんにちは。
 ひさびさに『宙返り』に関してなのですが、浅田彰が最近、この小説について次のように言及していました。
 「『宙返り』というテーマは、偽メシアの転向、言い換えれば、神話的な受難と救済の物語の自己否定であるかぎりにおいて、非常に面白いと思う。にもかかわらず、実際の作品を読むと、とくに後半、転向後の偽メシアたちがまたしても四国の森で受難と救済の物語に統合されてしまうんですね。(中略) 結局、あれは『宙返り』というより『着地』というべき物語なんだと思います」(「批評空間U−24」)
 『宙返り』については、今年の小説のなかで、僕にとってはもっとも引っかかりのある魅力的な作品でしたし、単純な「受難と救済の物語」にはおさまらないだろうとは思っています。しかし、やはり後半部分で、いったん転向したはずの師匠(と周辺の人々)が、いろいろと抵抗はあるものの、わりとスムーズに宗教共同体を作り上げていくところにはちょっと違和感を感じたのも事実です。違和感というのは、いったん転向した「偽メシア」が、そんなに簡単に再転向してしちゃっていいのか、という点で、「宙返り」からの「着地」がうまく行き過ぎにみえてしまうのですね。師匠はもっと堕ちるべき道を堕ちきって、受難をさらに耐えてもいいのかなと思いました。またまた坂口安吾みたいですけど。
 で、どうしてこんなことを考えているかというと、いとうさんと同様、上祐氏の出所を見ながら、今年話題になった怪しげな宗教団体を思い出したからで、「魂のことをする場所」は大切かもしれませんけれども、それによって「救済」が必然的にやってくると思うと大概ろくなことにならない、「受難と救済の物語」が必ずしも現実化するとは限らない、と思ったからなんですね。まあ、小説と現実社会をあんまりリンクさせすぎるのもよくないかとは思いますが、大江さんの作品は、「政治的・社会的」側面が強いですから。
1999/12/30, いとうくにお
昨日、オウム真理教の上祐氏が出所しましたね。まったくの個人的な感想なんですが、マスコミに取り囲まれ、騒然とした中にいる彼の姿に、僕はなぜか新しいギー兄さんを連想してしまいました。多くの犠牲者を出したサリン事件を起こしたオウム。その幹部の姿から、自分の命より人の命が大切だと説いた「燃えあがる緑の木」教会のギー兄さんを連想するなんて滑稽なことだとは思いますが、それでもなお、いろいろな面でオウム真理教と「燃えあがる緑の木」教会は相似形をなしているような気がします。その相似の列に、『宙返り』の「新しい人」の教会を加えることもできるでしょう。
「燃えあがる緑の木」教会は経済的基盤として農場や木製品の工場を持ち、オウムはパソコン工場とパソコンショップを持つ。幹部には一流大学を出たエリートがおり、イベントにおいては合唱グループが登場する。共同生活を営み、教会メンバーとなっている娘を返せと、娘の父母達が組織を作っている。
もちろんそれらは、大江さんが意図して現実の宗教団体の姿に似せてそのように描いているわけでしょうね。上祐氏出所の映像を見て、あらためてその類似に気がつかされたといったところでしょうか。
1999/12/29, いとうくにお
グチオさん、こんにちは。多少の違いはあるもののほぼ同じ内容の投稿をグチオさんから4通いただきましたので、一番最後のものを掲載してきました。これでよかったでしょうか。
他の作家の話をしていけないということはないですよ。そればっかりになってしまうとちょっと困りますけども、話の流れの中でいろいろな作家のことが話題になるのは当然のことでしょうし。ところで、”想像力と言葉”のお話、奥が深そうだなあ。よかったらもう少しお話しいただけますか?
さて、メーリングリストのほう、現在8名の方が参加されてます。他の方もお気軽にご参加ください。試しに参加してみるということでもかまいませんよ。退会も簡単です。
1999/12/29, グチオ
この掲示板では沢木耕太郎もお取り扱いしてるんですか?もしそうならとてもうれしいです。沢木耕太郎も大好きです。多分文庫読破しました。(いつも文庫ばっかでごめんなさい。沢木さんもnmberとかにたくさん文章書いてますもんね。)大江健三郎とは全く別のジャンルとテーマなのに、なぜか2人がとても共通する要素を持っている気がしてなりません。多分僕はあの世代がとても気に入っているのだと思います。(あ あと中上健二とか)簡素化して解釈してしまえばそれは”想像力と言葉”になるのではないでしょうか。まさにその”想像力と言葉”、自分を自分たらしめるアイデンテティーとしての自分の言葉を、僕は求めています。
1999/12/29, いとうくにお
ぶるさん、こんにちは。僕としてはこの長大な物語の続きが読みたいところですが、大江さんはインタビューで、谷間の森の物語はもう書かない、ギー少年はほしい人にあげると言ってますからねえ。ぶるさんのおっしゃるとおり大江さんは「語り終えていない」という感じはしますけども。
natsuさん、紀伊国屋って新宿の本店ですか? 沢木耕太郎のサイン、ちょっと欲しかったなあ。
1999/12/28, ぶる
お久しぶりです。いとうさん、先日はご迷惑をおかけしました。
『燃え上がる緑の木』『宙返り』の前に読むべきものとしては、『懐かしい年への手紙』はもちろんですが、やはり『同時代ゲーム』『M/Tと森のフシギの物語』も必須だと思います。と言うか、『同時代ゲーム』以降の大江さんの小説はすべてどこかで繋がっているという気がします。純然たるSFである『治療塔』『治療塔惑星』でさえ、老婆と「〜チャン」と片仮名で呼ばれる少年的な若い女性の語り手、という共通点があったり、「工場」「農場」が形を変えて出てきたりします。
おそらく『同時代ゲーム』に始まる物語を大江さんはまだ語り終えていないのでしょう。特に『M/T』で、ご自身およびご家族がはっきりと物語の中に組み込まれてしまった。おそらく、大江さんが生きて小説を書き続ける限り、この長大な物語は終わらないと思います。
1999/12/28, natsu
いとうさん、おはようございます
「燃えあがる緑の木」第3部、読了されたのですね! 大江さんの作品て、いつもクライマックスに向けて強い力があって、それがちっとも安っぽくなくて(あたりまえかな)、読み終わったあとって、なにかに強く揺すぶられて気持ちが荒ぶるというか、ひりひりとなにかに触って生きているっていう感じがするっていうか・・文学の力だなあって思います。それで、それがだんだん沈静化してくると、今度は、そのかき回された自分の気持ちが気になって、いったいどうなっているんだろうと覗き込んで整理してみたくなるし、さらに、物語の先のことも気になって、いとうさんみたいに、「10年後」なんて想像したりしてしまいます。ところで、育雄が、また、「やれ!」って神の声聞いたとしたら・・・、「宙返り×2」になりそうだ。。
話はかわりますが、この前、紀伊国屋に行ったら、沢木耕太郎のサイン会のポスターが貼ってあって、写真も載っていたから、「ああ、この人が沢木耕太郎なんだな」と人混みの中、しばらくポスターの前に立って見ていたら、本を整理していた店員さんが、サインを欲しい人とまちがえて、気の毒そうに、「もう整理券はなくなったんですよ」と教えてくれました。サイン会は、翌日だったのだけれど、ファンは多いんですね。写真は、おもいのほか繊細な感じがして、でも、いろんなことを感じて吸収して世界を歩いている、という、しなやかで強い細枝みたいに自由な感じの人だなあと思いました。
むらかみさん、講談社文芸文庫!『日本文化私観』読んでみますね、なんだか難しそうな本だけれども。
1999/12/28, いとうくにお
グチオさん、文庫読破とはすごいですね! 同時代ゲームを読み終わったときにでもまたご感想をお聞かせください。
さて、突然ですがホームページの場所を変えました。いまASAHI-netとDTIという二つのプロバイダと契約しているのですが、ASAHI-netを解約することにしたので、ホームページをDTIに移動したしだい。経費節約のためです。
それからメーリングリストも始めました。コミュニケーションの場としてはすでに掲示板があるわけで、それぞれをどういうふうに位置付けるのかという問題があります。僕のイメージとしては、メーリングリストは参加するのに登録作業が必要ですから、コアなメンバー間の連絡や情報交換に用いられ、掲示板は誰でも(通りすがりの人でも)閲覧できるので、より広い範囲へ向けてのメッセージの掲示場所として用いられるのがいいと思ってます。しかしまあ、これは皆さん利用者しだいなので、当面は成り行きにまかせます。
1999/12/27, グチオ
お返事ありがとうございます。いま僕は「同時代ゲーム」を読んでいるのですがなかなか前に進みません。これを読んだら大江さんの文庫読破なんですけど…でも大江さんってエッセイとか雑誌の特集とかにもすごい量の言葉を書いていますよね。まだまだ先は尽きません。
 あまり頻繁には来れないですけど、うかがったときにはよろしくお願いします。ここにいらっしゃる人達が同じ言葉をもっていることを期待しています。
1999/12/27, いとうくにお
グチオさん、はじめまして。「政治少年死す」が発表された年に生まれたいとうです。
この掲示板は、手動更新なのです。上のメッセージ欄に入力して送信ボタンをクリックすると、その内容が”メールとして”僕のところに届きます。僕はそれをコピーして掲示板のファイルにペーストすると。ですから、過去の掲示に対する投稿ももちろん可能ですよ。「芽むしり仔撃ち」は、短編集ではなくて、1本の中篇ですね。
1999/12/27, グチオ
こんにちは。はじめまして。最近は少し遠ざかっているのですが大江健三郎は好きな作家です。検索したらここのサイトにきました。大江健三郎に関しては一番のサイトっぽいですね。すばらしいと思います。僕のまわりには大江健三郎を読む人があまりいないので、こういう場があってうれしいです。僕は22歳の大学生です。ところでこの掲示板はどのように進めればいいのでしょうか?過去の掲示に対しての質問とかも返信されるんでしょうか?あ 分からないですよね、そんなこと…ところでkunioさんっておいくつなんですか?あ シークレットですか。
1999/12/27, グチオ
はじめまして。キリストが生まれた前夜に書き込みした”一般人”の方、「芽むしり仔撃ち」ってどんな短編が入ってましたっけ?よろしかったら教えてください。
この場をお借りして…
1999/12/27, いとうくにお
 手児奈さん、情報ありがとうございます。昨日、群像を近くの書店に買いに行ったら「ウチはおいてないんですよ。あれは確か買取だから、置いているところは少ないんじゃないかなあ」とのこと。残念。町に出たときに買うことにします。
 僕は昨日やっと「燃えあがる緑の木」を読み終え、Rejoice!という言葉に行き着きました。そのあとで、また「宙返り」をぱらぱらと見返してみたのですが、サッチャン、ギー少年、アサさんなどなど、両作品に共通の登場人物が出ていることを再確認して、なんだか嬉しい気持ちになりました(ギー少年は、正確には前者には登場してませんけど)。やはり、順序としては「懐かしい年への手紙」→「燃えあがる緑の木」→「宙返り」と読むのが一番でしょうねえ。
 順番は違ってましたが、それらを読み終えた時点での気持ちとして、「その後の物語が読みたい」と感じました。ギー少年はどうなるのか、育雄とダンサーは? で、小説を書くことは到底できないにしても、プロットを想像して楽しむのはなかなか面白そうなので、ちょっと考えてみました。
 まず、教会に残っているギー少年、育雄、ダンサーが物語の中心になるのが妥当かと思います。で、ギー少年は「宙返り」では14歳すから、次の物語では彼が大人になって、何ごとかを行いうる年齢になっているべきでしょう。二十代半ばといったところでしょうか。ですから「宙返り」の10年後ですね。もしかしたら、同棲相手のマユミさんとの間に子供を作っているかもしれませんね。育雄とダンサーも子供をもうけていることでしょう。
 教会はどうなっているのか。敗北主義を乗り越えることを目指し、若くして童子の蛍というグループを組織していたギー少年ですから、二十代にして強力な教会組織を作り上げているに違いありません。一方、育雄とダンサーは、ギー少年を盛り立てるようにしてサポートをしていきますが、しだいにギー少年との方向性の違いに鬱屈した思いをためこむ。そんなとき、ひょんなことから殺人の過去を暁新報の花田記者に暴露され(笑)、マスコミの攻撃にさらされる。それを契機に育雄の脳裏には「ヤレ!」という神の声が響き、ある取り返しのつかない罪を犯す。それはギー少年にとって許しがたい行為だった。やがて二人の決定的な対決の場面がやってくる…。
 うーん、やはり安っぽい物語しか浮かびませんねえ。だいたい、何がテーマなんだよ。(笑)
1999/12/27, 手児奈
「・・・神ということを考える場合に、これは僕個人の告白ですが、自分の人生も短いし、こういう考え方自体が宗教的ではないにしても、どうしても死ぬ前に神に対する認識というものを持ちたい。神に対して自分をどのように表現するか、自分において神をどのように表現するかと言うことを考えたい」(「群像」'96.10)
みなさんこんにちは。寒いですね。ごきげんいかがですか。
「群像」でちょっと思いだしたので投稿します。
上にあるのは「群像50周年記念号」での「大江 vs 柄谷」の一部分なんですけども、この中で大江は「スピノザと−同時代のサバタイ・ツゥヴィ」について触れ、今後の自身の文学をどう考えていくかをお話しされておりました。因みにこの号を読むまで私"スピノザ"は食べ物で、ピザの一種だと信じておりました、えぇ。大江はメキシコにも滞在していましたからね、あはは。
こんなネタはどうでもいいのですが、ここに"大江"、こっちには"彼女"たちが「群像」サイトに掲載されております。
こんな"サイン会"ネタも序でに報告しておきましょう。
「群像50周年記念展覧会」には「芽むしり 仔撃ち」('58.6)「万延元年のフットボール」('67.1)の原稿もあったヨン(*^^*)♪ 
では、みなさま好いお年を!!
冷笑より"ともに喜べ" rejoice!!がこのサイトの合い言葉ですね(^_-)
1999/12/26, いとうくにお
Switch1989-4に掲載されているインタビュー「未来を愛する人の物語」第一回は『人生の親戚』という小説が生まれいずる背景や、主人公まり恵さんのモデルのことなどを語った内容なんですが、これを読むと、大江さんといえども、小説世界をすみずみまで論理的に構築し、制御しているわけではないのだなということがわかります。大江さんはこう言っています。「小説そのものの生理ってこともあって、自分が意識化して完全には捉えていないところもあります」「自分が意識して作ったものを超えたような表現があって、それが突然、現実生活の自分に関係を示し始めるときが来る」
このことが自分としてはちょっと発見だったなあと。
1999/12/26, いとうくにお
ちえさん、無理やりコメントさせてしまった感じですが、、、ありがとうございます。やはり経験者の言葉は大いに参考になると思いますよ。
moutonさん、情報ありがとうございます。それは読売新聞とNHKが共催した先日のイベントですね。
情報ということで、もう一つ。手児奈さんのサイトで知ったのですが、群像の最新号に大江さんが出ているそうです。僕はあとで買ってみるつもりです。
ずいぶん時間がかかってしまいましたが『燃えあがる緑の木』三部作を読み終えました。現代(宙返り)から過去(燃えあがる緑の木)を振り返るような感じでずっと読んでいましたが、それはそれで面白い順序の取りかただったかなと思います。
1999/12/26, ちえ
こんにちは。
またもや『同時代ゲーム』につまづいて、『カルトの正体』(宝島社文庫)なんてものを読んでいる、ちえです。(でもこの本おもしろいですよ。)
さて、いとうさんに名指しされてはシカトするわけにもいきませんので、一応ひとことコメントさせていただきます。
一般人さん、『芽むしり仔撃ち』の大ファンで論文も書いたのはわたしです。しかし、「参考になりそうなもの」はお教えできそうにありません。わたしはとにかく、人とは違うことを言おう、と思って、わたしの考えていることをすでに書いている人がいないかどうかを探していたもので。しいていえば、松原新一氏の『大江健三郎の世界』(講談社)が、初期の作品群について論じられていますので、少しは参考になるかと・・・。あと、『芽むしり仔撃ち裁判』という作品があるっていうのをご存知でしょうか?『現代伝奇集』(岩波書店)に収められていますが。これはでも作家本人があまり気に入っておられないよう(?)ですので、参考になるかどうかは・・・。
本当に頼りなくてごめんなさい。(あーぁ、論文書いたこと黙っていればよかった・・・)
どのようないきさつで、『芽むしり・・・』で論文を書くことになったのでしょうか?課題として出されたのですか?ご自分で選ばれたのでしょうか?とにかく、一般人さんがどう考えるか、が重要だと思いますので、頑張ってください。もっと焦点をしぼって、わたしに力になれることがあれば、どうぞ聞いてください。(おそらくないでしょうけれど。)
1999/12/25, mouton
 1/7 23.00-0.10NHK教育の金曜フォーラム『ノーベル賞受賞者を囲むー』に大江さんがでます。
1999/12/25, むらかみ
 ううむ、スバラシイですねえ。武奈彦さん&バーバラさんが「パパイヤ豆腐チャンプルー」を解明していく様子、面白く拝見しています。朝日放送が制作している「探偵!ナイトスクープ」というテレヴィ番組のようです。
 それにしても、豆腐というのは、それ自体は味がニュートラルなものだから、パパイヤと混ぜてもちゃんと食べられるんですね。こういう和洋折衷というか、いろいろ混ぜ合わせても、なんとなく成立してしまうという点は、明治期以来の「日本」の姿のようで、こういうのこそ真正の「日本」料理といってもいいかもしれないなどとちょっと思いました。きょうの朝日夕刊で、島田雅彦が「本家本元の料理をアレンジし、日本化するのが、日本料理の一つの特徴だ。日本料理は一種のクレオール料理である」(連載「すてきなオヤジ」)などと言っていて、くだんのチャンプルーは方向性は反対かもしれないですけれど、クレオールはクレオールですからこういう考えも成立するかなと。島田氏はこのあと「日本料理は、外来語と大和言葉を同じ文章の中に接合する日本語と同じ構造を持っている」と続けています。もっともチャンプルーを前にこんな考察をしていると、料理がまずくなってしまうかもしれませんけど
 坂口安吾「文学のふるさと」には、まさに、natsuさんが考えておられるようなことが書いてありました。僕は、高級感あふるるとこの掲示板で評判(笑)の講談社文芸文庫でこの文章を読んだのですが(『日本文化私観』所収)、この「日本文化私観」っていう文章も、「必要なら法隆寺をとりこわして停車場をつくるがよい」などと言って、チャンプルー的日本文化を称揚しててなかなか面白かったです。大江さんの「あいまいな日本」もこうした文化状況を踏まえて言っているものなのでしょうね(と僕は考えています)。
1999/12/24, バーバラ
武奈彦さん、やりましたね。うれしいですねー。近いうちに作ってみますね。
因に、グリーンパパイヤは麻布のナショナルマーケットで手に入るそうです。黄色くなると甘味がでてだめだということを聞きました。
 
オックステイルシチュー、昨日から煮込んでイヴのメインディッシュにしました。二度作ってみて、レシピの手直しがまたまた出てきました。近いうちにいとうさんにお願いしてまた訂正していただかなくては…。いい加減なところが数カ所あり、もし、あれで作られた方がいらしたら、ごめんなさい。いとうさん2、3日中に改定版を送ります。よろしく。
1999/12/24, いとうくにお
武奈彦さん、すばらしい! パパイヤ豆腐チャンプルーも見つかったとは。そのページ見てみましたが、確かに"1/4 tofu - drained"と記載されていますね。辞書を引くとdrainは排水する、水をはかせる、という意味なので、ここでは「水を切った豆腐」ということでしょうかね。
1999/12/24, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。
 ええと、むらかみさん&バーバラさん、検索してしまいました。ハワイ風の「パパイヤ豆腐チャンプルー」のレシピが<http://suresave.com/SamRecipes/98/SC_Recipe_February14.html>にあります(ハワイのテレビ局の料理番組のページらし)。Green Papaya Chanpuruってなってるけど、ちゃんと豆腐も使っているのだ。まあ、高安カッチャンが食べたのと同じ味かどうかは無保証ですが、ハワイに現にそういう食べ物があるのはあるようなので、20年くらい前にも多分ありえただろうということはあるみたい。
 ああなんだかたべたくなってきた……
1999/12/24, いとうくにお
しらいしさん、ご投稿ありがとうございます。以前からメールはいただいてましたが、掲示板のほうははじめてですね。今後も気が向いたらご投稿お願いします。
バーバラさんの調査能力と行動力は、すごいですね! バーバラ探偵事務所なんての、開いたら成功するかも。
natsuさんもメリル・ストリープはお好きですか。僕の一番好きな女優がこの人です。あるサイトには、胸があまり大きくないのでハリウッドではなかなかギャラが上がらなかったなどという話が書かれてましたが、、、いや下品な話ですみません。この件についてはどなたもコメントされませんように…。
一般人さん、はじめまして。その作品のファンで、なおかつ大江健三郎で論文も書かれている方がいらっしゃるので、もしかしたらアドバイスをいただけるかも…。ねっ、ちえさん!
1999/12/24, 一般人
始めてココに来ることになりました
突然ですが学校で「目むしり仔撃ち」についての論文を書くことになりました
そこで絶対書いたほうがイイと思うことや、参考になりそうなものなどナンでも教えてください
1999/12/24, natsu
いとうさん、みなさま、こんばんは。
わたし、Switchの大江健三郎特集、持っているんですよ!!!(^^) しかし、残念ながら、「未来を愛する人の物語」というのは持ってないです。ほんとに、単行本化されればいいのに。読んでみたいです。今は、ちょっと、古書店巡りのエネルギーと元気がないけれど、そのうち、いとうさん同様、<執念のゲット!>したいと思ってます。2回目の表紙になっているメリル・ストロープ。「ソフィーの選択」という映画が、とても好きです。そこで語られるエミリ・ディキンスンの詩がとてもきれいで悲しい。その詩は、最後に、新しい力によってのり越えられるのだけれど、それでも、ディキンスンの言葉は、悲しみの残響のように気持ちの深いところに残ります。すてきな映画です。
むらかみさん、こんにちは。
『文学のふるさと』という坂口安吾の文章を、わたしは読んでいないのですが、amoralであることも、救いがないということも、さらに、そうであること自体を、自らのモラル、救いとして生きる、ということも、どんなに切実に切羽詰まった苛酷な現実だろう、と想像します。それは、まっとうな人間の営みからはじかれるということだからです。そんな生きがたい生の場所を、文学の「ふるさと」と感じ、文学の「ふるさと」と言いうるには、いったいどうしたらいいのだろう、と考えます。やはり、表現以外にないのかな。
安吾のことだから、きっと「ふるさと」という言葉も、簡単なナイーブなものではないのでしょう。わたしがだいぶセンチメンタルに使った、無残という感覚から立ち上がってくる「懐かしさ」という言葉も、安易でエモーショナルなものではなく、自覚的に鍛えられた言葉にしなくてはならないのだろう、と、むらかみさんの書いてくださった要約の文章を読んで思いました。
1999/12/23, バーバラ
こんばんは、
いとうさん、Switch のバックナンバーいいですね。私も時間を見つけて、全部揃えたいと思っています。特に大江さんが表紙のもの、私も欲しいです。あれに載っている文章もいいですが、写真がいいですね。私はあの大江さんのお母様にとても魅力を感じます。何かを持った方の表情だと思います。見つかるといいですね。
 
相変わらず食べ物の話しになりますが、「パパイヤ豆腐チャンプルー」が本当にハワイ大学の東西文化センターの食堂にあるのかどうか確かめてみたくなり、インターネットで検索したところ East-West Center (アジア関係のセンター)というところがあったので、メールで問い合わせてみました。その返事によると、残念なことに何年も前にそこの食堂はなくなってしまったそうです。それで分らないという返事でした。パパイヤも豆腐もハワイでは極めてポピュラーな食べ物だということが書いてありましたがチャンプルーについてはこの返事を送って下さった方は御存じないようでした。しかも20年も前(あの話はそのくらい前のことだと思います)のことを知っている方も回りにはいらっしゃらない様子でした。
高安カッチャンの食べた「パパイヤ豆腐チャンプルー」は幻のものとなりました。
1999/12/22, しらいし
大江ゆかり夫人に 興味を もたれた ともさん
はじめまして しらいし と 申します
わたしも 大の ゆかり夫人の ファン で 小説の中の オユーサン 光さん お母様 が 登場する シーン が 一番 好きという ちょっと 変則的な 読者です。それほど 魅力的で 素敵な 女性で 私にとって 理想の女性。
いとうさん お勧めの 恢復する家族、ゆるやかな家族 と ともに 小説 「新しい人よ眼ざめよ」が 少年時代の 光さん と おかあさま 先生との からみのシーン が 一番 多くて その面での 欲求を 満たしてくれる 意味では 好適だと思いますので 恢複する家族 などと共 に こちらも お勧めいたします 。勿論フィクション で 事実そのままでは ないでしょうが かなり 事実に 近い ところが あるのでは ?
ゆかり夫人 について ご本 の 活字 から 入られる 前に 視覚的に イメージ を つかまれる のに いい ビデオが あります。大江家 の 内部に カメラ が 入って 実際の 一家の 日常生活を 収めた 響き合う 父と子 という ビデオ ですが 素顔の ゆかり夫人 も 光さんも 見られ 貴重な 映像です。内容も素晴らしく感動的な作品で 百聞は一見に如かず 是非 ご覧になられることを お勧めします。私が 持ってますので いとうさん宛に アドレス お知らせいただければ 直接 お送りして お貸しいたします。一人でも 多くの かたに お見せしたい 内容ですので。ご返却の 際 お礼等の お心遣いは 一切 ご無用 ご辞退 の 旨 前以って お断りしておきます。お気軽にどうぞ お申しで下さい。
1999/12/22, いとうくにお
ともさん、こんにちは。エッセイ集『恢復する家族』『ゆるやかな絆』は家族のことがいろいろと書かれてますので、参考になるかもしれません。
群馬の白石さんという大江ファンの方が『渡辺一夫 敗戦日記』という本をお貸ししてくれたのですが、ご覧になりたい方がいらしたら回覧しますので、お申し出ください。
昨日、町田の古本屋でSwitchのバックナンバーを何冊か買いました。大江健三郎のインタビュー「未来を愛する人の物語」が掲載されているものです。
1989 Vol.7 No.2「未来を愛する人の物語」第一回(表紙:ダイアン・キートン)
1989 Vol.7 No.3「未来を愛する人の物語」第二回(表紙:メリル・ストリープ)
1989 Vol.7 No.5「未来を愛する人の物語」第四回(表紙:ジャクソン・ブラウン)
Vol.7 No.4が抜けています。連載はこの四回で終わりのようですね。そして、何度か紹介した1990 Vol.8 No.1が大江健三郎特集(表紙も大江健三郎)。いつかゲットしてやる!
それにしても、Switchの記事は単行本になっていないのでしょうかねえ。十分、本になる量・質だと思うのですが。
1999/12/20, とも
大江ゆかりさんのことについて教えてください。
大江光さんを育てられたことなど、とても興味があります。
どなたかお詳しい方がいらっしゃったら、ぜひ御一報下さい。
1999/12/20, いとうくにお
昨日の朝日新聞に21人の書評委員がそれぞれ選んだ「今年の3点」というのが出てました。『宙返り』があるかなと思ってみていくと、西垣通さんが挙げてましたね。一人だけでも取り上げてくれてよかった。
1999/12/19, むらかみ
 大江さんの断片的な文章から、オックステイルシチューの作り方を解読するっていうのは、なかなかすごい作業ですね。あのレシピをみて、一種の感動をおぼえました(大げさか?)。排骨湯麺の謎解きといい、バーバラさんには探偵の才があると思いました。「パパイヤ豆腐チャンプルー」の何たるかも理解できました。ありがとうございます。どんな味なのか興味津々ですが。
 それにしても、料理から大江作品を読むっていうのは、なかなか新鮮ですね。大江さんの料理を分析している批評なんてみたことがないし、そもそも、普通の分析の枠組みにはのらないものだろうから、かえって小説にある料理の記述が「リアル」なものとして浮かび上がってきます。作品の構造からそれる細部を読み解くのも、小説を読む楽しみの一つですが、この場合、妙に楽しめてしまうのは、僕の食い意地が張っているせいでしょうか。
 natsuさんの「懐かしさ」の話を読んで、坂口安吾の「文学のふるさと」という文章を思い出しました。要約すると「モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということが救いである。そこに私は文学のふるさとを見出す」というような話でした。これはちょっと要約しすぎで訳がわからないかもしれませんが、大江作品のアモラルな部分に一種の「懐かしさ」「文学のふるさと」を感じるのは僕も同様です。
1999/12/18, ミロ
バーバラさん
クラムチャウダーはもうちょっと待ってください。(あれからチラチラ探しているのですが、なかなか見つけられないでます)
レシピ拝見しました。すごい!我が家でもさっそく作ってみます。おいしく作れると良いのですが。。ブランデーを入れすぎて家を燃やさないようにしなくては。
「チャンプルー」ですが、ハワイって戦前、沖縄から移民された方が多いからじゃないですか?郷土料理として根付いているのでしょうか?ハワイだったらニガウリよりパパイヤの方が手に入りやすそうですしね。(それでも、大学のカフェテリアにあるのかは謎ですね)
1999/12/18, いとうくにお
natsuさんもそのように感じられましたか。大江さんの場合、打ちひしがれた人間を描く場合でも、眼差しが優しいといいますか、共感が込められているといいますか、どこか肯定的に扱っていると思うんですよ。その部分に自分は慰めを感じるのかなと。
1999/12/18, ちえ
そうですよね、SWITCHはいい仕事してますよね!
同意見の方がいてうれしいです。
オックステイルシチューのレシピ、拝見しました。すばらしい!これがあれば作れそうですね。でも、結構ワザも必要なようですので、やはりわたしには無理かも・・・。大江さんもバーバラさんもかなりな料理人なのですね?
こんど妹に作ってもらおうかな。
1999/12/18, バーバラ
オックステイルシチューですが、大江さんの文章を「謎解き」のように読みながらの楽しい調理とレシピ作りでした。実は今日また、一つの謎が解け?レシピの一部変更をいとうさんにお願いしました。このシチューのおかげで、本の全然違う読み方というのがあるとわかり、1冊を2回楽しめたようで得した気分です。
いろいろな方からの食べ物情報、うれしいです。
むらかみさんの「パパイヤ豆腐チャンプルー」調べました。といってもお昼休みに本屋で立ち読みしたのと沖縄出身の人に聞いただけですが…
熟していないパパイヤと豆腐を炒めて塩、醤油、化学調味料又は鰹だしで味をつけたものらしいです。でもあまり沖縄でも一般的ではないらしいです。ニガウリを使った「ゴーヤチャンプルー」のほうがポピュラーだそうです。
しかしなぜ「パパイヤチャンプルー」がハワイにあるのでしょう。しかも大学のカフェテリアなんかに…行って本当か確かめたくなりました。
武奈彦さんの「麦焦がしの団子」と「あお草の薬湯」っていうのも興味をそそられますね。
いとうさんの「アメノウオの串焼き」はちょっと無理そうな気がします。沢蟹って東京でも手に入るのでしょうかね?
食べ物のことばかりですみません。今これで頭がいっぱいです。
1999/12/18, natsu
いとうさん、みなさま、こんばんは。
「大江健三郎のススメ」読みました。いとうさんの言われることと同じようなこと(だと思うのですが、違っていたらご指摘ください)、作品を読んでいて、わたしも感じます。酷たらしいとか、無残とか、そういう言葉を、作品に頻繁にみつけだすことができますが、生をそのように感じとる場所から、生きることの深い「懐かしさ」が立ち上がってくる、そんな感じがします。「懐かしさ」は、熱い涙のカタルシスみたいに、人を慰めます。
1999/12/17, いとうくにお
Switchのことですが、ちえさんのおっしゃるとおり「大江さんが両手を耳にかざしている写真が表紙の」やつです。これをいま手児奈さんからお借りしてます。これ、掲載されている写真もすごくいいんですよ。大瀬で撮った写真なんですが、樹木の脇に佇む写真、光さんとお母さんとに挟まれて正座している写真など。沢木耕太郎の特集は「私は旅をする」と題したロングインタビューですね。これまたすばらしい。
Switchは、いい仕事してる!
1999/12/17, いとうくにお
武奈彦さん、「麦焦がしの団子」と「あお草の薬湯」というのもありましたか。ならば、アメノウオの串焼きと、しばらくカボチャを食わせた沢蟹を茹でたの、というのも酒の肴にほしいところですね。
ミロさん、あれはミロさんの質問への答えというより、ミロさんの質問をきっかけに僕が考えたことといったものでしたね。小説が面白い理由というのは、ミクロなものからマクロなものまでいろんなレベルがありそうで、とても興味深いテーマだと思います。
ちえさん、ミニ事典、よろこんでもらえると嬉しいです。さきほど、バーバラさんからいただいた詳しいレシピを「オックス・テイル・シチュー」の項に追加しましたよ。これ、力作にして傑作なので、ぜひご覧ください。バーバラさん、ありがとうございました。
1999/12/17, ちえ
いとうさん、みなさん、こんばんは。
いとうさん、「ミニ辞典」、名案ですね!!うれしくなっちゃいました。
これからもっと項目が増えていくように、わたしも何かあったら情報提供させていただきますね。
バーバラさん、わたしもそのオックステイルシチュー食べてみたいですー!!そういえば、ドナルド・キーン氏も大江さんのオックステイルシチュー、ふるまわれたそうです。うらやましいですね。
それから、前から気になっていたのですが、SWITCHって、あの大江さんが両手を耳にかざしている写真が表紙の、ですか?手児奈さん所有なんですか?これまたうらやましいですねぇ。わたしはSWITCHという雑誌が好きで、随分前から集めているのですが、さすがに大江さんが表紙の頃のは持っていないのです。いつかバックナンバーの表紙がずらっと載っていて、「あー大江さんの特集もあったんだー」とすぐさまバックナンバーを、と思いましたがすでにSOLD OUTでした。SWITCHは後になって読んでも楽しめるので好きです。いとうさんの好きな沢木耕太郎さんも連載していましたね。特集も組まれていたし。
沢木耕太郎さんといえば、今度24日の深夜にJ-WAVEで「ミッドナイト・エクスプレス 天涯へ」と題して放送がありますね。沢木さんってお声が素敵ですね。書かれる文章も素敵ですけど。
1999/12/16, ミロ
いとうさん
私の幼稚な質問に丁寧にお答え下さってありがとうございます。このところ、忙しくお返事が遅れてしまいました。
私がなぜあのような質問をしたかというと、私自身、長年「どうして私は小説を読むのか」と思ってきたからです。実際、小説や音楽を読んだり聞いたりしなくても人は生きていけます。特に小説は「ながら」が出来ない分、時間を拘束されますし。特に、子育て真っ最中の頃は本当に読むことが出来ませんでした。そのときに人は本を読まなくても生きていけるんだなぁと実感出来ました(笑)それでも、やはり小説にかえってくるのはなぜなのでしょう。
いとうさんと大江さんのお考えを合わせて伺って、今まで自分が考えてきたことを整理することが出来たように思います。
いとうさんがおっしゃられるように、「別の人生を経験する」ことによる知的好奇心の満足感を得る喜びってわかります。良くできたお話を読んだ後の爽快感は「ごちそうさまでした」と言いたくなりますよね。
では、知的な満足感だけで小説を読んでいるのかと言えば、私の場合もう少しプラスαがあるようです。「文学が現実生活に役立つ」と言うことに、少し私の言葉を(厚かましくも)付け加えるなら、読者が現実生活において、善悪や常識非常識と言った二元論的な見方ではどうしても解決できない事に出会った時にも役立つのではないでしょうか。人は、人の努力だけではとうてい解決することの出来ない運命に出会うときがあります。(大江さんのおっしゃるよう「死」がそうであるように)
すべての小説がそうであるとは思いませんが、優れた小説には既成の価値観から解き放たれた「真実」みたいなものが埋蔵されているのではないでしょうか。その鉱脈を掘り当てたとき、読者の魂を激しく揺さぶりそして勇気づけるのではないでしょうか。「モデル」を「真実」に読み替えて考えてみました。そう考えてみると、暗い結末の小説でも人に勇気を与えるというのも納得がいく気がします。
私にとって、小説を読むと言うことは「魂のことをする」事の一つなのかもしれません。
ところで、次回のオフはバーバラさんレシピの「オックステールシチューオフ&読書会」と言うことで。。会場はトマソン有りの前回と同じ所でということで。いかがでしょうか。
1999/12/16, 武奈彦
食べ物の話では、「『罪のゆるし』のあお草」に出てくる「麦焦がしの団子」と「あお草の薬湯」の組み合わせもシブくていいんじゃないでしょうか。料理ってほどじゃないですが。森の中でいかがですか?
 村上春樹云々の話はやっぱり「小説のたくらみ、知の楽しみ」にありました。村上春樹についてどうこうという文章ではなくて、林達夫とかケルアックとかが話題になっている文章のさわりのところ。ちなみに漢方さんが名前の出てこないもう一人の作家は青野聰。(そういえば、この人は沢木耕太郎にも大江さんにも通ずるところがあると思うなあ。−−−そう言われて気になる人には「人間のいとなみ」あたりがオススメです。)
1999/12/15, いとうくにお
バーバラさん、オックステイルシチュー、できましたか。うーん、食べてみたいなあ。「ミニ事典」のコーナーを作りましたので、よかったらそのレシピを掲載させてもらえないでしょうか。「オックステイルシチュー」という項目を作りますので。
ミニ事典のことですが、以前「キーワードと解説」のようなコーナーがあれば、というご意見をいただいてましたので、自分としては「解説」まではちょっと無理そうなので、事実関係を中心に整理する場所としてこれを設けたしだいです。
1999/12/15, バーバラ
いとうさん、皆様、こんばんは
 
『しかし大きいシチュー鍋にいれたすべての材料がスープの表面にアクを浮かべて煮えたちはじめると、しだいに父親が僕に近づいてくる。僕は幾時間も熱い鍋の前に立ちつくして、たえまなくアクを掬いつづけ、トマト・ピューレの赤のあいだにしだいに変色しながらも青いバセリが浮かび、その奥に葡萄酒で煮つめられて赤黒くなった牛の尾の関節が沈んでおり、時には沸騰する脂だらけの表面にゴト、ゴト震えながら浮かびあがってきたりするのを茫然と眺めているうちに、僕のすぐ背後まで父親が近づいてき、そしてカメラの焦点があわされるにしたがってファインダーの中の一つの像と、はみだしたその輪郭とが一致するように、ついに父親が僕の躰のうちにぴったりと入りこむのである。』(『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』より引用)
台所に立ち鍋をのぞき込み、私は父親ではなくまるで「大江健三郎」が背後にいるかのような錯覚に陥りながら、ひたすらアクを掬うのでした。
 
何やらマニアックですが、オックステイルシチューはこうして完成しました。
小説の中に出てくる手順、材料をそのままに、最小限のものを加えるのみで再現してみました。(さすがにサングラスはかけませんでしたが…)なんさんが試したという『みずから我が涙をぬぐいたまう日』も参考にしました。
そうして出来上がった味のほうは…絶品でした。ブーケガルニとワイン、ブランデー、オックステイルから溶け出したゼラチン質等が混ざり合い、深い絶妙の味が出て最高!!大江さんがオックステイルにこだわる分けが、食べてみて初めてわかりました。
詳しいレシピを知りたい方はjunco7@d1.dion.ne.jp までどうぞ。それから思い当たるお料理がありましたら、どこに出ていたか是非教えてください。
今度は『洪水はわが魂に及び』の中華風お粥に挑戦する予定です。
ニュ−イングランドクラムチャウダーがどの小説に出ていたか覚えている方がいらしたら教えて欲しいです。忘れてしまいました。(これは作り方は出ていなかったとおもいますが)
1999/12/15, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。
 沢木耕太郎とか安部公房とか懐かしい名前がでていてちょっとうれしくなりました(僕には、沢木耕太郎と安部公房は、大江さんとかカート・ヴォネガットとかを中間に置いてみると、なんとなくなめらかに繋がってしまうところがあるのです。)
 ちえさん、むらかみさんに刺激されて、「芽むしり仔撃ち」と、ついでに「『芽むしり仔撃ち』裁判」を、一緒に読み返してしまいました。初期の「才能だけで(^^;;)」小説を書いていた時代から、「ひねくれた・読みにくい」同時代ゲームみたいな小説を書くようになった時代への、必然性(というと大げさですが)みたいなものが見えるようで、ちょっとおすすめの読み合わせ・散策コースだと思いました。
1999/12/15, いとうくにお
喬木の母さん、おひさしぶりですね。気が向いたときにはいつでも投稿してください。
1999/12/15, 喬木の母
お久しぶりです。みなさんお元気そうで。オフ会も盛況のようで、なによりです。
こちらは、御無沙汰してる間に、息子が「てんかん」だということが発覚!!
・・・そこまで大江好きの私にサービスしてくれなくてもいいのに、神様ったら。
「知的障害」「てんかん」「難産」ってのは、結構セットになるものらしいです。
ま、でも、普段は元気にやってるので、よしとしましょう。
そういう「のんびり息子」のおかげで、「よそ様の子を殺してしまう」ような、
子供だけが唯一の玩具、みたいな母親にならずにすんでいるような気もします。
・・・って、大江とは何の関係もない話でスイマセンでした。
とりあえず「時々見に来てますよー」の御報告まで。ではでは。
1999/12/15, むらかみ
 こんにちは。
 引き続き、食べものの話をすると、『「雨の木」を聴く女たち』で、高安カッチャンが食べる「パパイヤ豆腐チャンプルー」ってのが、こりゃ何だろうって感じでちょっと気になってます。これは「僕」と一緒に食事をしたハワイ大学の学生食堂で出てくるもので、特にストーリーの展開とは関係ないんですけどね。外国暮らしの永い高安カッチャンは、一方で「強迫観念に類するほどにも日本指向」という設定なのですが、そういう状況を端的にあらわすものが、この「あいまいな日本の料理」なのでしょうか。まあ、強いて解釈すればの話ですが。
 ちなみに、この小説集では、「僕」が、「障害のある息子が発作を起こして眼が見えなくなった」という電話に動揺しつつも、メキシコ・シティーの部屋に閉じこもってマンゴーを食べつづけ、しまいにはその腐敗臭が死臭と間違われるなんて話もあって、なかなかここいらの書き方は巧みだと思いました。もっとも、これを読んで、マンゴーを食べようっていう気分にはならないですね。やはり、オックステイルシチューに勝る料理は見出しがたいかもしれません。
 漢方さんのおっしゃったティム・オブライエンの話は『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮文庫)にちょっと出てきますけど、村上春樹うんぬんの話はなかったと思うので、たぶんこの本ではないのでしょうね。そういう本が別にあるのなら、僕も知りたいです。
1999/12/14, ちえ
こんにちは。
『宙返り』の後、何を読もうかと本棚を物色していたところ、わたしにとって愛おしくて懐かしい本を発見しました。ドナルド・キーン氏の『声の残り〜私の文壇交遊録』です。朝日新聞に連載されている時から、読むのを楽しみにしていたものです。ご存知の方もいらっしゃるでしょうね。父にすすめられて読むようになったのですが、わたしのほうがより気に入ってしまって、こうして単行本を持っています。
当時は川端康成、谷崎潤一郎、永井荷風、三島由紀夫について書かれたものに強く興味をひかれていましたが、実は大江健三郎についても書かれています。大江さんとキーンさんは仲が良いらしく、微笑ましいエピソードがたくさんです。とてもユーモアのセンスにあふれていることや、三島由紀夫に対してのこと(三島の政治的姿勢には反対するが、作家としての才能と実力は認めていて、彼が死ぬとすぐにキーンさんに伝記を書くことをすすめたそうです。三島を嫌っていた人間に先を越されてはまずいから、という理由で。)など、大江健三郎に関しては、やや短かめなのですが、実際に会って親しくしてきた人の話はひと味ちがいますよね。
それで、考えた結果、『同時代ゲーム』を読むことにしました。途中まで読んでとまっていたのですが、続きから読もうとしたらだめでした。というわけで最初からとりかかっています。
しかしどうしてこう読みづらいんだろう・・・。
1999/12/14, いとうくにお
元「本」さんだった森本さん、お久しぶりです。充実した東京旅行だったようですね。樹木に慰めを感じるのって、普遍的なものなんでしょうかね。僕も木が好きなほうで、広々としたところで、遠くに立つ木々が風に揺れている、というような風景にはグッとくるものを感じます。
なんさん、こんにちは。授業中にルーズリーフに書いたという大江式レシピ、出てくるといいですね。研究の成果があったら、ぜひお教えください。
漢方さん、はじめまして。お探しの本、僕には見当がつきませんが、村上春樹のことが出ているということは、それほど昔のものではなさそうですね。見つかるといいですね。
あらたさん、こんにちは。読売で大江さんと江藤さんが共演、ですか。うーん、どういう内容なんだろう。江藤さんの自死について朝日新聞に寄せられた投書をまとめた『江藤さんの決断』という本が出たようですね。これに関係したことかな。
1999/12/14, あらた
こんにちは。たまに拝見していますが、わたくしのような、
少し大江をかじった程度のものには、参加するのが難しい。
討論が多々繰り広げられ、いかんと自分の怠りを嘆いています。
ところで、本当に伝えたかったのは。今日、読売新聞夕刊に
大江と江藤が共演しています。ということでした。
昨日、
内定を辞退して、日本の景気より先が見えなくなってきた、あらた、でした。
1999/12/14, 漢方
こんにちは、はじめてお邪魔します。
実は,質問があります。
大江健三郎さんが
物語がノンフィクションより時に力を持つ理由について書かれていたかと思います。
ティム・オブライエンの「小説のたくらみ」についてや
「村上春樹的アメリカ小説ブームの前に・・・(小説家の名前)的
ブームが来てほしかった、とかいった内容の書かれた本でした。
この本について知っている方がいらっしゃいましたら
教えてくださいませんか?
長い文でスイマセン。
初心者の学生ですが頑張って読んで行きたいと思います。
1999/12/13, なん
わー!
バーバラさん、ぜひ『大江健三郎料理の世界』作ってください!
私も昔作りかけたことがあります。
授業中、ルーズリーフに内職してました。
確かどこかにとってあったはず・・・。
いとうさん、大江さんて、お料理上手なんですね。
私のオックステイルシチューも、雑草ならぬ香草を
使えていれば、もう少しおいしいものが、できて
いたかもしれません・・・。研究して再挑戦してみます。
シチューを囲んでのオフ会魅力的です。
そういえば、今日学校の、音楽美学の授業で、
武満さんの『ノヴェンバー・ステップス』を、
はじめて聴きました。尺八の水っぽさが、すてきでした。
1999/12/13, 「本」改めまして森本です
みなさんお久しぶりです。
八月に書き込んで以来、時々覗いてみる、という
ことばかりで、なかなか書き込む機会があり
ませんでした。とはいえ、作品を読んでいない
わけではなく、知的アンテナは何本も立てて、
つねに新しいものを受け入れていこうという
努力を続けています。
いとうさんの呼びかけで、オフ会が開かれたのですね。
「僕もいきたかったー」と思っていますが、
もし参加したとしてもみなさんのように詳し
くはないので、会話についてはいけなかった
でしょう。11月の25日から28日まで、
単身、東京へ旅行していたのです。ちなみに
僕は大阪市に住んでいます、、、、。
雑司ヶ谷の墓地や、芥川の旧宅があったとされる
田端周辺もめぐってきましたが、一番大きな
収穫は世田谷文学館でした。そこでは「瀧口修造と
武満徹展」が催されていました。詩人の瀧口は
あまり詳しくはないのですが、武満徹は、僕が
音楽好きと言うこともあって、なかなか見応えが
ありました。そのなかに、大江氏から武満徹への
贈り物、それは大江さんの著書だったのですが、
それに挟まれていた、氏自身の筆による道標、
が印象的でした。初期作品と中期の作品、光の
誕生といった事が書き込まれ、矢印が引いてあっ
たり、、、、。写すわけにも行かず、今となって
少し残念ですが、その幻影のようなものが浮かんで
います。
展示されていた原稿を眺めていて、
武満徹の随筆のなかで、惹かれた言葉があり
ましたので、ここで引用させてください。
(ご存じの方もいるやも知れません)
“ル・クレジオは、ピエール・ロストとの対話の中で
「樹は魅力的なところを持っている。それは、
いつまでも同じ場所に在り、動かず、どんな運動も、
またいかなる種類(たぐい)の自己肯定もしないで
永い生命を生きるからだ。それに比較して、われわれ
人間は自己中心的で、異常な存在なので、人間が自分の
ことと自分の小さな問題しか考えないということを
知るとき、また、樹が誰にも迷惑をかけず、他のもの
から何も奪いもせず、空に向って枝を伸ばして立って
満足し、じっとしていることを知るとき、樹は(人間
にとって)一種の不断の非難となり、また一種の理想
ともなる」と語っている。”
これは、武満徹「音楽の余白から、、、」という随筆
のなかの《人間と樹》という題のものです。
感動してしまいました。
武満氏はこうも語っています。
“嘗て在った人間と樹との交歓は、いまでは極めて
一方的になってしまった。今日人間は、樹に、
手前勝手な慰撫をもとめているにすぎない”
考えさせられてしまいます。
1999/12/13, natsu
いとうさん、みなさま、こんにちは。
オフ会では、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。一言で「大江健三郎」と言っても、いろいろな人たちの中にいろいろな「大江健三郎」があるのだな、と、なんだか、不思議な興味深い気分になりました。また、お話しできる機会を楽しみにしています。
1999/12/13, いとうくにお
ちえさん、こんにちは。オフ会、楽しまれたようでよかったです。オヤジ発言になりますが、ちえさんや浜崎さんのように若い世代の人と大江文学のことを話すのは、僕としても新鮮な感じでした。
話は変わりますが、オフ会でミロさんが「どうして小説を読むのか」という質問をされてました。僕が「面白いからだ」と言ったところ、「どうして面白いのか」とミロさんにさらに問いかけられ、きちんと答えられなかったのでした。で、帰り道、そのことを考えてみたのですが、僕としてはこんなふうに答えたいと思うのです。
まず、人間には知識欲とか探究心とか、ものごとを知ろう・理解しようという欲求があると思います。山の上はどうなっているのか知りたくて山に登る、どんな味が知りたくて木の実を食べる、そうやって新しい知識を得て満足感を覚える。これはたぶん進化の過程で身に付けた人間の性質なのだと思います。進化論的な言い方をするなら、そういう性質をもつ個体がよりよく生き延びた・より多くの子孫を残せた、ということになりましょうか。
そこで小説ですが、これは広い意味で、人間の知識欲・探求欲に応えるものなのだと思います。小説は、読者に情報を提供するものだから、面白いのだと思うのです。ここでいう「情報」というのは、登場人物の考えとか生き方・行動など、かなり広い意味を含んでいます。例えば『宙返り』にはどういう情報があるのか。育雄の人生、木津の人生、ダンサーの人生といったレベルのことから、礼拝堂の構造、テン窪の地形、その土地の人の話し方、マスコミの行動、音楽の解釈、ホモの人のセックス、中年女性と若者のセックスなどなど、膨大な量の情報があの上下巻から見出せるわけです。
情報があればそれで面白いのかというと、そうではありませんね。情報だけなら、事典風に個々の情報を羅列したとしても同じだけ面白いはずですが、それでは小説を読んだときに得られるカタルシスはないでしょう。個々の情報がさまざまに絡み合い、順序立てられ、一本の小説として構成されたとき、情報は相乗効果めいたものを発揮し、「面白いもの」になるのではないでしょうか。それは言い換えると、本当にあったことのような物語として成形されることにより、読者が仮想の体験としてそれを経験するということだと思います。読書の間だけ、別の人生を経験する、だから面白いというわけです。
そんなことを考えて帰ったんですが、それが、先の投稿で紹介したSWITCHで大江さんが語っていることに少し似ていたんです。それは大江さんが故郷の大瀬でおこなった講演の内容です。
 文学というものは一つのモデルを作ることだと思います。例えば人間が病気から回復してくることを通じてある人を許すことができたという一つのモデルを提出する、そういうことが文学というものです。(中略)死ということは、現実には一度しか体験できないものですけれど、文学というものは無数に書いてきたわけです。(中略)そういうものを読むことは自分の物の見方というものに余裕を与え、多面的な広がりを与えるものだと思います。文学が現実生活で役に立つということはそういうことだと思います。(Switch 1990 Mar. Vol.8 No.1より)
 大江さんのほうは、文学が生活に役立つという観点から話をされているのですが、僕が上で書いたことにとても近いように思えます(僭越かもしれませんけども)。ちなみに、この「モデル」は、日本語で通常使う「見本・手本」という意味とはちょっと違っていて、理工系分野でいうところの「モデル」に近いのではないかと思います。複雑な現象を、その本質的部分を取り出して単純化したもの、というような意味の。理工系だけでなく、もしかしたら経済学、心理学、哲学の分野でもそういう使い方をするかもしれません。
 大江さんの「モデル」という言葉を使うと、面白い小説とそうでない小説の違いということもわかるのではないでしょうか。つまり、よいモデルを提出する小説が面白い(役に立つ)のだろうし、そうでない小説は面白くない(役に立たない)。よいモデルというのは、新しくて、よく考え抜かれていて、現実に適応できるモデルということでしょう。古いモデルだったり(陳腐な小説)、よく考えられてなくて真実味がなかったり(非文学?)すると、面白くないと。
 ミロさん、こういう説明で、どうでしょうか。自分としてはけっこう納得のいく説明じゃないかと思っているのですけど。
1999/12/13, ちえ
いとうさん、みなさん、こんにちは。「こじか」のちえです。
遅ればせながら、オフ会、参加させていただきまして、ありがとうございました。ほんとーに「排骨湯麺とペプシコーラ、おいしかった!」ですね。
味そのものもさることながら、大江さん、光さんが生活なさっている土地で、お二人の食された料理をわたしも味わっている、というしみじみとした喜びをかみしめることができました。こんどまた、あの七面鳥へ行こうと考えています、妹を伴って。
サイン本には、妹が(まだ大江作品を読んだことがないのにもかかわらず)わたし以上の反応を示して、サインの文字の上を指でなぞっては、「手、洗えな〜い!」などと、興奮しておりました。
排骨湯麺とサイン本もうれしかったのですが、みなさんそれぞれにとても魅力的な方で、とても良い刺激を受けたように感じていて、そのこともとてもうれしいです。みなさんとお話して、パッと目の覚めるような爽快感をあじわっていました。(それほど、わたしの日常生活には、知的刺激がすくないのです。)バーバラさん、わたしももっとお話したかったです。
いとうさん、本当にありがとうございました。次回もぜひ参加させていただきたいです。みなさん、どうぞよろしくお願いします。
そうそう、今頃、なんですが、ご報告があります。『宙返り』読み終えました。何とかみなさんとお会いする前に、と思っていたのですがそれはかなわず、今日、先程読み終えたところです。読みながら、オウム真理教やライフスペース等の宗教団体に絡んだ数々の問題や、自身の信仰生活など、さまざまなことが頭の中に浮かんできて、読み終えた今でも(多分これからしばらくは)考えてしまいます。考えがまとまったら(そんな日はやってくるのでしょうか?)、わたしも大江さんに手紙でもしたためてみようかと、考えています。
話がそれますが「動物占い」、みなさんご自分のキャラクター調べてみられましたか?あたっていましたか?わたしはすこし前まで、この占いにはまっていまして、会う人会う人、キャラクターを調べまくっていました。反応は五分五分で、でも当たっているという人はとても当たっていた様です。(逆もまた然り、なんですが。)それで、わたしが「調べまくっ」た結果、社内でなのですが、どういうわけか同じ部署内には同じキャラクターが揃っているのです。営業部には「見栄っ張り」の「ライオン」がおおく、機械をまわす工場には「単純作業が苦にならない」「狼」が集まっています。
同じキャラクター同士の共通点もあります。「ペガサス」たちは(大学時代の友人に多いのですが)共通して連絡がとれません。「ライオン」たち(営業さん達)の机の上は、身なりはきちんとしているのにもかかわらず、いつもとても汚いです。
余談でした。
では余談ついでにもうひとつ。先程のぞいた本屋さんで、ちらっとダ・ヴィンチをみたら作家の何でもランキングみたいなもの(「抱かれたい作家No1」とか「美男だと思う作家No1」などです。)をやっていて、「手料理を食べてみたい作家」ランキングがあったのですが、わたしは胸の中で「大江さんのオックステイルシチューでしょう。」と思っていたのに、残念ながら大江さんの名前はありませんでした。バーバラさんの研究に期待いたします。ちなみに一位は村上春樹でした。(なるほど、たしかに。)長くなりました。すみません。それでは、また。
1999/12/12, いとうくにお
浜崎さん、大阪からのご参加、ありがとうございました。その行動力に感心しました。たこ焼き風味のプリッツ、おいしかったですよ。
バーバラさん、『大江健三郎の料理の世界』、ぜひ実現してほしいなあ。他の方も、大江さんのこの本にこういう料理のことが出ている、といった情報があれば教えていただけると嬉しいです。
1999/12/12, バーバラ
いとうさん、私オックステイルシチュー、またはスネ肉のシチュー作ってみますね。一般的な作り方ではなく、大江式を研究してみたいと思います。
俄然、意欲が湧いてきました。よくあるじゃあないですか、『赤毛のアン・クッキングブック』とかそういうのが。私、『大江健三郎の料理の世界』とか題してちょっとまとめてみようかしら。(笑)大江さんってお料理のこと結構いろいろ書いてらっしゃいますものね。
大江健三郎を、いかに表層で楽しむか…とまで言ってしまうと開き直り過ぎでしょうか。
1999/12/12, 浜崎まさえ
こんばんは、大阪人の浜崎です。皆様、オフ会では大変お世話になりました。
念願の排骨湯麺とペプシコーラを実際に味わうことが出来、感無量です。
 もちろん、大江さんから署名本をいただいたことも、オフ会にて皆様と
実際にお会いし、語り合えたことも大きな喜びでした。
 また次回を楽しみにしております。Rejoice!
1999/12/12, いとうくにお
なんさん、はじめまして。お店の場所は、オフ会レポートのところに書いておきましたので、よかったらご覧ください。
大江さんのシチューは、小説の中では、長時間煮過ぎてもはや食べられない状態になったりしてますが、実際にはなかなか美味いようですよ。手児奈さんから借りているSWITCH(1990 Mar. Vol.8 No.1)に編集者がこう書いています。
 インタビューが終わると氏は少々照れ臭そうに「僕が作ったスネ肉のシチューでも召し上がっていかれませんか」と私たちを食卓に促した。それは軽く歯を触れると崩れるように柔らかく煮込まれており、一口食べて私たちは口々に歓声をあげた。
 ”氏”というのは大江さんのことです。小説のほうでは、オックステイル・シチューがよく出てきますから、今度はそれを食べられるような企画でオフを開催したいものだと思っているのですが、、、
1999/12/12, なん
 ときどきのぞきに来ては、楽しく読ませていただいていましたが、
書き込むのははじめてです。
 排骨湯麺とコーラのお店って実在していたんですね!
行かれたみなさまがうらやましいです。
お店の名前を頼りに、今度捜しにいってみようかな、と
思っています。すぐわかる場所だといいんですが・・・。
 そういえば、屈折した受験生だったころ、わたしは、
“みずから我が涙をぬぐいたまう日風テイル・シチュー”なる、
血迷った料理をつくったことがありました。
庭に生えていた、香草だか、雑草だかわからない草を
使いましたが、人間の食べるようなものではありませんでした。
1999/12/12, たなか
みなさん, こんにちは.
 ぼくは最近, ある必要に迫られてドイツ語の文章を読まなければならなくなりました. ドイツ語は, 大学で第二外国語として単位をとったものの, 到達水準が低かったうえに, 何年も使っていないために錆びついてボロボロです. それで今, 辞書と文法書を横に置いて, たどたどしく文献解読をしています. 大江さんは毎日二時間は外国語の本を読むということをずっと続けてこられたそうですが, そのためにはかなりの根気が必要だろうと思います. 見習いたい点です.
 そういえば, 大江さんはドイツで2000年を迎えるのでしょうか. ベルリン自由大学での大江さんの講義はどのようなものなのか知りたいところです. また, 大江さんがドイツでの生活から何を吸収して, それがどのような形で現われるのかということにも興味がありますね.
 ところで, 日本では短篇小説で文壇にデビューする作家が多く, それには文芸誌の存在が強く影響しているというような意味のことを大江さんのエッセイで読んだことがあります. ドイツ文学に通じているわけではありませんが, ドイツの事情は異なっていて, いきなり長編小説を出版するということから始まることが多いのではないかと思います. たしか, トーマス・マン, ミヒャエル・エンデ, ギュンター・グラスなどはそうだったと認識しています. ドイツでは長編小説は Roman といい, 短篇小説は Novelle というように, 長編と短篇はそれぞれまったく別の単語で表されると授業で教わったのですが, なぜそうなっているのかまでは聞けませんでした. 短篇作家は別のやり方でデビューするのかな?
 とりとめのない話で失礼しました.
1999/12/12, ゆめ
おはようございます。二回目の書き込みになります。昨日『河馬に噛まれる』を読み終えたので、その感想を簡潔に書かせてもらいます。というより、読後に本にそのまま書き止めたものを抜粋させてもらいます。「人はみな、それぞれの中に河馬をもっている。少々荒っぽい、生への励まし。個人は個人で苦しみつつ、個人は個人を勇ましく、生の方へと励まし得るのだ。そして、その個の生が、更に連鎖する、繋がっていく。これは、紛れも無く励まじだと思う」
それから解説の中で気になる文がありましたので、それについても言及したいと思います。過去には、例えば中世から近世のヨーロッパにかけて魔女狩が行われたり、様々な一見異常的宗教現象の類は様々ありますが、しかしそれは宗教的な生への意味付けとも言えます。ところが現代は寧ろ、そうしたものを喪失している。無機的に生き死にが、一概に個々のレベルで満遍なく、ということでは当然ないにしても、全体において把握してみると行われてると言える。……ということなんです。個の死が決して無駄ではないことの証明として、それが未来へと繋がること、全体がプラスの方向へ、もっと言ってしまえば幸福の方向へ向かう上での大きな助力となるという事実をもってくる。大江健三郎は、個という閉じられた円環が、全体へ(或いは他者へ)繋がり得ることを、例えば『個人的体験』が他者と共有し得る意味をもつのだということを言っている気がします。他者に繋がらない不安というものを、僕自身一人でいると感じることがあります。『空の怪物アグイー』を読んでいて「個人の中の地獄」というようなことがでてきましたが、これもまた、他者と共有し得ぬものであり、また
(この部分、数行にわたって文字化けしてました:いとう)
大江健三郎の著書に励まされることが多いのも、独立した個ではあるけれど、他者との関わりをもつことへの積極的な意味付け、またそうした中で自分が何かを引き受けて生きること(『個人的体験』の鳥(バード)のように)の大切さなどを切実さをもって伝えてくれることに理由があるのかな、と思います。言葉はその意味するところを知るのみならず、やはり実感を、切実さを心に響かせてくれるものであってほしい。
……なんて思いました。
1999/12/11, いとうくにお
動物占い「虎」のいとうです。(笑)
へべれけさん、こんにちは。排骨湯麺を食べた「七面鳥」には7人が行ったのですが、その人数のオトナがそろって排骨湯麺とペプシコーラを味わっている図というのは、いかにも怪しげだったと思いますよ。店の主人はさすがにプロで、もの問いたげな様子はこれっぽっちも見せませんでしたが。あるいは、すべてお見通しの上での余裕だったのかもしれませんけどもねえ。
1999/12/11, へべれけ
こんにちは.
>杉田さん
書き込みの最初の方では理論と実感ということになっていましたが,後半からは理論と実践になっていましたね.実感と実践は同じものとして考えればいいのでしょうか?
また,過剰が評価の理由にはなるとは限らないというのは良く分かるのですが,「両者の関係をそれ自体として問い詰めていく」という文章の意味があまり理解できなかったです.この部分をもう少し詳しく教えて下さい.
>みなさん
ミーハーなぼくとしては,排骨湯麺を食えるつうのは,すごく羨ましいです.へなちょこ卒論の最中じゃなかったら行けたのにな.現在名古屋在住なのですが,大学の近くの中華料理屋では大排麺というメニューがあるのでそれで我慢しています.
1999/12/11, バーバラ
今、動物占いのサイトにいったら、なんと私は大江さんと同じ『くろひょう』でした。なぜか幸せ。
大江さんの小説を私は理論ではなく、この『くろひょう』繋がりで理解しているのだと、納得できました。(笑)
手児奈くん、ありがとう
1999/12/11, バーバラ
いとうさん、昨日は楽しい一時をありがとうございました。
急用で『排骨湯麺とペプシコーラ』食せなかったのは残念でした。しかし、大江さん直々のプレゼントをいただけたのは最高の喜びです。毎晩抱いて寝ようかしら?(^^)
皆さんと御会いできて嬉しいでした。特に大阪から駆け付けて下さった浜崎さん、感激しました。お土産ありがとう。ちえさん、もうちょっとお話したいでした。また次回を楽しみにしています。
いとうさん、次回はお花見オフですか?
1999/12/11, ミロ
こんにちは。
オフ参加の皆様お疲れさまでした。
成城学園駅の階段を踏みしめ、「きっと大江さんも踏んだことのあるんだ〜」とかミーハーなことを思ってました(笑)やはりあこがれの作家の体温を感じるようで、妙にハイだったような気がします。
今回のオフは大江さんのビックプレゼントと共に、私にとってとても印象深い集いとなりました。探してくださったバーバラさん、企画してくださった いとうさん本当にありがとうございました。
1999/12/11, むらかみ
 きのうはいろいろと話がきけて興味深かったです。
 妙に小奇麗で混雑している成城の店と、場末チックな場所にあって哀愁を醸す千歳船橋の店をハシゴして、あれを足して二で割ったようなものが小説のなかのイメージなのかと思いつつも、またそれからもズレるような気がしてなかなか面白い体験でした。それにしてもペプシコーラは長い間保存していたのか気が抜けていた感じがして、ああいうコーラなら幼いイーヨーが飲んでも大丈夫かと思いました。店の人は、在庫がさばけてよかったと思っているかもしれませんけど。その後の居酒屋もなかなか静かでよかったし、かくのごとき「集まり」を企画されたいとうさんに(度々ながら)感謝するとともに、排骨湯麺の店を突き止めたバーバラさんの取材力に敬意を表します。
 『渡辺一夫を読む』はさっそく読んでみようと思いますが、さすがにいつもやるごとく、署名本に傍線を引いたり、書き込みをするのも憚られるような気がして、もし、そういう衝動がわいたら、同じものを買ってしまうかもしれません(笑)。数ある著書のなかからあの本にしたっていうことは、大江さんとしては「渡辺一夫も読んでみては」っていうことなのでしょうか。
※「動物占い」、知らぬのはウカツでした。いまようやく全容を把握しました。
1999/12/11, たなか
 オフ会参加のみなさん、どうもお疲れさまでした。大江さんの過去を追体験しながら、いろいろなお話ができてよかったと思います。排骨湯麺とペプシコーラ、おいしかった! みなさんに感謝。バーバラさん、お店の調査ありがとうございました。いとうさん、オフ会を開いてくださってありがとうございました。浜崎さん、お土産ありがとうございました。
 またいろいろな世代の読者との交流ができて、とても嬉しく思っています。ぼくは大江さんのお子さんと同世代で、現在「父よ、あなたはどこへ行くのか」の肥った男とほぼ同年齢なのですが、大江さんは生涯にわたって読んでいくことができる作家だと、あらためて認識できました。
 それに、大江さんから素敵なプレゼントをいただけたことは、望外の喜びでした。これをきっかけに、渡辺一夫やラブレーを読んでいけるかもしれません。また副産物として、初版発行日は、1984年4月27日だということも判明しました(何の日?)。
1999/12/11, 手児奈
みなさん こんにちは!!
スットコ・ドッコイの手児奈(てこな)です。
今日はお誘いいただきましてほんとうにありがとうございました。
いとうさんはじめ皆さまにお会いできたこともありがたく思っております。
さて、今、浜崎さんから頂いた「たこ焼きぽっきー」を囓りながら「#僕の神経は〜♪三角形になって〜♪××××吸って〜♪ラリルレロ〜♪」(song by やしきたがじん)と歌いながらキーボード叩いております。気分はすっかり大阪人です、あはは。(ぽっきー、落としてごめんねー<浜崎さん)
「謝るの忘れた・・・」(手児奈こころの台詞)
 それにしても今日最大の収穫は「動物占い」だと思います(*^^*)♪
私事ですが、今「津島佑子総合案内所」なるマニアックなコンテンツを制作中です。ぜひ此のコンテンツに「津島佑子と動物占い」を追加させていただき(今から調べに行きます、某サイトに!)より充実したコンテンツにしなければならない、との天声にも似た雰囲気に頭はグルグル回っております。
ありがとうございました。
「津島佑子案内所」出来ましたら、みなさんを御案内致します。
(追伸)
最近、津島佑子の血液型を調べていますが(←何でやねん!?)大江健三郎の血液型は何型なんですか。
(動物占いサイト)無料版はこちらに↓
『動物占い』オフィシャルページ
1999/12/11, いとうくにお
 さきほど”排骨湯麺とペプシコーラ”オフから戻ってきました。皆さんと楽しくお話もでき、排骨湯麺とペプシコーラも賞味でき、充実した時間が過ごせました。
1次会が、成城学園駅前の成城飯店。予約不可だったのでちゃんと全員が近くに座れるかどうか心配だったのですが、混みだす前に2つのテーブルを占拠できて、うまい具合にいってよかったです。2次会が千歳船橋の七面鳥。ここで排骨湯麺とペプシコーラを賞味。1次会でいいかげん満腹だったので、ちょっときつかったですが、大江さんと光さんが愛した料理を味わうことができて満足。3次会はその近くの居酒屋。ここは静かで、ゆったり話ができてよかったです。ところで3次会の精算で、皆さんから一人あたり百円ほど多くいただいてしまいました。すみません。あと、成城飯店の前で撮影した写真なんですが、僕がデジカメの設定を間違っていたせいで、うまく撮れてませんでした。これまたすみません。1枚だけまあまあ写っているのがあるので、オフ会のコーナーに掲載しておきます。
 さて、参加された皆さんにはお話ししましたが、僕の充足感にはもう一つ理由がありますので、そのことも書いておこうと思います。大江さんをお誘いしたところ、ベルリンへ行くから出席できないというご返事があったということは以前ご紹介しました。そのハガキには、もう一つのことが書いてありました。「集りに出られませんが、たまたま『渡辺一夫を読む』初版十冊を岩波の倉庫で見つけてもらいましたので、それに署名したものを参加者の方に差しあげます」と。そういうわけで、オフ会の前に僕は大江さんのご自宅を訪問し、奥様から署名本を受け取ってきたのでした。ファン冥利ってところでしょうか。軽い気落ちではじめたホームページがきっかけで、いろいろな出来事が起こり、それが影響しあい、とうとう自宅を訪問することにまでなったと、ちょっとばかり感慨を覚えます。これはこのホームページを通じて知り合った皆さんのおかげでもあります。ありがとうございます。いやー、人生って面白いですね。(水野はるお風に)
 マーフィーさん、こんにちは。遠慮なくハマっていただければと思います。実はモーニング娘が僕はけっこうスキですよ。というか、ラブ・マシーンでしたっけ、いま歌っているの。あの歌と、あの歌を歌っている彼女らと、そのプロモーションビデオと、それらをひっくるめての全体としての「作品」が好きなんですね。つんくやスタッフや彼女ら共同で作った作品、ということになるのかな。
1999/12/10, マーフィー
杉田さんは、理論というのを狭く考えておられるように思えます。哲学だけでなく、一見、それに関して、言及していない人にも見出せます。例えば、中上などに。
理論が実感にならざるを得ないのが、杉田さんには単なる前提にしか思えないのだろうけど、、徹底的してものを考える人はその前提に対抗してできるかぎり徹底して理論的に考えるのじゃないですか。それが、柄谷だったり、中上だったり、デリダだったりするんじゃないですか。
追伸
いとうさんは、よく「モー娘。」を引き合いに出されますが、結構、ファンなんですか?テレビ見て、「なっち〜」って応援送ったり(笑)、するんすかね。ちょっと、気になったもんで、すんません・・・。
沢木耕太郎さんの本は、持ってないんで、ちょっと調べてみたら、キャパについての本があったんで、買おうかなって、思ってます。今まで、気になってた作家なんですよね。有田芳生(日テレの昼のコメンテーター)さんが、まだ売れない作家で、もう辞めようかと思っていた頃、ファンだった沢木さんにインタビューしたあとに、「また会えますかね」と言うと、「縁があれば、また会えるでしょう」と言ったということです。それから、五年くらい頑張って、今のように有田さんは有名になったらしいですよ。何か、そんなカッコイイ言葉を吐く、沢木って人は、どんな人だと気になってました。
さらに、2、3年前、大学受験を目指していた頃、模擬試験か、塾の教材かに沢木さんの文章が出てきたのを覚えてます。アパートの一室で餓死していた老婆の話しだったと思いますが、モチーフは「嘘」についてでしたっけ。もうあまりはっきりと覚えてません。ただ、その文章で「嘘」ってところを穴埋めで問われていたのは、記憶に残ってます。ニュアンスとしては、「ルポという実際のことを書いているんだけど、結局は嘘(想像)を書かなければ、成り立たない」ってことだったと思います。さらに、大沢たかおさんの主演の旅であり、且つ、ドラマ仕立てでもあるという番組をテレビ朝日でやってましたよね。
沢木さんのは、良い文章だし評論のように堅くなかったから覚えてます。あと、高校の教科書に載ってた武満徹さんの文章も覚えてます。武満さんは、聞きしに勝る名文だった・・・。さすが、大江健三郎の師匠(パトロン)
おれ、最近、ここに、何かはまっちゃってる。。。。
1999/12/10, ミロ
いとうさん みなさん こんにちは
オフ会いよいよ今日ですね。
私も今日は早く現地に行けますので、陣取り(?)に参加いたします。
>ついに聖地巡礼の日です。(笑)
この掲示板の参加動機が イーヨーが食べた「排骨湯麺」を何が何でも食べたい!と言った非常に不純な動機であったミロにとってはまさしく「聖地」であります。(笑)
そういう私でも気軽に参加出来る、いとうさんの懐の深さに感謝感謝です。
では、ご参加のみなさんよろしくお願いします。
あ 昨日、動物占いに対抗して「すし占い」というのをやってましたけど・・大江さんにお寿司を食べてもらわないと駄目だからこれは無理か・・
1999/12/10, いとうくにお
いよいよ今日はオフ会ですねえ。ついに聖地巡礼の日です。(笑)
参加されるみなさん、よろしくどうぞ。
Jolly Jokerさん、おひさしぶり。沢木耕太郎は稀有な作家だと、僕などは思っちゃいますねえ。「一瞬の夏」なんか、描いている対象の人物の人生に自分が大きく関わっていっちゃうわけですから、すごいですよね。大江さんもスペシャルな作家ですが、沢木さんもかなりスペシャル。
作家の動物占い、誰かやってくれませんかねえ。ちなみに大江さんは1935年(昭和10年)1月31日生まれです。
1999/12/9, Jolly Joker
少し、難しい話が展開しているので、離れていましたが、沢木耕太郎の名前が出ていたので書き込みしたくなりました。うん、いいですよね!冷静なのに熱くて、タダシイ感じがすると思いませんか?「一瞬の夏」の男達の、一途ではかない気持ち、青春の眩しさというか。女としては、うらやましい限りなのです。ジャーナリストというと、冷たさを感じますが、ちゃんと「血」を感じさせる文章の上手さ。大江氏のホームページなのに、関係ない人をほめすぎですが、きっとみなさん、わかってくださるでしょう。
あと、志水辰夫も上手いと思います。ははきぎほうせいも好きだなあ。人情があって、熱く生きてる人って、いいなあ。そう考えると、大江氏は別格の風格の風格。前者が思いを消化した文章だとすると、氏は噛み砕きながら進んでいく文章、とでもいうのでしょうか。
好き嫌いはあるけれど、いろんな人の作品を味わうというのは、至福ですなあ。
世間で流行りの動物占い、氏はなんなのでしょうか。
どうもわたしが参加すると下世話になってしまうようです。また、しばらくおとなしくしています、すみません。
1999/12/8, いとうくにお
武奈彦さん、情報ありがとうございます。
1999/12/8, 武奈彦
Under the Volcanoの邦訳は、「活火山の下」というタイトルで白水社の新しい世界の文学シリーズに入っていました。現在は絶版みたいですが、古本屋で見つかるかもしれません。
英語のほうは、現在手にはいりにくいようですが、来年3月にペーパーバックの新しい版が出るそうです。(なぜ知っているかというと、実は僕も少し前に調べたばかりでして。)オーディオ・カセット版は今でもすぐに手にはいりますが……。
マルカム・ラウリーといえば、雨の木連作ですが、僕は何年か周期でむしょうに読みたくなって読み返します。よみかえす度に、提示されているヴィジョンの暗さがどんどん増してくるようで、とても辛くなるのですが。
1999/12/8, 杉田
ぼくはいわゆる「理論」をやっています。柄谷行人や加藤典洋とかレヴィナスとかドウルーズとかジジェクとか、まあ、そんな人々です。
それでひとつ分かったのは、「理論信仰」も「実感信仰」も、共に、それだけではダメだということです。というより、ある程度徹底してものを考えている人々の文章は、「理論的」であると同時に「実感的」にならざるをえません。もちろん、このことも、単なる「前提」に過ぎないのですが。「過剰」はそれ自体として肯定否定されるべき事柄ではありません。
重要なことは、「理論」と「実践」の間において,両者の関係をそれ自体として問い詰めて行くことではないでしょうか。つまり、どちらが「優れているか」と、勝敗を問うことではなくて。
加藤さんの書物が「文学的」だからダメだという批判はよく耳にしますが、でも、どうなのかな。ひとつだけ言えることは、加藤さんはいま誰よりも困難な場所に身を置いてものを考えているということです。彼は単純な「右翼」でも単純な「左翼」でもないように思われます。
話しが脱線してしまって申し訳ありません。
いろいろ意見を聞かせて頂ければ,有りがたいです。
1999/12/8, いとうくにお
マーフィーさん、こんにちは。また投稿してくれて嬉しいです。
文学が無力でないこと、政治と無関係でないことは、歴史を見ればあきらかですよね。例えば黒人解放、日本の部落問題、沖縄問題、そういったものにおいて、一定の役割を果たしてきたことは事実だと思うのです。ちなみに僕はいま燃えあがる緑の木と並行して島崎藤村の「破戒」を読んでいますが、この作品はそういう役割を果たした一例ですよね。文学の役割の大きさをどの程度と評価するかは意見のわかれるところかもしれませんが、ゼロだと言い切る人がいるとは思えません。
一方で、僕が政治と文学を分けたいと言っているのは、例えばこういうことなんです。ある人が文学作品を政治・理論・考察・洞察抜きで楽しむことは可能だろうし、それに対して「その読み方は正しくない」という権利は誰にもないだろうと思うのです。いや言うことはできるかもしれませんが、その言われた側がそういう読み方をしている事実は否定できない。
大江健三郎は作家の中でも政治的発言が極めて多い人だと思いますが、にもかかわらずその作品を政治・理論・考察・洞察抜きで楽しむことは可能だと僕は思うのです。例えばマーフィーさんもお好きな『万延〜』(僕も好きなんです)にある、「本当のこと」についての議論は、物語の構造など考えもしなかった僕のような読者にも大いに楽しめます。楽しめるという言い方が誤解を招くかもしれませんが、なんというか、異様に引き込まれる魅力を感じます。それは例えば佐野元春の「今晩誰かの車がくるまで闇にくるまっているだけ」("アンジェリーナ"より)という部分にしびれるとか、モーニング娘の変な踊りにうっとりするとか、そういうのと同じように僕としては感じるんですよ。
僕自身は理屈、理論を軽蔑する気持ちなどないです。大江文学を読んでいてわからないところを、理論的に解説してもらえて、納得がいったときには、気持ちがいいです。ただ、一方で、そういうものを駆使する素養や才能がなくったって文学は楽しめるぞ、という開き直りの気持ちもありますね。理論を語ることを軽蔑はしないが、理論を語らないこともまた軽蔑しない、ということですかね。
1999/12/8, マーフィー
あっ・・まだ言い足りない気がしましたので。すいません!!
へべれけさんが、一文字さんの意見に反応するのはどうかと書いておられるが、まったくその通りです。では、僕があのことを書いたのは端的にこの掲示板を見ていて感じたことを書いたまでです。一文字さんの意見なんて実際はどうでも良くて、ただきっかけに過ぎないです。
というのも、皆さんが、理論や理屈、思想を表面上では、同意しているように見せながら、それを語ったり、書く者に対して、暗に軽蔑しているような素振りを感じたんです。「理論を語るのは、カッコわるい」「野暮ったい」「男らしくない(広義の意味ですよ)」などと非常に感情的な態度に終始し、実の所、何も語ってないのがあからさまに見て取れたからです。それは、非常にもどかしいのです。これは、誰と特定に指しているのではないです。ある一部の文章の発言にあったりなかったりということです。だから、誤解してくださらぬように。
いとうさん、ホント、たびたびすいません!
1999/12/8, マーフィー
いとうさん、こんちは!この前の意見、続けて書こうと思ったんですが、今少し精神状態が良くない事と、僕は偉そうに書いたわりには、いとうさんに突っ込まれ、自分の意見にまとまりがないので、書くのが困難になりました。
でも、掲示板を見ていて、非常に興味深く感じたところがあるので、書きたいと思います。
それは、へべれけさんの「過剰」についてのこと。良質な作品には「過剰」が備わっている。僕は、ラブレーを愛読してますが、ラブレーもまた「過剰」について書いていると思います。例えば、男性の性器に関する単語を幾ページにもわたって書いてます。これが、一言、「ペニス」だったらラブレーらしさはでないでしょう。さらに、落語の「じゅげむ」なんてのも「過剰」なまでに効果的な長さだからこそ、面白いのでしょう。
しかし、それよりももっと興味深く思われたのは、へべれけさんが「構造」との関係でおっしゃっていることです。「過剰」を理論化しようとしたのは、ベケット論でのドゥルーズでしたでしょうか。とまれ、僕は「構造」との関係で考えることはなかったので、へべれけさんが「構造にはかりきれぬ」と書いておられ、いとうさんが「具体的に指摘できぬ」という記述に、思わず唸って、納得してしまった。確かに、「過剰」は「構造以前」だし、絶対的に「指摘」不可能だと思います。とするなら、杉田さんが書いておられる「微細な差異において」というよりは「微細な差異」こそが「過剰」だと思います。だから、過剰=構造以前=差異ってことになるのかな。ということは、「指摘」不可能=「理論」と「文学」のねじれを、できるかぎり「理論」の立場に立ち、「指摘」しようとする態度こそが僕が言いたかったことかもしれません。「文学作品は徹底して理論的に読まねばならない」。
「敗戦後論」に関してですが、加藤典洋は文学・政治について論を展開しつつも、ねじれに対抗することに関して、文芸批評を特権視しすぎているようです。大江さんは、そういう文学を特権視しすぎる姿勢(へべれけさんの言葉で言うと、自己完結的とでも言うと思います)を批判してきたと思います。日本特有の私小説、あいまいな比喩を多用する「美しい日本文学」の川端や三島。小林秀雄が「様々なる意匠」でかく書いていました。「批評とは、一つの意匠を盲信しないように、全ての意匠を信じることができるようにするもんだ」(今、手元にないので、少しニュアンスが違うかもしれません・・・)と。僕は、おおいに賛成です。大江さんは、そういう意味で、批評家だったと思います。だから、いとうさんが政治と文学をわけることについては、同意できません。大江さんや小林秀雄が対象としているのは、文学や政治ではなく、「過剰」だからです。
・・・何かまたまた意見にまとまりがないかもしれないな〜。
※いとうさんが、佐野さんについて書いてましたが、僕は日本のミュージシャンでは井上陽水と佐野元春が好き!音楽は、ジョン・ケージとかU2ぐらいしか知らないですが、野茂が佐野さんを好きらしくて、大リーグ中継でよく流れていたので、見事に好きになってしまった!!様々な人とセッションしているので、興味深いです。オノ・ヨーコとか降谷健志などと。洋楽には詳しくともこんなに実力のある佐野を知らない友達が多いので、いとうさんが書いていらして、嬉しくなりました!いぇい!いぇい!
※今、「万延元年のフットボール」を読み終わりました。通読は三回ほどですが、細かい所は、もう百回ぐらい読んだかもしれません。これは、ホントすごい!大江さんの作家としての想像力の質に舌を捲くぅ〜。お腹一杯だ〜い!もう他の日本文学は食えね〜。腹八分目にしないと、「過剰」になっちゃうしね。
natsuさんが、社会との断絶について、書いておられるのを見て、非常に今の自分とリンクして考えることができました。今、僕は大学生でして、自分が考えたり勉強したりしている文学ってのは、結局社会人になってしまえば無力なんだろうな〜と漠然と最近まで、思ってました。
しかし、中野重治の講演を読んでその考えはころっと変わりました。ある大学生が中野にこう質問したんです。「結局のところ、文学は無力じゃないか」と。すると、中野は、すかさず、こう断言したんです。「ホメロスからアラゴン、万葉集から中野重治の総体において、文学は無力ではない」と。たったこれだけの文章でしたが、僕は何か救われる気持がしました。
非常に拙い文章ですいません。
1999/12/8, いとうくにお
大江さんの作品にその名前が出てくるマルカム・ラウリーの『活火山の下で』は現在入手可能かどうか、ご存知の方、いらっしゃいますか? ある方からメールで質問をいただき、僕もインターネットで調べてみたのですが、情報が得られませんでした。
1999/12/8, いとうくにお
みなさん、こんにちは。いよいよ明後日ですね、オフ会。参加者のみなさん、よろしくどうぞ。
natsuさん、こんにちは。僕にとって沢木耕太郎はハズレのない作家でして、強くお薦めしたいです。『テロルの決算』もよかったのですが、『一瞬の夏』と『深夜特急』は絶品だと思います。大江健三郎や沢木耕太郎が書かれたままの母国語で読めることについては、焼きアジを食べたときと同様に、「日本に生まれてよかったあ」と思うしだいであります。ちなみに、このサイトがカラフルになったことに関連してのnatsuさんの推理、すべてそのとおりですよ。大当たり!
1999/12/8, natsu
いとうさん、こんばんは。
11月27日のいとうさんの書き込みを読んでいたら、『テロルの決算』、どうしても読んでみたくなって、夕方、本屋さんに出かけて、文春文庫、買ってきてしまいました! 読まなきゃならない本、あるんですけど・・。 『政治少年死す』も、まだ読んでいないんですけれども。「一流の小説家と一流のノンフィクション作家の、視点とスタイルの違いも楽しむことができ」る、なんて言われると、・・うーん、おもしろそう!と思ってしまいました。読めば、きっと、重いテーマにちがいないけれど、でも、久しぶりにわくわくして本を読めそうです! 沢木耕太郎、読むのもはじめてなんです。楽しみです。
ところで、トップページや引用の森がリニューアルされて、カラフルになっていて、びっくりしました。載っているのは、『燃えあがる緑の木』第3部で、いとうさん、きっと、第2部を、読了されたにちがいないと思いました。さて、オナカノチョウシハ、イカガデスカ?(^^)
1999/12/7, natsu
いとうさん、みなさま、こんにちは。
留守をして、しばらく、インターネットを離れていました。
大変遅くなってしまいましたが、たなかさん、アンガージュマンについて「参加するーさせる」ということへの解説(11/28)、ありがとうございました。「自由なアンガージュマン」という言い方が、気持ちに残りました。
わたしは、学生運動の時代のおわりに学生生活を送りましたが、当時の雰囲気として、政治に積極的な関心を持たない学生へのなんともいえない威圧感のようなものがあって、けれど、わたしは、自分自身の問題を、どうしても社会へとつなげることができず、むしろ対立するもののようにも感じられていて、そのことを、「政治と文学」あるいは「社会の問題と実存の問題」というような言葉で自分の中に位置づけてきました。長いこと、自分が、文学の側の人間であり、また、自分にとって重要なのは実存(この言葉のわたしの用法はまちがっているかもしれないですが)の問題なのだ、と理解してきました。けれど、このごろ、「言葉」というところから、この問題をもう一度よく考え直してみなければならないのじゃないかと、切実に感じていたところだったので、「参加するーさせる」ということにこだわってしまいました。
この前は、加藤典洋氏の『戦後後論』をおもしろく読みました。また、「政治と文学」ということについての、たなかさんや多くの方の掲示板のご意見も、興味深く読みました。自分の考えを言ってみることは、まだできず、浮かんでくるのは、きわめて初歩的な疑問質問ばかりですが、もう少し考えて、また、掲示板に書き込みをしてみようと思っています。
1999/12/7, いとうくにお
杉田さん、はじめまして(ですよね?)。「過剰」の話で連想するのは、ミュージシャンの佐野元春がインタビューで語っていた言葉です。佐野がレコーディングで完璧に歌う、しかしプロデューサの大滝詠一はダメ出しする。整い過ぎている、もっとはみ出せ、君が好きなアーティストを思い出してごらん、はみ出している部分があるだろう、といわれて納得した。そんなエピソードです。どういうアートにおいても、そういうものは重要なんじゃないかなと思ったりもしますが、まあ具体的には「これがそのはみ出した部分だ」と指摘するのは難しい気がしますね。万延元年に出てくるキュウリの話なんかはそれかもなって思ったりしますけども。
1999/12/7, へべれけ
こんにちは。
ちえさん。「弱者を書く」いうののは「弱者サイドに立って書く」と意味で使ったのです。言葉足らずでして、スイマセン。従って、「芽むしり仔撃ち」には強者も登場するけれど、やはり「弱者を書いた小説」だと思うのです。
理由を書きます。(以下だ・である調)
「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」というセリフは「強者=村人」、「弱者=僕ら」という構造を良く表しているように思う。「僕ら」には選択権すらない。
このセリフを喋る時に、「村人」はおののいているが、「村人」に恐怖を与えているのは「僕ら」ではなく「僕」ひとりでしかない。「僕ら」が「村人」と有効に対抗し得たのは、「僕ら」が「疫病」を有していたごく短期間のみで、しかもそれも幻想に過ぎなかった。
という理由で、ぼくは「芽むしり仔撃ち」に書かれているのは弱者だと思う。
さて、この作品が書かれたのは、「山口昌男の言う中心/周縁」という主題を大江健三郎が発見する以前のはず。従って、大江健三郎は(少なくとも意識的には)、「芽むしり仔撃ち」に「中心/周縁」という主題をいれていないと思われる。
・・・・以上のような理由で、「芽むしり仔撃ち」に書かれているのは「弱者」であって、(厳密な意味での)「周縁」じゃない、とぼくは考えたのです。
杉田さんの言われていた「過剰」についてですが、「構造で計りきれぬような、構造から溢れ出るような」という意味で解釈したのですが、恐らく良質な作品はそのような「過剰」を備えているものなんだろうな、と思いました。
ううむ、これはたいした感想じゃないなあ。まだぼくは杉田さんの書き込みを消化しきれていないので・・・。しかし、ここまで来たら、山口昌男を読まないと、これ以上進まないような気がしてきた・・・・。卒論そっちのけで。
ぼくはちなみに、「芽むしり仔撃ち」を読了した時、「ううむ、自由になるためには、ありとあらゆる共同体から脱出するしかないのか」と思ったものです。今では、そうは思わないですが。
1999/12/6, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。マーフィーさん、はじめまして。
 「ボクチャンカシコイゴッコ」という(二重三重の意味で)イヤラシイ響きのある言葉を使ったのは僕です。マーフィーさん以外にも不快に思われた方がいると思いますので、みなさんにお詫びします。マーフィーさん、指摘していただいてありがとうございます。(ただ、西村真悟といっしょにされるのは勘弁してほしいなぁ。)
 難解バカボンというソフトウェアをご存知でしょうか。適当な語彙リストをもとに結構それっぽい文章を自動生成するソフトウェアです、現代思想篇の辞書が標準添付。WWW上のどっかにcgi版が動いているんじゃないかな。(類似品としてThe Postmodenism Generatorってのもありますね。) そんなものを連想してしまうような「文芸批評」をしばしば読んだ経験があり、それを揶揄するつもりでボクチャンカシコイゴッコと言ったのですが、そうではない批評が存在しないとか不可能であるとかと主張するつもりは全く無いので、不適当な言い方でしたね。
 あらためて強調しておきますが、僕自身は、小説を読む上で、分析的な方法は役に立つと感じています。そのうえで、その分析は、こじつけや連想ゲーム(他人が使ったキーワードを意味をよく確かめずに羅列すること)や、単なるレッテル貼りになってしまってはいけないし、小説と乖離したレトリックのお遊びになってもいけない、しかも理論に乗らない部分を切り捨ててしまってはいけない、と自戒するためにゴッコはだめだゴッコはだめだとつぶやいてみるのです。
 (発行日付関係プロジェクトは着々と進行中。)
1999/12/6, 杉田
大学院の中でアカデミックな研究論文ばかり読んでいると、結構索漠とした気分に落ち込みます。
矢張り、率直な肉声って、「善悪」や「文学と政治」などの二項対立を(超克するのではなく)斜めに横断して、ぼくらをエレメンタルに励ましてくれるものですね。それはよくもわるくも、です。
ちなみに、山口昌男にせよ柳田国男にせよ大江健三郎にせよ、彼らの「本領」は、「中心と周縁」図式を確かに前提とはしていますが、そこから微細な差異において過剰するものを備えていることにあるのではないでしょうか。
もちろん、その「過剰」がそれ自体として肯定されてよいわけではありませんが。
「理論」と「文学」のねじれた関係性に関しては、たとえば、山城むつみ『転形期の思考』や加藤典洋『敗戦後論』『戦後的思考』などを読みますと、彼らの議論を肯定するか否定するかは別問題として、ぼくら自身が、深く考えて行くことができると思われます。
皆さん、大江さんについて真剣に考えていて、ぼくから見れば、それは、とても「温かく美しく貴重なもの」(村上春樹)に思えますけれども。
1999/12/6, いとうくにお
仕事が一段落ついてほっとしているところです。むらかみさん曰く「いろいろと異質なものがじゃんじゃん積み重なっていくこの掲示板は、あり方として望ましい」まったく同感です。agree to disagreeで、意見の違いはあってもそれを認め合っていければいいなと思います。
さて、ひろこさん、ビデオの件ですが、それではこちらから郵送しますので住所をメールしていただけますか。それから、他にもビデオ回覧ご希望の方いらっしゃいましたらご連絡ください。
1999/12/6, むらかみ
 こんにちは。
 蛇足なのですが、さきのぼくの発言については一般的な話としてはそうだろうと思っています。ただ、まあ、そうじゃないという人も多かろうし、いろいろと異質なものがじゃんじゃん積み重なっていくこの掲示板は、あり方として望ましいと思っていて、いとうさんの姿勢はもちろん支持しています。「ゆるやかな絆」としての掲示板であればよいという感じでしょうか。ぼくも排骨湯麺の話とか好きですし。以上、蛇足で失礼しました。
1999/12/6, ひろこ
こんばんは。先日のビデオの件どうもありがとうございます。ぜひぜひ貸してください!!うちの学校に健三郎さんがいろいろな文学に付いて解説しているビデオが貸し出されているので近いうちそれも全部制覇する予定です。アイドルの追っかけと変わりませんね。これじゃ。
今は「新しい文学のために」と個人的な体験の英訳「Personal Matter」に挑戦中です。今度ぜひ私もオフ会に参加したいです。まだ読んでない作品がたくさんあるのでそれまでに読んでおいて皆さんと語り合いたいです。
1999/12/6, へべれけ
マーフィーさん。
ぼくが「自己完結的」という言葉で批評しようと試みたのは、あくまでも多くの一般的な書き込みに対してですです。これに、マーフィーさんは含まれていません。
そして、一文字弥太郎さんの書き込みに対して意見をするのは不毛だとも言いましたが、これもまた特定の人物を念頭に置いてのことではないのです。まあ、こちらのほうに、マーフィーさんが含まれることを否定する訳でもないのですが・・・。
従って、ぼくが前々回のマーフィーさんの意見に対して感想を述べるとすれば「一文字さんの意見に触発されたとして、自分の意見を言うのはどうかと思う」といった程度のことです(理由は前回の通り)。敵意全くナシ。
それにぼくもまた、文学を解釈するにあたっての理論の有効性をかなり信じているたちなので、前回のマーフィーさんの書き込みに異論はないです。
1999/12/6, いとうくにお
むらかみさんが言われるように文学は政治と関わりを持ってきたとは思いますけども、読者のほうにもそういう意識が必要なんでしょうかねえ。まあ、ともかく僕として明言しておきたいのは、「大江さんのここがスキ」とか「この作品がスキ」というだけの発言であってもこの掲示板ではOKであるということなんです。もちろん理論的な話も大歓迎なんですよ。
1999/12/6, ちえ
こんにちは。
武奈彦さん、へべれけさん、お応えありがとうございます。
武奈彦さんの、『個人的な体験』にまつわるお話。「鳥」とご自分がだぶったのでしょうね。それは思い入れもひときわですよね。武奈彦さんに初版本を羨ましがられて、ちょっと得意な気分です。この本の箱には、安部公房(わたしはこの作家もとても好きです。)、伊藤整、平野謙の3氏の評が書かれています。当時の値段は440円(!)です。
わたしは武奈彦さんのように自分の実体験や境遇(?)とだぶることはありませんが、気分、雰囲気、空気、などのような部分で共鳴するものがあります。そんな「あいまい」なものですから、どこがどうと説明はできませんが、しかし確かにそのようなところがあるので、大江作品を好きなのだと思います。それだけではもちろんないのですが。読みづらいけれども、その独特な文章(語り口とでもいいましょうか)、考え抜かれて選ばれたのであろう言葉たちなど。あとはなんと言っても、わたしには理解しきれない難しさ、でしょうか。
さて、へべれけさん、わたしの書き方は確かに単純ですが、「弱者を書けばそれで周縁」とは思いません。うまく説明できるかわかりませんが、弱者ってものがいれば必然的に強者ってものもいますよね?これはどちらか片方だけというわけにはいかないと思います。そして、この両者が揃った時、その間に生まれる差が中心と周縁をわけるのではないでしょうか?
また『芽むしり仔撃ち』になぞらえれば、「僕ら」だけならば、「僕ら」は弱者でもなければ周縁でもないけれど、「僕ら」を弱者として扱う「大人たち」があらわれると、そこに強弱、中心と周縁という関係が生まれる。
書いているうちにああじゃないか、こうじゃないかといろいろなことが思い浮かんできて、まとまりがつかなくなりました。
でも、強者=中心、弱者=周縁という式は成り立ちませんね。ときには周縁が強い時もあるでしょう。
へべれけさんはそういう意味でおっしゃったのでしょうか?
ここまで書いておいて何なんですが、そもそもわたしは「僕ら」を「周縁」ととらえられるのではないかと考えた時、「僕ら」=弱者とは考えていませんでした。「差別」「被差別」と書きましたが、この関係も強弱というものではなく、何か他のところから生まれてくるものなのではないかと思います。
どんどん話がまとまらなくなるので、これについてはここでやめておきます。
ところでへべれけさんも村上春樹がお好きなのですね?いとうさんおっしゃる通り、わたしも好きです。大江読者と春樹読者はけっこう重なるものなのですね?わたしの周りでは今まで、春樹読者はいくらでもいましたが、大江読者はちっともいなかったものですから。へべれけさんは、大江作品と春樹作品に共通点をみられますか?もしくは作品にかぎらず、作家自身にでも。
1999/12/5, むらかみ
 みなさん、こんにちは。
 この掲示板に触発されて、ぼくも『芽むしり仔撃ち』を読み返してみました。文体が今とは相当違うということを改めて認識して、結構、新鮮でした。話の構造は、後の『万延元年〜』(こっちの方が余程、複雑ですけど)にもつながる部分があるのでは、という印象を持ちました。
 「政治と文学」の話が出たので、火中の栗を拾うつもりで(笑)敷衍しますと、政治/文学は、いとうさんが先に言及されたようには、截然とは分けられない部分があるのではないかと、ぼくは思っています。それは、たとえば言文一致を通じてナショナリズム形成に寄与した明治期の文学とか、昭和初期のプロレタリア文学、あるいは、日本浪曼派みたいなのを連想しながらそう思っているわけですが、大江さんの文学もその例外ではなかろうかと。「日本近代文学」は、政治とつかず離れず、というか、むしろ広義の「政治」に影響を与えつつ存在したのではとぼくは常々考えているわけです。もっとも、それじゃあ「政治的に正しい」「理論的に高度な」作品がよい作品になるかというと必ずしもそうではなくて、「(広義の)政治」を意識しつつも、そこからズレていく過剰さ、野蛮さが魅力になったりするので、事態は複雑なのですけれど。
 もっとも、最近は、たんに野蛮なのではないかと思われる小説もあるので、ぼくが思い描いているような「日本近代文学」(あるいはその機能)はもはや終わってしまったのかもしれません。そうなると、いわゆる「純文学」も「モーニング娘。」も実質的な差はないという認識のほうが実態としては合っているのかも、という気がしないでもないです(最近そう思うことが多くなりました)。まあ、仮にそうだとしても、「だれそれの何が好き」ということだけで話が完結してしまうと、それこそ丸山真男のいうごときタコツボに棲み分けるような話になってしまうので、それを攪乱する意味でも、こうした掲示板で理屈(理論?)を引っさげていろいろと議論していくのはよいことだと思います。
 またまた ambiguousな話で、しかも長くてすみません。どうでもいい話ですけど、山口昌男は北大のクラーク像前で、"Boys, be ambiguous!" とダジャレだか、なんだかよくわからぬことを言ったとか、言わぬとか。
1999/12/5, いとうくにお
ジョイさん、こんにちは。改行のことをおっしゃられてたので、先のご投稿の改行位置を整えておきました。また問題ありましたらご指摘ください。
投稿されるときにリターンキーで改行したところにはすべて改行が入ります。ご覧になるウィンドウの幅が狭い場合は、ウィンドウの右端で改行されたうえ、さらに投稿時の改行位置によって改行されるので、変な具合になります。それを防ぐには、投稿の際に段落の終わり以外ではリターンキーを入れないようにすれば大丈夫です。気をつける必要があるのはそれくらいですから、気が向いたときにでもまたご投稿いただけると嬉しいです。
日本語訳、ありがとうございます。これで意味がわかりました。
1999/12/5, ジョイ
いとうさん、みなさん、何でこんなに改行されているのでしょう。
ごめんなさい。これから、やっぱり拝見させていただくだけにします。
日本語訳は、まとめのところだけだったので、わかりにくかったかもしれません。
Can we find joy in spite of suffering and death? は、私たちは、苦難や死にもかかわらず、(その前に、a great fear of death ということばがでてくるので、死に対する大きな恐れがあっても)喜びをみつけることができるのでsひょうか。と、私は、子供に教えました。なかなか深い問いだと思います。これから、大江さんの作品や、みなさんの意見を読ませていただきながら、考えていきたいとおもいます。
1999/12/5, いとうくにお
マーフィーさん、こんにちは。誹謗中傷だなんて思っていませんので、ご安心ください。「それがどうかしましたか?」などと書くのはまさに開き直りだよなあと、あのあと少し反省もしました。
最初、一文字さんが、このサイトには何もないという意味のことを言われた。僕は、何もないとは思わないが何もなくたっていいと言った。マーフィーさんは、基本的に一文字さんに賛成だと言われた。そのことから、マーフィーさんもこのサイトあるいは運営者(僕)を批判しているのだと僕は理解しました。しかしマーフィーさんの投稿をよく読むと、文学の読み方のことを問題にされているのかなという気がしてきました。合ってますか? 違っているかもしれませんが、その前提で進めます。
僕は理論や洞察を不要なものと思っているわけではありません。しかし感覚的、表面的な読み方だって否定されるべきものでもないと思います。理論を用いるのは評論家にとっては義務だとは思いますが、一般の読者は自分なりに楽しめばそれでよいのではないでしょうか。
ナショナリズム云々の件ですが、政治のことと文学への態度とは、分けて考えていいのではないでしょうか。大江さんはダメとおっしゃるかもしれませんけども。文学においては無分別・無思慮でも、政治においてはそうでなければいいわけだし、逆にいくら文学において思慮深くても政治に無分別では困る。批判すべきは政治的無分別であって、文学や音楽に対するそれではないと思うのです。マーフィーさんは、そんなに都合よく無分別・無思慮を使い分けることなどできないとお考えかもしれませんが、そうであってもやはり、政治において無思慮であった場合においてはじめて批判されるべきもので、文学における態度の部分をどうこう言ってもしようがないのではないでしょうか。
なんだかまた開き直りっぽくなってきましたねえ。マーフィーさんの言われていることがまだよく理解できていないのかもしれません。できれば億劫に思われずにコメントをいただければ嬉しいです。
1999/12/5, マーフィー
皆さんに変に不快な気持や嫌悪感を与えてしまったのかと、少々後悔しながら、とりあえず、また意見を述べさしてもらいます。絶対に誹謗中傷ではないです。
さらに、おそらく僕の発言に対して「自己完結的でオシマイ」と批判なさっているので、率直に答えたいと思います。
「理論的に読まなくてはならない」というのは、説明不足だったかもしれません。何故、僕がそう考えたかといいますと、山城むつみさんという文芸批評家の「転形期の思考」って本で、”母国語で考えるということは考えていないに等しい”とおっしゃっていて、その一節と大江さんが翻訳調で書いていたことと「あいまい」について考えていたことが、妙に自分の中でつながり、大江さんがしていたことを今更ながら、理解できたことに起因します。
さらに、例えば、いとうさんやさらに他の人が「ボクチャンカシコイゴッコ」と理論を否定していますが、それを否定していながらも人間はあいまいに理論的な考えを持ってしまうのではないでしょうか。それが、”考えていない”ことだと思います。
さらに、「ナショナリズム」ですが、先の某国家的行事で、何の思慮も無く、女子高生が芸能人目当てに来、「いいじゃん」「いいじゃん、××を崇拝したって」と安易に何でもかんでも肯定してしまう右の人も憂慮すべき光景を目にし、あるいは、いわゆる自虐史観のように「当時はそうだったから仕方がない」と(と言って、将来の日本を心配しているわけではありませんが・・・・・)こう無思慮に何でもかんでも開き直りや肯定すると、誰もそこからその意見に踏み込めないし、そういう態度は実は世論に流されやすいのではないかと思ったわけです。というより、世論によって、成り立っているような気すらします。だから、簡単に西村某のような世間の動向は作りやすいと思います。実際、某は「国家のため」や「国民のため」ひいては「世界のため」などと大言壮語していたわけですから。
でも、こう説明してもまたおそらく「それがどうかしましたか?」式な開き直りに叩き付け返されるのかと思うと、僕はもう次のレスをするのが億劫であり、辛いです。
(ここからは、掲示板に載せないでも良いです。長いし、いささか個人的な理由ですので)
でも、自分が「文学作品は徹底的に理論的に読まねばならない」と言ったのは、自分の個人的な理由と関係しているのかもしれません。お恥ずかしながら、僕はそろそろ将来の職業について考えなくてはならない時期(21歳、大学3年)にきて、高校時代からの志望である文学の道に進もうかと思いつづけてきたわけですが、と言っても、自分は同人誌もやっているわけでなく、語学にも堪能ではないという現実があり、多少の文学的知識があるという他は、何もないという現実に直面し、結局はダメかと無為な生活をおくっていると、高校時代の友人に街で偶然会って、今同人誌をやっている、将来作家になる、という話しを聞いて、その夜、家に帰って、偶然、NHKでやった大江さんのドキュメント(だいぶ、昔に録画したテープ)を見ていて、大江さんが光さんを生んだ時自分の文学のスタンスとして、文学は人間を根本的に励ますものでなければならない、という一節があって、自分も文学を一生涯の仕事として選ぼうと、高校時代から漠然と思っていましたが、なぜか唐突にそう堅い決心をしました。
焦りみたいなものも表れているかもしれません。このHPの過去の掲示板を見て、いとうさんが、長く、そして、地道にやってこられたのを見て、自分も焦らず、地道に行こう!と。そう思ったわけです。だから、いとうさんを中傷したりは、してません。むしろ、このHPは、新鮮であり、励まされるものがあります。
※でも、今は大学生ですから、現実的に甘く、そしていい加減に生きてますが、こういうことを職業にすると、否、社会にでると、例えば、一文字さんのように言いたいことをいって、逃げることはできないんだなとつくづく思いました。
1999/12/5, いとうくにお
ミロさん、トップページの画像のこと誉めてくださってありがとう。デザインセンスがないので、いろいろ試行錯誤しながら作りました。本をベランダに持ち出して、デジカメで写真を撮って。ハックルベリー・フィンもニルスも(トム・ソーヤもかな)、アニメになってますよね。ハックは中学生のころかなあ、見てました。ニルスがやっていたのはだいぶあとで、僕もアニメを見る年齢ではなくなっていたのですが、妹が見ていたのをたまに一緒にみて、僕も感動したのを覚えています。どちらも、いま放映しても十分通用する作品だと思います。ちなみに本は読んでません、、、
武奈彦さん、初版の日付の情報、集るといいですねえ。日付の意味については、「きょうは何の日」「おこよみ焼き」「ひめくりカレンダー」などが参考になるかも。「きょうは何の日」によると「宙返り」の初版発行日6月15日はドラえもんに出てくるジャイアンの誕生日だそうです。
へべれけさん、「大変」の意味、わかりました。そういう意味でもやはり大変だと感じることはあまりないんですよ。時間が足りないと感じることはありますけど。もう一人お好きな作家というのは村上春樹でしたか。ちえさんもそうだとおっしゃってましたね。大江ファンと村上ファンは、けっこう重なっているのかな。というか、大江ファンの多くは村上春樹も読んでいるが、その逆は必ずしも真ならず、ってとこかもしれませんね。
ジョイさん、はじめまして。「苦難や死を無視して喜びを見つけることができるのか? これが彼の父親が本の中で問いかけていることだ。光はその答えを示してくれている」これで意味はあってますでしょうか。どなたか、もっと上手な訳を。中学英語ということですが、僕には辞書が必要でした、、、
息子さんに薦められ大江文学に出会うというのは、面白いきっかけですねえ。うちのもそんな孝行息子に育ってくれるといいのですが。
1999/12/5, ジョイ
はじめまして。いつもみなさんの文章力の高さに感銘して(どこかで読んだような、、、でも、本当です)毎日、拝見させていただいています。
ご存じの方も多いと思いますが、中3の英語の教科書に光さんのことがでています。
 Can we find joy in spite of suffering and death?
This is a question his father asks in his books.
Hikari gives us an answer.
英語の苦手な我が子には、ちょっと難しいようですが、中学生で、大江さんに出会えるなんて、うらやましくなって、おもわず書き込みをさせていただきました。私は、浪人中の息子にすすめられて、数冊読んだだけの新米ファンです。だから、むずかしいことは、わかりませんが、でも、大江さんの作品やお話から、にじみ出てくる人柄は、大好きになりました。(息子は1年で、ほとんど読んだようです。そんなに好きなら、同じ大学受けてみたら、ということになり、まぐれ合格して、今通っています。)ちなみに、中3の子は、みなさんが今度、集まるところの学校なので、父母会には、いつも大江さんの本を、持っていきます。残念ながら、まだお会いしたことはありませんが、、、
みなさんのように真面目なファンでなくて、この掲示板の質を下げてしまったら、ごめんなさい。難しい理屈抜きで、大江さんを好きなファンがいても、いいですよね。もちろん、みなさんのように深く読めるようにもなりたいので、これからもよろしくお願いします。(パソコンも初心者なので、2度送ってしまいましたか? いとうさん、何か変だったら、申し訳ありません。いつも、この管理大変だろうし、すごいなーと思っています。ありがとうございます)
1999/12/5, へべれけ
こんにちは。
何かをネタに語り合うことを主旨とする掲示板では、発言者が自己完結的なことを書いてオシマイといった種類の書き込みがよくあるので、それを曲がりなりにもまとめている、という意味でいとうさんは大変だなあ、と思ったのです。
ちなみに、ぼくが惹きつけられたもうひとりの作家は村上春樹です。あまり奨めるつもりはないですが、「1973年のピンボール」なんていうタイトルの作品を書いていることからも、村上春樹も何か意識しているのかもしれません。
ちえさん。ぼくが最初に感動した大江作品は、「芽むしり仔撃ち」なので、ぼくにとってもとても思いれがあります。広い意味では、恐らく「芽むしり仔撃ち」は「中心/周縁」の構造に沿っていると思います。しかし(前にも書きましたが)、弱者を書けばそれで周縁というのも安易で、ありふれているような気がします。本当に、そんなに単純なものでしょうか?尤も、ぼく自身もこれに対する確固たる答えなんて持ち合わせていませんが・・・。
一文字弥太郎さんの書き込みに対して、賛成なり反対なりをするのは、あまりぼくの好みではないです。なぜならあの書き込みはあまりに抽象的で、どのような意味にも取れてしまうから。だからあれは、「このホーム・ページは、おれは意味があると思う」とか「いやおれにとっては浅薄だ」、程度の個人の感想にしか発展し得ない書き込みのように思えるのです。
ぼく自身の理想とするホーム・ページ像とここは、幾つかの点で明らかに相違しています。でも、それを(現段階では続きを書いていない)一文字さんの意見として(或いはそれに触発されたものとして)書き込むつもりは、全くありませんが。
尤も、ぼくはこのホーム・ページを新鮮に読んでいます。でももちろん、他の全ての人がぼくと同じ感想を得るはずがないのですが。
1999/12/4, いとうくにお
マーフィーさん、こんにちは。マーフィーさんは「掲示板を見ていて、皆さん結構理論的に大江作品を解釈していると思う」とおっしゃっているので、批判されているのはこの掲示板全体ではなく、文学に接するのに深い洞察がなくてもよいのだとしている僕ですね。ですから他の方は批判対象ではありませんので、その点、ご了解願います。
で、僕の態度を悪しき民主主義とか大衆主義と言われれば、そうかもしれないという気はします(丸山もソンタグも読んでないんですけども)。さらに、僕は大江さんにとって悪しき読者かもしれません。そういうことは僕としては認めてもかまわないです。
ただ、「それがどうかしましたか?」と僕としては言いたいです。人は面白いから小説を読むのだろうし、面白ければそれを人と話し合いたいと思うこともあるでしょう。「文学作品は徹底的に理論的に読まねばならない」ということなら僕は小説は読まないし、感動してもそれを語ることなく黙り込んでしまうしかありません。僕はそうしなければならないとは思いません。
あと、大江文学とモーニング娘を同列に扱うことが「日本のナショナリズムと見事に合致する」というのは、ちょっと飛躍がすぎませんか? まさか僕が西村某の自由党に思想的に近い、という意味ではありませんよね。できればもう少し解説していただけると助かります。
1999/12/4, 武奈彦
ちえさん、僕も「芽むしり仔撃ち」は大好きな作品の一つです。でもそれ以上に僕は個人的な体験初版本が羨ましい! これを読んだのが、書いた時の大江さんや書かれた鳥とほぼ同年齢の時で自分の将来のこともモヤモヤしていてしかも子どもがうまれたばかりで毎日睡眠不足と闘っていた時期だったから余計に感情移入してしまったのかもしれませんが、読んでいる間中バアンバアンと殴られつづけているような感覚でした。
 ところで、日付の話は、僕も半信半疑なのですが、つい面白半分で「全単行本発行日付リスト」<http://matsuyama.cool.ne.jp/hira137/oelist.html>をつくってしまいました。まだ未完成です(完成すればどうかなるというものでもないのですが)。ちょっと覗いてみてください。そして、みなさんのご協力をいただけると、僕はうれしいです!
1999/12/4, ミロ
皆様 お久しぶりです。
いとうさん、トップページなかなかお洒落ですね。お正月には本が『新年の挨拶』になるのかな。。。
さて、最近私は大江さんの本と同時に彼が感銘を受けた本をちらちら読んでいます。
『ハックルベリー・フィンの冒険』『ニルスの不思議な旅』やヘミングウェイ等それから ずーーーっと昔に読んだ『イワン・デニーソヴィチの一日』『ドフトエフスキイの生活』などです。
大江さんのおっしゃるとおり、『トム・ソーヤ』より『ハック』の方が面白かったです。(もっともお子さま版で読んだので、ニュアンスが大分違うような気がするんですけどね)
1999/12/4, マーフィー
こんちには!
遅れ馳せながら、一文字さんの問題提起に意見を述べさしてもらいます。
簡単にいって、一文字さんに賛成です。ただ、感想を述べるだけ、どこが良いあそこが良いと言い合うだけでもよいじゃないかと、深い洞察が無くても良いじゃないかと。そういう意見こそ、大江さんが世の批評家連を痛烈に批判した「小説の方法」に出てくる「印象批評」ではないでしょうか。さらに、「あいまいな日本の私」ということにもなりましょう。と言って、一般の読者に批判が向けられていなかったかと言えば、そうでもない気がします。「キルプの軍団」では日常生活でのオーチャンとの会話でもその種の「あいまい」に対して、厳しいです。「感じじゃなく、もっと詳しく説明してくれ」ということを書いてます。(今、手元にないのではっきりと引用できないですが・・・)
そして、様々な意匠を盛り込んで文学を解釈する態度を「ボクチャンカシコイゴッコ」と呼んでいた人がいましたが、さらにそれをあたかも表面上は肯定する態度も見せていました。それこそがまさに「あいまいな日本の私」なのではないでしょうか。さらに、いとうさんは「モーニング娘。」と大江作品を同列に置く意見を述べられていました。それに対するレスとして、「モーニング娘。」を差別しているのではないかと言う意見も。そういうサブカルチャーから離れることを妙に恐れる態度は、民主主義ならぬ悪しき民主主義(丸山真男)、大衆主義(ソンタグ)ということになるのではないですか。
「ボクチャンカシコイゴッコ」発言や「モーニング娘。」との同等視は、日本のナショナリズムと見事に合致すると思います。今、西村発言が公然と世に認められ(あの人ははっきり物を言ってくれた、そういうことを考える意味で良いことを発言してくれたなど)、まかるとおる時代に合って、大江さんの「小説の経験」での解説で加賀乙彦さんがこう書いていたことを思い出しました。
「大江は、閉塞した日本の状況にあって、亡命者のようだ」と。まさにこの状況下で、ベルリンに発ち、ラシュディと会っているなんて、亡命者そのもの!
文学作品は徹底的に理論的に読まねばならないと思います。そういう意味で、凡百の批評家の真似にならざるを得ないと思います。しかし、そういう真似を恐れ、感想を言い合うのは、ありふれた文学理論の一つのジャンルであることを忘れてはいけません。
でも、思ったのですが、掲示板を見ていて、皆さん結構理論的に大江作品を解釈していると思うんですが・・・・・・。きっと、一文字さんは読んでなかったんでしょう。そういう僕も最初に見たときは、難しい言葉があったりして、気後れしましたし・・・・・。
では!
1999/12/4, たなか
みなさんの「周縁と中心」のお話, うなずきながら読んでいます. 「静かな生活」はビデオでしか見たことがないのですが, 映画が終わった後に「O M A K E」というタイトルが出て, 大江さん父子 (たぶん健三郎さんと光さんの二人だけ) が撮影所を訪れた模様が収録されていたと思います.
ところで『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の「父よ, あなたはどこへ行くのか?」を読んでいます. 季節がらということもありますが, やはり排骨湯麺は美味しそうに見えますねえ. そういえば, 僕はいま「肥った男」と同じくらいの年齢なのでした.
話はとんでしまいますが, 『宙返り』をお読みになったみなさん (特に女性) は, 小説の中に出てくる「タカラ椅子」とはどんなものかわかりましたか? 理髪店で使われている機械仕掛けの椅子のことなのですが.
1999/12/4, いとうくにお
ちえさん、なにも気にすることはありませんよ。トップページの画像は、昨日、急に思い立って変えてみました。ちょっと新鮮な気分。
かおりさん、はじめまして。そうか「静かな生活」のビデオ版は、そういうシーンなども収録されているんですね。僕は映画館で見たので、知りませんでした。
1999/12/4, ちえ
たびたびですが。
トップページの”題字”、ですか、いつからこうでしたっけ?
びっくりしました。
赤い文字がまぶしいですね。
1999/12/3, ちえ
いとうさん!!ごめんなさい!!!
とても失礼なことを書いてしまいました。
どうかお気を悪くなさらないで!!
わたしは、初期から順に読んでいて、(『同時代ゲーム』でつまづき)近年の作品を読めていないので、あまりみなさんのお話についていけないのがさびしかったのです。
肝心なことを見落としていました。感じ方っていうのは人それぞれ。わたしが面白くても、誰かは面白いとは思わないかもしれませんものね。
ただ、わたしは『芽むしり仔撃ち』を読んだ時、喜びにちかい感情を抱きました。それで、それを他の人とも共有したいと思っていて・・・。
とにかく、大変失礼をいたしました。
ものすごくジャンプして『宙返り』を読んでいます。文体は初期の作品と比べて読みやすいように感じますが、その分(またはそれ以上に)ふかーく考えさせられますね。読みながら悩み考えてしまうので、なかなか先へ進めません。
1999/12/3, かおり
 みなさん初めまして。
 私が大江文学と出会ったのは17歳の時でした。
 私は伊丹監督の映画が大好きで、「静かな生活」を観た時、どうしても本が読んでみたくなり本屋さんに買いに行ったのがきっかけで大江文学が好きになりました。
 大江健三郎と名前だけ聞くと実に難しい話できっと読んでも解らないと言う印象がありましたが、読んでみると私にもちゃんと理解できるし使われている言葉のきれいさに感動したりしました。
 昨日図書館にいって「僕が本当に若かった頃」を借りてきて今読んでいます。
 「静かな生活」のビデオの最後に大江光さんが撮影所を訪れたときの様子が映っていますが、それを観たときになぜか号泣してしまったのを今でも覚えています。
 映画も本も私にとっては宝物なのでこれからも大切にしていこうと思います。
 このHPに出会えて良かったと思います。
 初めて大江文学にふれたときのことを思い出すことが出来ました。
 いとうくにおさんこれからもこのHP、ずっと続けてください。
1999/12/2, いとうくにお
ちえさん、たしかに僕の『芽むしり仔撃ち』紹介はめちゃくちゃアッサリしてますねえ。ちえさんに指摘されて紹介文を読み返しましたが、自分でも苦笑してしまいました。僕はどちらかというと中期以降の作品のほうが気分が盛り上がるようです。読み始めたのが30過ぎてからですから、主人公が大人の小説のほうが入りやすいということもあるかもしれません。
「SFの黄金時代はいつか?」「1950年代だ」「60年代じゃないか?」「いや、14歳のころだ」というような小話みたいものが、SFファンの間では知られています。つまりSFに熱狂できる・しやすい年頃というのがあるんですね。それと同じで、大江文学でも、例えば『芽むしり仔撃ち』に感応しやすい年齢というのがあるのかもしれません。むろん感応力のある人にとっては年齢など関係ないに違いありませんけど。
1999/12/2, ちえ
いとうさん、みなさん、こんにちは。
武奈彦さん、そうなんですか。初版の日付けには何か意味があるかもしれないのですね?
わたしの持っている初版本をさっそく調べてみたところ、『芽むしり仔撃ち』昭和33年6月25日(講談社版)、『個人的な体験』昭和39年8月25日(新潮社版)となっていますが。いったい「何かの日」なのでしょうね?
ちなみに、どちらも古本屋さんで手に入れたもので、『芽むしり仔撃ち』は8000円、『個人的な体験』は2000円でした。この値段、みなさんはどう思われますか?買ったのは学生の時でした。2000円はともかくとして、『芽むしり仔撃ち』の8000円は「高いなぁ」と思いつつ、どーしても欲しくてしかたなくて買ってしまいました。しかし、すでに文庫で読んでいる作品で、内容は同じ、ただの所有欲でしかありません。浪費癖のあるわたしはこの本を買ったこと、本の値段を、はずかしくて家族には言えませんでした。(また無駄遣いして!と怒られそうですし。)
でも、うれしくて仕方ないので、読書傾向がよく似た友人には、この本を手に入れたことを打ち明けました。「でも高いよね?」とわたしが言うと、友人は「君にとってはそれだけの価値のあるものなんでしょ?他の人にとっては高い買い物かもしれないけど。僕は高いとは思わない。もっと高いものだと思ってたし。」という答えが返って来ました。・・・良い友達を持ったなぁ、と思いました。(彼が郷里に帰ってしまった今では、すっかり音沙汰なしなのですが。)
それで自信をつけて、母にも打ち明けたところ、思いがけず母も喜んでくれたのでした。滅多に手に入るものじゃないのでしょう?と。
そうなのでしょうか?卒業以来古本屋さんにも行っていないので、どの程度の頻度でどの作品が出回っているのか、さっぱりつかめませんが。もっと単行本を集めようと思っていたのですが、ちっとも増えていません。それにどうせなら初版本が欲しいですし。
もうひとつ、ちなみに『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』どちらも箱つきです。
長くなりますが、「周縁と中心」について、みなさんいろいろとお考えのようですね。わたしは「読むだけ。むづかしい話はパス。」と思っていたのですが、『芽むしり仔撃ち』のなかでも「周縁と中心」の縮図(?)のようなものがみられるなぁと思い出しました。「僕ら」が閉じ込められてしまう「村」がここでは「中心」、「僕ら」が「周縁」になるのではないでしょうか?
「僕ら」は「村から村への移動のあいだ(略)自分たちがきわめて広大な壁にかこまれていることを知らされ」自分たちを「皮膚と肉にささったトゲのようなもの」としています。この「皮膚と肉にささったトゲ」という表現がとても印象的だったのですが、「中心」である「村」、そこに入り込めない「周縁」である「僕ら」、というように見えませんか?
本来なら、実存主義と照らし合わせて語られるべき作品なのでしょうが、ちょうど「周縁と中心」のお話の中で思い出したのもですから。例えば、戦時中とはいえ何の影響も受けていないようである、(そこだけ独立しているようにも見える)村と、村の大人たち。対して、何らかの問題を背負っている感化院の少年たち、また、朝鮮人部落の少年、疎開してきた少女、脱走兵。村と大人たちが「中心」であるのに対して彼らは「周縁」、または「差別」「被差別」の構図が見えるように思います。というよりむしろ、このような構図が端的にあらわれている作品のようにも思えるのですが。
掲示板をさかのぼって読んでいるのですが、『芽むしり仔撃ち』を好きな人はたくさんいるのですね。うれしいです。
いとうさん、もう読まれましたか?
作品紹介の項目で、何だか「うすい」のですが・・・。
最近の作品から読みはじめられると、初期の作品が読みづらいのでしょうか。
まだお読みになっておられない方がいらっしゃったら、ぜひ読んでいただきたいです。とーっても、面白いですから。
わたしも『宙返り』がんばります。
1999/12/2, 武奈彦
僕が持ってる大江さんの一番古い本は「孤独な青年の休暇」新潮社版1960年5月5日子どもの日初版発行で290円でした。一説によると、大江さんは初版の日付に凝るたちで何かの思い入れを込めるとか。同時代ゲームの初版の日付は11月25日で、これは三島由紀夫が市ヶ谷で自決した日だって誰かが書いていました。ううむ、こんどの休みの日に、他の単行本も初版の日付を調べてみようかなぁ……。
1999/12/2, いとうくにお
へべれけさん、はじめまして。投稿ありがとうございます。僕も、「燃え上がる緑の木」第二部の途中です。すでに「宙返り」は読みましたが、確かに先に「燃え上がる緑の木」を読んでおいたほうが、「宙返り」はよりよく楽しめるだろうなと、いまは思います。
ところで、べべれけさんが惹きつけられたもう一人の作家はどなたでしょうか。よろしければお教えください。僕は前にも書きましたが、沢木耕太郎、関川夏央が好きなんです。あと、20代のころは開高健でした。
掲示板の維持は、それほど大変ではないですよ。皆さんからの投稿は、メールとして僕のところへ届きます。それをコピーして、PageMillというソフトで掲示板に貼り付けるだけですから。気が向いたときにやっています。いただいた投稿を読んだり、自分も投稿したりというのは、自分の中では大仰にいえば「魂のことをする」時間でありますね。
1999/12/2, へべれけ
はじめまして。随分前から、頻繁に訪れてはいたのですが、ようやく書き込んでみようと思いました。
「宙返り」はまだ読んでいないです。「燃え上がる緑の木」を先に読んでおきたいと思って、いま第二部の途中です。ともかく大江健三郎ほどぼくを惹きつけた作家は、彼以外にはひとりしかいないので・・・・。
山口昌男をこれまで読んだことがないため、詳しくは分からないのですが、「周縁と中心」ということについては、例えば柳田國男が特に前期の著作で意識的に述べています。岩波文庫の「海上の道」の解説を書いていることからも、恐らく大江健三郎は柳田の書物を良く読んでいるはずです。
それに、民俗学に限らずとも、夏目漱石も日本の位置づけを周縁と考えるような意味の発言を作中人物にさせていましす、さらにさかのぼれば平安文学では「中国=中心、日本=周縁」という構図が当然のように扱われています。
従って、山口昌男の言う、或いは大江健三郎の言う「中心/周縁」というものは恐らく、「中心=欧米」、「周縁=日本」といった単純な分類ではないんじゃないだろうかと思います。
というようなことを考えました。
一年近く、ここを訪れていて思ったのは、この掲示板の維持するいとうさんは大変だろうな、ということです。
最後に、少し前の一文字弥太郎さんに対して、ぼくはとても彼自身の次の発言を期待しているのです。
1999/12/1, いとうくにお
講談社文芸文庫の値段、11年で2倍弱とは…。たまごや牛乳を見習ってほしいところです。とはいっても、絶版よりははるかにマシなわけですが。
「中心と周縁」の話、勉強になります。「方法論におさまらない過剰な部分」(むらかみさん)、「文学理論みたいなものに基づく解読(あるいは解読ごっこ)では遂にすくいとれないような「なにか」」(武奈彦さん)、これも興味深い問題ですね。そもそも小説って、理論が先にあって出来上がるものではなくて、ホラ話で人を喜ばせたいみたいな、そういう情動から生まれてきたものだと思うのですけども、大江さんの小説を読んでいると、書き手の物語ることの喜びが感じられるような気がします。たとえて言うと、どんなに歌のトレーニングが大変でも、やはり歌手は歌っているときには歌うことの喜びを感じるんだろうと。それは原始的というかほとんど生理的レベルの喜びだと思いますが、それだけに長年小説を書きつづけている大江さんにおいてもいまなお存在する喜びではないかと。それが聞き手(読み手)にも伝わるということがあって、それもまた小説の魅力になっているのではないか。そんなふうに思いました。
1999/12/1, 武奈彦
こんにちは。僕の万延元年文芸文庫版(1988第1刷)は800円(本体777円)でした。11年で2倍弱。文芸文庫は、「良書を絶版にせず長く供給するために」高いのだ、というような弁明(?)を聞いた覚えがありますが。
 たなかさんの文章に誘われて、本棚から「小説の方法」を引っぱり出してきて、ぱらぱら眺めていました。初版は78年。ピンチランナー調書と同時代ゲームの中間の時期です(僕的には、中期の終わりぎわ)。
 93年のライブラリー版で加えられた「どう書くか・なにを書くか」と題された後書きを読むと、それまで数年がかりで書いてきた「同時代ゲーム」の執筆を一時タナ上げしてまでも、小説を書くための方法論を自分自身のためにおさらいしなければならない必然性があったというようなことが述べられています。
 むらかみさんがおっしゃる通り、「周縁と中心」ということは、大江さんの後期小説群に「文化人類学者のYさん」として示唆されている山口昌男さんが、70年代に言い出したことではないかと思います。社会とか文化を2項対立的に捉える、いわゆる構造主義の立場のキーワードであると思います。一般的には、山口さんは、文化には中心(上位)−周縁(下位)という(2項対立的な)構造があり、文化の大きな変動があるのは周縁と中心の逆転が起こるときだ、というような「理論」を提唱したことになっていると思います(たぶん)。でも、驚異的博覧強記の山口さんが言っていること自体、「周縁と中心」という語呂の良いキーワードとはうらはらに、単純な2項対立の図式には到底収まりきらない豊かな世界を捉えているなぁと思ったことを覚えています。
 「同時代ゲーム」(や、その著者解読版(?)である「M/Tと森のフシギの物語」)は、構造主義やあるいは記号論の影響が強く現れている小説だと思います。ヨーロッパ(中心)に対する日本(周縁)、さらにその日本のなかでの天皇制文化(周縁の中心)に対する四国の森の村(周縁の周縁)。二重戸籍の仕掛けに双子の天体力学者。「理に落ちすぎている」とか「アタマで書いている」とか批判も受けたようですが、僕にとって面白いのは、そういう仕掛けがこそこそ隠れて使われているわけではなくて、いきなり1ページ目からネタバラシされていること。なんたって、「創造主」がでてくるキリスト教神話や、やまとの「くに造り」神話に対して、我らが周縁の神話の主人公は<太字>壊す人</太字>ですからねぇ! この小説はそのような対立構造を前提として(つまりそれをこの「ゲーム」のルールとして)読んでねって小説自体に指定されているわけです。(そういえば司修装幀堅牢箱入り豪華製本同時代ゲームは1900円でした。びんぼーがくせーには高かった。)
 「同時代ゲーム」のような小説では、小説の分析というか、記号を読み解くというような「遊び」はマニアにはなかなか楽しいものでして、僕もだいぶ遊びました。大江さんののちの小説でも、同時代ゲームを記号論的に解読するために日本に来たドイツ人(?)留学生とかが登場しますよね。
 ただし、この関係の話で一番だいじなポイントだと僕が秘かに信じていること、それは−−−むらかみさんのおっしゃることとも重なるのですが−−−、「周縁と中心」とか「トリックスター」とか「異化」とかいうようなキーワードで表されることは、大江さんにとっては、小説の「内容」ではなく「方法」に属することがららしいということです。2項対立的に見える設定や、いかにも「記号論的」な登場人物が現れてきても、それは、ゼロから歩きだした作家が小説を書き進んでいくために用いた杖や地形図のようなもの、(業務上の)仕掛けにすぎないということです。(それに、一度走り出してしまうと地形図なんか放り出してしまうということもまたよくあるわけで……)。
 では「小説の内容」とはなにかっていうと、うまく言い表せないのですが、大江さんの小説にかぎらず、文学理論みたいなものに基づく解読(あるいは解読ごっこ)では遂にすくいとれないような「なにか」、どうにも言葉であらわされないような「なにか」が、最後の1ページになってにわかに立ち現れてくる(言葉をうしなってしまう一瞬!)−−−そういうところが「小説」の面白いところなんじゃないかなぁ〜。
(ついながくなってしまいました。ログを増やしてもうしわけありません、いとうさん。)
1999/12/1, いとうくにお
ひろこさん、はじめまして。「健三郎さん」という言い方、新鮮ですね。「響き合う父と子」は録画したものがあります。このサイトを見た群馬県のファンの方が送ってくださったもので、たなか&ミロさんのところで開いたオフ会では上映もさせてもらいました。「ノーベル賞の旅」、光さんと出演した「題名のない音楽会」や「NHKスタジオパーク」などのビデオもありますので、希望者に回覧しましょうか。ここで発言する人の範囲での回覧ならば、著作権法の許す範囲だと思いますし。
1999/12/1, ひろこ
はじめまして まだパソコンを買ったばかりなのですが真っ先に調べたのは大江健三郎関連のサイトです。なんか健三郎さんFANにいぱい出会えてすごくうれしい。私はまで作品は、たくさんは読んでいませんが、3冊目に読んだ「死者の奢り」で一気にはまり「快復する家族」で離れられなくなりました。
響き合う父と子という番組を見てみたいのですが、ビデオって手に入るのかなあ。あと光さんの通っている作業所を知りたい。そしてボランティアとして潜り込み、仲良くなりたいな。障害者に対する偏見を捨てる事が出来たのも健三郎さんのおかげです。
私は彼の作品を読むたび「この作品に出会えて良かった」と感謝の気持ちでいっぱいになります。
1999/12/1, むらかみ
 「中心と周縁」に関連していうと、日本でこのことばを有名にしたのは、やはり山口昌男でしょうか。この対立図式によって山口氏が何を主張しようとしていたのか、半ば忘れてしまい、「中心と周縁」についてはたなかさんと同様の了解の仕方なのですが、こうした図式はすでに『万延元年のフットボール』にみてとれるのかと思います。そしてさらに、この作品には、「スーパー・マーケットの天皇」みたいな、「中心と周縁」の図式には落ち着かない存在もあったりして、つまりは、大江氏の作品は山口理論を反映しているというよりも、それを先取りしている側面があるのでは、という感じがします。これについては、柄谷行人が、「大江氏は、すでに山口理論の可能性の中心を射抜いているのに、自分ではあとからそれを山口氏から学んで影響を受けたと誤解してるんじゃないの」というような話をしていた記憶があります。
 さらに、方法論と作品でいうと、大江氏がいろいろ小説の理論について書いているのを読んで、ぼくもなるほどなあと思うのですが、一方で、大江さんがこうした理論を丁寧に応用して小説を書いているかというとそうでもない気がします。むしろ、方法論におさまらない過剰な部分が小説の魅力になっているようにも思います。もちろん、大江氏に影響を与えた文学理論を知らないと、それを超えていく小説の豊かさを認識できるっていうこともないでしょうから、ぼくも「キーワードと解説」みたいなのがあればいいなあ、と思う一人ではありますが。
 講談社文芸文庫は確かに高いですけど、あのシブいラインナップをみると、このぐらい金をとらないと、赤字になっちゃうのかなあ、と同情する気持ちも少しあります。別に講談社の回し者ではないのですけどね(笑)。
1999/12/1, いとうくにお
ファイルが大きくなってきたので、また掲示板を分割しました。なぜ分割するかというと、ファイルが大きくなると(100キロバイトを超えると)、新しい発言を追加するのにすごく時間がかかってしまうからなのです。これは、使っているソフトの性質と、使っているマシンの元々の遅さによるものでして、ご了解のほどを。
1999/11/30, たなか
みなさんこんにちは。  大江さんは、実存主義や構造主義といった哲学、『ハックルベリー・フィンの冒険』『ニルスの不思議な旅』から始まる読書、ロシア・フォルマリズムの文学理論、あるいは武満徹の音楽、さらには磯崎新の建築など、さまざまなものから影響を受けて独自の世界を築いてこられた人だと思います。それらすべてをたどっていくには、人の一生はあまりにも短いような気がします。僕は雑誌『國文学』などに掲載された解説や『私という小説家の作り方』など大江さん自身の著書、その他の貧困な読書を手がかりに考えてここに投稿したりしています。ちえさんご提案の「キーワードと解説」は、できるといいですね。
 ところで昨日(11月29日)の僕が投稿した「周縁と中心」に関する文章の中で「大都会と山奥の森」と書いてしまいましたが、これは順序が逆でした。正しくは「山奥の森と大都会」ですね。
 それから、講談社文芸文庫の『万延元年のフットボール』1500円を高いと言ったのはミロさんだったような…。あまり家庭の秘密を暴露するのはよくないかもしれませんが(笑)、彼女はいま『ピンチランナー調書』を読んでいます。
1999/11/30, ちえ
講談社文芸文庫が高い、というお話に続けて。
わたしの持っている『万延元年のフットボール』は1300円です。ちなみに1994年10月31日第九刷発行となっています。それにしてもこの文芸文庫は高いですよね。学生泣かせの文庫でした。現在印刷関係の会社に勤めているのですが、これは見るからに高いのです。なにしろカバーは箔押しした上に、表面加工してあるようです。
つまり豪華にできているわけですが、でもいとうさんがおっしゃるように、中身もそれなりの充実度をもっていると思います。それに、「これは押さえておかなくては」という作品が、文芸文庫なんですよね。
たしか「静かな生活」も文芸文庫でしたよね?わたしは、どうもあの本をなくしてしまったようで、もう一冊買わなければならないかなぁ、と悲しく悩んでいるところです。

ところで、一方で「思想」についての話が展開されていますね。わたしは大江さんの初期の作品が好きで、それにはサルトルなんでしょうけれども、未だ手をだせずにいます。たなかさんやnatsuさんの書き込みを読んで、「うーん、なるほど。」と、感心しつつ学ばせていただいております。この場をお借りしてお礼申し上げます。
願わくば、さらに、わかりやすく話が展開されていかれると、ありがたいのですが。「周縁と中心」のお話も、どなたかに解説していただきたいですし。大変興味深いです。
いづれこの話題が発展していくようでしたら、大江さんが影響を受けた思想、その遍歴をまとめた項目が、できるといいですね。「キーワードと解説」とか。むづかしいですかね?
1999/11/30, いとうくにお
やどんさん、宙返り読了おめでとうございます。木津先生の言葉、トップページで引用しちゃっていたので劇的効果が薄れてしまったようですね。ごめんなさい。今後は引用個所を選ぶときに注意しようと思います。ところで、『万延』、ブックオフで100円ですか! 安いですねえ。
1999/11/30, やどん
ずいぶん時間がかかりましたが、先日やっと「宙返り」読み終わりました。
木津先生の最後の言葉は、知らないままで読みたかったなあ。
とても感動したのか、、、ううー、また読み返して考えよう。
でも、その前に「万延元年のフットボール」を初めて読んでみようとおもいます。
講談社文庫のをBOOK OFFで100円で買って来たところです。
なんだか、「宙返り」は読んでいる途中に東海村の原発事故や、ライフスペースの事件があって、この本の人たちや大江さんはどう考えるのかな、とかおもいながらの日々でした。
1999/11/29, いとうくにお
今日の朝日の夕刊を読んでいたら文芸評論家の小田切秀雄の「私空間」というコラムにこんな文章がありました。「昨年暮れに、古林尚という孤独な老学者が、蔵書に囲まれた小さな部屋で、ひっそりと病没していた」これを見てオヤっと思い、講談社文芸文庫版『万延元年のフットボール』1500円をあらためて開いてみたら、やはりそうだった。前の投稿で紹介した「作家案内」を書いたのがこの人でした。文庫のほうでは「古林尚・文芸文庫の会」という署名だったので、アマチュアの文芸愛好家なのかなあと思っていたのですが、小田切氏によると『戦後派作家は語る』というインタビュー集を出したり『こぐま星座』の訳出、高校や大学の講師などをされていた方のようです。いや、だからどうということではないのですが、偶然にも一日のうちに二度、この人の名前に触れたということで、奇妙な感慨を覚えたもので。
1999/11/29, いとうくにお
僕も「周縁と中心」の話、聞いてみたいですね。
講談社文芸文庫版『万延元年のフットボール』1500円は高いぜ、の話の続きですが、中を見てみたら、割高感がちょっと緩和されました。というのも、大江さん自身によるあとがき+加藤典洋氏の解説、「作家案内」と題されたかなり詳しい生い立ちや作家としての軌跡をたどった文章、著書目録と、後ろにいっぱいおまけが付いているからです。なかでも「作家案内」は、写真が数点入っていて、これがなかなかいい。赤ん坊のころに母親や兄弟とともに撮影した写真や、4、5歳ころのかわいらしい光さんと写っている写真など、初めてみました。大江さんの他の講談社文芸文庫の本もチェックしてみると、だいたい何かしら写真が入っていました。高い値段をつける以上、これくらいはやらないとなあ、と編集者も思っているのかもしれませんね。
1999/11/29, たなか
みなさんこんにちは.  「アンガージュマン」の話で盛り上がってきたのでそれは続けるとして, キーワードを付け加えてみたいと思います. それは「周縁と中心」という, 構造主義の用語なのだそうです. 僕は, 実存主義についてはサルトルを少しかじりましたが, 構造主義については右も左もわからないので, 詳しい方がいらっしゃったら解説をお願いしたいと思っているのですが...
 僕の印象では, 大江さんは「周縁と中心」という言葉を「小国と大国」「弱者と強者」「障害者と健常者」「大都会と山奥の森」などのような意味で使っていられるようです. そして「周縁」に目を向けることが大切だと主張されていて, その思想は『同時代ゲーム』以降の作品に反映されているのではないかと思います.
 そのようになってから大江さんはサルトルの実存主義から少し遠のき, 構造主義の影響を強く受けるようになったように見えます. それが端的にあらわれているのは『小説の方法』のVIII章「周縁へ, 周縁から」ではないかと思います.
 このような思想遍歴を丹念に調査して考察をくわえれば卒業論文や修士論文なども書けるかもしれませんね.
 ところで「アンガージュマン」について, 広い意味で政治的だという点でむらかみさんと同意見です. 分筆活動の中でもそうだし, しばしば外へ出て行動を続けていられます. また朝日新聞夕刊にときどき掲載される往復書簡は, 「世界に向かって回路をひらく」ための活動の一環のようにも見えます. 最近のテツオ・ナジタ氏への書簡では, 江藤淳が比較的のびのびした国際派から, アメリカ留学で外国人とのうまくコミュニケーションがうまくできない経験して思想的に変貌したこと, また「自由主義史観」によって歴史教科書を書き換えようとする運動の中心人物である東大教授もまた同様な経験をしていることが述べられています. 大江さんはおそらく, 生きている間じゅう政治的な人なのではないか, さらにまた, もしも実存主義との出会うことがなかったとしても政治的な人になっていたのではないかという気もします.
1999/11/29, いとうくにお
ゆめさん、はじめまして。僕は十代で大江健三郎を読むという体験は、教科書でちょろっと読んだ程度、実質的にはゼロなものですから、ゆめさんが大江健三郎を読み進んでいる様子をうらやましく思います。よかったらまた感想など聞かせてください。本代を安く上げるには図書館が一番ですが、借りた本だと気になる個所に折り目を入れたり傍線を引いたりということもできませんし、やはり好きな作家の本は所有したいし、買いたいものですね。僕が大好きな『万延元年のフットボール』は、図書館で借りて読んだのですが、もっておきたいと思って先日文庫版を買ったのでした。しかし文庫のクセして1500円もするんですよ。どなたかも言ってましたが、いまは文庫も高いですねえ。僕は文庫というと300円くらいという感覚があるんですが、だいぶ時代とズレがあるようです。
1999/11/28, ゆめ
 はじめまして。僕は浪人時代に初めて大江健三郎の著書に触れました。その時の印象が、非常に表現が晦渋であり難解、とっつきにくい、というものでした。読み終えるのに随分時間がかかりました。それからというもの、暫らく大江健三郎は敬遠していたのですが、大学に上がってから再び氏の作品を読む機会をもちました。
その時読んだのが『叫び声』だったのですが、これが機縁となって、僕は現在に至るまで大江健三郎を他のどの作家よりも読むようになったのです。とはいえ、やはり内容は難しく、読後も十分には理解できていないことが多多あります。それでも面白いし、とても示唆に富んだものとしてその恩恵に与っているという実感があるので、これからも勿論読み続けていくつもりです。
 氏の著書は現在まで十五冊ほど読みました。まだまだ足りないと自分でも思うのですが、別に焦って読んでも仕方がありません。僕が個人的に気に入っている作品は『個人的体験』と『遅れてきた青年』、それから『新しい人よ眼ざめよ』です。
『個人的体験』は最後に迎える鳥(バード)の決断、自らの運命を引きうけて生きようとする姿は感動的でした。『遅れてきた青年』は、作中でとても印象に残る文があって、僕はそういった個所に鉛筆で線を引いたり、或いは自分のメモ帳に抜粋したりするのですが、やはり同じようにして留めておこうと思ったのです。それは、意味としては「時として人は他人を傷つけることで自分の精神的な苦しみを癒そうとしたりするが、それはやってはいけないことである。そんな風に弱者を痛めつけて平気でいられるほど甘ったれてはいけない」という感じでした。ここは単純に実感として「本当にその通りだ」と感じたのです。また、氏は自らを「根無し草」と言い(今はこれについてどう考えているのかは知りませんが)、そのことを主題として小説を書くことに、自分の課題があるのだという風に『遅れてきた青年』の後書きに書いていました。僕にとって「根無し草」はキーワードであり、例えば芥川を思い浮かべるのです。
 『新しい人よ眼ざめよ』は、僕が初めて大江健三郎にとって、息子の光さんの存在が如何に大きなものであるかということを知った作品です。「イーヨー」の存在が、実際にあの作品では重要な意味を持っていたし、何故かその台詞に惹かれました。『ピンチランナー調書』でもやはり息子さんの存在に重きが置かれています。
僕はその作品を通して「この世界をどう生きるも自分次第」という認識を新たにさせてもらいました。読むのには大分苦労しましたが……。
 この次は『河馬に噛まれる』を読むつもりです。それから『性的人間』を読みます。いずれこの間、といっても大分経ちましたか、刊行された『宙返り』も読んでみたいと思っています。本は、なるべく古本で買うようにしています。
 僕は大学に在学中に大江健三郎の著書を大方読んでしまいたいと思っています。 因みにまだ一年生です。最後にどう結べばいいのか分かりませんが……(笑)とりあえずそんなところです。お邪魔しました。
1999/11/28, いとうくにお
たなかさんのアンガージュマンの話にnatsuさんやむらかみさんが反応されて、話が展開していくようす、楽しませてもらっています。それで、今日のむらかみさんの発言にはすごく納得がいきました。確かに大江さんは、その作家活動のいろいろな面で世の中と関わってきたし、現在もそれを続けていますね。むかしはデモに参加したり、ハンガーストライキもやったりしたそうですし、近いところではフランスの核実験に反対してましたね。沖縄ノート、ヒロシマ・ノートといった作品もストレートに政治的なものですし、『宙返り』にしてもオウム真理教の問題がテーマに組み込まれていたと思います。こうして大江さんの文学者としての活動を見ると、使命感のようなものが感じられます。それがサルトルの影響なのかどうかはわかりませんけど。
1999/11/28, むらかみ
 みなさん、こんにちは。
 「アンガージュマン」ということばは、かなり幅広い使い方があるようですけど、政治的な関与っていう意味合いがこのことばに込められているのでは、というのが、ぼくの抱いているイメージです。もちろん、政治といっても広義のもので、たとえば、「政治少年死す」みたいな作品を書くのもそうだし、柳美里裁判で陳述書を出すのもそうだし、あるいは、『宙返り』のような作品を書くっていうのも「アンガージュマン」なのでしょう。「政治と文学」というのは古いテーマですけど、大江氏は「文学至上主義」あるいは「芸術至上主義」からは、もっとも遠いところにいる作家だと思います。そういう意味で「魂のことをする」っていうのも、どこかに閉じこもって沈思黙考するだけっていうよりも、世俗的な含意、engager の要素を持ったものだろうと、ぼくは受け止めています。
 ところで、確か先週金曜の「東京新聞」だったかと思いますが、ベルリンに行った大江氏が、ギュンター・グラス氏、サルマン・ラシュディ氏との鼎談で、「戦後民主主義の価値を強調」みたいな記事が載っていました(うろ覚えですいません)。なんだかスゴい面子ですが、それにしても思うのは、日本のノーベル賞作家に、大江健三郎という作家がいてよかったということで、これが(大江氏とほとんど対極的ともいえる)川端康成だけだったら、外国人が日本文学に対して持つイメージが、また、別のものになっていただろうという気がします。別にノーベル賞を過大評価するつもりはないんですが、やっぱり、イメージの形成にはそれなりの役割はあると思いますので。
1999/11/28, たなか
natsuさん、みなさん、こんにちは。
 「参加『する』じゃなく、参加『させる』とすることに、何か意味があるのか」ということですが、この文脈では、ひとりの人間の行動は単にそのひと個人をアンガジェするだけでなく、人類全体をアンガジェするのだ、というような意味のことが書いてあります(前掲書、21ページあたり)。また、「実存主義が示そうと心がけているのは、自由なアンガジュマン−−このアンガジュマンによって各人は人間の一つの型を実現しつつ自分を実現して行く」(前掲書55ページ)などとも書かれています。
 ところで大江さんのサルトルへの接近のしかたは、大江さん自身がエッセイか講演で述べられていました。それによると、大江さんがカミュを研究しようと思っていることをフランス文学科の同級生(大江さんよりもフランス語が上手な人らしい)に話したところ、サルトルのほうが一生読み続けられるからいいぞ、と言われたのでそうされたとか。本当ともジョークとも考えられるのですが、言葉どおりに受け止めるとすれば、意外と重い意味はないのかも知れませんね。
 大江さんがどのようにサルトルの思想を受容し、やがて離れていったのかをたどってみるのも面白いかもしれませんね。その意味で大江さんの卒業論文を読んでみたいと思っています(これは活字になっていませんよね?)。また、例えば『個人的な体験』について、発表されたものとは異なる結末の私家版をつくったことをめぐって非難を受けていたときに、実存主義でもって対抗されていました(『群像』1965年3月号に掲載された江藤淳との対談など)が、その当時のことを、今の大江さんはどう考えていられるのか詳しく知りたいように思います。
1999/11/27, いとうくにお
「燃えあがる緑の木 第二部」の途中なんですが、沢木耕太郎の「テロルの決算」を読んでしまいました。浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件の犯人である山口二矢(おとや)少年を、大江健三郎は「政治少年死す」で小説の形で描いたわけですが、それと同じ題材を沢木耕太郎がノンフィクションとして描いた作品です。僕は沢木耕太郎の作品でつまらなかったものは一つも知らないのですが、これも例外ではありませんでした。しかも今回は一流の小説家と一流のノンフィクション作家の、視点とスタイルの違いを楽しむこともできたわけで、一粒で二度おいしかった…。などと軽口叩くのに相応しくない重たい内容だったんですけども。
「テロルの決算」は、正しくは山口二矢と浅沼稲次郎の二人の人生を描いたものです。作者のあとがきによれば「ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、六十一歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けてきた十七歳のテロリストと、激しく交錯する。その一瞬を描き切ることさえできれば、と私は思った」とのこと。「セブンティーン」「政治少年死す」には、テロリズムに対する大江さんの激しい怒りが投影されていると思うんですが、沢木さんは、山口や浅沼の内面に迫りつつも、基本的にはどちらにも感情移入せず、観察者の目で見ているように感じました。
山口二矢が右翼の中で神格化されている、ヒーロー視されているらしいというエピソードが出てきます。正直にいうと、読後の印象からすると、それもしかたがないかもしれないという気がしたのでした。しかし一方では、人の命を奪ったものがヒーロー視されてしまってはいけないのだということもまた、この作品から感じました。
ここまで書いていったんアップロードしたのですが、さらに付けたします。山口の行為は、その直後から右翼の間では賛美の対象となっていたということが本書では紹介されています。事件は十月十二日に起きてますが、大江さんが文学界に「セブンティーン」、「政治少年死す」を発表するのがその翌年の一月、二月号。まだ記憶が生々しかったはず。「テロルの決算」を通じて感じられる山口のある種の魅力、右翼による賛美、それとは正反対の大江作品での描写という条件を考え合わせると、当時出版社と大江さんに対する激烈な抗議があったであろうことが容易に想像できます。それが納得できたという意味でも「テロルの決算」を読んだ甲斐がありました。
1999/11/26, natsu
たなかさん、こんにちは。
さっそく、教えてくださって、ありがとうございました。哲学の言葉は、意味が、辞書的なふつうのものと違っていたり、哲学者によって、独特の意味をもっていたりするので、ちょっとむずかしいです。
大江さんが、サルトルに傾倒していた、というのは、大江さんのいくつかの文章で知っていました。でも、わたしは、大昔に、必要に迫られて『ボードレール』という一冊を読んだことがあるくらいで、サルトルって実存主義者だ、くらいの知識しかなくて。
なるほど、「人を自分のなかだけに閉じこもらず、社会に参加させる」というのは、「魂のことをする」ということに何か関係がありそうだ、と感じます。たとえば、教会は、外に向かって開かれた共同体だ、というようなときに。でも、(engagerの辞書的意味がそうであるように) 参加「する」じゃなく、参加「させる」とすることに、何か意味があるのかな?と思いました。
1999/11/26, いとうくにお
ちえさんからオフ会への参加申し込みをいただきました。これで参加者は、バーバラ、浜崎、たなか、ミロ、natsu、むらかみ、手児奈、ちえ、伊藤の9名です。
1999/11/25, たなか
natsuさんこんにちは。
 「アンガージュマン」については、僕が頭を使って下手な説明を考えるよりもサルトルの『実存主義とは何か』を参照するほうがよさそうだと思うので、参考になりそうなところを次に抜粋します。
> アンガジェ サルトルの論文にはしばしばこの言葉がでてくる。原語は engager という動詞で、これを名詞にするとアンガジュマン engagement となる。普通の辞書によると、アンガジェとは「(約束や義務によって人を)しばる」とか、「(人をあることに)参加させる」とかいう意味である。サルトルも、むろんアンガジェをこの意味に使ってはいるが、しかしとくに、人を自分のなかだけにとじこもらず、社会に参加させるという意味に使うことが多い。(伊吹武彦訳、人文書院、119ページにある訳注)
 というようなことで、高校の『倫理・社会』の教科書にも同じようなことが書かれていたように思います。大江さんがサルトルに傾倒していたのはもうすっかり過去のことです。しかし「アンガージュマン」という言葉で表現されていたこと(あるいはそれに近いこと)を、今もエッセイや往復書簡や講演などで主張していられると思います。小説にこれがどのように影響しているかは僕もうまく表現できないのですが。
1999/11/25, natsu
いとうさん、みなさま、こんにちは。
排骨湯麺とペプシコーラに誘われて、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を本棚から抜き出してきました。ページの縁が黄ばんだ骨董品みたいな新潮文庫は、昔の細かい文字がびっしりで、今や、これを読むには、わたしには老眼鏡が必至です。。。 たくさん時間が経ったのだなあ、と思い、<アグイー>じゃないけれど、「百米の高みの空を浮遊している」らしい、わたしから失われたものは、どれだけたくさんあるだろう、と思ったりするこのごろです。
さて、むらかみさんやたなかさんがおっしゃる「複雑さ」とか「引っかかり」ということに、(ちょっとまちがっていてズレているかもしれませんが)、わたしも同感です。
たとえば、わたしはよく、作品のなかの、「懐かしさ」「酷たらしさ」という言葉に、立ち止まります。見過ごしそうな瞬間の生の断面さえ「酷たらしい」と感じる感性と、その「酷たらしさ」をぐっと言葉にしていくときのその言葉の痛覚にかかる重力の感じ、そして、それと同じ場所から立ち上がってくるように思われる深い「懐かしさ」の感じが、双方、馴れあうわけでなく、かといって、相反するのでもなく、何重にも層を成し、入り組んで語られていくとき、作品の持つ「癒し」とか「励まし」ということは、たしかに「一筋縄ではいかない」と感じられます。そんな複雑さや引っかかりが、読んでいてとてもおもしろい、と思い、ひかれます。
ところで、「アンガージュマン」というのは、簡単にいうとどういうことなのでしょう? もしかしたら、わたしは、この言葉の一世風靡時代のしっぽくらいには生きていたかもしれないけれど、よく知らなくて、よかったら教えてください。 
1999/11/25, たなか
渡辺さんはじめまして。僕が今年7月31日にこの掲示板に初めて書き込みをしたのは、その話題についてでした。
『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』は、高校生の時に虫垂炎で入院したときに病院のベッドで読んで以来、初めて再読しているところです。
排骨湯麺については、イーヨーこと光さんがが大きくなった時に久しぶりに食べに行こうとする話があります。『小説のたくらみ、知の楽しみ』の15番目の話です。
1999/11/25, いとうくにお
渡辺さん、はじめまして。成城飯店は今度のオフ会の会場なんですよ。よかったらご参加ください。このサイトの最初のページにその案内があり、成城飯店の場所も書いてあります。ただし排骨湯麺はもうやっていないとのこと。しかし暖簾分けした七面鳥という店ではいまもやっているとのこと。その辺の事情は9月23日のバーバラさんのご投稿に書かれていますよ。蝋燭の比喩は、確かに印象的ですね。
1999/11/25, 渡辺
はじめまして、渡辺です。   
僕が昨日『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読み終えたこともあり気になったのですが、肥った男とその息子が食べている排骨湯麺は実在するのですか?成城飯店は成城学園前にあるのですか?あるのなら大体の店の位置も教えて下さい。このようなミーハー的投稿文になり、腹を立てるのかもしれない一部の人には申し訳ないのですが、僕は本当に知りたいのです。
もう一つ。『父よ、あなたはどこへ行くのか?』で肥った男の父が言っていたというある一言に強く共感した。“人間の生涯とは、暗闇からあらわれてしばらく蝋燭のまわりにあつまり、そして再びひとりずつ自分の暗闇のなかに消えてゆくようなものだ。”
1999/11/24, たなか
むらかみさん、みなさん、こんにちは。
 僕もサルトルを同時代的に読んでいたわけではないので、それが一世を風靡していた頃の状況はあまりよくわかりません。大江さんについて言えば、かつて小説の中でストレートにその言葉を使ってはいなかったかもしれませんが、「アンガージュマン」ということを強く意識していられたと思います。僕にはその「アンガージュマン」と最近の「魂のこと」とはかなり大きな共通点があるような気がするのですね。何が共通しているのかというと、まだよくわかりません。「アンガージュマンと呼ばれていたもの+信仰のあるなしにかかわらない祈り=魂のこと」としてしまうのは幼稚な図式化だとも思うのですが、ある面ではそういうこともあるのではないかと。
 それから大江さんは、「持続する志」を抱きながらもさまざまな点でトレンドに敏感な人だというようにも思います。『宙返り』においても、新興宗教という現存する社会問題をとりあげているし、登場人物は「パジェロ」に乗って「エビアン」(なぜか「エヴィアン」ではない)を飲むというように、今日的(?)なライフスタイルをとっていますね。それだけでなく、むらかみさんの言われるような複雑さ、引っかかりがあるという点については、僕もまったく同感です。
1999/11/24, いとうくにお
昔は、山口百恵論みたいなのもありましたね。読んだことはないですが。アイドルも含めた著名人についてのするどい論評ということでは、ナンシー関が不動の地位を築いているように思います。おっと、話がどんどん脱線していきそうだ。
浜崎さん、こんにちは。うーむ、この文脈で浜崎さんのお名前を出すと、歌手のほうを連想される方もいるかな。冗談はさておき、オフ会のほうは特に準備していただくことはないですよ。ただ、排骨湯麺とペプシコーラの話が出てくる「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」を読んでおくと、成城飯店に行くのがいっそう楽しみになるかもしれませんよ。
1999/11/24, むらかみ
 みなさん、こんにちは。
 一文字さんの書き込みをきっかけに、この掲示板があらぬ方向に向かわぬかとちょっとはらはらしながら見ていたのですが、その後の展開をみて、やはり大江読者はディーセントであるなあ(笑)とあらためて思った次第です。
 先に、たなかさんが「アンガージュマン」という、懐かしい響きのすることば(といっても、このことばが一世を風靡した時代を知ってるわけではないのですが)を使い、大江氏にその理念が脈々と行きつづけているのではないか、と整理されていて、ぼくもなるほどと思いました。
 一方で、大江氏の小説は、その「持続する志」を逸脱していく複雑さも備えていて、それもまたエッセイなどとは異なる魅力の一つになっているとも感じます。例えば、坪内祐三(『靖国』の著者)は、『懐かしい年への手紙』を例にひいて、大江氏は悪意を描いたとき、その作家としての腕が冴えわたる(「文学界」9月号)なんて言っていましたけれど、そういう、一筋縄では行かなさ、というか、引っかかりが、ぼくには無視できないところなんです。
 だから、大江氏の小説による「癒し」っていうのも、アロマテラピーみたいな癒しっていうより、薬にも毒にもなりうるような癒しなのかなあなどという気がします。なんともアンビギュアスな書き込みになってしまいましたが、これもまた大江氏の小説のあいまいさに由来しているところでありまして(笑)。
 ぜんぜんとりとめのない話ですが、「モーニング娘。」を「大江健三郎」を論評するように語ってしまうっていうのも、おもしろいかなあなどと、書き込みをみて、一瞬、思いました。
1999/11/23, 浜崎まさえ
 こんばんは、浜崎です。2週間ほど前に「ピンチランナー調書」を読み終え、今は「懐かしい年への手紙」を読んでいます。オフ会までには読み終えておこうと思いますが、なかなか厳しそうですね。
 「排骨湯麺オフ」に備えて、「我らの狂気を〜」の再読もしていますが、オフ参加にあたり「これだけは読んできて」という作品があれば教えてください。
 よろしくおねがいします(-_-)
1999/11/23, ちえ
いとうさん、みなさん、こんにちは。
金曜日に出発して、今日、旅先から帰ってきました。久々にのぞいたら、またわたしのいない間に、たくさんの刺激的な書き込みがされていて、何だかドキドキしてしまいます。
一文字さんはその後このページをご覧になっていらっしゃらないのでしょうか。わたしのこのページのファンですので、援護したいのですが、松本さん、武奈彦さんの書き込みで十分でしょう。批判ばかりしていないで、どのようなものを求めているのか、一文字さんはもう一度書き込みされるべきだと思います。本当に、「頭は、いきているうちに使うもの」ですから!!
古い話ばかりになりますね。何しろ4日前から読み返していますので。
あと、バーバラさんの20日の「癒し」についての書き込みに、気持ちが共鳴しました。わたしも考えていたことですので。しかし、今まで大江作品を読んで「癒されている」と感じたことがなかったのですが、あれは実は癒されていたのだろうか・・・。そうかもしれません。
わたしが好きで、全作品を網羅しようとしている作家は、大江氏ともうひとり村上春樹氏です。そういえば以前河合隼雄氏が、大江氏と春樹氏は自分が癒される為に小説を書いている作家だ、とおっしゃっていました。一般的にはあまり並べられることのないこの2人の作家が、どうして一緒に好きなのか、自分でもそうですが周りから不思議がられていましたが、そこに共通点があったのか、と思いました。
それで、春樹作品は、明らかに「癒されよう」と思って読んでいて、大江作品はそのように思ったことがなかったのですが、そういうことなら実は癒されていたのかもしれないなぁ、と思います。
ただ、大江作品の中には、どうしても読むのが辛い作品があるんですよねぇ。
村上春樹氏はそうでもないのですが。大江作品が難解だから、ということではなくて。
こんな書き込みでは、なおさら一文字さんをがっかりさせてしまうでしょうか?
1999/11/23, いとうくにお
 たまごさん、はじめまして。外国にお住まいですか。インターネット通販で日本の本屋さんから買えるといいんでしょうけど、通販は配送先を国内に限っている場合が多いようですからね。気が向いたらまた書き込みしてください。
 僕は昨日、大江さんの文庫本をたくさん買い込んでしまいました。僕が本当に若かった頃、万延元年のフットボール、最後の小説、みずから我が涙をぬぐいたまう日、叫び声。それと、「セブンティーン」「政治少年死す」のモデルとなった山口二矢を描いた、沢木耕太郎の「テロルの決算」です。読了はいつになることやら。
1999/11/23, たまご
みなさん、はじめまして。以前からこのHPのことは聞いていたのですがじっくり見たのは初めてです。ニュースやインタビューが面白かったです。(貴重なネットワークファンクラブだ)ただいま外国のため、読みたくても大江氏の本が読めないのがつらいです。時々また拝見させていただくと思うのでよろしくお願いします。
1999/11/23, いとうくにお
武奈彦さんの書き込みをみて、確かに僕の書き方は、たぶん実在するであろう「モーニング娘。ファンクラブ」の方に失礼だったと反省しています。僕が言いたかったのは、僕がこのサイトで目指したのは感想を分かち合ったり情報交換したりといった場であり、それはアイドルやミュージシャンなどのファンクラブと何ら違いはないのではないかということです。いずれのファンクラブにも深い考察があったほうがいいかもしれませんが、それはファンクラブに集うメンバーが主に求めるものではないだろうということです。少なくとも僕はそうなんですよね。
こういうスタンスは、サイト発足当初からのものですが、どの程度まで自覚的だったかとなるとちょっと記憶があやふやです。今回、一文字さんの投稿をきっかけに、サイトのあり方、目的を再確認することができたように思います。
1999/11/22, バーバラ
いとうさん、皆さん、こんにちは
私はこのホームページが大好きです。初めて掲示板に投稿してから7、8か月になりますが、毎日必ず一回は開けて、皆さんの投稿を楽しみに読ませていただいています。
人の意見、考え方は千差万別で、特に文学、芸術などは、その人の感性によりいくらでも解答が出せるものだと思います。考察の浅い私でも、思った事を、書きたい時は投稿しますし、毎日皆さんの投稿を読んで、多様な受け止め方、深い考察に感心することも多く、中には「私の受け止めかたとは随分違うなー」などと感じながら、毎日楽しんでいるのです。どうして楽しいのかと考えると、考える方向、深さは様々でも、その中心には『大江文学』に対する『愛情』が皆にあり、そこから発する意見だからではないでしょうか。そして
このホームページが、その『愛情』を共有できる場所だから、私は毎日ここを開き、今後も読み続けます。
              『大江健三郎ファン倶楽部』の大ファンより
1999/11/22, saya
ララさんありがとうございました。早速探して読んでみることにします。
1999/11/22, 武奈彦
いとうさん、僕は「モーニング娘。ファンクラブ」のホームページにも深い考察や洞察があったほうが断然良いと思います。いとうさんの言い方はモーニング娘。ファンクラブの方々にちょっと失礼な気がします。
さて、一文字さんが物足りなく思われるのは、この掲示板で(とりわけ今年になって)新しい世代の大江読者が述べられているさまざまな感想・意見が、古くからの大江読者の定型というか紋切り型の言い方とぜんぜん違って見えるためではないですか?
ここには「ピンチランナー調書は***の文脈で読まれねばならない」とか「万延元年の構造はかくかく」とか「作家・大江は洪水までで死んだ」とか「表象」がどうたらとか記号がこうたらとかというようなボクチャンカシコイごっこ的な発言はあまりないので、その辺がアタマはイキテイルウチにツカウもの発言に繋がったんじゃないのかな。
古くからの大江読者のなかには、そういうボクチャンカシコイごっこが大好きな人がけっこーいるみたいで(じつは僕も嫌いじゃないんですが)、その需要に応えるためか本職がそういうのをいくらでも活字にしてくれている。そういうボクチャンカシコイごっこ的分析ごっこは面白いと言えば面白いのですが、ともすると元々の小説から乖離してしまいがちということもあって、慣れてしまうと実に退屈でもあるわけで。
それに対して、この掲示板での最近1年ばかりの発言の数々は、雛形のお世話にならず、一語一語が自分の言葉で書かれていて、僕にはすごく刺激的なんだけどなぁ!
(ボクチャンカシコイごっこ的オハナシも僕はすきなんですが、みんなが既成のヒョーロンカの真似をするのも芸のないことだと思う。((そういえば、百年の孤独と同時代ゲームが似てるっていう僕のごっこ噺しは、akaosugさんが去年の5月にすでに書いてましたね。))
1999/11/22, たなか
 アンガージュマン−−サルトルがこの世を去って久しい今となってはあまり聞かれなくなってしまい、大江さんも口にしなくなっているように思われます。しかし大江さんの内面では、「アンガージュマン」にその発現のしかたを求めた何らかの理念が、今なお脈々と生き続けているのではないかと思うようになってきました。
 その理念が今では「魂のこと」として現われているのではないかと思うのです。その理念とは、ヒューマニズムやデモクラシーや大江さん独自の思想が融合した「何か」ではないかと。つまり、大江さんの初期の作品ではその理念は実存主義的に現わそうとされ、後には別の方法によって表現されているのではないかということです。またその「何か」は、さまざまな経験によってゆっくりと変容しているけれども、それは基本的に「持続する志」であって、本質は一貫しているのではないかと思うのです。
1999/11/21, 松本
一文字さんへ。
 一文字さん、あなたのこのホームページの評価に賛成いたしかねます。このホームページの書き込みを1995年まで遡って、読んでみてください。とても貴重な指摘や意見があちこちに隠れています。
 あなたは、どのような書き込みを期待しておられるのでしょうか。一方的な表現ではこちらに伝わりません。お互いに顔をつき合わしての対話ならば、その場ですぐに問い掛けることもできますから、話は発展しますが、一刀両断的に評価を下すだけではこのホームページがかわいそうではないでしょうか。いとうさんやノンさんが提案されているように、是非一文字さんが理想とされる具体的な見本を書き込んで頂けたらと、思います。
 ただ、インターネットのホームページを覗いたり書き込んだりすることは、何らかの価値観を押しつけたり、押しつけられたりすることとは、無縁なことではないでしょうか。そもそもインターネットという世界自体、様々な信じられないほど多様な考えや見方や価値観が充満している領域です。ですから、いろんなホームページが存在してかまわないのではないでしょうか。
 そのように考えると、「・・・ねばならない」という発想を自分に対して、もしくは社会に対して強く主張するのは意味があると思います。また、ホームページの中でそのような主張を展開することにも意味があると思います。ただし、ホームページに対してそのように主張することは、ホームページの重要な存在意義を無視することに等しいのではないでしょうか。あるホームページに対し「…ねばならない」という考えがあるならば、いとうさんが述べられているように、そのホームページがその方向へ向かうよう具体的に書き込みをするか、そのホームページから去って、自らが理想とするホームページを開設すればいいのではないでしょうか。インターネット上のホームページの数に制限はないのですから。
 私としては、もちろん、一文字さんのこのホームページへの書き込みを期待しています。
1999/11/21, ノン
 いとうさん、このホームページでのスタンスを文字のかげから尊敬しています。
 一文字さん、大江作品に関する深い考察をぜひぜひ聞かせてください。もし、独自のサイトをお作りの際は教えてくださいね。もしかして文芸評論家としてデヴューされているとか?もしそうなら、著作をお教えください。
1999/11/21, いとうくにお
 一文字さん、はじめまして。ご期待を裏切ったようで、、、
 僕が頭を使っていないのは事実ですねえ。ただ、この掲示板の書き込みの集積は、大江ファンにとって大いに価値のあるものだと思いますので、「駄ホームページ」というご批判には同意しかねます。もちろん一文字さんにとってそうだったということまでは否定しません。
 このサイトは、公式なファンクラブではありませんが、名称があらわすとおりスタンスとしてはファンクラブ的なものです。「深い考察や洞察」が掲示板の中にたくさんあるとは思いますが、仮になかったとしても僕としては何ら問題を感じません。たとえば「モーニング娘。ファンクラブ」に「深い考察や洞察」がなかったとしても何ら問題でないのと同じように、です。
 提案ですが、一文字さんが「深い考察や洞察」を目指すサイトを作られてはいかがでしょうか。あるいは、この掲示板にそういった本格的評論・論文を投稿していただいてもけっこうです。
1999/11/20, ララ
こんにちは。(笑)
どうもいろいろと、おさわがせしたようですが、どうもすみませんでした。べつに、むっつりしてたわけではないのですが。まず最初に、AMADEUSさんの言われた事を考え、ほかの方の意見についても、自分の中で整理しながら考えているうちに今度は大江さんの言葉も出てきて、自分が書くよりも、みなさんの投稿を見ているほうが面白くなってきてしまったので、おそくなってしまいました。私は、べつに怒っているわけではないのです。AMADEUSさんの2回目の投稿はみてなかったので、もしあの投稿を出す前に見ていたらまたほかの事をかいていたようにおもうのですが。で、全く怒るどころか、本当に面白かったと言う証拠に、大江健三郎とは全く関係ないのですが、太宰治のこの言葉を引用したいと思います。(有名な言葉ですが、私はけっしてセンチメンタリズムだとは、おもってないのですが)(新ハムレットより)<愛は言葉だ。言葉がなくなりゃ、同時にこの世の中に、愛情もなくなるんだ。愛情が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。>(笑)
 私の文章が稚拙と言う事もあると思いますが、どうも、私自身不快に感じたりするのは(笑)一度の投稿で複数の人に応えようと思ったりするところにもあると思います。また、ここの掲示板に書き込みした事のないある人にメッセージと言う思いもあったわけなのです(笑)。できるかぎり批判に答えたいというおもいもありますし。
 また、私がなぜああ言う事を書いたというと、それは、二つあると思います。以前テレビでやっていた(笑)ニューヨークではやってるらしい(スヌーピー心理療法)というものが頭にあったのだと思います。これはみんな知っているとおりスヌーピーは沈黙のシーンがあったりするマンガですがそれを患者さんがこの主人公はどんな事を考えてるのかということを考えて、はなして自分の心を見つめていくと言うものらしいですが(さすがに、私はあんましそれには乗れないなと思いましたが(笑))私は、おもしろいとおもったわけです。ぜんぶとは言いませんが自分もそのようにして読むとおもいましたし。
 もうひとつは、私はマスコミだと思います。私がマスコミの問題に気がついたのは96年ですが、大江さんが本当にいまでも周縁の作家ならば、必ずこのマスコミの問題に付いて、言及しなければならないだろうと思っていましたが(もちろん大江さんをしっかり読み取れば本当はそれも必要ない事なのかもしれませんが)、ちょっと前の(人生の細部)でマスコミ=中央だとやっと言及してくれました。やっと言ってくれたという思いだったのですが、はっきりいって、あまりにも遅いという思いがありました。最近の知識人の中で20世紀の事件でマスコミの実験の成功、と言う方たちがいましたが、大江さんもその一人だったと思います。マスコミの状態は最終形態になったと、どこかで(正確じゃありません)いっていましたから。べつに、反マスコミだなどというつもりはありませんが、ただ、縦の軸に対して横の軸ということを、考えたかったわけです。
 一昨日だったか、ニュース23で、元CNNの記者が戦争報道は記者としての成長の登竜門であって伝統なんだといってましたが、それに対して筑紫氏のいつもとなりに座ってる佐古キャスターがなかなか今はないですからねぇ(また、正確じゃありません、どうもすみません)といって、すぐ気がついたらしく語尾を濁していましたけれど、私はほんの一瞬の話しだったとはいえ、そう言う風に議論の場で真剣にがんばる事ができないでどうして弾丸の中に飛び込んでいく自分の姿が想像できるのかと、思えて、やっぱりだめだと思いました。これでは、いちばん戦争を楽しんでるのは取材記者なのではないかといわれてもしかたがないでしょう?アメリカ人が言うならわかるような気もするのです。けれども、佐古キャスターは日本人ですからねぇ。日本は銃社会じゃないですから。佐古キャスターはそう言う人間じゃないと思いますけど、どうして、そこでがんばることができないのだろう?その時だったか、筑紫徹也さんが嫌われようが現場主義だといっていましたが確かにその通りでしょうが、なぜ嫌われるかといえば、それは服装だとか、態度だとか、報道の態度だとかが取り出されるように、まさにそういうところからの事なのではないでしょうか?ちょっと、大江健三郎とは関係ない事を書きました。どうもすみませんでした。大江さんによってはじめてマスコミの問題が解禁されたようにも思いますので。もちろん、最近のニュース23は大分改善されてきたということも言っておかなければならないと思います。フェアであるためにも。それにしても、私は中央に統一されて一斉にみんなが動いていく姿を産まれてはじめてみたように思うのですけど、年配の方もおられるようだから、ききたいのですけど、昔からこうだったのですかねぇ?本当に、恐ろしい事だと思うのですけど、ここに書き込みされている人達の自己がしっかりしているところを見れば、最近、これも筑紫さんが言っていた事ですが、日本はヒステリックになったということですけど、それはやはり、マスコミがそうなったというほうが、妥当なのではないかと思えました。ちなみに、マスコミの問題がクローズアップされたのはこれもアメリカの教師、医者、父母らでやったテレビを見ない運動から、私の記憶では本格的に発したとおもうのですが。それを思うと、この国での自由っていったい、って思ってしまいます。(暴力(間違い)と前前回書きましたがそういう意味もあるわけです。また、これだけでは、書き足りないということもいっておきたいと思います。ちょっと、ひどく書きすぎましたし。
また、へんちくりんな文章でどうもすみません(笑)。
ノンさん。 フォーラムのNHKでの放送という事ですけど、あれは確か、来年の1月17日か18日だとおもいます。それにしても、どうしていつもこんなに遅いのか(笑)。
さやさん。 さやさんのお探しの本ですが、たぶん、『あいまいな日本の私』ではないでしょうか。たぶんそうだと思うのですけど、『日本の私からの手紙』の(時代から主題を与えられた)という章もさやさんの定義に当てはまると思いましたが、捜しているうちにこちらのほうを私を楽しんで読んでしまいました(笑)。
1999/11/20, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。
僕は、大江さんの小説、特に中期の長編小説を読んで、こんなふうに感じていたと思います。−−−脳天気に日々を過ごしている自分、困難なことがあってもテキトーにそれを回避してしまう自分。そんな自分が、ある日ある時、いきなり足首を掴まれて底なし沼にひきづりこまれる・あるいは後ろから首をぎゅうっと締められる。そして、抵抗もできず、逃げようもないところに追いつめられる。最後には力づくで冷たい地面に正座させられて、目の前にいるもう一人の自分−−−とても醜い自分に向き合わされている。下腹に錘を入れられたような重苦しい気分で読了。
なんだか変なことを書いてしまいましたが、僕にとっては、大江さんの小説は、それによって「癒される」というよりは、常に、「自分が癒しを必要としていることを認識させられる」ものでした。一冊読み終わったときにはこんなもの読まなければラクな気分でいられるのに、と思いつつ、しばらくするとまた手をだしてしまう−ーーそんなふうにして読んできたのです。
(ところが、「燃え上がる緑の木」を読むと、「力づく」がなくなって、するするっと喉をとおってしまうような感じになってしまったのですが、これはなんでしょうね。僕はまだなんとなく「宙返り」に手をつけてないのですが、それは、この辺が気になるからかもしれません。)
1999/11/20, 一文字 弥太郎
大江健三郎のホームページがあると見て期待してきたものの、いったいなんだというのだこのホームページは。大江健三郎の名前を例えば村上龍に変えて、引用の森を村上龍のものにすればはい!出来上がり!というようなのりの、まったく持って駄ホームページである。ここには大江健三郎作品に対する深い考察や洞察がまったく見られない。頭は、生きているうちに使うものである。
1999/11/20, ノン
「宙返り」は、今という時代を書いている物語ですね。今、起こり得たかもしれない出来事のシュミレーションを読んでいる気がしました。
 「宙返り」を読んでいる間、私はずっと動揺しっぱなしで、それはなぜかというと
「私にとってわからないこと」を大江氏が書いていたからだと思います。たいていどんな小説を読んでも、ああこれはこんな風に終わるんだろうなあ、と想像がつくのですが、「宙返り」はわからなかった。読み終わった後、私にとっての魂のことってなんだろう?と考えてみて、???わからない。
 わからない、ということは非常にあいまいな状態で、ともすれば安易な答えで、カルトチックな宗教につけこまれやすい状態ともいえますよね。
 私にとって、わからないことが書いてあった「宙返り」の中で、大江氏が、そんな安易な答えを「これじゃー。」と(例えば、こんな世の中からは、自殺することこそ最良の道じゃ、とか)出してなくて、ほんとにうれしい。「魂のことをする」という言葉にひかれて初めて大江氏の小説を読みましたが、その答えが、読者一人一人のこれからにゆだねられているところに大江氏の愛を感じています。
1999/11/20, Jolly Joker
ノンさん、共感してくださったという嬉しいお言葉、ありがとうございます。誰かが見ていてくれるというのは、とても心の安定になります。そして、同じように感じることができるのは、気持ちが通いあった手応えでしょう。だからこそわたしたちは、音楽を聴いたり、本を読んだりして、手探りで感じようとする。感じて、考えて、進んでいく。当たり前の事だけれどそれが嬉しいんです。
さて、フォーラムで、大江氏もおっしゃっていました「個を尊重することの大切さ」。私なりに考えたことは、「世の中ヘン!社会のせい!」と問題をおしつけるのでなくて、1人1人の自覚があればゆっくりではあるけれど、良い方向に変わっていくのかなあと。などと考えながら、「万延元年のフットボール」を読み直しています。
みなさまお元気で。
1999/11/20, いとうくにお
手児奈さんからオフ会参加の連絡をいただきました。これで8名ですね。
参加予定 バーバラ、浜崎、たなか、ミロ、natsu、むらかみ、手児奈、伊藤
あと二人くらいで締切ます。
1999/11/20, saya
突然ですが、知りたいことがあります。
大江氏が、断筆宣言を行った直後に発表したエッセイの中で『燃えあがる緑の木』を「最後の小説」とする理由をまとめたことがあったように思うのですが、タイトルを忘れてしまいました。自分が60歳になること、光さんの自立、今後はスピノザを読んでいこうと思う、といったようなことが書かれていたかと思います。どなたかご存知の方、これがなんというタイトルのエッセイでいつ・どこに発表されたものか教えて下さい。また、単行本などに入っているのでしょうか?お願いします!
1999/11/20, バーバラ
大江さんが以前講演会で「僕は『癒される』というのはあまり好きではありません。『自分で癒す』ことが好きです。」というようなことを仰っていました。この言葉が忘れられずずっと心に引っ掛かっています。
大江さんの書かれるものは、私を癒してくれ、それにすがるように読み続けてきました。私にとっては『元気の素』のようなものです。どうして元気が出るかというと、(以前も同じようなことを書きましたが)大江さんが御自分の癒しのために書かれた文章だからではないでしょうか。私は理論で大江文学を分析する力はありませんが、読んでいて、ヒシヒシとその大江さんの気持ちが伝わってきます。
文章を書くということが、大江さんの『魂のことをする場所』であり、その中にいることで御自分を癒し、言葉を変えると元気づけていらっしゃるのだと思います。
最近ずっと考えていたことなのですが、人は、文学、芸術、自然、家族、友人…様々なものに励まされながら生きていくものなのでしょうが、そういうものに頼り過ぎるのは危険で、大江さんの仰る『自分で自分を癒す』という術を持たなければ結局は挫折してしまうのではないかということです。『魂のことをする場所』を探し当てるということはそういう所から大切なことだと思います。
自分自身を癒す術が見つからず、もがいている私ですが、迷路の中では全容は見えず、じたばたするよりはゆったり構えて大江さんの文学に浸りつつ、目の前の小さなことからでもポジティブに考えていければそのうち霧は晴れその全容が見渡せるようになるのかもしれません。迷路の中ではなかなかそう考えるのが難しいのですが…。
自分でも何が言いたいのかよく分らないまま、Jolly Jokerさんの書き込みを読んで、何となく思うがままに書きました。
1999/11/19, Jolly Joker
たなかさん、あなたって人は!なんという冷静かつ正確なレポート!素晴らしい。このページの方々に共通すると思うのですが、とても文章がわかりやすく、ちゃんと伝えようとなさっている、つまり、相手を考えていると感じていました。真摯なというんでしょうか。たなかさんのレポートを読んで、改めて感動致しました。ありがとうございます。さて、音楽で細々とでも食べている友人がちょっとジンセイに迷っているのを知り、おせっかいながら大江氏の著作を薦めてみました。映像化もされていて読みやすい所から「静かな生活」を。その友人は、わたしは未読なのですが、「神との対話」という本をよんでいるとかで、かなりキテルみたいです。大切なことは、自分自身が気づくこと、迷いながらも生きてるなあと、感じられることかと思っていますので、友人には、立ち直って欲しいと思っています。大江氏によって、考えさせられるとか、元気が出るということを、もっとここに登場するみなさんの具体的体験なんかも、伺いたいと思いますが、いかがでしょうか。
1999/11/18, ノン
 いとうさん、皆さんこんにちは。先日のノーベル賞フォーラムは、テレビで放送されるということは無いんでしょうか?記憶は定かではないのですが、去年だったか、一昨年だったか、教育テレビで、ノーベル賞フォーラムが放送されていましたよ。そのときの出演は、大江氏、利根川氏、立花隆氏でした。ああ、今回も放送してほしいなあ。
 Jolly Jokerさん、「障害あるなしにかかわらず、生きていくということを深く考えたい」という言葉に、共感しています。
1999/11/18, いとうくにお
オフ会の集合場所ですが、駅改札ではなく成城飯店に変更させてください。このお店は予約がきかないため、僕が早め(6時半くらい)に店に入って場所を確保するつもりですので、皆さんも直接お店までおいでください。よろしくお願いします。
日時 12月10日(金) 7時から
会場 成城飯店(小田急線成城学園駅そば)
集合 ×成城学園駅改札 ○成城飯店
参加予定 バーバラ、浜崎、たなか、ミロ、natsu、むらかみ、伊藤
あと三人くらいは参加可能だと思いますので、ご希望の方はご連絡ください。
1999/11/18, たなか
いとうさん、myonfaさん、どういたしまして。読み返すとかなりの乱文でお恥ずかしいかぎりですが、お役にたてたのでしたら何よりです。
Jolly Jokerさんも同じ会場にいらっしゃったのですね。うちの娘は特に障害はもっていないのですが先日、「大江光さんみたいになりたい」と言いました。光さんのどんなところにひかれるのか、まだきちんと捉えきれていないのですけれども、寝そべって五線紙に向かい、美しい曲を創り出す姿に魅力があるのではないかと思っています。あるいは映画『静かな生活』(家族でビデオを見たのです。マーちゃんが乱暴されるシーンはどうしたのかと思われるかもしれませんが、娘はちょうどよいタイミングで友達が遊びにきたか何かで中座していて、だいじょうぶですた。)の中のイーヨーの素直で温かな人柄に魅力を感じているのかもしれません。
1999/11/17, myonfa
皆様こんにちわ、たなかさん、Jolly Jokerさんフォーラムのレポートとても参考に成りましたありがとうございます。読売新聞掲載日12月7日とのことたすかりました(我が家は朝日なので)。バーバラさん私は「僕が本当に若かった頃」を読み落としていました、早速探して読みます。忘年会うらやましいかぎりです、私の家は都内でも反対のはずれです。忘年会の様子知らせてください楽しみにしています。
1999/11/17, いとうくにお
たなかさんから文字化け部分の文章をいただき、いま直しました。たなかさん、ありがとうございます。
「燃えあがる緑の木」は第二部に入りました。第一部は、前半きつかったですが、後半は引き込まれました。その勢いで第二部も引き込まれながら読んでいます。
1999/11/16, いとうくにお
 たなかさん、Jolly Jokerさん、レポートありがとうございます。お二人のレポートのおかげで、このイベントの雰囲気がわかりました。
 ところで、たなかさん、途中文字化けしてしまってました。お手数ですが、文字化け部分、メールででもお送りいただけないでしょうか。
 ふと気づいたのですが、どうやら1段落の文字数が500文字近くなると文字化けするようです。前にnatsuさんやララさんの投稿にあった文字化けもそうでした。1段落が1キロバイトまでというような制限があるのかもしれません。その旨、注意書きを入れておくことにします。
1999/11/16, Jolly Joker
行ってきました、ノーベル賞フォーラム!大江氏は、思った通り穏やかで、強くて、ユーモアがあって、正しくて。とても元気づけられる1日でした。利根川氏も、多少の違いはあっても、基本的なところ、前向きに生きているという所にとても共感できました。カガクとブンガクの共有しあえるところって?と疑問に思いながらの参加でしたが、結局、人間の生きる姿勢が、生きる答えなのかもしれないと感じました。そして、話の中で、例えば面白くない文章でも飛ばさないで読むべきなのかと、氏が質問されたことがある経験に対して、「はじめはつまらなくても、読んでいくうちにそれが、必ず後の話につながっていくものだから、諦めないで読むべきだと応えました」とおっしゃっていました。「宙返り」なかなかすすみませんが、がんばってみます。
話が前後しますが、やはり、大江氏のテーマは、「どうすすむか」ということでしょう。それは障害を持った息子が生れたことで大きくというか、顕著に表れた。困難をどう克服していくか。あるいは、もう困難と感じなくなって、ただ、幸福を感じているのか。話の脈絡を無視しても、「64年生きてきてよかったのは、障害を持った息子を持ったということだけだ」ともおっしゃっていましたし。確かに家族が障害を持っているのは、物理的にめんどくさいことです。以前書きましたけれど、わたしの娘は聴こえないという障害をもっています。実際、コミュニケーションをとるのはめんどくさいですよ。でも、それ以上に幸せを感じることも多いものです。今日は、ますます大江氏を身近に、そして好きになりました。
自分が障害者が家族にいるということで共感もしますが、逆にそこだけをクローズアップしてしまうのもイヤなんです。障害あるなしにかかわらず、生きていくということを、深く考えたいのです。なんかくどくなりました、スミマセン。
1999/11/16, たなか
いとうさん、みなさんこんにちは。
 今日、いとうさんからいただいた聴講券(感謝感謝!)で、ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム「21世紀への創造」東京セッション「科学者と作家が共有する教育論」を聴いてきました。主催者は読売新聞社とNHK、講師は利根川進氏(マサチューセッツ工科大学教授、1987年生理学・医学賞)、大江健三郎氏(1994年文学賞)で、コーディネーターを養老孟司氏(東大名誉教授・北里大学教授)がつとめました。また、プログラムは、主催者あいさつ・講師紹介/基調講演1 利根川進「脳科学の進展と教育」(約40分)/基調講演2 大江健三郎氏「ヒューマニティーズの教育」(約40分)/休憩/パネルディスカッション 利根氏・大江氏・養老氏(約100分)/閉会、というものでした。なお、このセッションの詳しい内容については、12月7日の読売新聞朝刊で特集記事が組まれるそうですので、ここでは主観的にかいつまんでレポートしたいと思います。
 まず利根川氏(遺伝子の研究から脳の研究に転向されていたらしい)の講演で、脳に関する研究が進歩しており、将来はその研究成果をもとに新しい教育のシステムができるかもしれないという可能性の示唆と、大学教授として大学院生やポストドクトリアルの研究員の指導にあたっている経験、そして小学生2人と中学生1人のお子さんを実際に育てている親としての視点で、教育のあり方に関する発言をされました。
 続く大江氏は、いきなり読売新聞社(=共同主催者の一方)について「戦後民主主義を積極的に攻撃している」と切り出して笑いをとり、続いてみずからの科学に接した体験として、フランス文学科に進む前の教養学部時代に、地学や憲法などの講義を受けて感銘を受けたことなどを語って専門家以外の人に対する(科学)教育に意義があることなどを述べられました。本題からは少しそれると思いますが、大江氏はなぜか彼の長女がいつ結婚したのかを正確には知らないらしいのです(『宙返り』下巻の最後のページに苗字が変わった菜摘子さんの名があるのに気づかれていた方も多いかと思いますが、数年前に結婚されたそうです)。
 パネルディスカッションでは、聴講者からの質問に答えながら、教育についての議論がありました。大江氏がその中で主張していたのは、個を尊重し、その多面的で多様なあり方ができる社会をつくっていくことが大切だということでした。そういった意味で最近は(日の丸、君が代などの例をあげて)個を集団に帰属する画一的なものにしようという動きがあるとも述べていられました。大江氏の利根川氏との意見の違いは(あまり根本的な違いではなかったように思われるのですが)おおむね次のようなことでした。つまりあるカップルについて遺伝子を調べた結果、(ダウン症などの)障害をもつ子が生まれてくることがわかったとき、結婚して子どもを生むべきかどうか、ということです。利根川氏は(自分がそのカップルの一方だったら)子どもはもうけないほうがいいと考え、大江氏は(障害をもつ子をもっても決して不幸だと思ったことはないということから)結婚しても出産してもかまわないというのです。結局、二人の意見はこれから結婚したいと考えているカップルが医者に遺伝子のことを相談することはかまわない、遺伝子を調べて障害をもつ子どもが生まれてくる可能性を指摘されたときに結婚するかどうか、子どもをもうけるかどうかはそのカップルが判断して責任を負うべきだというところに落ち着いたように思われました。それから、これからの科学については宇宙や原子力に重点がおかれるだろうということと、「個性」重視の教育で専門家以外には科学を教育しなくてもよいというような議論があることについて、大江氏は昨日の新聞で報じられたH2ロケットの打ち上げ失敗、東海村の臨界事故をとりあげて、科学を専門家だけのものにしておくべきではないと主張されていました。科学者以外の人も科学者と議論ができるように基礎的な知識はもっておくべきで、そうすることはこれからの民主主義を守っていくためにも重要なことだと述べられていました。
 筆記用具を忘れて会場に出向いてしまったために、メモもとらずにレポートしていて申し訳なく思っています。
1999/11/15, いとうくにお
ytakeさん、ようこそいらっしゃいました! ytakeさんに投稿してもらえて、とても嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。大江文学が「現在的な問題ではなくなって」いたというお気持ちは、わかります。僕もそういうふうに感じることはあります。しかしまた読み出すと、ぐいぐいと引き込まれてしまうというのも、僕にとってはまた事実です。ノーベル賞以降に読み出した読者としては、『宙返り』は初めての同時代的に大江文学を読むという体験だったため、いっそう興味が湧いたように思います。
ところで、オフ会などでときどき話題になるのですが、『宙返り』『燃えあがる緑の木』『懐かしい年への手紙』などの重要な舞台となる「テン窪」の池や、その中央にある島の大檜は、実在のものなのでしょうか。僕は架空のもののような気がしていますが、もし実在するなら行って見てみたいところです。
1999/11/15, ytake
 いとうさん、みなさん、はじめまして。すぐ下でご紹介いただいている「大江健三郎の故郷を歩く(http://www.top.or.jp/~ytake)」をやっているytakeと申します。
 こちらのページにはときおり伺っていました。ここ数年、大江作品の熱心な読者と言えない僕は、掲示板に書き込むこともできぬままに、みなさんのやりとりに感心するばかりでした。
 僕にとって重要なのは『万延元年のフットボール』や『洪水は我が魂に及び』など、中期(?)の作品でした。以前いとうさんがおっしゃっていたことにも重なりますが、初期から中期の小説にある張りつめた緊張感、そしてみずみずしい若さ、そういうものに強く惹かれてきたわけです。文体の弛緩は主題の弛緩ではない。あるいはそれは文体の弛緩でさえないのかも知れない。そうは思うもののなかなか入り込めない…そのようして少しずつ、大江文学は僕にとっての現在的な問題ではなくなっていました。
 しかし『宙返り』をきっかけに、大江作品を読み直してみようという気になりつつあります。またこちらに立ち寄って、みなさんから刺激と教示をいただきたいと思っています。よろしくお願いします。
1999/11/14, バーバラ
いとうさん、皆さん、こんにちは
今、『僕が本当に若かった頃』を少しづつ読んでいます。
これは、彼がこれまでに書いてきた小説の裏話、彼の心の動向等々覗けて、興味深く読んでいます。その中の『ベラックヮの十年』の章に、『信仰を持つならば俗世間のすべてを棄てて修道院に入るところまで行かねばならず、いまの自分にはそうすることができない、という気持があったのである。なぜなら、そうしてしまっては、本当に生きることをしないままとなるからと。』と大江さんが17歳の時に考えていたこととして書かれてあり、彼の『信仰』に対する考えが改めて分かったように思うと共に彼の何ごとにも徹底する真摯な態度が伺えました。彼の書く文章は、そういう真摯さゆえ、魂から発した言葉となりそれを紡いで魅力的な作品となるのだと思います。
いとうさんが受け取られた葉書の大江さんの言葉も然り。彼の『魂の言葉』に
読者は魅了され読み続けるのでしょう。そして魂から出た言葉だという証明として、引用もまた輝くのでしょうね。
1999/11/13, いとうくにお
まぶさん、こんにちは。大瀬地区の情報なら
http://www.top.or.jp/~ytake/oehome.htm
をご覧になるといいでしょう。内子町ではお泊りになったのでしょうか。もしかして、内子インというようなホテルはありませんでしたか?
ミロさん、60ページとはいっても、確か今年の9月以降分だったと思います。ほんとは1995年の分から大江さんにご覧いただきたかったのですが、何百枚にもなるでしょうからあきらめました。プリントするのも大変ですが、受け取ったほうも迷惑でしょうしねえ。
1999/11/13, ミロ
ご無沙汰しています。
いとうさん
感激ですね。ちえさんもおっしゃってますが、私も大江さんもお人柄のすばらしさを感じました。
プリントアウト60枚お疲れさまでした。
「自分の思考をどのように深めてゆくか、時間をどうかけてゆくか、だと思います。」
 と言う言葉に励まされる思いがします。
ところで今日ふと思ったのですが、大江さんの作品はキルト(パッチワーク)に似てるなと。
様々なモチーフを綴り合わせて一つの芸術に仕上げてゆくイメージが、大江さんの繰り返し使われる言葉やモチーフの事を考えてるときに重なりました。  
1999/11/13, まぶ
愛知のまぶです。11月1日に内子町を訪れました。
 親切な町の送迎バスの運転手さんが、白壁の町並み
めぐりのスタート地点まで乗せて下さいました。
 大江先生の大瀬地区まで行けませんでしたが、機会が
あればまた訪問してみたいと思っています。内子駅から
はどのようにすれば行けるのか、聞くのを忘れていました。
 どなたかご存じの方がいらっしゃれば、大江さんゆかりの
小学校など、教えてくださいね。
 内子町は静かなとても美しい町でした。ありがとうござい
ました。
1999/11/13, いとうくにお
「ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム 21世紀への創造」聴講券は、たなかさんが一番乗りで名乗りをあげられましたので、たなかさんに決定です。
ちえさん、こんばんは。大江さんから返事がいただけたのは、この掲示板のプリントアウト60ページ(両面印刷したので枚数は30)の内容に興味をもっていただけたからではないかと思っています。ですから、掲示板に書いてくれている皆さんのおかげだと。
ドイツへは、ベルリン自由大学で来春まで講義をするために行かれるそうです。大江さんがベルリンで生活することで、どういうことを感じられ、どういう文章を書かれるのか、楽しみですね。
1999/11/13, ちえ
大江さんからお返事を受け取られたとのこと、すごいですね!!(すごい、という言葉は、適切ではないですね。何がすごいのか・・・。)
大江さんのお人柄がうかがえますね。
ドイツへ行くので出られないのであれば、いずれは参加してくださるかもしれませんね。わたしも一度御会いしてみたいとは思いますが、実際会っても、きっと何を話せば良いのかわからないと思います。
去年の6月、大江さんの講演&光さんのコンサートを観ましたが、客席から舞台へ、挨拶にあがる光さんを、まるで黒子であるかのように、エスコートして、さっと去っていかれた姿が印象的でした。常日頃わたしが想像していた大江氏像そのものだったので、思わずにやけてしまいました。
それにしても、ドイツへは、何の用で、いつまで行かれているのでしょうか。
1999/11/12, いとうくにお
なんと今日、大江さんからハガキで返事がありました。11月20日からドイツへ行くので「集りに出られません」ということです。残念ではありますが、個人的にはハガキをいただけただけでハッピーであります。
こちらから送ったこの掲示板のプリントについては次のようにコメントされていました。「インターネットの文章の水準が高いので、感銘しました。問題はそれらの書き手が、自分の思考をどのように深めてゆくか、時間をどうかけてゆくか、だと思います。
1999/11/12, いとうくにお
友人から、読売新聞・NHK主催の「ノーベル賞受賞者を囲むフォーラム 21世紀への創造」の聴講券1枚を譲り受けました。パネラーは大江健三郎氏ほか。日時は11月16日(火)(午後1時〜4時半)、場所は千代田区一ツ橋ホール(神保町駅そばです)。私は行けないので差し上げたいと思います。ご希望の方はご住所と電話番号を私宛てにメールしてください。一番早かった方に宅急便でお送りいたします(ただし着払いです)。
1999/11/11, いとうくにお
新しいタイプの古書店へ大江さんの本を持ち込んだら買取価格が0円だったなんて、かえって大江さんが喜びそうなエピソードですね。講演とかでもよく自虐的なギャグを言う人ですから。
それはさておき、やどんさんがゲットした「燃え上がる緑の木第一部」ですが、僕もいま読んでいるところで、まもなく読了です。この小説には、新しいギー兄さんという人物が出てくるのですが、彼がまた次のギー兄さんが出てくるということを予言するシーンがあるんですよ。それを伏線として登場したのが「宙返り」のギー少年ということになりそうですね。で、ちえさんがおっしゃっているように、ギーのことはもう書かないと大江さんは言ってますね。いろいろな物語が今後ありそうな感じで「宙返り」が終わっているにもかかわらず。大江さんの息子さんとか娘さんが、ギー少年の出てくる小説で文壇デビュー! なんてことがあったら面白いんですがねえ。
1999/11/11, ちえ
マーフィーさんの大江さんへお願いですが、確か、「ダヴィンチ」のインタヴューの中で、「ギー少年はだれかにあげます。続きを書いてください。」というようなことを大江さんがおっしゃっていたように記憶しています。でも、マーフィーさんの希望に応じて書いてくださるかしら?
それとも、マーフィーさんがお書きなれば?
そのインタヴューを読んでわたしは、誰が書くんだろう、と思っていました。
いとうさん、わたしも「静かな生活」好きです。実はわたしは遅れてビデオでみたので、佐伯日菜子も渡部篤郎もすでに知っていたのですが、ふたりとも、とても良い役者っぷりですよね、この映画でも。それに、伊丹十三氏が大江作品の世界を映像で表現している、というそのことにも好感、というよりはもっと強いうれしさのようなものを感じます。光さんがあの映画をみて、「あのイーヨーはよかったね」と大江さんが問いかけると、「あれは僕がやったんですよ!」と答えたというのは、レンタルビデオの最後に収められていた、メイキング映像の中だったでしょうか。
1999/11/10, やどん
ばちあたりな、お話を1つ。
先月、私はとても珍しく、我が家の本棚の整理をしました。
もういらない、と思った数冊と一緒に、新潮社のハードカバーの「小説のたくらみ知の楽しみ」をBOOK OFFに持ち込んでしまいました。だって私には難解すぎて、何年も、相性の悪いちょっとしたものと同居していたのを思い出したみたいで。
それでBOOK OFFの店員さんたら、カウンターにのせた私の本に、淡々と50円とか100円とかねだんをつけて、「申し訳ございません。こちらのご本には、お値段おつけできません。」とおっしゃるではありませんか。なんですと、「小説のたくらみ、、」は0円!確かにほこりかぶっているけど、それは大江さんにあまりにもしつれいな!と私は憤然として、てのひらを返したように大切に持ち帰って、また自宅本棚に安置したのでした。ついでにその店で「燃え上がる緑の木第一部」の新本同様のを900円でかってしまいました。
1999/11/10, マーフィー
こんにちは!
前に、ここに書かさせてもらい、あらためて、いい加減に読んでいた「宙返り」をじっくり読みました。皆さんとの文脈がずれてしまい恐縮ですが、僕は、年齢的にと言っては、変ですが、非常にヨナに感情移入して読んでしまいます。「われらの時代」の延長上にと言っても良いかもしれません。
それとともに、同じテーマを扱っているようにみえるドストエフスキーの「悪霊」も並行して読みました。そして、ヨナ的人物のキリーロフに、これまた感情移入してしまいました。ヨナ・キリーロフ・アンラッキーヤングメンらの問題は切実です。
※大江さん!他の題材も書いて欲しいです。次は成長したギーが新たな共同体を作るといった話しはいやです(そうなりそうな予感)。ラブレーやベケット的な作品も書いてください(虚しい一読者の叫び、且つ、お願い)
1999/11/10, いとうくにお
natsuさん、こんにちは。引用のことを褒めていただいたり、引用についての話題が出たりしていましたので、「引用の森」を作ってみたしだいです。トップページに引用を入れるのは手児奈さんのページで引用が効果的に使われているのに触発されてのことでした。僕の場合は気に入った言葉を気分次第で選んでいるという感じなのですが、natsuさんのように楽しんでくれる人がいると嬉しいです。
1999/11/10, natsu
いとうさん、こんにちは。今日も、秋晴れのきれいな日ですね。
ページを開いたら、「引用の森」というコーナーが新しくできているのを発見しました。いとうさんが選んで、トップページに掲載してくださる大江さんの文章を集めたものです。ひみさんや松本さんが書かれているように、わたしも、この引用がいつもとても楽しみです。大江さんの言葉には、深い大きな懐かしさを感じます。作品を自分で読みながら、赤い傍線をを引いていくこともうれしいけれど、誰かが差し出してくれた言葉に驚くことも、とてもうれしいです。懐かしさにつながれて、励まされる気がします。
1999/11/10, いとうくにお
むらかみさん、忘年会への参加の件、了解です。参加メムバー(笑)を確認しますと、バーバラさん、浜崎さん、たなかさん、ミロさん、natsuさん、むらかみさん、伊藤の7名がいまのところ確定ですね。あと手児奈さんが、都合がつけば参加。ひみさんは都合がつかず不参加とご連絡をいただいてます。
考えてみると成城飯店はそれほど大きな店ではないようですし、予約も受け付けていないとのことなので、大勢で行っても入りきれない可能性もあります。そこで、参加者が10人程度になったら締め切らせていただこうと思います。10人程度なら10人がけテーブルか、5人がけ+6人がけのテーブルが使えるそうなので、僕が早めに行ってどちらかを確保するつもりです。
江戸さん、おひさしぶりです。「表現のエチカ」のことは僕は知りませんでしたが、「窓のある書店から」(角川春樹事務所、ハルキ文庫にも収録済み)というエッセイ集に収録されているようですね。ここにほんの少しだけそのことが書かれています。
1999/11/10, 江戸健一
何方か教えて下さい。大江健三郎さんが柳美里『石に泳ぐ魚』の裁判で活躍されていますが、この裁判で問題になった柳美里『石に泳ぐ魚』の後から書かれたエッセイ柳美里『表現のエチカ』を見たいのですが、何に載っているのでしょうか?
1999/11/10, むらかみ
 こんにちは。
 やどんさんが先に指摘していた、20歳になったイーヨーが「光さん」と呼ばれるというシーンは、確か、『新しい人よ眼ざめよ』の一番最後にあったかと思います。そう思って確認しようと思っていたら、本がどこかに行ってしまって見つからず、またまた、文庫本を買うハメになるかも、などと思いました。それにしても、大江さんの小説は、「引用には力がある」の主張どおりというか、自作を引用することも多くて、「元気を出して、しっかり死んでください!」のフレーズも、いとうさんが指摘していたところのほかにも、どこかで見た記憶があります。そのたびに、既視感めいたものにおそわれるわけですが、そのへんもあの文体とあいまって、大江文学に眩惑させられる要因になっているのでしょうか(笑)。
 10日の忘年会、態度保留でしたが、都合がつきそうですので、またメムバーに加えてください。よろしくお願いします。
1999/11/9, いとうくにお
ちえさん、こんにちは。映画のお話がありましたが、僕も4年前のあの映画『静かな生活』は好きです。娘役を演じた佐伯日菜子やイーヨーを演じた渡部篤郎は、最近テレビCMにも出てますね。なんだか嬉しいです。ちえさんが触れているシーンには、死を語っていながらほのぼのとした明るさがありましたね。それと僕は「人は人の道具ではない」などの言葉をマーちゃん(佐伯日菜子)が紙に書いていく長いシーンが忘れられません。
1999/11/9, ちえ
いとうさん、先日はすぐのご返信をいただき、ありがとうございました。とてもうれしくて、なんとかこの掲示板の方にも投稿の機会はないかと毎日毎日のぞいていたのですが、やはりわたしにはついていけそうもないような、高レベルのやりとりが続いているようで、なかなか勇気がでませんでした。でも、今日来てみて、わたしも大好きな言葉をみつけて、しゃしゃりでることにしました。
「元気をだして、しっかり死んでください!」という言葉、わたしは「いかに木を殺すか」を読んだ記憶はありませんで、わたしがはじめてこの言葉にふれたのは、「群像特別編集 大江健三郎」のなかで、河野多恵子さんが引用されたものでした。そこで「恢復する家族」から、あわせて引用されている「僕は光の言葉を、自分自身のやがて来る日のためにもよく覚えておきたい。」という言葉とともに、この言葉はわたしの胸の中に、ストン、と落ちて心地よかったのです。河野さんも、「自分が珍しく充実感に在る時、すっかり忘れていたその言葉が甦ってくれるのである。」と書かれていますが、まさにその通りです。むしろ、言葉の方が先かもしれません。くすぐったいような笑いとともに、元気がでるような。とにかく大好きなことばです。映画「静かな生活」のなかでも、台詞にありましたね。他の人からみたら何でもないような場面なのかもしれませんが、わたしにはやはりあの場面が、その台詞ゆえ、印象的なくらいです。・・・あれも良い映画でしたね。
ここに書き込まれている皆さんに触発されて、中断していた「宙返り」再びとりかかっています。
1999/11/9, いとうくにお
やどんさん、どういたしまして。『いかに木を殺すか』は文春文庫から出ています。あれだけ覚えてらっしゃるなら十分ですよ。僕なんか、どんどん忘れていきます。もっていることを忘れて、もう一冊買ってしまい、しばらく読み進んでから、読んだことのある本だと気づいたことありました。(笑)
1999/11/9, やどん
 いとうさん、どうもありがとうございます。
読み返してみようとおもいます。きっと昔の印象とは違うことも書かれているでしょうね。一番肝心のせりふも記憶が不正確だったようで、いけません。
1999/11/9, いとうくにお
やどんさん、はじめまして。「元気を出して、しっかり死んでください!」は、『いかに木を殺すか』の中の「「罪のゆるし」の青草」ですね。
1999/11/9, やどん
 はじめまして。
「宙返り」をやっとあと少しで読み終わりそうです。
買ってきてからずいぶんたちます。読み始めた頃は、ヨナ書は知らないし、津金夫人とか育雄さんのエッチ濃厚だし、光の粒子・波動のところは10回も読み返してがんばったのに、あまりよくわからない、、、という状況でしたが、途中でやめないで良かったです。読み進むうちにどんどんおもしろくなってきました。
 私は18才のころ「洪水は我が魂におよび」をよんで、あの英語の授業のところを毎日感動しながら読み返していました。
 そして20才になってしまったときに、「群像」にでた大江さんの小説を読んだときは本当に励まされました。よし、私は生きるのだ、という気持ち。しかし恥ずかしながら、題は思い出せません。うみょうみょと確執のあった父と離れて寮生活をしていた頃です。父と同年齢の大江さんが、光さんと同年齢の私に、ちょうどその時に一番必要なものをくれたようでした。その小説は、光さんが四国のおばあさんに「それは大変な年ですね、がんばって死んでください。」と言ったのを後で「がんばって、生きてください」といいなおし、20才になってもう家族からイーヨーでなく光さんと呼ばれる、と言う内容でした。どなたか題を教えていただけますか。
1999/11/8, 武奈彦
 AMADEUSさん、「百年の孤独」は新訳のほうですか。
 ちょっと便乗させていただいて、前から感じていたことを書きます。
 大江さんの小説にもガルシア=マルケスのことが出てきますが、僕がこの小説を最初に読んだのは、安部公房が「ドナルド・キーン(?)に勧められて読んでみて驚嘆した」とどこかに書いているのを読んでからだったように記憶しています。それは、多分僕が大江さんの小説を読むようになる前のことだったと思います。
 とにかくものすごく強烈な印象をのこす小説で、以来、いろいろな小説を読むたびに、ああ、これはこの作家にとっての百年の孤独だなぁ〜なぞと勝手な感想を持つようになってしまいました。そしてそのような感想を抱いてしまう大江さんの小説といえば「同時代ゲーム」なのです。自分でもなんか短絡的すぎる(表層にとらわれすぎている)ような気もするのですが、そういう感想をもたれる方はほかにはいませんかね? (ちなみに、大江さん以外では、中上健二「千年の愉楽」とか池上夏樹「マシアス=ギリの失脚」とか、で似たような感想を抱きました。作品の評価は全然別ですが。)
1999/11/8, いとうくにお
4日のnatsuさんの投稿で文字化け部分がありましたが、natsuさんからの要望でそのセンテンスをカットしておきました。あわせて、忘年会への参加表明もいただいてますので、6名が参加確定です。
昨日、大江さん宛ての手紙を書き、参考としてこの掲示板のプリントアウト(ここ3ヶ月分ほど)を同封しました。これから投函してきます。
1999/11/7, いとうくにお
松本さん、こんにちは。引用についてお褒めいただきありがとうございます。いい言葉はないかなと引用文を求めてページをめくるのは楽しい作業です。
ひみさん、こんにちは。詞花集は、インターネットで公開されているものでしょうか。拝見してみたいです。
忘年会ですが、バーバラさん、浜崎まさえさん、たなかさん、ミロさん、伊藤が、いまのところ参加決定。手児奈さん、むらかみさん、ひみさんが、都合がつけば参加、という状況です。たなかさんから、大江さんに招待状を出したらどうかという提案をいただいてまして、ダメモトで実行しようと思っています。
1999/11/7, 松本
 ひみさん、私も同感です。
いとうさんの大江作品からの引用には、毎回感心しています。時には感動することもありました。ひめさんの「詞華集」という言葉に接し、いとうさんが今まで見事に証明されてこられたように、大江健三郎は「詞華集」が成り立つ作家ではないか、とあらためて気づきました。最近『宙返り』のメッセージの強烈さにつられてつい難しく考えすぎていたのではないか、と反省の気持ちも沸き起こりました。大江さんの、引用として独り立ち可能な、結晶のような言葉に素直に身を任せる接し方もあるのだな、としみじみと思いました。
 忘年会、残念ですが都合がつかなく参加できません。みなさんが、大いに盛り上がり、楽しく愉快な時を過ごされるよう、天国の「パトロン」とともに祈っています。
1999/11/6, ひみ
きょうはじめてきづきましたが、「大江健三郎ファン倶楽部」のページに
引用されている部分は、まさに私の詞花集のトップを飾る言葉でした。
いとうさんが、いま燃えあがる緑の樹第1部を読んでいると聞いていましたので
「やっぱりなー」と思いました。オフ会興味あります。日程がよかったら
ぜひ参加したいと思います。
1999/11/6, むらかみ
 最近、時間が空いたときなぞに、『僕が本当に若かった頃』とか比較的、短めの作品を読み返したりしているのですが、改めて大江氏の小説の技法に魅せられ、「四国の森」を遠く離れた小説もなかなかいいなあなどと、とりとめのない感想を抱いたりしています。『宙返り』は、確かに「愉しみとしての小説」という位置付けをはるかに超えるものをもっているだけに、それぞれの読み方や議論が出されるのも当然かという感がしています。僕はこの掲示板でのいろんな意見に、ああそういう見方もあるのかと、触発される部分も多く、たいへん興味深く眺めているのですけど。
 忘年会の件ですが、まだ、10日前後の仕事の予定がはっきりしないので、とりあえずペンディングでよろしいでしょうか。もちろん、都合がつく限り、参加したいと思っています。
1999/11/5, いとうくにお
 浜崎さん、ご参加ありがとうございます。バーバラさんからもメールで参加希望をいただいてますので、僕も含めいまのところ3名です。開催日決定前に参加の意思表示をされていたたなかさん、むらかみさんは、10日のご都合いかがでしょうか。
 AMADEUSさん、こんにちは。11月3日にいただいた「苦言」について、実はちょっとだけ心配してました。エキサイトしたやり取りに発展しなければいいのだがなあと。批判の意図はないということですので、もうその心配はないと思いますけども。
 こんなふうに書くと、苦言や批判はお断りと言っているように見えるかもしれませんね。そんなことはないです。批判を排除したのでは、つまらないですね。建設的な議論・討論になれば収穫だと思います。
 心配したのは、AMADEUSさんの「苦言」が私には少し抽象的な感じがして、誰に対するものなのかがわかりかねたからなんです。ネット上での火ダネになりそうな、危険な香り(笑)がしたわけですね。ネットでのコミュニケーションは、文字だけのやり取りなので、ニュアンスは伝わらない場合が多いですね。パソコン通信時代から数えると十数年、オンラインのコミュニケーションに接してきましたが、それが原因で争いに発展することは珍しくありません。ですから、できるだけ具体的に明確に書かないと誤解が生じやすい。僕はAMADEUSさんがララさんの発言だけを念頭において「苦言」を書かれたとは思いませんでしたが、ララさんがそのように受け止めたとしても不思議はないと思います。つまり「苦言」が誰に対するものなのかが書かれていなかったからです。とにかく具体的に明確に書くこと、これがネットワークで文章を書くときのキモだと思います。
 説教めいたことを書いてしまいましたが、AMADEUSさん、気を悪くしないでくださいね。AMADEUSさんだけでなく、ここをご覧の皆さんの今後の参考になればと思って書いたしだいです。
1999/11/5, 浜崎まさえ
こんばんは、ご無沙汰しておりました。
「排骨湯麺とペプシコーラ」オフ、参加希望します!
大江ファンの方と、実際にお会いして色々とお話できるのを楽しみにしております。
 最近は、「燃え上がる緑の木」全三巻、「いかに木を殺すか」を読み、その後
再び「宙返り」下巻を読み返し、今は「ピンチランナー調書」終盤にかかっています。
つぎは「懐かしい年への手紙」、「同時代ゲーム」を読もうと思いますが、
忘年会に間に合うかどうか・・
 ではでは、短いですが、今回はこの辺で。どうぞよろしくお願いします。
1999/11/4, AMADEUS
今晩は。
 わたしは、大江氏の愛読者の集まるこの掲示板のいかなる発言に対しても、批判なぞしなかったつもりです。
 わたしの言葉は、自戒を込めた自分自身へのものであったようです。
 それにしても、<宙返り>の大江氏は、ずいぶん危険な問題と取り組んでいるようです。そもそも、思想というものが、危険な問題を含むようです。そのための自戒です。
 到達すべきところは、明らかです。明らかに、見えてくるのです。
 しかし、そこへ到る過程は、正直のところ、単純ではなく、困難を極めていると 言うのが、正しいようです。あらゆる最高の芸術作品は、われわれも、読んだり、聴いたり、見たりできます。しかし、いかにして創造されたか、誰に分かるというのでしょうか?できあがったものしか、見えないのです。誰に、辿りなおすことができるでしょうか?
 到達点の表現は、否定的にきこえるかもしれませんが、こうなります。
 森 有正氏。
 「皿一枚が、正しく洗えるかどうか、ということです。上手か下手かじゃない。正しいか正しくないかです。それができないひとが、思想がどうのこうの言っても、わたしは、信用しないのです。」(すみませんが、精確な引用が、今できません。書物から探せないのです。)
 大江氏。
 「ドゥル−ズの解説によると、スピノザのいうエチカはモラルとは別のもので、生のありかたの質的な差異、つまり「良い」「悪い」をそれにとってかわらせたものだということです。」(「日本の私からの手紙」P.135)
 こういうことです。
 ここには、何かよく言い表すことのできない「秩序」の世界が、のぞいて見えるようです。
 それでは、また。
1999/11/4, いとうくにお
natsuさん、おひさしぶりです。かなりの行数がまるごと文字化けしてましたので、その部分カットさせていただきました。もしよければ、メールででも再送していただけないでしょうか。ララさんも、できましたらお願いします。
さて忘年会ですが、
日時 12月10日(金) 7時から
会場 成城飯店(小田急線成城学園駅そば)
集合 成城学園駅改札
にしましょう。大江さんが光さんを連れてよく訪れた店ということで、ここを会場にするわけですが、店に電話したところ、予約は受け付けてないとのこと。早めに誰か行って場所を取ることは可能だそうです。10人くらいまでならなんとかなりそうです。というわけで、参加ご希望の方はその旨ご連絡ください。投稿でもメールでもけっこうです。(太字を使うとイーヨーの言葉みたい…)
成城飯店が暖簾分けし、いまは成城飯店では提供されていない排骨タンメンを現在も出しているという七面鳥にも電話したのですが、ここはカウンター席(11人分)のみなので、二次会として立ち寄って、排骨湯麺を食す、というぐらいがいいのではないかと思います。
1999/11/4, natsu
いとうさん、みなさま、こんにちは。お元気ですか?
ずっと暖かだったからそれで季節をまちがえた、というわけではないけれど、いとうさんのメッセージに「忘年会」の文字を見つけて、びっくりしてしまいました。今年ももう終わってしまうのだな、と気付いてハッとしました。進まない季節をいいことに、わたしは、すっかり浮世離れした怠惰を決め込んでいました。。
わたしは、なんだか「魂のことをする」ということにずっとこだわっていて、掲示板に書き込まれるいろいろなご意見を読みながら、ぐずぐず考えていました。それで、おもうのですけれど、「魂のことをする」=「人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていく」ということに、わたしはそれほど違和感を感じていないみたいです。どうしてかというと、現代の「超越の問題」(たとえば宗教)に有効な考えを導きだそうとするとき、<対抗する>強い物語を作り出すというのではなく(それでは、いつまでも同じ事の繰り返しになってしまうから)、むしろ、宙返りの連鎖の円環から<抜け出していく>ズレていくことが必要なのじゃないか、と思うからです。その抜け出し方の大江さんの答えが、「魂は(何かに対立するものではなく)総合的にとらえる=統合するものだ」ということなのではないかと思うのです。超越にむかって激しく突き進もうとする強烈なロマンティシズムの向かうところを<外側>に求めるのではなく、自分の<内側>にだけ確かめて、現実を見据えて賢くディーセントに生きていくこと。
いとうさんが、トップページに大江さんの文章を載せてくださいます。数行のその文章に触発されそこから広げていろいろなこと、考えられる気がしてうれしいです。このまえは「育雄、ヤハリ、神ノ声ガ聞コエナクテハ、イケナイカネ? 神の声は、イラナイノジャナイカ? 人間は、自由デアル方ガ、イイヨ。」というものでした。この文章から、「激しい超越への思いを自分の<内側>にだけ確かめる」ということを思いました。自由って何だろう、と考え憧れます。わたしも、とんぼ返りの真っ最中ですが、人生の最後にrejoiceと言えたらいいな、と思います。
・・怠惰な日々に何度か、考えたこと、掲示板に書き込もうと試みたのですけれど、いつも途中で挫折しました、今日は、なんとか最後まで辿り着いたけれど、やっぱりうまく言えない。考えを上手に簡潔に言うことはとっても難しいです。忘年会に参加できたら、また、いろいろご意見を聴かせてください。
今日から寒くなるそうです。いとうさん、みなさま、お元気でお過ごしください。
1999/11/4, Jolly Joker
ララさんの御意見、頷きながら読みました。例えはうまくないかもしれませんが、リンゴが赤く見えるか青く見えるか、といった提案があるとして、そんな事話す次元のものか!?といわれるのは、しょんぼりですよね。AMADEUSさんは、老婆心とおっしゃっているので、ただはねつけたとも思っていませんが。
いとうくにおさんという、うまいまとめ役がいらっしゃるからこそ「いいページ」なのですよね。いろんな意見があるからこそ面白いのだし。私も含めて、もっと自分を解放できればと思っています。余談ですが、大江さんのちっこい目がかわいいです。なんかアカデミックな雰囲気を一気にミーハーチックにしてしまいました。できればララさんの文字化けしたところ読みたいです。
1999/11/4, いとうくにお
「燃え上がる緑の木 第一部」をいまだに読了していないのですが、渡辺一夫の「ヒューマニズム考」にも手をつけました。まだ出だし部分ですが、自分を巨像をなでる群盲の一人と比喩する謙虚な姿勢に驚いたしだい。渡辺一夫を読むのは初めてなので、この先が楽しみです。
1999/11/4, ララ
><宙返り>は、作曲家・武満 徹に捧げられたのですから、氏の音楽を聴くほうが良いと思います。
 映画音楽があって、<砂の女>の音楽や<利休>の音楽は、素晴らしいものです。
 「神」や「魂」は、あるか、ないか、のどちらかでしかありません。そこから、論議を始めることは、無駄です。その存在証明は、結局のところ、「証明」にはならないようです。
 「平和」について論議していて、大喧嘩を始める愚行は、避けたいものです。それは、政治の世界で、われわれがよく見ていることです。
 それでは、また。

と、AMADEUSさんの投稿を読みました。たぶん、私しか平和(戦争)という事について言わなかったわけですから、私に付いて言われたものかと思いました。まちがっていたら、すみません。で、ひとつひとつ、答えさせていただければ、私はまだ一度しか『宙返り』について、言及したつもりはありません。だから、べつに、『宙返り』についていったわけではないのです。また<「神」や「魂」は、あるか、ないか、のどちらかでしかありません。そこから、論議を始めることは、無駄です。その存在証明は、結局のところ、「証明」にはならないようです。「平和」について論議していて、大喧嘩を始める愚行は、避けたいものです。それは、政治の世界で、われわれがよく見ていることです。 >ということですけど、確かにその通りです。けれども、ここは、大江さんのぺーじですし、私は、自分の意見を言ったというよりも、大江さんはどう考えてるのかということを、私なりに考えたものに過ぎません。以前、私は、このページはいいって、かってながら言わせてもらいましたが、それは、このぺーじには、いとうさんと、大江さんの管理人が二人いると思ったからなので
(ララさん、ここ文字化けしてました(いとう))
NHKで、大分前に、カミュのドキュメンタリーがやっていました(ちょっと、記憶が定かじゃないのですが)。カミュは、なによりも、自分を支持してくれる人達を、大切にしたということです。ナレーターがだからこそああいう仕事ができたのだと解説していましたが、(大江さんはサルトルよりもカミュのほうが自分に近い、といっていたからですが)私はそういうのを(大分飛躍しすぎてますが)魂をする場所、または、場所の力だと思うのです。私はこのページがいいと思ったのは、まさにそういうところだと思います。大江さんの小説を指針に置きながら(バイブル、笑)、これは、どう言う意味だろう、ということを、または、感想でも良いんですが、考える場所であれば、それは、良い事だと思った次第なのです。その場合に、間違う事もあるでしょう。けれども、間違いを正す言葉は、大江さんの言葉に必ずあるはず。私はこんなに、いくらパソコン上だといっても、モラルが確保された、あつまりはないとおもっています。しかも、いろんな人が入ってくる中で。もちろん反対意見もいいとおもいます。私は、大江さんの小説が、かならず、ひとつの考えにいくか、はなれ
(ララさん、ここも文字化けしてました(いとう))

 今月の人生の細部は、終わってしまいました。最後に、また、引用させてもらって終わりたいと思います。
<ところが、そのような思いに立って「文化」としての人間を、具体的、総合的に話すつもりになると、自分にとってかれらの仕事が年々大切さをましているのはあきらかなのに、こまかな問題点があいまいになっているのを発見します。かれらの語り口がくっきり残っているだけに、自分の言葉でこう要約していいか、とつまずくのです。>
 私自身、あの文章を書いていて、どこか、大江さんから離れてしまっていると感じたのですが・・・。この文章を、私自身の前回の反省と、みなさんからの、批判に期待、とするしだいです。いとうさん、偉そうに言ってどうもすみませんでした。こんなこというのなら、自分のページを作れって言われてしまいそうですが・・・(笑)。
1999/11/3, AMADEUS
今晩は。
 わたしは、一見、書物や音楽等に埋もれているように見えるかもしれません。
 しかし、違います。
 それは、書物を閉じて、日常生活の行動をおこすだけで、十分です。
 すべての責任は、われわれにかかって来ます。
 「洪水」が世界を覆っている、というのは、現実です。
 ランボ−ではありませんが、「新しい時というものは、残酷」です。新しい時を生きるというのは、残酷なことです。これは、確かなことです。
 それでは、また。
1999/11/3, たなか
娘のために本を買いました。マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』とセルマ・ラーゲルレーフの『ニルスのふしぎな旅』です。そう、大江さんが少年時代に親しんだという、ふたつの作品です。版は違いますが。
『ニルスのふしぎな旅』は山室静訳の講談社青い鳥文庫版ですが、その表紙をめくってびっくりしました。カラー写真に「少年時代からあこがれていた、ラーゲルレーフの家をたずねたノーベル賞作家の大江健三郎さんと光さん。」と。いや、それだけなんですけれど。
忘年会には参加したいです。
1999/11/3, AMADEUS
皆様、今晩は。
 ひとつ、老婆心から、苦言を呈します。
 「神」とか、「魂」とかについては、言葉から出発して、形而上学へ行きっぱなしにならないようにしてください。危険なことです。
 <宙返り>は、作曲家・武満 徹に捧げられたのですから、氏の音楽を聴くほうが良いと思います。
 映画音楽があって、<砂の女>の音楽や<利休>の音楽は、素晴らしいものです。
 「神」や「魂」は、あるか、ないか、のどちらかでしかありません。そこから、論議を始めることは、無駄です。その存在証明は、結局のところ、「証明」にはならないようです。
 「平和」について論議していて、大喧嘩を始める愚行は、避けたいものです。それは、政治の世界で、われわれがよく見ていることです。
 それでは、また。
1999/11/3, AMADEUS
今日は。
 松本様、わたしは、寺田 透氏を敬愛するもののひとりです。バルザック読みとして、氏は有名ですが、わたしは、まだ読んでいません。
 目下読んでいるのは、最初のほうの寺田 透評論ですが、筑摩書房の<私本 ヴァレリ−>は、愛読書です。「ヴァレリ−のダ・ヴィンチ論」や<『二十五時』 と『1984』、あるいはわがヴァレリ−>、「ニヒリズムの周辺」、「コンセ プシオン」は、しばしば読みます。
 わたしは、寺田氏があまり多くのひとに読まれていないのが、不思議なのです。
 氏の文章は、一種独特なものですが、わたしは、その熱度の高さが好きです。
 「評論」以降の著作は、ほとんど所持しています。
 「評論」は古本屋で購入しましたが、どうしても入手できなかった「ことだまの運命」は、わざわざ思潮社まで、出向いて、入手しました。
 「道元和尚廣録」上下2巻には、驚いてしまいました。
 余談ですが、わたしは、横浜の中区に住んでいて、氏は、磯子区なのです。氏が亡くなられた日本赤十字病院は、歩いて行けるところなのです。何回も、氏の住んでいられる傍を通りましたが、お邪魔はしませんでした。
 という訳で、<宙返り>の読書は、上巻・8章で、停止状態です。もう出版されて5ヶ月が経過しようとしていますが、年内には、読了するつもりです。
 O'CONNORさんは、ギュンタ−・グラスを読んでいたようです。サルトルやベケット、パウンド、イエ−ツも。すごいものですね、外国の作家というのは。
 それでは、また。
1999/11/3, ノン
いとうくにおさん、むらかみさん、松本さん、抽象的すぎる質問なのに回答してくださって感謝しています。ノンが、卒論として研究していたのは、「原作コミック版風の谷のナウシカ」なのです。先の問いは、その物語の中で描かれているナウシカと「オーマ」との関係性から生まれてきたものです。ゼミで問いを発したノン自身、そこから、ふと世界中の宗教・文化の中にある「神」という概念、またその在り方に興味を持ちました。「ナウシカ研究」をしていた時にはできなかったけれど、松本さんのおっしゃる通り、一つ一つ「神」を検証していくことが必要ですね。
1999/11/2, いとうくにお
あらたさん、情報ありがとうございます。奇しくも昨日は朝日新聞にも大江さんの文章が掲載されていました。
1999/11/2, あらた
ちは。
昨日の読売新聞夕刊に大江氏の文が載っておりました。
ご参考までに。
1999/11/2, 松本
みなさんこんにちは。
 神の自己認識の問題につき一言。
 私もよくわからないのですが、もし人間が神というものを設定しているのであれば、人がどのような神を求めるかによって、すべては決まるのではないでしょうか。自己を「神」と認識するような神を望むのであれば、人格神的な神が誕生するだろうし、むらかみさんが指摘されたような全知全能の神を求めるのであれば、そのような神が誕生するでしょう。事実、人類の間にはさまざまな神が存在するのですから、抽象的に一般化して、神は自己を神として認識しているかどうかという質問は、おそらく神の種類数に応じた回答が可能なのではないでしょうか。結局、自分はどのような神を神として立てるのか、という前提を抜きにしてはまともに答えられない問題だと思います。
 AMADEUSさんへ。
 寺田透を読んでいる方に久しぶりに出会い、うれしく思いました。私も、思潮社版の寺田透・評論(第I, II 期)を繰り返し読んできました。『ドストエフスキーを読む』は絶版になっています。私はかなり以前古本屋で見つけて、難解な文章にとても苦労しながら読みました。作品世界へと直接これでもかこれでもかと入っていく寺田さんの態度に深く打たれた記憶が残っています。バルザック論はもう読まれましたか? 寺田さんのバルザック作品論は、私には小説を読む手本のように思えます。第II期の1巻に大江さんの『個人的体験』について書かれた文章が載っています。短いものですが、まぎれもない寺田さんの文章で、大江さんが論じられています。
1999/11/2, AMADEUS
以前、樹杏(JEAN)を名のって書き込みいたしました。
 近況報告させてもらい、残念ながらオフ会不参加とさせてください。
 最近、筑摩書房から出版された<森 有正エッセイ集成>全5巻を目下精読中です。全集は所持して読んでいましたが、今回何度目かの読み返し作業をしています。(残念なことに、重要な作品が収録されていません。「経験と思想」ですが。)
 寺田 透評論(思潮社版)も、少しずつ読んでいます。道元論は収録されていますが、圧巻のドストエフスキ−論は、収録されていません。外国の作家では、マルケスの<百年の孤独>を翻訳で。
 O'CONNORは、原書で。(何せ、語学力がないもので、数年かかることになると思います。)ことに、<THE HABIT OF BEING>は、去年から読んでいますが、進捗しません。<WISE BLOOD>が誕生する経緯は、感動的です。難病の最初の襲撃の直後、作品が<WISE BLOOD>と命名されています。
 音楽は、ストラヴィンスキ−とバルト−ク、リゲティ、メシアン等々。
 もちろん、武満 徹もです。録音と総譜は、完備しています。
 少し楽器をやりますが、現代音楽は、難しすぎます。
 どういう訳か、造形芸術が、苦手です。
 ひとり、フランシス・ベ−コンだけは、興味を引きます。
 皆さんご存知でしょうか?
 武満 徹の<グリ−ン>という作品は、作曲家の身近な人々の子供たちに捧げられています。大江氏のひかりさんも、そのなかのひとりです。
 それでは、また。
1999/11/2, むらかみ
 ノンさん、はじめまして。
 「神は、自分のことを神と認識しているのか?」という興味深い問いですけど、「神」を「全知全能、すべてを所有している」と定義するならば、当然、「『自分が神である』という認識」も持っているだろうと思えたりもするのですが、しかし、そもそも「自分」という認識は、「自分ならざるもの」がなければ存在しないとも考えられ、するとなると、神の外部に「非・自分」が存在することになって、「神は全知全能、すべてを持つ」という定義と矛盾するなあ、という結論に陥り、逆に「自分のことを神と認識していない」とすると、これも全知全能でないということで定義と矛盾し、要は、いとうさんの言うように、この質問は成立しないっていうことになるのでしょうか。僕は、この問いをみて、「『この文は偽である』という文は真か偽か」という、嘘つきのパラドックスを思い出しました。自己言及がよくないというか、たぶん、自分という言葉が、神にとってはよろしくないのでしょうか。こじつけになりますが、大江氏の小説というのは、『宙返り』のように、「宗教団体(のようなもの)」を描くときにも、神からは遠く、とことん世俗的なところが、僕は好きなのですども。
 忘年会、いいですね。12月に入ると、毎年、てんやわんやの日々が続くのですが、夜遅くからの参加でもよかったら、今回もぜひ交ぜてください。
1999/11/1, ララ
こんにちは。そして、はじめまして。
 人間は自分の感情なしにはなにひとつ考える事ができないと思います。だから、誤読があるかもしれません。
 武奈彦さんがいっていられる「精神と魂」の本ということですけど、武奈彦さんが、言われる「精神と魂」と言う事については判りませんが、この国で戦後、最初に魂について言ったのはユング派心理療法で第一人者の河合隼雄さんだと思います。(日本人と心理療法 講談社プラスアルファ文庫)を読んでですが、心理療法とは、社会に関わっていきながら、治療者と協同でいっしょに、心を見つめ、頭で考え理解していくということだというふうに思いました。治療ということについて、河合隼雄さんは、魂を癒す事と言っていたような気がしますが、というのは、いま、その本が、手元にありません(人に貸したままなので)。私は患者さんが(確か河合さんはこういう言い方を避けていました)がそういう経過を辿って回復をしていく姿を想像すれば、魂について感じるための素養みたいなもの、または始まりをクライエントに感じます。大江さんは方法論のひとですけど、生きる技術、心で考える事、頭で考える事、とはそう言う事だったのではないかと、私は思えました。もちろん、河合さんとは何ら関係ないと思います。大江さんは、河合さんの事を、『ゆるやかな絆』で遠まわしにあいまいだとよびかけていました。言われてみれば、その通りなのです。た
だ、河合さんは、私が日本の知識人の中で信頼できる一人だとも思っています。
 私は大江さんの底にあるのは、戦争だと思います。この地球上であった、数々の暴力(間違い)の悲惨への反省(絶望と脱出)と言ってもいいと思います。そこに、大江さんのロマンティシズムがあると思いますが、で、大江さんは、安部公房さんが言っているという言い方で、あの戦争は、弱い人間がやったものだと、どこかで言っていたように思います。ヒトラーは子供のころ、虐待を受けていて、その後の行動にもそれはうかがえますが、私は、人間の問題について、先天的なものか、後天的なものなのか、わかりません。けれども!、結果的にヒトラーは弱い人間だったと言う事のように思えます。そんな中で大江さんはそう言う弱い人間でないためにも生きる技術ということを、魂をかんがえると言う事の上で言いたかったのではないかとも私は思えました。ただやはりそう書きながらもできる人たちへ期待をこめて言ったという風に思います。
 今月の「人生の細部」でファシズムについて外国人の新聞記者から質問を受けたのに際して、答えたものが載っていたので、引用させていただきたいと思います。<難病と闘いつつ優れた作品を残した、あなたの国の作家フラナリーオコナーが、子供の苦しみへの大人の反応について、こう書いたことがある。優しさが、あふれる悲しみにおぼれて、優しさのみなもとにある人間的な力から離れてしまえば、そのむかうところは恐怖だ。強制労働キャンプやガス室の煙に行きついて終わる。
 つまり、苦しんでいる子供をリアルに見つめて、かれらの役に立つことをしようとするのが、人間的な力と結んだ優しさなのだ。それなしでただ悲しみ、恐ろしいと思ったりする―あれはヒドイ!という者らもいる―、そこでむごたらしい子供たちを人目につかぬ所に隔離したり、「安楽死」を考えたりもする。
 その極限に、ナチスのやったことがある。それはファシズムだが、まず出発点には人びとに共有されるセンチメンタリズムがあったのだ。>
 また、このあとには、「ウソの隠れミノ」ということについて、書かれていました。
 最初の投稿を大分改めさせてもらいました。いとうさん、みなさん、どうもすみま
せんでした。
1999/11/1, いとうくにお
オフ会の日時ですが、12月10日(金)希望という声も届いています。他のみなさんもご遠慮なくご希望をご連絡ください。
1999/11/1, いとうくにお
忘年会、やりませんか。題して”排骨湯麺とペプシコーラ”オフです。場所は大江さんの地元、成城学園にある『成城飯店』(いまは排骨湯麺とペプシコーラはおいていないそうですけども…)。12月17日(金)か22日(水)の夜7時からでいかがでしょうか。ちなみに22日の翌日23日は祝日です。日時についてのご希望がありましたら、ご提案ください。
1999/11/1, いとうくにお
ノンさんの投稿の冒頭が文字化けして「■り」となっていたのですが、「宙返り」だろうと思われましたのでそのように修正しておきました。違ってましたらご連絡ください。
質問の件ですが、難しいですねえ。僕は無神論者なので、「もし神がいたら」と仮定しての回答になりますが、神と人間では使う言葉が違うでしょうからその質問は成立しないという答えではどうでしょうか。あるいは、神は、人間が自分のことを「神」と呼んでいることは知っている、という回答はどうですか。
1999/11/1, ノン
「宙返り」を読んで、2年前に大学の卒論で挑戦しようとしていたことを思い出しました。それは、「神は、自分のことを神と認識しているのか?」ということです。
当時の担当教官に、この問いをぶつけたところ、「それは今すぐここで答えられる問いじゃないなあ。」と言われてしまいました。当然ちゃ当然ですね。
そこで、大江読者のみなさまに質問です。「神は、自分のことを神と認識しているのでしょうか?」
1999/11/1, toko
こんにちは。たなかさん、『叫び声』の文庫を教えていただきありがとうございます。古本屋さんと本屋さんに走り込みしてきます。いとうくにおさん、私も表面的読み方で楽しんでるクチです。
1999/10/31, いとうくにお
ノンさん、tokoさん、よろしくどうぞ。tokoさんがおっしゃるように、大江作品は、難解だという風評はありますが、案外読みやすかったりしますよね。深く読み解くのは大変かもしれませんが、僕のような表面的な読み方をするものにとっても面白いです。
1999/10/30, たなか
tokoさんはじめまして。
『叫び声』は、ずばり『叫び声』という題名で講談社文庫版がありました。
現在は同じ題名で講談社文芸文庫版があります(これは980円と、文庫にしてはちょっと高いので、古本屋さんで講談社文庫が見つかったらラッキーかもしれないです)。
ノンさんはじめまして。
その番組、見たかったです。(T_T)←なぜか泣く
1999/10/29, ノン
はじめまして、ノンです。3日前に「宙返り」を読み終えました。大江氏の小説を読んだのは、今回が初めてです。「宙返り」を読もうと思ったきっかけは、朝の「はなまるマーケット」に大江氏が出演して、「魂のことをしてください。」といわれたこと。「魂のことって何?」と思いつつ「宙返り」を読みましたが・・・。読後感は・・・、もうちょっと時間が必要です。
小説って、国語的な想像力を抜きにすると、作者が書いたことしか読者は知り得ないんですね。いまさら何をと言われそうですが。・・・パトロンという人物が、読み進めていくうちにハッとするほど多面的な表情を見せてくるにつれ、そう思うようになりました。
1999/10/29, toko
最近読み始めました。ノーベル賞作家ということで読み難いものかと思っていたのですが、以外にも読みやすく、しかもわたしには面白かったです。そこで、今探している大江健三郎氏の短編があるのですがどの本に収録されているのか分かりません。もしお分かりでしたら、どなたか教えて下さい。題名は『叫び声』です。お願いします。
1999/10/28, いとうくにお
マーフィーさん、こんにちは。17歳にとって大江文学はどのように映ったのでしょうね。僕は30を過ぎてから読み始めたのですが、それでもずいぶん強い印象を受けましたから、十代だったらさらに強烈かもしれませんね。
Cocoさん、こんにちは。読書会ですか。『個人的な体験』は取り上げがいのある作品ですね。レポート、がんばってください。もしよければレポートをここにも投稿してみませんか。
1999/10/27, Coco
みなさん、はじめまして。Cocoといいます。
大江氏の作品は『芽むしり 仔撃ち』を先日初めて読んだだけなのですが、
なんの因果か、友人たちとやっている読書会で、私が来月の幹事に選ばれたもので、『個人的な体験』を取り上げることにしました。レポートを書かないといけないのでちょっと大変ですが、このサイトを参考にいろいろと考えていこうと思っています。
1999/10/27, マーフィー(21歳学生)
こんにちは!はじめまして!
僕は、17の頃に始めて、大江作品を読みました。というより、これが僕の読書らしい読書でした。だから、文学青年ではありません。今でも、その時、その時の辛い状況を乗り越えるために大江作品を読んでます。今まで、後期の作品が好きでしたけど、初期の方が多様な題材を扱っているので好きになりました。後期は、どうも、私小説的になってしまってるんで。吉本隆明さんは、その理由を比喩を多用しなくなったためとおっしゃってました。
今は、「万延〜」の世界を追求した作品を書いていた中上健次さんも好きです。中上さんは、やはり、終生、大江さんの影響を受けてたような気がします。「異族」は、アンラッキー・ヤングメンを真似してるだろうし。
ところで、外国の方も書いておられるので、びっくりしました。大江さん関連のHPとなるとやっぱり、違うなーと思いました。でも、お名前を拝見すると、日系の方が多いみたいですけど・・・。外国の方で読んでいる人は、少数派なんでしょうかね?
では!
1999/10/25, むらさき
こんばんは
武奈彦さん アドバイス有難うございました
さっき本棚の奥のほうから『万延元年のフットボール』を探し出したら
ホコリをかぶっていて可哀想だったので 本を水拭きしてしまいました
アドバイスの通り 始めの方はすっ飛ばしてしまおう!
でも 斜め読みくらいは しちゃおうかな・・・
つかぬ事お聞きしますが 
『武奈彦さん』って何てお読みするのでしょう?
それからバーバラさん
解説文だけ読んで感想文書いて単位をもらって喜んでいたのは 昔々の話しです 
生まれ変わった私は 歌って踊れる文学少女を目指します
オフ会に参加させて頂くのは それからです
まずはバーバラさんと 『まじめ』な文学のお話が出来るようになりたいな
1999/10/23, バーバラ
むらさきさん、こんばんは
今度『万延元年…』を読む時は、変なところだけ拾い読みしたり、解説のみで納得したりせずに、ちゃんと通して読みましょうね。(笑)
今度のオフ会一緒に行けるの楽しみ!!
(内輪の話しで失礼しました。)
1999/10/23, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。
 むらさきさん、万延元年のフットボールは、最初の40ページくらいはとばして、一族再会のところから読み始めるのがいいかもしれません。それなら一気に最後までいけるし、最後に、最初の40ページを読み返したくなるはず。
 先日、僕は「精神と魂」のことを書きました。ずっと気になっていたのですが、まだ件の文章はさがしあてることができません。精神と魂といえば、spiritとsoulの訳語であろうし、キリスト教でspirit、soul、bodyといえば、霊、魂、体と訳すのが普通だろうから、わざわざ「霊」を避けて「精神」としているところが、なんとなく大江さんらしいように思っていたのですが。
 で、昨夜も、家中が寝静まってから本棚をひっくり返して捜索していたのですが、さがしものの代わりに、大江さんの「僕が本当に若かった頃」を掘り出してしまいました。「懐かしい年への手紙」と「燃え上がる緑の木」の間に書かれた短編を集めたものですが、その最初の短編「火をめぐらす鳥」を読みかえして、しばし慨嘆。ああこれをわすれていたとは! わたしはうかつでした! 大江さんの「(私の魂)」がちゃんと書かれていたではないですか。
 他の作品もひじょうに読みでがある---短編としてすごくいい---ことを思い出しました。忘れていたへそくりを見つけたみたいで、すごくうれしくなったのでした。
1999/10/23, いとうくにお
ララさん、こんにちは。文字化けの個所を直したご投稿をいただいていますが、なぜか同じ個所が文字化けしています。変なコードが混入しているかもしれませんので、文字化け個所の前後をいったん削除してから入力しなおしてみてはいかがでしょうか。で、それを掲示板からではなくメールで僕のほうにお送りいただくのが一番確実だと思います。この件、メールでお送りしたのですが、なぜかメールがエラーになって返ってきてしまうので、ここでご連絡するしだいです。
1999/10/23, いとうくにお
みなさん、こんにちは。myonfaさん、むらさきさん、ヒミさん、はじめまして。ここはのんびりとしたペースでやってますので、気が向いたときにおいでいただければと思います。
犬小屋さん、ひさしぶりです。宙返りを読むための周到な準備を重ねてきているんですねえ。
1999/10/23, ヒミ
時々こちらにお邪魔しては、皆さんの議論を読ませていただいています。
私はもともと、燃え上がる緑の樹(しかも文庫版)からの大江読者です。
私の原点はまさにそこにあり、今日の私自身の思考・生活様式は大江氏の
影響下にあります。まだ若造である私が、これから先の困難な未来を思っ
たときに、こんなにも真剣に真面目に「問題」を考えつづけている大人(作家、
大江健三郎)の存在を知りえたことは、私にとっての救いそのものでした。
その後、燃え上がる緑の樹に至るまでを知りたくなって、初期作品から読み
はじめました。ちなみに今は、歴史のひも解きは休止して「宙返り」をよんで
います。昨日からようやく下巻を読みはじめました。しかし、大江氏の手段
のひとつである、「モチーフのリサイクル・引用の方法」によって、「最後
の小説」で印象深かった、人々がたくさん出てきました。
懐かしい、久しぶりね。歳とったね。
まず、登場人物達に抱いた感情です。
決してシリーズもの小説ではないのに、どこかで出会ったやつが現れる。
大江氏の創造力のたまものが、私の中にもきっちり住み込んでいやがる。
読み進めるのが楽しみでもあり、苦しくもあり。
時々読んでは、書き込みしていきたいと思っています。
1999/10/22, inugoya
お久しぶりです。ブレイクの版画をポケ〜っと眺めながら、ようやく布石となる本を大体読み終わったという感じです。専門書、文献までには手が及びませんが、ある程度無知をカバーできる程度は読み込んだと思います。
というわけで、来年三月くらいまでに宙返りを読もうかなぁくらいに考えています。
オウム関連の本をまとめて十数冊読んでいましたが、まぁオソマツ極まりない評論とも言えないような評論が腐るほどありました。最も酷かったのが板垣英憲のオウム真理教と宗教政治戦争という本です。ブンヤあがりが一番使えないという事を改めて実感させられました、やれやれ。どう酷いかは読んでみてください。俺だけ変な本を読んだ気がするのでいろんな人にコレを勧めています(笑)
宗教と生活との折り合いも含め、面倒で退屈な課題ばかりが頭に浮かびます。近代化のダイナミズムを味わう事無く、どぶさらいのような仕事ばかりが後世に残ってる訳です。オウムの現象はこれから生きて行く人間を陰鬱にします。
マトモな本では、特に、芹沢俊介のオウム現象の解読、村上春樹のアンダーグラウンドはみごとなできです。気が向いたらどうぞ。
魂に付いてですが、池田晶子という哲学者が魂についてという本を出ています。結局魂について旨く説明はできないのですが、魂を考えるに当たりその周辺の諸問題を提起し、なんとか解決しようという意欲に満ちた力作です。哲学用語を控えてあるので、俺でも読めます。哲学が難しいのは明治の天才達が悪い。
1999/10/22, ララ
こんにちは。そして、はじめまして。
 もうわすれておられる事だと思いますけど、前回、ミロさんに偉そうに言ってしまいましたが、私もまったくおなじ読み方をしているつもりなのです。なぜなら、人間は自分の感情なしにはなにひとつ考える事ができないと思うからです。だからこそ、私も、誤読をしないように、気をつけたいとおもいます。あれは私が勝手に大江さんと太宰さんの言葉を混ぜたものなのです。
 さて、武奈彦さんがいっていられる「精神と魂」の本ということですけど、武奈彦さんが、言われる「精神と魂」と言う事については判りませんが、この国で戦後、最初に魂について言及したのはユング派心理療法で第一人者の河合隼雄さんだと思います。(日本人と心理療法 講談社プラスアルファ文庫)からの、情報ですが、心理療法では、治療の一貫として、今まで通り、社会に関わっていきながら、治療者と協同でいっしょに、心を見つめ、頭で考え理解していくということはあるわけです。治療ということについて、河合隼雄さんは、魂を癒す事と言っていたような気がしますが、というのは、いま、その本が、手元にないもので。私は、この、人間を考えてきた人たちが考え出した舞台装置は、ある意味人間の本質を見極めていると思います。ちなみに、治療と言いましたが、別に普通の人にも、真に人間について考えたものであれば通用するものだと思います。病理学という分野もあるわけですから。どうでしょうか?
 私は以前、神の言葉を表現すると書いたのですが、誤解の可能性があると思いましたので、書きたいと思います。私が、最初に新約聖書を手に取ったのは太宰治ですが、やはり必要になってくるわけです。ですから、全く、別に大江さんとは、なんら、関係ないのです。たとえば太宰の言葉で思い出す事を言えば(パンドラの箱)のなかで、イエスキリストのことを、自由思想の大先輩じゃないかといったところ。私がまた思い出すのは、この日本は、西洋の100の建築物を勉強する前に聖書一冊から勉強するべきだったというところ。以前、この日本で、モラルハザードという言葉がはやったそうですが、いまから思い返してみれば、それは、私は、イエスがいないと置き換えても良いのではないかと思ってしまう今日この頃です。たとえば、私が以前、アメリカもキリスト教の国だと思いますが、アメリカの映画をみて、どうしてもわからなかったところなどが、そういうことで、わかってくるような気がするのです。(燃えあがる緑の木)でだれの発言だったかわからないのですが、新約聖書のだれの発言よりも、イエスの発言に興味をもつとかいてありました、また、大江さんが、
(この部分、文字化けして読めませんでした:いとう)
年といって、なぜならイエスに会いたいから、といってもいました。そんなところが、この掲示板に、神の言葉について書きたいと思った、動機かと思いますが、別に大江さんとキリスト教を、結びつける気は、さらさら、ないのです。ただ、やはり、すばらしい思想家や小説家に出会うたびこの人は神の言葉を知っていると思う事はあるあるのです。なん度も言うようだけど大江さんとキリスト教とを、結びつけるつもりはありません。もしそういう風に単純に結ぶことができれば、私自身、また、世間でも注目される事はないと思います。いまこの日本に、問題があったとしたら、それは、まさに、その単純さだと思います。
 私は、大江さんの底にあるのは、戦争だと思います。それは、この地球上であった、数々の暴力の悲惨への反省だと言ってもいいと思うのですが、そこに、大江さんのロマンチシズムがあると思います。それは、連合赤軍の総括についても。で、大江さんは、安部公房さんが言っているという言い方で、あの戦争は、弱い人間がやったものだと、どこかで言っているわけですが、ヒトラーは、確かに弱い人間だったようです。ヒトラーは子供のころ虐待を受けていたと言う事ですが、私は、人間の問題において、先天的なものか、後天的なものか、知りません。けれども、結果的に、ヒトラーは弱い人間だったと言う事だと思います。そんな中で大江さんはそう言う弱い人間でないためにも、生きる技術ということを、魂をかんがえると言う事の上で、言いたかったのではないかと、思ったのです
1999/10/21, たなか
みなさんこんにちは。
きょうは小石川後楽園のすぐそばにある日中友好会館というところに行ってきました。時間に余裕があったので、その中にある書店に入ってみました。棚に並んでいる本の大部分が中国で出版されたもので、日本で出版された本は中国に関するものだけがあるという書店でした。中国語は勉強したことがないので、漢字から内容を推測することしかできないのですが、なかなか楽しかったです。
日本文学の中国語版が並んでいるコーナーもありました。どういうわけか三島由紀夫の作品が最も多く並んでいました。その次に多いのが大江健三郎、僅差で川端靖成、それから安部公房、あと赤川次郎もありました。大江作品の書名は、中国語で書かれてもだいたい全部わかりました。『性的人』とか…。「ノーベル」も漢字2文字で書いてあったのですが、覚えていませんというか、知らない漢字でした。
それにしても、なぜ中華人民共和国で三島由紀夫の本がよく読まれているのか、ぼくには謎です。
1999/10/21, むらさき
皆様 こんにちは。初めて書きこみさせていただきます。
実は私 大江氏の小説は最後まで読んだ事が無いのです。
大学時代に教授から『万延元年のフットボール』を読むよう言われた事があるのですが、頭がこんがらがってしまい、最初の1ページでダウンしてしまいました。(皆様に怒られそう・・・)
現在、私の職場に大江氏の小説の大ファンの先輩がいます。その先輩から
ときたま、大江氏の小説の事などチラリとお話を聞くことがあったりして、
「また私も読んでみようかな」という気分になったりします。
皆様方が書き連ねたこの掲示板を拝見いたしますと、私などが書き込むのはいささか気が引けるのです。でも たまにはこういう書き込みがあってもイイですよね。次回、書かせていただく時は、大江氏の小説の感想を書きたいな!と思います。
1999/10/20, myonfa
皆様初めまして私も30年来大好きです。大江さんの優しさに惹かれて皆様の様に深く考えてのものでわありませんのでお仲間に入れて頂けませんがこのページを楽しませていただきたいとおもいます。魂のことではまるで対極にある高橋たか子(私の通った路は)感銘しました。
1999/10/19, 松本
 みなさん、こんにちは。
 ITTENさん、「場所には力がある」に関して教えていただき有難うございました。
 むらかみさんが抱いておられる(10/15)、『宙返り』における四国の森に対する不満、納得しました。たしかに、大江さんの四国の森の教会はどこかしら「閉じられ」ていて、外部世界との本格的な摩擦、または外部世界へのルートが欠如しているようです。
 れんさんは「大江さんはオウム真理教の信者、また新興宗教救いを求める人たち、そして新興宗教を頭から敵対視してしまうような人たちにメッセージを伝えたかったのでは?と感じました」(10/19)と述べておられます。私もそうだろうと思います。ただ、彼の伝えようとしたメッセージ、とくにパトロンの「宙返り」と自死をつうじて彼が伝えようとしたことは、オウム真理教を乗り越えるようなものでしょうか?また新興宗教を頭からてきたいししてしまう者たちに対して説得力を備えているでしょうか? 私は大江さんの意欲と真摯さに感動を覚えはするものの、その点で否定的にならざるを得ません。
 そのように思えてしまうのは、反省してみると、むらかみさんが指摘された四国の森の共同体の閉鎖性(つまり、大きく社会とかかわりながらの展開の欠如)、ミロさんが確か読書会で示唆されたと思いますが、聖書の「ヨナ」の物語への安易な依存、それに、主要登場人物それぞれの魂の問題が実感として伝わってこないこと(つまり、木津先生が描いた絵のように、登場人物たちはどこかしら図式的な枠組みを出ていない)、以上のようなことに起因するのではないでしょうか。
 村上春樹さんが『アンダーグラウンド』の最終章でオウムのサリン事件に触れ、「私たちの多くは麻原の差し出す荒唐無稽なジャンクの物語をあざ笑ったものだ。そのような物語を作り出した麻原をあざ笑い、そのような物語に惹かれていく信者たちをあざ笑った。… しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?」と、小説家としての自らの役割を確認するかのように、疑問を提出されています。大江さんの今回の作品はこの意味で大きな意義があった思います。
 ただ、『宙返り』は「麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語」の域には達していないと思います。その原因は上に挙げたようなことにあるのでしょうが、同時に、この小説はそもそもわれわれが共有できるような物語の提出を意図して書かれたものではないことにも原因があるように思います。バーバラさんが言及されたように、大江さんは「ダ・ヴィンチ」のインタビューで、『宙返り』を書き終え「そういう(信仰を持つ)気持ちから切り離され、本当に自由になった気がします」と述べていますが、自己の信仰をめぐる問題の決着のほうが大江さんにとってより重要であったのでしょう。
 そもそも (と、つい言ってしまうのですが)、この作品の要になっている「ヨナ」の説話が、大江さんの読者の大半を形成する日本の読者にとってなぜ重要なのかよく分からない。大江さん自身にとってなぜ重要なのかもこの作品自体から分かるでしょうか?「ヨナ」の説話がこの作品を導く物語の種子として十分に熟していない感じを受けます。大江さんはこの説話から議論を引き出していますが、この説話が豊かに孕んでいるはずの物語を引き出してはいないのはないでしょうか。
 まだまだ言い足りないような気もするのですが、徹夜をした後の身にはこれ以上書くエネルギーが残っていません。これで失礼します。
1999/10/19, いとうくにお
みなさんの「魂」のお話し、なかなか興味深いですね。魂で思い出すのは「日本代表としての誇り、魂は向こうに置いてきた」というカズの言葉だなあ。関係ない話ですみません。
1999/10/19, れん
「宙返り」について、みなさんの様々な感想、興味深く読ませて頂きました。
私も「宙返り」は飲み込めきれないところもあったのですが、大江さんは
オウム真理教の信者、また新興宗教救いを求める人たち、そして新興宗教を頭から敵対視してしまうような人たちにメッセージを伝えたかったのでは?と感じました。
今、この現在、既成の宗教では支えきれない不安が世界的に渦巻いているのではないでしょうか?「哲学」でも「宗教」でもない、「魂のことをする」という言葉に
大江さんの今を生きる人達の生き方、在り方のメッセージが込められてる気がしま
す。
うまく表現できなくてすみません。
私の場合、とても感覚的に大江さんの作品を読んでしまってるので、もう少し
じっくり読み直してみようと思います。
1999/10/15, むらかみ
 みなさん、こんにちは。
 松本さんが先の書き込みでおっしゃった、「作品世界に沿って考えていくと四国の山奥に『魂のことをする場所』を設定したのには必然性がある」というのは僕も理解できます。まさに「場所には力がある」というか、四国の森でなければ、物語が展開していかないという側面はあると思います。一方で、『宙返り』で描かれる四国の森は、『万延元年のフットボール』や『懐かしい年への手紙』あるいは『燃えあがる緑の木』に比べると、土地の住民との葛藤関係が薄まっていて、「教会」が、より閉じられたというか、静かな共同体になっているという印象を受けました。登場人物の多くは、「世界の終わり」のヴィジョンを素直に受け入れているし、「無敵の千年王国」とか「小説家大江健三郎の安全地帯」とかいう言われ方も(前出の福田和也の批評)も、全面的には賛成しないまでも、そう捉えられても仕方がない部分はあると思います。
 また、「魂のことをする場所」というのも、僕にとっては、いまだに捉えきれない概念です。キリスト教あるいは宗教に関する基本的な教養が欠けているせいか、「魂」といわれると、怪談に出てくる空中を浮遊する青白い火の玉なんかをまず想像してしまったりして(笑)、最初、違和感がありました。さらに、「魂」の「こと」を「する」「場所」と、ただでさえ難しい「魂」にあいまいな概念がいっぱいくっついているため、ますますわからなくなり、大江氏の日本語の用法と自分の使い方の間に大きな差を認めて、まずそこからつまづいているような感じです。本当にこれだけいろいろ考えさせられる小説っていうのも、90年代では珍しい存在ですね。
1999/10/15, 武奈彦
いとうさん、みなさん、こんにちは。
 僕は、ずっと以前に「精神」と「魂」のちがいについて「精神とは、山の高
みに登って、遥か彼方までを見渡すようなこころのはたらきであり、磨けば磨
くほど、より透明に・より遠くまで見渡せるようになっていく。それに対して、
魂とは、深い谷間−−−昼でも暗くて視界もきかない深い谷間をもやもやと果
てもなく漂いつづけていく心のありようだ」というような文章を読んで共感し
た覚えがあります。そして、それは大江さんの文章だと思いこんでいました。
 それで、大江さんが「魂のこと」云々と言うのを聞いたときには、その文章
のいう「魂」のことだと思い、「同時代ゲーム」で描かれた四国の森の中の真
夜中の暗闇が(それから天狗の陰間の話とか)が思い出されて、なんだか納得
した気分になっていました。
 しかし、「人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくこと」と大江
さんが言っていると聞くと、違和感が感じられます。 総合的にとらえる? 
魂を磨く?
 改めて思い返してみると、「精神と魂」の文章が大江さんのものだというのは、
ただの思いこみだったような気もしてきてちょっと落ちつきません。どなたか、
「精神と魂」について上のようなことが書かれている文章(大江さんのものかど
うかは別にして)に心当たりがありませんか?
1999/10/15, ITTEN
「場所には力がある」とかく述べたのは原広司なりき。
「集落の教え100」(彰国社)をみよ。
1999/10/15, 松本
10・12日のむらかみさんの書き込みに《「魂のこと」に滋養を与える場所とは、スーザン・ソンタグのいう通り、現実の場所(例えば、どこか遠く離れたところにある共同体)である必要はなく、また、その場所はさまざまな社会に再び関与するのに適した場所であるべき、と僕は思います。》とありました。私も基本的にはそうあるべきだろうと思います。しかし、『宙返り』という作品世界に沿って考えて行くと四国の山奥に「魂のことをする場所」を設定したのには、必然性があるのではないでしょうか。大江さんは「場所には力がある」(17章)と考えます。都会と山奥では力の種類も度合いも異なるはずです。ですから、都会と山奥では、「魂のことをする」ことが異なったあり方になるはずです。大江さんはずいぶん前から四国の山奥の世界を作品の中で構築していますが、彼にとって、彼の思う「魂のことをする」にはどうしても四国の山奥という設定が必要だったのではないでしょうか。
 しかし、「魂のことをする」とは具体的にどう言うことなのでしょうか。大江さんは「ダヴィンチ」で「人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくこと」と述べています。この定義で納得できるでしょうか?「魂のことをする」=「人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくこと」。私には、この両者の間に大変な落差を感じます。「人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくこと」という定義の中には「魂」が存在しないのではないでしょうか。つまり、「人間のあり方を総合的にとらえる」ことにも、「自分を磨いていく」ことにも、魂は必ずしも関係しない。魂はもっと根本的な人間の存在のあり方と関係するはずではないでしょうか。少なくとも、『宙返り』という作品自体が示唆しているのは、「総合的」とか「自分を磨く」とかいう毒にも薬にもならない表現で定義されるような魂の問題ではないはずです。
 そもそもこの作品で大江さんは「魂のこと」をしているのでしょうか。たしかに、「魂のことをする」場所のありかを大江さんは探り出したようです。でも、私には、木津先生の魂も、育夫の魂も、パトロンの魂も、ガイドの魂も、ダンサーの魂も描かれていないように思えます。それぞれの登場人物の心理的解釈や自己弁明や自己認識の言葉が連ねてあるかもしれないが、魂のドラマと呼べるようなものが描かれているとは思えないのです。かなりあいまいなことを書き連ねましたが、皆さんはどうお考えでしょうか。
1999/10/14, いとうくにお
筒井さんから読書会の感想のメールをいただきました。それを筒井さんの了解のもと、掲示板に掲載させていただきました。筒井さん、ありがとうございます。読書会に参加されなかった方のために補足しますと、読書会に筒井さんが「レポート」(僕には論文レベルの深い内容に思えました)を用意され、それを中心に読書会が展開したのでした。そのおかげで読書会に芯ができてよかったなと、筒井さんに感謝するしだいです。
1999/10/14, 筒井祐一
 私は読書会にレポートを提出しました。長いレポートだったのでずいぶん時間をくってしまい、参加した皆さんには申し訳ありませんでした。でも皆さんが丁寧に聞いてくださってうれしかったです。私のレポートは形式的な内容に終始していました。すなわち「テン窪大檜の炎上=世界の終わり」とか「森生さん=ミネベの家畜とこども」というような仮説を積み上げていくことで、小説の構造(=形式)を明らかにしていく試みをしたわけです。
 読書会という形式のなかで、そういう形式的な立論をする態度がまちがいだとは思いません。私は意識的に形式的な態度をとったのだといいたい気持ちもあります。しかし一方で仮説がうまく機能していれば、それで小説を読んだつもりになって片づけてしまう落とし穴は常にあると思います。
 私もレポートを準備していく過程でそういう落とし穴に足を突っこんでいたかもしれないといま考えています。私は形式的であることに違和感を失くしていました。いとうさんから、自分は小説の面白さを言葉/文章の味わいとか、プロットのアイデアに見出す、自分は「宙返り」を面白いと思う、という趣旨の話がでていました。シンプルな言い方なのでともすれば素通りしてしまいがちですが、形式的な読書スタイルに対する批判なのだと思います。
 またミロさんから、キリスト教では原罪を信じるかがまず問われる、原罪意識がなければ救済への希求もない、しかるに「宙返り」にはどんな原罪意識があるのか? という趣旨の問題提起がありました。私は「原罪」ということがよく分からないといいましたが、「根拠」と言い換えればよいのではないかと思いました。小説が書かれたことの「根拠」です。
私は「宙返り」には(大江健三郎には、といっても同じですが)、「根拠」はあると思います。私はそういう点では大江健三郎を(言葉は悪いかもしれませんが)絶対に信頼しているのです。翻って、あなたにはどんな「根拠」があるのか、と問われたとしたら、私はどう答えるのでしょう。私は(読むことの)「根拠」に対してとてもあやふやです。
 いとうさんとミロさんの批判は同じことの表と裏だと思います。形式的に読む分には「根拠」を問う必要はないからです。
 くりかえしになりますが、私は形式的であることが悪いとは思っていないし、自分が「根拠」から逃げているとも思いません。少なくとも私は大江健三郎を読みつづけてきた、そのこと自体を根拠にしたいとも思います。そのうえで、あやふやであることもまた事実だと認めざるを得ないわけです。おふたりの批判を受け止めたうえで、私はそんなことを考えています。
1999/10/14, いとうくにお
Ichikawaさん、どなたからかメールはいきましたでしょうか?
ITTENさん、谷間の森への旅、うらやましいです。よかったら、どういうところだったかあとで教えてください。テン窪や大檜は実在するのでしょうか?
1999/10/12, kichikaw@bates.edu
飼育ni tuite oshiete kudasai.
watashi ha America no daigaku ni kayotteru Japanese student desu.
moshi daredemo kono "Shiiku" ga sukina hitoga itara, zehi
story wo oshietekudasai. america deha Oe Kenzaburo no book ga
nakanaka teni hairimasen. onegaishimasu.
Nihon go de e-mail shitekurete OK desu. E-mail shitekudasai.
Please!!!!
1999/10/12, ITTEN
今週末に、谷間の森に行ってきます。大瀬公民館に宿泊、陣ヶ森に登る予定。
先日はどうも、皆さん、色々とあたたかいメッセージを有難うございました。
1999/10/12, いとうくにお
みなさんそれぞれある種の「引っかかり」を感じたという点は、共通してあるようですね。
gustuvさん、はじめまして。『宙返り』はいかがでしたか。多くの方が、「引っかかり」を感じたということは、言い換えると、以前の作品のほうがもっとよかったと感じられたということかもしれませんね。僕自身は、『万延元年のフットボール』に一番強烈な印象を受けました。それと比べると『宙返り』は「安心して読める」という感じがありました。面白く読めたことは事実なのですが。
1999/10/12, バーバラ
『宙返り』を読み終わった後、私は大江さんがどうしてこの小説を書いたのか
考え続けてきました。先日の読書会で、その私なりの解答を話しましたところ
筒井さんに「それ、良くわかります」と言って頂き、本当にうれしいでした。
それは、大江さんが長年に渡り『信仰を持たない者の祈り』について考え続け(ある大江ファンの話しでは大江さんがこの観念を提出したのは1987年10月だそうですが)その苦悩の中で、『懐かしい年への手紙』から『燃えあがる緑の木』まで書き進んだわけです。その後、何年かを経て『宙返り』を書き彼は「そういう(信仰を持つ)気持ちから切り離され、本当に自由になった気がします」(ダ・ヴィンチ)と仰っています。
私はこの大江さんの長い間の苦悩から解放されるまでの彼の中での葛藤の『老廃物』とでもいいましょうか。排泄物のようなものがこの『宙返り』に全部込められていて、大江さんはこの小説を書くことでそれをきれいに処理したのではないかと考えました。これは、いとうさんのおっしゃっている彼のロマンティシズムにも通じるところがあるように思えます。
結局あの小説は特に大江さん自身の為に書かなければならなかったもので、彼自身を納得させるに充分なものだったのでしょう。しかし、読者にとっては、彼一人の世界に入り込み過ぎたものを引き出すには、追体験でもしない限り理解し得ないのではないかと私には思えてなりません。
1999/10/12, むらかみ
 大江氏は『宙返り』に関して、自分の持つ小説のあらゆる技法をすべて投入した、というようなことをどこかで書いていたように思いますが、そういう方法意識の現れが小説のあちこちにみられることが、読んだ人に違和感を抱かせているのかなあ、と僕はこの掲示板をみながら思いました。いとうさんや松本さんの読後感がそれと通じているかは、わからないのですけど。ただ、『燃え上がる緑の木』という「最後の小説」で小説の総決算をやったあとだけに、もはや以前のような小説には戻れないというのも理解できる気がします。
 それと、この小説での「大江さんの願望」でいうと、スーザン・ソンタグが朝日新聞の往復書簡で指摘していたように、「魂のことをする場所」が、ややもすると「何人かの人たちが小さな共同体に引きこもり、社会の堕落した価値観を拒絶して精神的な使命に殉じる場所」というイメージを与え、それがあたかも大江氏の「願望」であるかのように感じさせてしまうのでは、と思いました。「魂のこと」に滋養を与える場所とは、スーザン・ソンタグのいう通り、現実の場所(例えば、どこか遠く離れたところにある共同体)である必要はなく、また、その場所はさまざまな社会に再び関与するのに適した場所であるべき、と僕は思います。果たして『宙返り』を素直に読めばそうなるのかどうか、「魂のことをする場所」についてみなさんがどういうイメージを抱いたか、聞いてみたい感じがします。本当は、先日の読書会で聞いてみればよかったんですけど、料理を食べていたり、猫をいじっていたりして、頭がボケていまして(笑)、いまごろになってふつふつと疑問がわいてきた次第です。
1999/10/11, natsu
いとうさん、みなさま、9日の読書会、ありがとうございました。
いとうさんはじめ、たなかさん、ミロさん、バーバラさん、準備やらたくさんのお心遣い、ありがとうございました。後かたづけも大変だったのではないかと、恐縮しています。おかげさまで、時間がとても短く感じられたほど、楽しく過ごすことができました。ありがとうございました。
わたしは、ぎりぎりに『宙返り』を読み終えたので、まとまりもなく、よく考えられていない勝手な発言が多かった、と反省しています。今度は、きっと十分な準備をしていこう、と思っています。
大江さんの小説を読むと、いつも作品にぐいぐい引っ張っていかれる感じがして、読みづらかったということはなかったのですけれど、『宙返り』は、やはり他の作品に比べると、ちょっと意志的な集中力が必要でした。文体のせいかな、と思っていましたが、やはり、読書会で話し合われた「成熟」ということや「アンサーズ/クエスチョンズとしての小説」あるいは「作家のロマンティシズムの問題」というところにその理由があるのかな・・と考えたりしています。こんなふうに作品を読むためのいろいろな課題を読書会でたくさんいただいたようで、とてもうれしいです。じっくり考えていきたいと思います。また、いろいろなご意見をうかがえたら、うれしいなと思います。
1999/10/11, gustuv
私は同時代ゲームが最高の作品だと思います。ノーベル賞を受賞してから大江は
つまらなくなった。
1999/10/11, いとうくにお
読書会オフの席上、『宙返り』についての感想で、僕は「大江さんの願望(ロマンチシズム?)が投影された部分があるように思う」ということを言いましたが、それが小説としての緊張感を多少低下させたのではないか、という思いもありました。いま考えてみると、松本さんが、「かつての大江作品には、切れば血がほとばしるようなところがあったが、『宙返り』にはそれがない」とおっしゃっていたことと近いことを僕も感じていたのかもしれません。『宙返り』がとても面白く読めたことは確かなのですが、僕の中で『万延元年のフットボール』や『個人的な体験』のような大きな位置付けの本として残るかどうか、しばらく時間をおいてから判断してみたいものだと思います。
1999/10/10, バーバラ
いとうさん、昨日は有難うございました。
ミロさん, たなかさん、準備も大変だったでしょうが、その上後片付けも遅くまでかかったことと思います。有難うございました。ちょっとしかお手伝いできなくて、ご免なさい。
昨日の読書会、皆さんの熱心で、活発な意見交換に、大きな収穫を得ることができ、また楽しい一時を過ごさせていただきました。
ジャンパー曰く「いとうさんはほんわかとしてオーラがある人」だそうです。
さしずめパトロン、というより新しいギー兄さんでしょうか。
次回は排骨タンメンですね。楽しみです。
Ariesさん
私が『ブリキの太鼓』を読んだのは15年以上も前のことで、記憶では文庫本
で上下二冊だったと思いましたが、私の勘違いかもしれません。やたらと長い小説ではありました。
>いまもあるのかな?
これは書店で手に入るかと言う意味でしょうか。
私の手元には今はないのですが、おそらく書店では注文できると思いますよ。
大きい書店なら、書棚に並んでいるかも知れません。
1999/10/10, たなか & ミロ
たなかです。
オフ会では文字通りの拙宅(あばらや)にお集まりいただいた方々、準備を手伝っていただいたバーバラさん、そして継続的にファン倶楽部を主宰され、このような集まりを催すきっかけをつくっていただいた伊藤さん、どうもありがとうございました。
『宙返り』についての議論では、いろいろな角度からの読み方を教えていただきました。筒井さんの報告書の立派さには感服しました。あまり発言していなくてどうもすみません。結末についての疑問は、ぼくだけが持っているのかと思っていましたが、みなさんにも同じような疑問があるということを知って変に安心してしまいました。
踊り子(ダンサー)の、テレヴィを見たいという気持ちだけからはたらいた不作法につきましては、親として心からお詫びします。これに懲りずに今後ともよろしくお願いします。
ぼくは信仰も持っていなければ、文学についてつきつめて考えることもなかったのですが、このような集まりに参加して素敵な時間を過ごすことができて、とても嬉しく思っています。次のオフ会も楽しみにしています。
ミロです。
読書会オフ参加の皆様、お疲れさまでした。
前回の時も思ったのですが、一つの作品でも本当にそれぞれの受け止め方があり、自分が思ってもいなかったような方向からのアプローチに触れることができたことが、本当に嬉しかったです。
自分の思いこみや、思いの足り無さを再認識するわけですが、それもまた楽しからずや。。です。
私は座長らしいことはほとんどしないままに終わってしまいましたが(^^;; ビデオ鑑賞、輪読、私のペット自慢(??)などなかなか面白いイベントなんかもあったりして、楽しめました。
うちのダンサーもダンサーらしく全く思ったことをズバズバ言ってくれて、後で「教育的指導」をこってり受けておりました。不愉快に思われた方もいらっしゃったと思いますが、どうぞお許しください。
>いとうさん ビデオテープ大変興味深く拝見しました。有り難うございました。
次回は『排骨湯麺オフ』でしょう。。やっぱり。
>シノハラさん 無事にお帰りのようで安心しました。私も随分あのブックカバーは捨ててしまったのですが、そんなに喜んでもらって嬉しいです。(捨てるんじゃなかった)
>筒井さん 立派なレポートをありがとうございました。大変興味深く拝見いたしました。そのうちに私の疑問点等も整理したいと思っています。
1999/10/10, むらかみ
「読書会」は時間が経つのがあっという間という感じで、ついつい長居となりました。たなかさん、ミロさん、どうもありがとうございました。それにしてもこれだけ議論ができる同時代の作家というのも、なかなか稀有なものだけに、大江氏というのは毀誉褒貶あろうとも、やっぱり偉大な存在だなあと実感しています。
『宙返り』に関しても、いろいろな読み方があるものだと感じました。僕が補助線として利用した福田和也の批評(批判?)では次のように書いています。
 ショーレムの構図を借りて大江氏は、「宙返り」という裏切り行為により「師匠」を反キリストにし、逆にキリストの存在を、神の実在を照射することで、「魂」の厚みを回復しようとした。その試みは、サバタイからの遥かな谺によって成功したかに見えながら、その臆面のない「人類の師匠」の宣言、前進の呼びかけによって、つまりは最も大江的なスローガン、正義の宣伝によってだいなしになる。「師匠」は、遥かなサバタイの影は、「宙返り」の痛みを感じているとしても、作者はまったく痛んでいない。むしろ鈍感になっている。(『文学界』10月号)
しかるに、僕は、大江氏があえてその鈍感さを選択しているような気がして、それが(最近とみに評判が悪かったりする)「戦後民主主義」を擁護する大江氏の普段からの姿勢とも通底してるのではないか、と思ったりもしているのです。丸山真男風に言うならば「戦後民主主義の虚妄に賭ける」ってなとこでしょうか。結末近くの、篤信者グループの集団自殺の阻止のシーンなんかも、いかにもアンチ三島という感じがして、福田氏にはそう映るであろう、大江氏の「鈍感さ」も、これはこれで一つの戦略なのではないかと思いました。
以上、「読書会」の補足なのですが、大江氏の作品をめぐっては、まだまだのめり込む余地がある気がして、次なる「オフ会」なり「読書会」なりを期待しています。いとうさん、またひとつ、よろしくお願いします。
1999/10/10, 松本
読書会を主催してくださった、いとうくにおさん、場所を提供してくださったり準備をされた、たなかさん、ミロさん、踊り子さん、バーバラさん、それに参加者のみなさん、ありがとうございました。大江健三郎について、あのように深く、多彩な面から、活発な意見が行き交う場に居合わせることができて、幸せでした。大変な刺激を受けました。いとうさんにお会いし、そのどこかしらはにかむような風貌に接することができたのも、喜びでした。ダンサーとジャンパーという「新しい人たち」に出会えたのも、いとうさん同様、新鮮な驚きでした。
1999/10/10, シノハラ
昨日はオフ会に参加させていただきありがとうございました。また、最後はあんなことで、大変ご迷惑をおかけしてしまい恐縮です。
でも、みなさんのご意見や広い知識を伺うことができ、とても勉強になりました。急に大江健三郎が「マイ・ブーム」になりました。
たなかさん+ミロさん、伊丹氏のお宝ブックカバー、あらためてありがとうございました。大切にします。
皆さんとまたお会いできることを楽しみにしています。
1999/10/10, いとうくにお
オフ会にご参加のみなさん、無事ご帰宅されましたか。たなかさん、ミロさん、踊り子さん、場所を提供してくれて、ありがとうございます。バーバラさんも準備を手伝ってくださったそうで、ありがとうございます。参加者を代表してあらためてお礼申し上げます。ホームパーティ形式だと、お金はあまりかからないし、落ち着いて話ができるし、いいものですね。後片付けをたなかさん達にお任せしてしまった点は申し訳なかったですけども。
初参加だったnatsuさん、篠原さん、松本さん、なおきさん、筒井さん、楽しまれたでしょうか。僕としては、皆さんにお会いできて嬉しかったです。
踊り子(ダンサー)と飛び込み嬢(ジャンパー?)の若いお二人は、とてもハツラツとしていて、まぶしいような感じすらしましたよ。お母さんたち同様に魅力的な女性に成長した将来の姿が目に浮かぶようです。
歴史的、大江・江藤対談も読ませてもらったし、ブレイクの画集、伊丹十三デザインのブックカバーなどの珍しいブツも見せていただきましたし、いろいろな意味で収穫の多い一日でした。次は成城学園へ乗り込みましょうかね?
1999/10/9, Aries
バーバラさん
「ブリキの太鼓」は集英社文庫から三分冊で出ていました。
いまもあるのかな?
1999/10/6, たなか
10月3日に、ぼくは間違いを書いていました。
 誤/・・・の「ファンタジア」を発見。
 正/・・・の「ノスタルジア」を発見。
さて、映画の「ブリキの太鼓」は見ましたが、なかなか印象的な作品でした。ナチスが弱小勢力だった頃から政権を握り、そして終戦を迎えるあたりまでのことが描かれていました。小説はさらにその続きがあるのですね。
ところで、大江さんの小説『キルプの軍団』を読み始めてしまいました。ミロが買ってきたので、一応。軽く一気に読める小説でした。
これは珍しく、オーちゃん(次男の桜麻さん)の視点で書かれています。そして、忠叔父さん(健三郎さんの弟:実在の人物?)という刑事が登場します。光さんは実名で出てくるし、家族みんな出てきます。舞台はいつものように、主として成城学園前。
読書会まであとわずかですが、『宙返り』を再読する時間はないので、今のまま臨みます。先日、『治療塔』と『治療塔惑星』を読んだら、師匠(パトロン)の見るヴィジョンについて多少理解できるようになったかなという気がしています。
1999/10/6, いとうくにお
杉田さん、はじめまして。大江健三郎を研究していたときの主なテーマはなんだったのでしょう。よろしければお教えください。あるいはその卒論がどこかのウェブサイトで読めるとかってことはないでしょうか。
司さんは大学の先生もされているんですね。
1999/10/6, 杉田
はじめまして。私は大学院修士2年生です。学部のときは大江健三郎を研究していました。
「万延元年」の豊穣さよりも、「同時代ゲーム」の貧しさのほうが好きです。
「宙返り」に関しては,大江さん、「宙返り」(転向)から「宙返り」してはいけないのではないですか、
と、あえていいたかった思いがしました。
ちなみに私は今、司修先生の授業に参加しています。大江さん裏話も聞けて、楽しいです
1999/10/5, いとうくにお
natsuさん、こんにちは。大江文学をリアルタイムで読まれてこられたんですね。うらやましいです。オフ会のほうでもよろしくお願いします。
Jolly Jokerさん、はじめまして。よろしくお願いします。大江さんは、ノーベル文学賞は人を励ます文学に対して与えられるもので、それを受賞したことを自分は嬉しく思う、とテレビ番組で語ってました。大江作品は「元気のでる作品」だというJolly Jokerさんのお話をもし大江さんが聞いたら喜ぶんじゃないでしょうか。
「宙返り」の感想も楽しみにしています。
1999/10/5, Jolly Joker
はじめまして。
私が大江氏に共感し教えられる事は、氏が光さんを通して感じたであろうこととなどです。
私の娘は、生まれつき耳が不自由です。
障害者を家族に持つと言う事、強く進んでいかなくちゃと思う事、世の中の不合理に気付く事などで、本人にはいたって不自由なハンディを、家族はプラス思考でとらえようとしています。
難解であるととらえられがちの大江作品は、私にとって、とても元気のでる作品です。
いずれ、「宙返り」の感想など送りたいと思っています。
では。
1999/10/4, natsu
いとうさん、みなさま
こんにちは。ホームページ、いつも楽しく拝見しています。
大江健三郎を初めて読んだのは、もう30年も昔のことになります。それから、ゆっくり、読み継いできました。大江さんが「最後の小説」と言われたときは、とても悲しかったのですが、また、「宙返り」を読むことができて、とてもうれしいです。
第2回のオフ会に参加させていただきます。楽しみにしています。どうぞ、よろしくおねがいします。
1999/10/3, ミロ
いとうさん
はや読書会まで一週間を切りましたね。今日バーバラさんとお会いして、いろいろ相談をしてまいりました。
とりあえず、ワインは6本準備しています。後何が良いですか?(本当に読書会なのか。。。謎だ)
今のところ、natsuさんを最後に9名様ご案内と言うことですね。楽しみですね。
皆様よろしくお願いします。
Kyokoさん
こんにちは、『万延元年のフットボール』は文庫なのに1500円もしました。あと、国会図書館に行くときはたっぷり時間をとってからの方が良いですよ、だってあそこはいっつも満員です。それに、4時には店じまいするし。。。(この前それで行きそびれました。)
1999/10/3, たなか
バーバラさん、どうもありがとうございます。
今日は娘 (バレエと阿波踊りをやっているので、今日のところは仮に「踊り子(ダンサー)」と呼ぶことにします) の運動会で、雨が時々ぱらつく天気の下、小学校へ行ってきました。小学校のすぐ隣には区立図書館があるので、ちょっと抜け出して端末で「ブリキノタイコ」を検索しました。そうしたところ、その図書館には「集英社ギャラリー [世界の文学] ドイツ II」という本に「ブリキの太鼓」が収録されていることがわかりました。すぐに書架へ向かい、本を持って貸し出しカウンターへ。解説を読むと「ブリキの太鼓」がグラス氏のデビュー作だということですが、かなりの長編なんですね。借りている間には読了できないかも。
夕食は近所の朝鮮料理屋へ。人気のある店で行列ができているので、順番を待っている間にすぐ近くのレンタルビデオ店へ行きました。ここで何と、映画化された「ブリキの太鼓」と、タルコフスキーの「ファンタジア」を発見。この二本と、踊り子(ダンサー)のために「ネバー・エンディング・ストーリー」の計三本をレンタルしてしまいました。そして朝鮮料理屋に戻り、焼肉と平譲冷麺などを食べ、家に帰ってきたのでした。帰り道で「踊り子(ダンサー)、平譲冷麺と三ツ矢サイダー、おいしかったか?」なんていう会話はしませんでした。
1999/10/3, Kyoko
早々のレス有難うございます!
今、『宙返り』買ってきました。
がんばって読みます!
近いうち、国会図書館にも行きます!
探していた本も注文して全部そろえます!
いとうさんのHPのおかげでちょっと積極的に自分で
動いてみようと思ってます。
どうもありがとうございました!
1999/10/3, いとうくにお
ミロさん、メールでも書きましたが、natsuさんという方からオフ会への参加申し込みがありましたので、お一人追加です。
Kyokoさん、はじめまして。万延元年やヒロシマノートですが、入手できるはずですよ。最近はインターネットでも本が買えますので、そういうオンラインショップで検索してみてはどうでしょう。クロネコヤマトのブックサービス(http://www.bookservice.co.jp/)というのが有名です。そこから書籍検索サービスへのリンクもあり、そこで検索したところ「万延元年のフットボール」は講談社文芸文庫から出ていますね。
講談社文芸文庫 お-A-1
万延元年のフットボール
C-CODE 0193 1988年
ISBN 4-06-196014-8 講談社
ヒロシマ・ノートのほうは岩波新書ですね。
1999/10/3, Kyoko
はじめまして!興味深く拝見させていただきました。
私もやはり初期の頃の作品が好きです。
特に『われらの時代』は、私が生まれる前の作品にもかかわらず
今読んでも斬新でかっこいいです。(稚拙な表現ですみません)
この作品が映画になっているなんて知りませんでした。
どうにかして観れないものでしょうか?
それと『万永元年〜』とか『ヒロシマノート』って
今でも本屋さんで注文すれば入手できるんでしょうか?
どなたか教えて下さい!
1999/10/1, いとうくにお
掲示板のデータが大きくなりましたので、分割させてもらいました。
1999/10/1, バーバラ
たなかさん、こんばんは
ギュンター・グラス氏がノーベル賞をとったのですね。
私は随分昔ですが、彼の『ブリキの太鼓』を読みました。とっても奇怪な小説ですが、とても大きなインパクトを受けたことを覚えています。映画でこの『ブリキの太鼓』が上映され、それを見た後に小説を読んだのですが、映画のほうもおもしろいでしたよ。小説のほうは、出版社は忘れましたが文庫本で上下2冊で、出ています。映画はその小説の上巻のみで終わっています。確か15年前ぐらいだったと思います。レンタルビデオでまだあるんじゃないでしょうか。一見の価値はあると思います。
1999/9/30, たなか
今日は気になるニュースが二つありました。
一つは、ドイツのギュンター・グラス氏にノーベル文学賞が贈られることになったということです。大江氏との間で往復書簡を交わしていた(岩波新書の『日本の「私」からの手紙』に収録)ことは知っていましたが、グラス氏の作品は読んだことありませんでした。日本語に翻訳された作品はあるのかな?
もう一つは、やはり「臨界事故」ですね。テレヴィでずっと見ています。
1999/9/30, りか
ようやく「雨の木」を聴く女たちをよみました!(今頃か〜)
大江作品を読み出したのが比較的最近なため作品発表順に読んでないからなのと、2番目に手にした作品なため私の読解力不足のためか、最近までうっちゃってあったんですよ。で、この本に戻るまでに文庫の「性的人間」等の短編を読んで(最近ここの掲示板で盛んに話題にあがっている「セブンティーン」を読み終わってて良かった!)大江作品の文体と言うか語り口にすっかり馴染んだあとにまた「雨の木」を手にしたわけですが、以前にはいまいちピンとこなかった高安カッチャンやペネロープ ・シャオ=リン・タカヤスが生き生きと目の前に蘇ってきた感じです。それにザッカリーKの履歴が分かって嬉しく思ったり… ところで今日ニュースで東海村で放射能漏れ事故が合ったことつたえてましたが、思わず「燃え上がる緑の木」の終わりの方を思い出してしまいました。
1999/9/29, たなか
「セヴンティーン第二部・政治少年死す」の話題が出てきましたね。
これを閲覧するときには、同年3月号53ページの「謹告」も見ておくといいと思います。
1999/9/28, たなか
タルコフスキー『ストーカー』の原作の日本語版を発見しました.
深見弾訳 ストルガツキー著『ストーカー』ハヤカワSF文庫 (1983)
そのまんま探せばよかったわけですね.
1999/9/27, いとうくにお
なおきさんが抜けてました。なおきさん、すみませんでした。参加予定者は、たなかさん、ミロさん、村上さん、バーバラさん、筒井さん、松本さん、なおきさん、いとうの8名で合ってますでしょうか。
1999/9/27, いとうくにお
読書会は、松本さんという方からも参加の申し込みをいただきました。犬小屋さんは都合が悪く、不参加だそうです。現在の参加予定者は、たなかさん、ミロさん、村上さん、バーバラさん、筒井さん、松本さん、いとうの7名ですね。
浜崎さん、こんにちは。次回はどういう形式になるかわかりませんが、『排骨タンメンとペプシコーラオフ』ということになる可能性が、、、気が向いたらぜひご参加ください.
1999/9/26, 浜崎まさえ
 多分、初めてこちらへお邪魔した時にも書いたと思うのですが、私は高校生の時、文庫「性的人間」収録されていた「セブンティーン」を読み、それがきっかけで、その後「われらの時代」等の大江健三郎の作品に触れる事になりました。「政治少年死す」は以前から興味を持っていたので、この機会に是非図書館で探し出して読んでみようと思います。
 さて、「宙返り」を理解するために、今は「新しい人よ目覚めよ」を読み終え、「燃え上がる緑の木」の第一部を読み始めたところです。ですが、それらを「宙返り」の理解の手段としてではなく、純粋に大江作品の世界に浸れる喜びとして、読書を楽しんでいる自分に気付きました。
 本を読む楽しみと、そこから作品への理解が深まっていく喜びに、日々の生活の中で疲れた心が、癒され充実していくのを感じています。
 また、機会がありましたら、今回は無理ですが、読書会へも参加させていただきたく思います。それまでには、全作品を読破しておくつもりですので・・。
1999/9/26, 昆布谷 隆信
またですが・・・
個人的な事なんですが、私は「セブンティーン」が今まで読んだ作家の作品の中で一番好きなんです。「セブンティーン」に触発されて現在右翼、左翼の根本的思想や天皇制について松本清張の「昭和史発掘」等を参考に勉強をしているんですが、もし大江ファンで私同様「セブンティーンが好き!」と言う方が居られれば少し前に文庫本で発売された見沢知廉の「天皇ごっこ」をお勧めします。
作者は現在「政治休業宣言」と発言し作家家業をしていますが元々「右」「左」「右」とセクトのリーダーをしていた人で、客観的に見た「セブンティーン」に対する「右、左」の捉え方を少しばかりですが小説の一部分に成っておりますので是非「大江フリーク」にお勧め致します。
それから「政治少年死す」を読まれたならば是非ご感想をお聞かせ下さい。
taka2536@poplar.ocn.ne.jp
ついでに深沢七郎の「風流夢譚」も「政治少年死す」同様、時代背景を捉えた作品として対でお勧め致します。(これも探し出すのに苦労しますが・・)
では
1999/9/25, いとうくにお
昆布谷さん、はじめまして。がぜん「政治少年死す」が読みたくなってきました。
1999/9/25, 昆布谷 隆信
皆さん初めまして。大江健三郎に関して子のようなサイトがあるとは存じませんでした。 私は宮城県に住む会社員です。私もここ数年大江の作品などを読んでおります。個人的な意見としては、「飼育」「セブンティーン」「死者の奢り」等の初期の作品が好きです。
「万延元年・・」以降になると翻訳調の文体は良いとして「一体何が言いたの?」と思うところです。
でも今の時代若い年代の方々(私も含めて)が大江の作品を読んでいる事に頗る親近感を感じます
このサイトを運営されてるいとうくにおさんやまだ「セブンティーン」の第2部「政治少年死す」を読んでいられない方々に閲覧方法をご紹介します。
皆さんが住んでいられる地元の図書館、県立、市立等の蔵書量を誇る場所に行き昭和36年2月の「文学界」の閲覧を申し込みます。唯何分、今から約40年前ですので置いているかが問題ですが・・・私も探し出すまで随分苦労しました。無い場合は「国立国会図書館」に足を運べば間違い無く閲覧できるでしょう。
私の「政治少年死す」に対する感想は、っと、内容について発言するとこれから読む方に失礼なので一言で言うと「兎に角、面白い」。
深沢七郎の「風流夢譚」の様に、やはり右翼に命を狙われる内容と思います。
私としては大江の最高傑作と捉えております。
またこのサイトに遊びに来たいと思います。
では
1999/9/25, いとうくにお
りかさん、はじめまして。「万延元年」は確かに本屋であまり見かけないですね。古本屋さんで探さないと見つからないかも。「万延元年」も「河馬」も、とても面白いですよ。
1999/9/24, りか
はじめまして、「同時代ゲーム」で初めて大江作品に触れました。そのあとなかなか次の作品を読了できなかったんですが、「空の怪物アグイー」「燃え上がる緑の木」を経てすっかり大江さんの文体に馴染んでからの悦楽ったら。
でも「万延元年のフットボール」を探しているのに見つからないんですよね。
あと「河馬に噛まれる」も… でも絶対探し出して読破するんだもんね。
1999/9/24, たなか
バーバラさん、ぼくはうれしい! (ノーベル賞受賞を祝う林家こぶ平の電報のもじり)
1999/9/24, いとうくにお
ヒロさん、はじめまして。「芽むしり仔撃ち」にぐっときたなら、やはり初期の作品群がいいかもしれませんね。「死者の奢り・飼育」という題名の文庫が新潮文庫から出てますが、これなんぞどうでしょうか。あと、「個人的な体験」も強くお勧めしますよ。
1999/9/24, hiro
こんにちは,はじめましてヒロです。大江は芽むしり仔撃ちシカ呼んだことのない(しかも昨日読んだ)18才の初心者です。でも,この作品ですっかりファンになってしまいました。何か読みたいのですが,おすすめなんかあったら教えてください。
1999/9/24, いとうくにお
れんさん、はじめまして。生活と関係ないことを考える余裕って大切ですね。自分は、ちょっと忙しくなってくるとすぐにそういう余裕をなくしてしまい、本も読まなくなってしまいがちです。そんな生活をしていると、なんだか精神が荒涼としてしまうような気がします。で、久々に本を読んだりとか映画をみたりとかすると、荒れた土地が耕されるような感じがします。どうぞ、気が向いたらまた、投稿してみてください。
さて、バーバラさん。ついに発見しましたか。バーバラさんは探偵の素質がおありのようですね!僕はぜひ両方とも行ってみたいです。
1999/9/24, れん
初めて書き込みさせていただきます。
半年前に「久しぶりに(8年ぶり?)に大江健三郎でも読んでみよう」と図書館で手にしたのが「M/T森のフシギ」でした。
続けて「宙返り」を読み、すっかり大江ワールドにはまり、今「燃え上がる緑の木」を読み終わりました。昔、若い頃読んだ時には文学的な面白さだけで読んでいたせいで、内容があまり自分の中に残っていませんでした。
今、30歳を過ぎて子供を持ち、少し生活も落ち着いて、「生活と関係ないこと」を考える余裕が出てきたせいでしょうか、大江さんのメッセージ(私なりの)がぴったりとくるようです。
その中で「宗教を持たない者の苦しみ」と言うのは、私にとっても大きなテーマです。既成の宗教にはどうしてもなじめない人間として、それでも救いを必要としてしまう人間として、大江さんのメッセージは大切な支えです。
オフ会、是非参加したいのですが今回は無理なので、また是非機会をつくって下さい。
1999/9/23, バーバラ
いとうさん、みなさん、こんばんは
今日は皆様に朗報があります。
幻の「排骨湯麺とペプシコーラ」の中華料理店、見つかりました。
あーっ、何から話したら良いのでしょう。
今日、下北沢に用事があり(というより、成城学園に行きたくて、無理に用事を作り)娘と行ってきました。
お店の名前は『成城飯店』です。場所は成城学園駅北口を出て、左に歩いて2、3分の右側です。ビルの地下にあり、ちょっとステキな喫茶店といった感じです。お店の方から、お話を伺いました。
以前は『七面鳥』と言う名前で、今のお店からちょっと離れた所(今はニュートーキョーというパチンコ店の場所)に開業していましたが、30年前に、今の場所に移り『大飯店』と名前がかわりました。そして、さらに11年前に『成城飯店』と名前が変わり、場所は『大飯店』と同じ所ですが、ビルの地下になったということです。
『成城飯店』になってからは手間の掛かるパイコータンメンはメニューから外されいまではありません。以前は大江さんに光さんが寄り添う様にして、よく一緒にお店に見えていたそうです。当時は『ペプシコーラ』もメニューにあったそうです。今の『成城飯店』になってからは、いらっしゃらなくなったそうです。排骨湯麺はなくなったからでしょうか。
でも皆さん、ガッカリするのは、早いですヨ!
「イーヨー、排骨湯麺とペプシコーラおいしかった」と親子のコミュニケーションの仲立ちをしたその『排骨湯麺』を味わうことができるのです。
成城の『七面鳥』がのれん分けしたお店が千歳船橋にあるそうです。名前は今でも『七面鳥』で排骨湯麺もメニューにあるそうです。場所は千歳船橋南口を出て、信号を渡ってすぐ左に行くと日本信販がありその裏手にあるそうです。
皆で第3回オフ会をするとしたら、果たしてどちらのお店でしょうねえ。
いとうさんの仰っていた『まっぷ』ですが、お店に入って、「パイコータンメンありますか」と聞きましたら、頭をひねっていました。「はいこつたんめん」でも同じく分らないふうだったので、「豚の骨付き肉のから揚げののった
めん」と解説までしましたがわかってもらえず、きっと違うを思いました。
後から、ふと気付いたのですが、『まっぷ』はひょっとして、『宙返り』の踊子達が夜行った中華料理店ではないでしょうか。お店の中が狭く、雰囲気として、踊子が食べた餃子ライスやパトロンの夜食にと買ったビーフンがメニューにありそうです。これは調査の価値がありそうです。今日はそこまで時間がありませんでした。
成城飯店の電話番号:3483ー0181
とても素敵なお店で、お味もとてもいいですよ。
今日は、私はエビそば(さっぱりめ)娘はニューローメン(やわらかく煮こんだ牛肉ののったメン)と杏仁豆腐をいただきました。幸せでした。
1999/9/23, いとうくにお
たなかさんとミロさん、同郷なんですね。個性的な本屋は、80年代以降は減りつつあるような気がしますね。ちょっとさみしいです。
1999/9/23, たなか
金栄堂! そうです、ミロと同郷のぼくにとっては、この「骨」のある書店がある意味で「根拠地」だったように思います。1階 (主に文芸・歴史・思想関係の書籍と雑誌がおいてある) のレジのところに日本国憲法第21条を掲げて「出版の自由」を主張しつつ、2階には理工学・法律・経済関係の書籍と岩波書店専門のコーナーがあり、3階には高校生以下向けの学習参考書と美術書。この金栄堂に教養堂という古書店をあわせた二大根拠地に、若干の新刊書・古書店をあわせた「ゾーン」は、東京における神保町のようなものでした。ぼくが金栄堂で最後に買った本は『TOKYO BOOK MAP』だったのではないかな。金栄堂が店を畳んだと聞いたときのショックはかなり大きかったです。単行本を買うとかけてもらえるカヴァーは、ぼくが幼かったころからずっと変わっていなかったと思います。伊丹十三氏の若いころの仕事だと思います。
ところで小説『静かな生活』の中でタルコフスキーの「ストーカー」に言及するところがありますが、原作の題名が『道ばたのピクニック』だと書かれています。これを探してみたところ、英訳書 (本当の原作はたぶんロシア語) については出版されていたということが確認できました。Arkady Strugatsky著『Roadside Picnic』です。残念ながら現在はアウト・オブ・プリントですが、amazon.comで読者のコメント見ると、明らかに「ストーカー」の原作であることがわかります。古本でもいいから入手したいので、注文してしまいました。
1999/9/23, ミロ
なおきさん
はじめまして。よろしくお願いいたします。
オフ会お待ちしています。
いとうさん
最高 大人9人子供3人で宴会したことあります。ですからまだ余裕はあるかと。。。
伊丹さんといえば、昔読んだエッセーで彼のうちの猫がモミモミをしてくれるので、もっと仕込んで「子猫治療院」を開こうか。と言うのを読んで、是非開いてほしいと思ったことがあります。
今はもう廃業してしまったのですが、私の郷里の「金榮堂」と言う本屋さんのブックカバーは伊丹氏のイラストでした。葉巻をくわえた男の人が、バスタブにつかって本を読んでいる所と同じ人が絨毯に寝ころん(背中に猫が乗ってます)で本を読んでいるイラストです。
中学高校とこれが、あこがれのライフスタイルでした。
1999/9/22, ミロ
ミロです。
『治療塔』を読みました。SFと言えばSFなんですけど、設定が近未来と言うだけで後はおなじみの大江ワールドでお話が展開していきます。
ただ、登場人(猫?)物にマルス船長という猫が出てきます。人間以外に性格を与えられた動物が出てくるのは、大江さんの作品ではめずらしいなーと思いました。
最初の予想以上におもしろかったです。(ある評論家が「無内容だ」なんて言ってたので、、)
これで、岩波書店も筒井康隆から「『星の王子様』以外SFを出したことがない出版社と言われなくなるでしょう。たぶん。
1999/9/22, いとうくにお
なおきさん、はじめまして。オフ会への参加、もちろんOKです。
ミロさん、これが合計8名になると思いますが、大丈夫ですよね?
伊丹十三の「問いつめられたパパとママの本」、先日読了しました。面白くないと以前書いてしまいましたが、読んでいくうちに面白くなってきました。面白いのは、伊丹さんの文体ですね。彼らしい文体で書かれた文章を読んでいると、そのまま彼の声が聞こえてくるような感じがしました。例えばこんな感じ。
「夏はね、太陽が一年中で一番近くなるの。だから暑いのよ。わかった?」
困るなあ、こんなでたらめを教えてもらっちゃあ。
太陽が一番地球に近づくのは一月の初めであります。
どうです、伊丹さんの声が聞こえてくるようではありませんか。この本は、専門的なことがらを一般の人がわかるようにあくまでも日常の言葉で、しかもユーモアをたっぷりまじえて説明するということを徹底しています。思えば彼の映画もそういうスタンスで作られていましたね。みなが知らないことを、わかりやすく、エンタテインメントの形で解説するという。この本を読み、一人納得したしだいです。
1999/9/21, なおき
はじめて掲示板に参加します。僕も大江健三郎さんの一ファンです。実は今、宙返りを読んでいる最中で是非オフ会に参加したいと思っているものです。参加しても宜しいでしょうか。今仕事中なのであまり掲示板に書きたいことがかけないのが残念です。これからもこの掲示板に参加しようと思いますので宜しくお願いします。
1999/9/18, むらかみ
 大江氏の『私という小説家の作り方』は僕も最近読んでみたのですが、これは、まさしくタイトル通り、小説(家)の作り方の背景がわかる面白い本でした。『宙返り』が、なぜ「僕」「ぼく」あるいは「私」を語り手とするナラティヴを使わずに、三人称の語りを採用しているか、ヒントも書かれてましたし。ララさん指摘の「甦るローマン主義者」の章については、僕もよく整理できていません。「ロマン主義」ということば自体、多義的で、イギリスのロマン主義とドイツのロマン主義ではまた違うんでしょうし、まして日本浪曼派(保田與重郎とか)なんかもあって、これは大江氏のいいう「ローマン主義」とはぜんぜん別個のものでしょうしね。これは、なかなか、ムズカシイ。
 ところで、『宙返り』をパラパラめくっていたら、この小説でも、成城の小田急線沿いの中華料理店の言及があるのに気がつきました。「店の入り口の左隅に二階への階段があり、その下から張り出した調理場が奥まで続き、カウンターを隔てて、右側の壁脇に四つのテーブルがある。他に客はいなかったが、入り口からいちばん遠いテーブルにかれらは掛けた。片側に荻青年と踊り子、そしてもう片側に育雄がひとり掛けると、その身体の横幅は向かいあったふたりを圧倒する嵩だった」(上 388ページ)。大江氏がこういう場合、実際の店の通り描写するか、わからないのですが、あんまり大きそうな店じゃなさそうだし、やっぱりいとうさんが撮った所かなという気がします。しかし、中華料理店の記述はこれで何作目になるのだろう?
 9日の読書会、楽しみにしています。突発的な仕事が入らないといいのですが。
1999/9/16, たなか
大江光さんの音楽について書かれた洋書を買ってしまいました. Lindsley Cameron, "The Music of Light --- The Extraordinary Story of Hikari and Kenzaburo Oe" Free Press, 1998
まだ読んでいないので, 目次だけ紹介します
"Monster Baby"
"The Male Celatius"
Becoming a Composer
Coming of Age
"A Quiet Life"
Sudden Success
Turning Points
"The Subject of Great Amazement"
The Prodigious Savant
Musical Savants
Sources of Creativity
Somersaults
カバーに大江さん父子の写真 (光さんが幼かった頃で, 自転車に乗って排骨湯麺を食べに行くところ, といった感じです) が印刷されています. 外国人による大江光さんの音楽を紹介した本はこれが初めてではないでしょうか.
1999/9/16, いとうくにお
浜崎さん、こんばんは。僕も「宙返り」の読後感はうまく言い表せません。でもまあそれでもいいと思っています。ともかくも物語を楽しめた(そういう時間をもてた)し、しばらくたってからうまく言葉になることもあったりしますし。
1999/9/15, 浜崎まさえ
 いとうさん、こんばんは。「宙返り」、一週間ほど前に読了しました。
ですが、読後の感想を言葉で表現するのがとても難しくて、困ってしまいます。
「懐かしい年への手紙」「燃え上がる緑の木」を読めば、もう少し理解が深まるのでしょうか・・。読後感は、(私が知っている中で)大江作品の中で一番、
爽やかというか、やはり「生」を感じさせられました。「個人的な体験」、
「万永元年のフットボール」の読後感もそうだったのですが・・
漠然とした表現ですみません。もっと、読みこまなくてはいけませんね。
みなさん、物語の内容はもちろん、そ背景などすごくよく理解されているので、
すごいなぁと思います。
1999/9/15, いとうくにお
ミロさん、こんにちは。メールで筒井祐一さんという方からも参加申し込みを受けています。ですから、現在7名ですね。
1999/9/15, ミロ
いとうさん
ではオフ会は 10月9日13時 西武池袋線 富士見台駅集合で決定ですね。
参加者の方はただいま いとうさん 村上さん 犬小屋さん バーバラさん たなかとミロ ですね。まだまだ収容人数には余裕がありますからよろしかったら、大いに文学論議をいたしましょう。>皆様  (ただし、猫います。家は古くて変です。超芸術トマソンあり。小五娘います。) 
食事のことですけど、簡単なものを用意しますから大丈夫です。
バーバラさん お茶くみではなくお酒くみになりそうですけどよろしくお願いいたします。(なにをなんだろう。。。)
と言うわけで 10月9日 楽しみにしています。
ララさん
タルコフスキーの「ストーカー」は傑作でした。ちなみにSFのコーナーにありました。
>一人の小説家、一人の思想家を読み解くときには、その小説家や思想家を、じっと読む、ぜんぶ読む、目を離さない、と言う事が重要になってくるのだと 思います。
大江さんは久しぶりに、読み解きたいと思った作家です。私にとって大江さんの作品はその世界にどっぷり浸かると言うより、その世界観から自分自身の考えを見つめ直すと言う種類の読み方をしています。
それだけに誤読しないように、気をつけていきたいと思っています。
1999/9/15, たなか
ララさん>私もタルコフスキーの映画を観てみたいと思っていたのですが、たなかさん教えて頂けないでしょうか。どこで観られるのでしょうか。
ぼくは近所のレンタルビデオ屋さんで借りてきました. 邦題「ストーカー」でビデオ2本組です. 「タルコフスキーの映画でレンタルビデオ屋によくあるのは『惑星ソラリス』と『ストーカー』の二本ぐらいじゃないかな」と, タルコフスキーの全作品を見たという先輩が言っていました. ちなみにぼくはその二本だけ, レンタルビデオで見ました.
1999/9/14, いとうくにお
たなかさんご紹介の『群像』の記事、僕も読みました。友達の大江ファンが送ってくれたのでした。サヴァタイ・ツェヴィのこともいろいろおっしゃってますね、大江さん。
1999/9/14, たなか
今日まで気がつかなかったんですが、『群像』7月号に大江健三郎と鶴見俊輔の対談「『揺すぶり読み』の力−−『宙返り』を語る」が掲載されていますね。
私は、宙返りといえば転向、「転向」研究といえば鶴見俊輔、という連想をしていて、「鶴見さんはこの作品をどう読んでいるのだろう」と、かねてから思っていたのでした。編集者も同じように連想したのではないかと思いますが、読者の私としてはこのような対談を読むことができてラッキーでした。読書会の「予習」のためにも役に立つかな。
ちなみに私はこれを区立図書館で見つけました。大江さんも「好きな場所は図書館です」と言っていられるのですが、私もまったくそうです。
1999/9/14, ララ
みなさんこんにちは。そしてはじめまして。
ミロさんが、>『宙返り』のみを読んでしまうと、なんだか大きな誤解をしてしまうんじゃないかとおもってしまいました。
と、おっしゃっていましたが、私もそう思います。一人の小説家、一人の思想家を読み解くときには、その小説家や思想家を、じっと読む、ぜんぶ読む、目を離さない、と言う事が重要になってくるのだと思います。私は、どうしても大江さんと相容れないものがあるのですが(笑)。ちなみに、大江さんはそんなことを強要するなんて事はなく、大江さんの息子さんは大江さんの小説を、いまはわかりませんが、読んだ事、一冊もないということですから(笑)。
さて、今回、投稿しようと思ったのは、皆さんに感想を聞きたいと思ったからです。『私という小説家の作り方』という本の中の「甦るローマン主義者」と言うエッセーに関してですが、やだと言わずに、お願いたします。(笑)なぜなら大江さんの小説を読み解く上で、大変重要なものだと思うからです。読んでない方には、どんなものかということですけど、だいたいでいいますと、想像力、祈り、ローマン主義、本物のリアリテイーについて、政治、大江さんが小説家としてどのように生きてきたか、そして宙返りに対しての意気込み、ともりだくさんですが、これはすべて一対になっていると思います。これらについて私なりにまとめようと思ったのですが、私には手に余ると思いましたし、大江さんの文章の足を引っ張る事になるとも思いましたので(笑)、やめました。どうか、感想を聞かせてください。
あと、『宙返り』ですけど、パトロンとガイドの関係、そして『懐かしい年への手紙』にでてくるギー兄さんと大江少年の関係、似ていると思った方はいなかったでしょうか。私は、基本的に余り大江さんは変わってないと思うのですよね。というよりも、深まったと言う事でしょうか。もちろん、これだけで語れるものではないのですが、なにか大江さんの子供の頃からの性格が良く表現されていると思うのですよね。
もうひとつ、私が大江さんを読んできての感想ですけど、みんなそのままでいい、基本的にそのままで良いって、感じたのですね。けれどもそれが私の最後の疑問かもしれない。本当にそれで良いのか。大江さんがご自分でも言っていられる無邪気なのんき坊主と言う事になってしまっているのではないのか。これは大江さんが深い思考の中におられるときにも有効だと思うのですが、私にはまだ判りません。大江さんが正しいのか、それとも正しくないのか、私はその辺を見極めたいし、たぶん大江さんが将来残るのか残らないか、考えるときの生命線になってくると思いますし、将来についても大切な問題です。深く深く入っておられるうちにのんき坊主になっていたというのでは目も当てられませんから。みなさんはどうでしょうか。もちろんぜんぶが否定されるなんてことは絶対ないと思いますが。
あと、もうひとつ(笑)私もタルコフスキーの映画を観てみたいと思っていたのですが、たなかさん教えて頂けないでしょうか。どこで観られるのでしょうか。ビデオレンタルであったら一番良いのですが。他の人でも結構です。お願いたします。
ご意見、異論、反論待っています。
1999/9/12, あらた
最近の、週刊文春の猪瀬直樹のコーナーで、大江さんのことが書かれていました。
皆さん、もう読まれたでしょうか?
かなり・・・、辛口です。
1999/9/11, いとうくにお
オフ会のことですが、第一候補の10月9日で特に異論もないようですから、日にちは10月9日で決定ですね。時間は13時からというのがミロさんからのご提案でしたが、これは昼食を済ませてから来訪するということでいいんですよね?
1999/9/11, ミロ
ミロです。こんにちは。
そしてはじめましての方々どうぞよろしくお願いいたします。
『宙返り』『燃え上がる緑の木』『懐かしい年への手紙』と読
み進めたため、なんだかタイムマシンに乗って過去に遡ってい
た様な気がしています。(読書量はかなり多い日々でしたが反
比例して家事量が限りなくゼロに近い日々でしたが・・・)
で。。イカンイカンと言いながら、『人生の親戚』『「雨の木」
を聴く女達』 あと、評論等をぼちぼちと読み進んでます。
その内に初期作品から順番に『宙返り』まで読んでいけたらと思
ってます。
『宙返り』のみを読んでしまうと、なんだか大きな誤解をして
しまうんじゃないかと思ってしまいました。
何作か振り返るようにして読んでみての感想です。
『懐かしい年への手紙』の付録に大江さんのお話が載っています。
その中で「宗教を持たぬ人間」の祈りについてこうおっしゃって
います。
「このところ僕がずっといだいているのは、今日の核時代におい
て、人類が二十一世紀へ生き延びうるとすれば、それはキリスト
教徒、ユダヤ教徒、イスラムの人たち、それに仏教徒らという、
信仰を持つ人たちと宗教を持たぬ人間とが、何とか協同して、ひ
とつの祈りをおこなうことがあってはじめてじゃないか、という
思いです。無信仰の者も祈る、そしてそのためにダンテは励まし
てくれる。そのようにも僕は考えています。自分の小説にも、そ
のような祈りが・・・僕としては、ある大きな「懐かしさ」への
それが・・・あらわれていれば幸いです。」 1987/10/12
ここから『宙返り』に至るまで、社会情勢の変化を考慮にいれる
としても大江さんの立たれているところが、どう変化するのか、
またどう発展しているのか。。興味を覚えています。
いとうさん
中華料理屋さんの写真良い味出てますね。是非チェックしに行か
なくては。。。
ところで、「読書会オフ」ですが一ヶ月後になりましたね。
これだけは用意してほしいという物(ビールの銘柄とか、ワイン
の銘柄とか、「八海山」がなきゃ嫌だとか、テキーラは欠かせま
せんネーとか。。。お酒のことばっかりだったりして (笑)
があったらリクエストしておいてくださいね。>皆様
バーバラさん
私も、明治大学の古本市は行こうと思ってチラシを貰って帰って
ました。豊作のようで良かったですね。
ところで、江古田の古本屋さんも結構良いですよ。神保町よりお
安いですよ。
>読書よりコレクターになった感があります。
我が家もです。(^^;; 
この前も『M/Tと森とフシギの物語』『新年の挨拶』『僕が本
当に若かった頃』その他を「大漁、大漁」とか喜んでレジに持っ
ていったら、お店の人から「最近は大江健三郎は読まれなくなっ
て古書業界では値が下がってるんですよ」なんて悲しい事を聞い
てしまいました。
1999/9/11, バーバラ
皆様、こんばんは
今日、お茶の水に行く用事があり、時間が空いたので神保町の方までぶらぶら
歩いてみました。途中明治大学で古本市をやっていて、そこで『性的人間』を購入。これは既に読んでいますが単行本も持っていたかったので…その他にも
『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『死者の奢り』を見つけました。『死者の奢り』は、たなかさんが『偽証の時』のことを書いていらしたので読んでみたくて買いました。先日、池袋で(通り魔事件のあった日)偶然、
『治療塔』と『治療塔惑星』を見つけ購入。と最近、読書よりコレクターになった感があります。
以前、新橋の古書市で膨大な本の中から私が次々に大江健三郎の小説を探し出すのを見た友達が驚いて半ば呆れていましたが、読みたい本って、その本が呼んでくれるって感じたことありませんか?
また呼ばれてしまったので、読まなくちゃね。
家に帰って先ず探したのは、『新しい人よ眼ざめよ』の「排骨湯麺とペプシコーラ」でした。早く食べたい!
1999/9/10, たなか
ぼくは『死者の奢り・飼育』の文庫版はもってない (というか実家に置いてある) つもりだったのですが, ミロが文庫本をもっていました. この文庫版で興味深いのは, 江藤淳による, 「衝突」前の解説です.
1999/9/10, むらかみ
 さやさんがお探しの「サバタイ・ツヴィ」は、ちょっと検索したのですが、日本語訳はないようですね。もし「存在する」という情報があったら僕も知りたいです。ちなみに英訳版はAmazon.com をみてたら、28ドルで売ってましたけど、これはたぶん僕には読みこなせないか、読めたとしてもえらく時間がかかるであろう(笑)。もっとも、ショーレムの「ユダヤ神秘主義」なら法政大学出版局から日本語訳が出ていますので、これをざっとよめば、サバタイ・ツヴィについてはおおよそわかるんだろうなと思います。暇があるとき読んでみようと思います。
1999/9/9, はなび
すごくあいまいな記憶なのですが、2年ほど前に雑誌「SPA!」の中の四方田犬彦氏の連載「次は火だ!」で『偽大学生』の話が出ていたと思います。
でも監督は増村保造ではなく伊丹十三で、自主映画だったと書いてあったような気がするのです。違っているかもしれません。そして主演がジェリー藤尾だったと…。
それを読んでから無性にその映画が見たくなったのですが、無理でしょうかね。東京近代美術館フィルムセンターあたりで上映してくれないかな〜。
1999/9/9, いとうくにお
さやさんとむらかみさんから、「文学界」の情報が同時に寄せられていました。僕が最近買った雑誌といえば「噂の真相」(9月号)でして、ぐっと品が落ちますねえ。とはいうものの、これにも大江さんに関する記事がちょこっと出てきます。吉行淳之介の愛人だったという大塚英子さんが、かつて文壇バーに働いていたころのことを書いた本が刊行されたそうで、そのなかに大江さんのことも出てくるそうな。「噂の真相」では、大塚氏に取材し、本の内容や、本にも書かれなかったエピソードなども紹介しています。
たなかさん、「偽証の時」のご紹介ありがとうございます。なるほどそのストーリーなら映画「偽大学生」の原作という可能性もありますね。
成城学園駅周辺を歩いたとき、RimShotという洒落たジャズバーに入ったのでした。マスターに、大江さんがくることがあるか尋ねたら、来たことはないが大江さんの知り合いはよくやってくる、駅のあたりを大江さんが散歩していることもある、という話が聞けました。だからどうだってことはないんですが(笑)。なんだかストーカーやっているみたいな気がしてきた。
1999/9/8, むらかみ
 中華料理屋の写真、見ました。なかなか雰囲気はありますけれども、やっぱり、パイコータンメンとペプシコーラを注文して味わってみないと検証はできないですね(笑)。あの辺に行く用事があったときは、僕も少し探検してみようかと思います。
 ところで、「宙返り」に関しては、いま売っている「文学界」に沼野充義と福田和也の評論が載っていました。書評などを除くと、「宙返り」に関して僕が読んだはじめての「本格的」な評論でした。とりわけ、17世紀のユダヤ教メシア、サバタイ・ツヴィ(トルコのサルタンに捉えられてイスラム教に改宗してしまう)に関するゲルショム・ショーレムの記述を参照しつつ、「宙返り」を論じた福田氏の評論が興味深かったです。もとより福田氏のことですから「宙返り」を素直に肯定しようはずもなく、「サバタイ・ツヴィの転向という事態をみずからのシオニズムへの関与(メシアへの信仰を捨てて、近代国家を持つこと)と重ねたショーレムの陰影深い敬虔さ」に対し、大江氏の敬虔さとはいったい何なのか(何のためのものなのか)、と問うものなのですけれど。まあ、こんなふうに要約するとちょっと訳がわからないかもしれないですけど、とにかく面白い評論だったので、とりあえずご報告まで。
1999/9/8, たなか
いとうさんこんばんは。
「偽証の時」は「他人の足」の後、「飼育」の前に発表された作品で、単行本『死者の奢り』には収録されているはずですが、文庫本のほうは手元にないので確認していませんでした。ぼくがもっているのは新潮社の『大江健三郎全作品』の第1巻に収録されているものです。
ある文化系のサークルの学生たちが「贋学生」(「偽」ではなく「贋」という字が使われています)を監禁して逮捕されるという事件があり、その裁判の中で「偽証」が行われるというような内容です。
小説は図書館などで容易に読めると思うのですが、映画は・・・
ところで成城学園に行かれたのですね。大江さんはどこかで「排骨湯麺」に「はいこつたんめん」とルビをふっていられたので、メニューに「はいこつたんめん」があれば当たりではないでしょうか。
ぼくも近いうちにその界隈を散策してみたいと思っています。
1999/9/8, さや
お久しぶりです。以前、一度書き込みさせていただいたことがあります。
ところで皆さんは、『文學界』10月号に掲載されていた沼野充義氏と福田和也氏の『宙返り』論を読みましたでしょうか。大江作品に関する論文はどうしてこう解り難いのだろう・・・。この一ヶ月間の掲示板をざっとみたところ、『宙返り』における(ショーレムの書による)サバタイ・ツヴィについて言及されている方はいないようですが、先の両氏(特に福田氏)の論中ではかなり重点を置かれていました。もっとも両氏の論旨は全く異なるものでしたが、、、。私はどちらの論も全面的に賛成!というわけではないのですが、サバタイは『宙返り』を読んでいく上で重要な鍵であるとは思います。サバタイとショーレムについては教科書的な知識しか持ちあわせていないので今後勉強しようと思っているのですが、ショーレムの『サバタイ・ツヴィ』は日本語訳があるのでしょうか?英訳はあるらしいのですが、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけると幸いです。
1999/9/8, いとうくにお
Brentさん、こんにちは。ご使用のPCで日本語は表示できますか? 掲載は、日本語ページのほうでよかったでしょうか?
aquaさん、はじめまして。僕もとびとびで読んできました。単行本2冊は高いですよね。図書館をご利用になられることをお勧めします。
たなかさん、こんにちは。『死者のおごり』所収というのは、単行本のことですね? 僕は文庫版しかもっていませんが、文庫のほうには「偽証の時」というのは収録されていません。偽大学生が出てくるようなお話ですか?
話し変わって…。昨日、友達と成城学園駅周辺を探索してきました。線路沿いに一軒中華料理屋を発見しましたが、もう閉まっていたのでパイコータンメンがあるかどうかは確認できませんでした。写真をご覧になりたい方は、ここをクリックしてください。あとは駅ビルに一店ありましたが、ここではないでしょうね。
1999/9/7, たなか
「映画化された大江作品」の中の,
>1960年『偽大学生』
> 監督:増村保造
> 原作:大江健三郎??「偽大学生」という作品、ありますか?
ですけれど, 原作はもしかしたら「偽証の時」(『死者のおごり』所収)
ではないでしょうか? しかしこの映画, 実際に見ることはできるんで
しょうか.
1999/9/7, aqua
はじめまして。aquaと申します。
以後御見知りおきを。
皆さんは今「宙返り」で盛り上がっていらっしゃるのですね。
恥ずかしながら、私はまだ呼んだ事がないんです。
お金の無い学生なものですから。
大江先生の著作も飛び飛びで読んでいますし。
「セヴンティーン」の後に「飼育」を読む、みたいな感じで。
明日にでも、早速「宙返り」を買って読もうと思います。
1999/9/7, あらた
ララさん、お返事ありがとうございます。
ところで、最近の読売新聞夕刊に、大江さんの文が載っていました。
「人生の細部」というタイトルでした。直接、江藤さんの死について、
多くを語ってはいませんでしたが、全体的に、読んでいて、「大江さんにとって、
江藤さんの存在は、おおきかったんだろうなぁ、」と思わせるものでした。
1999/9/7, Harry Brent
Konbanwa goziamasu. Hajimemashite. Dozo yoroshiku.
1999/9/7, たなか
タルコフスキー監督の映画 Сталкер (邦題「ストーカー」) を見ま
した. 同監督の作品は Соларис (邦題「惑星ソラリス」) を見たこ
とがあるだけなのですが, ハリウッドの映画と全く種類の奥行きを感じさ
せる映画でした.
ところで手元にある博友社の露和辞典には сталкер なる単語は載っ
ておらず, この映画の題名の本当に意味はわかりませんでした. amazon.com
でこのビデオを検索すると Stalker という題名になっていますが, 英語の
辞書にあるような「忍び寄る」とか「追跡する」というような意味とは違う
ように思います. 映画を見た印象では, 『静かな生活』の中でそういわれて
いるように, やはり「案内人」といったところが妥当なところではないかと
思います.
1999/9/5, ララ
ああ、私の後ろにこんなに投稿がきているなんて、涙が出てきました。(笑)何分いまだ初心者なもので感動してしまいます。ではまず最初に私に返信されたと思われる村上さんへ。
確かにそのとおりだと思いますね。あまり深刻になるというのはどうかと思いますが、私は本当に魂の問題というのはタイムリーだったと思うのですね。それは、人間の最後の砦といいますか、大江健三郎は民主主義の人だと思いますけど、民主主義が今後本当に実践されていくのか、その生命線が魂の問題と言うことなのではなかったかと思うのです。民主主義は人間が主役ですから。人間がいなくなってはいくら民主主義だと言ってもそれは無いに等しいですからね。さらに、大江さんが言うには、日本は文化の弱い国だということですから。
以前、筑紫哲也さんが、インターネットのことを落書きだと評していたそうですけど、大江さんは、インターネットのことを良く評価していたようです。私が思うことですけど、今現在もこうやって、身分とか、階級とか(今の日本にはそう言うものが無いことをねがいますが)無く、分け隔てなく話すことができるわけですよね。つまり、大江さんはそう言う横のつながりとというところを評価していたのじゃないでしょうか。伊藤さんが以前このページを魂のことをする場所にしようか、と言っておられたように思いますが、まさに、そういうことなのではないでしょうかね。
それから、以前バーバラさんが言われたそうですが、パトロンのいかがわしさ、またそれにあわせての、大江さんの人格ということについて、そのうち投稿したいと思います。
あと、アラタさん、はじめまして。
だれかれかまわず挨拶していますが、私もその気持ちわかるような気がします。人間は問題を具体的に認識してはじめて問題に取り組むことができるわけですからね。大江さんはそれを、言葉だといっているわけですが。
また、だれかさん、ご意見待っています。
1999/9/4, 武奈彦
いとうさん、みなさん、はじめまして。この掲示板はちょくちょく・興味深く読ませていただいています。読ませてもらいながら、ずっと黙っているのも、なんだかココログルシイものがあるので、受講届( っつーか)の代わりにちょっとだけごあいさつします。
ええと、ぼくが最初に大江さんを読んだのは「ピンチランナー調書」で、これは新刊に近いころでした。大学に入ってすぐの頃です。それからちょっとずつちょっとずつ行きつ戻りつしながら読んで、だいたい全部の小説(といくらかのエッセー)を、だいたいイーブンペースで読んで来たのでした。ぼくにとっての最後(だと思っていたんですが)がちょうど「燃え上がる緑の木」でして(ずいぶん時間がかかってますねぇ)、これを読み終えた時には、「これから誰を読もうかなぁ」とおもったものでした。「宙返り」はまだ読んでません。買ってはあるんですが、なんだかモッタイナクテ、ね。
で、くだらないことを書きますが、大江さんの小説の登場人物の「名まえ」の付け方ってオモシロイとおもいませんか? けっこう大江さん流の駄洒落・語呂合わせ・ユーモアが入っているような気がします。(卒論で大江論を書きますっていう人もいるようですが、大江小説の登場人物の名まえの変遷とか、名付けの由来とか、実在の人物との関係とか、そういうことを調べてみましたっていういうのはどうかしら? イーヨーはコブタとかじゃなくてなぜよりによってイーヨーなんだろ、とかね。)
1999/9/4, あらた
ぼくにとって、大江さんにの小説は、難解です。でも、読み進めていくうちに、漠然とですが、「形」というものが、つかめそうな気になることがあります。それは、大昔の人間が、「暗くて、いつ、どこから、獣が襲ってくるかもしれない、不安な時間帯」を、「夜」という言葉を生み出すことで、克服しようとしたことに、似ているかもしれません。「髪の毛のさかだっった、獰猛な動物」を、「ライオン」となずける事で、克服しようとしたことに、似ているかもしれません。なんだか、書いていて、意味、不明なことになっているかもしれませんが、なんとなく、こんな感じです。
1999/9/4, たなか
ぼくも割とはまって, スイスイ読んでいたのですが, ただ終章だけが
ストンと決まらずに, 何度も読み直しました. 師匠や立花さんたちが
××× (未読の人のために伏せ字(^^;) しまったり, 木津さんも××
じゃうし, 展開が急なので振り回される感じでした.
う〜ん「魂のことをするところ」かあ...
1999/9/4, いとうくにお
ここ(http://tron.um.u-tokyo.ac.jp/tachibana/first/13minj/main.html)に対談が掲載されていますね。いつのまにか移動されたんですね。
8月末の五日間ほど、郷里の函館に帰っていたのですが、最後の日にトラピスチヌ修道院を見学してきました。ここはカトリック系の修道院で、ここに入った女性はほぼ完全に社会との接触を断ち、祈りと労働(農作業や工芸品作りなど)の日々を送るわけです。『宙返り』の「静かな女たち」を連想したのは言うまでもありません。また、「魂のことをする場所」という言葉も。ここに住む人に『宙返り』を読んでもらって、感想を聞いてみたい、そんなふうにも思ったしだい。
1999/9/3, むらかみ
 迂闊なことに今まで見過ごしてきたのですが、このページには英語版もあるんですね。掲示板なんかみて、おーインターナショナルだ、と感心してしまいました。
 ララさん言及のマサオ・ミヨシの評論(評論と呼ぶにはごく短い文章ですけど)は、僕も読みました。確かに92年の文章ですけれども、現在でも十分あてはまるというか、そこに書かれた事態は90年代を通じてますます進行しているのではないかと思いました。『宙返り』のパトロン風に言えば「世界の終わりが近づいている」ってところでしょうか。一方で、小説を「今」書くことの意義あるいは有効性というものも怪しげになっている。大江氏がそうした状況に意識的に抵抗を試みていることは、小説から十分うかがえます。もっとも大江氏の「抵抗」は最近に始まった話でなく、以前からセナンクールの言葉《われわれは滅び得るものだ。そうかも知れない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか?そして、もし虚無が我々のために保留されてあるにしても、それが正しいということにはならないようにしよう》をよく引用しているように、「抵抗」という意識は通奏低音としてずっと存在しているのだとは思います。
 ところで、大江健三郎・立花隆対談はネット上で読もうと思っていたら、うまくいきませんでした。閉鎖してしまったのだろうか? ほかで読めるところがあったら、教えてください。
1999/9/3, ララ
伊藤がさんが、『燃えあがる緑の木 第一部』を読まれているというのでちょっと「燃え上がる緑の木」の「魂の救い」について語りたいと思います。
『燃えあがる緑の木』で大江さんが新しく作った有名な言葉が「魂の救い」というやつですよね。どうして大江健三郎が魂の救いと言うところへ行き着いたか、魂の救いという言葉がどれだけタイムリーな言葉だったか、そんなことが言いたくて引用してみましたした。これ、著作権法に引っかからないでしょうかねえ。これは、あくまで引用です。また、私は宙返りをまだ読んでないんで判らないのですが、共通するところがあるのじゃないかと思いまして。あと、伊藤さん、知っていられるかも知れませんが、読売新聞の文化面を担当している女性記者が、どこかの雑誌で書いていまして、大江さんは、『燃えあがる緑の木』は、一生懸命やったのだけどうまく伝わらなかったと言っているそうです。本人がですよ。だから、難しくても気楽に読んでください。それについては、また別に書きたいと思います。
以下、小学館から出ている『大江健三郎』の中のマサオ・ミヨシさんの評論から。
<超国家資本(トランスナショナル)の形成と環境の回復不能に近い破壊を前にして、世界は緊急度は違っても、日本と同質の危機に陥っている。教育、批評、反対意識は、包括的制御と無力化政策に麻痺され切っている。今、書くと言うことは世界中のどこでも至難なのではないか?小説はすでに不可能なのかも知れない、又全く異なった形式を物語は必要としているのかもしれない。それにもかかわらず我々が日本の外から、包囲され弧絶された大江に期待しているものは、倫理と判断の拮抗を超えて、又批評と共感の葛藤を止揚して、彼が支え得る精緻で、怖るべく美しく、しかし苦痛なまでに複雑な強硬な正確さである。日本ではなく、世界でもなく、伝統でもなく、家族でも、村でもなく、だが世界の到る所で中心に抑えられているあらゆる周辺で、如何に読むか、書くか、つまり中心に挑むかを考えている我々が、大江健三郎に期待するところなのだ。彼にとって苦行であり難行であることは言うまでもない。だがそれにもかかわらず、それは、我々にとって数少ない希望のひとつなのだ。大江は今、第三の発端に立っている。>
私は見事に大江健三郎はマサオ・ミヨシ氏の期待に応えられたと思いました。周辺から中心へプロテストする。見事に「魂の救い」とはこの問題に対応していると思えました。大江さんが原爆にあわれたひとに、面会したときの思いでとして、名前まで出されて、その人には威厳しかなかったと言っておられましたから。ちなみに、ただこの文章、92年に書かれたものなんですよね。だから大江さんが友人であるマサオ・ミヨシに応えてと言うことは無いかもしれませんけど。出版がこの一年後ですから。だれかさん、ご意見待っています。
1999/9/3, いとうくにお
たなかさん、お疲れさま! 読むの、大変でしたか? 僕はけっこうハマって読んでました。好みの問題でしょうか。
1999/9/3, たなか
ようやく『宙返り』を読了しました.ふはー, 疲れました.
1999/9/2, いとうくにお
再びララさんから修正依頼のメールをいただきましたので、27日と31日の投稿を若干修正しました。
伊丹十三の「問いつめられたパパとママの本」を読み始めたのですが、これはちょっと面白くないです。子供が発するような質問(例えば、赤ちゃんはどこからくるの?)への科学的に正しい解答方法を解説するという趣旨の本なんですが、伊丹さんが書く必然性が感じられないんですよね。
並行して『「救い主」が殴られるまで 燃え上がる緑の木 第一部』を読んでますが、トイレでちびりちびり読み進めるだけなので、かなり時間がかかりそう。
1999/9/1, いとうくにお
ララさんから、8月27日の投稿の修正内容をメールでいただきましたので、修正をしておきました。
1999/8/31, ララ
むらかみさん、ありがとうございました。たいへん、勉強になりました。スピノザって言う人はリアリストなんですかね。しかも、人間的なやさしさがある人だと、そもそもリアリストと言うものはそうだと思うのですけど、思いました。大江さんが好きなのも判るような気がしました。この感想、あってますでしょうかね(笑)。昨日の投書にも書いたんですけど、おとといですか、立花氏と大江氏の東大で行われた対論を読みまして、そこにスピノザについて書かれていて、そのイメージもあるんですが。
むらかみさんはあの対論読みましたか?私はあの対論大江さんの本当に正直なものがあると思いました。どのエッセイより貴重だと思いました。(ちょっと大げさ)これを読んで私は大切なところを読み落としていたということに、気ずきました。いつものことですが。つまり、大江さんと私の決定的にちがうところ。
私がどうして大江氏に熱中するかといいますと、ひとつに、むらかみさんの言われるように大江文学に魅せられたから。もうひとつは、戦後ですね、やはり今日という時代を作ってきた人のその中でもさらに重要な人物だと思うからです。特に今日もそうなんじゃないでしょうか。テレビをはじめとして。大江さんてれびには出られないけどやはり影響力ありますからね。あと人格ですね。
そういう私にとっての大江さんですけど、だからこそ、いつものことなんですけど、ショックなんですよね。私は友達になれないって。それだけ大きい人だということなんですけど。
追伸、いつも長々とほかの方々どうもすみません。あと先の件いとうさんよろしくお願いたします。それでは、また、さようなら。この投書、文字化けしませんように(笑)。
1999/8/30, いとうくにお
むらかみさん、ララさん、掲載が遅れてすみませんでした。ララさんの推理どおり、僕は夏休みで田舎にいっておりました。これからは通常どおりの運営に戻りますので、よろしくお願いします。
1999/8/30, ララ
27日あたりに投書送ったんですがまだ載せてくれていないんですね。なにかまずいところがあったのなら御手数ですが個人的にメールで教えていただけないでしょ
うか。いとうさんは夏休みに入られたのでしょうか。それならいいのですが。
また良ければ掲示板に書かせていただきます。
きのう立花氏と大江さんの対論を読ませて頂いて気がめいっています。私は大江さんの友達にはなれないなーって。(笑)それでは、また、さようなら。
1999/8/27, ララ
こんにちは。誰からも返答がもらえないので何か変なこと書いたかなあ、と思いまして、もういちどエッセイ集「鯨の死滅する日」でもと、読んでみました。
むらかみさんの言われる文体に関してですけど、私が思ったことなんですけれど、非常に男っぽいかたですよね。なんなんだか(嘆息)あの抜け目のなさ、あの誠実さ、つまりあの男っぽさ。本当に参ります。私はあんな人見たことありませんから。大江さんは、はっきりいって美男子じゃないですけど、本当に見ていて気持ちよいですからね。渡辺一夫先生は、まあ誰が見ても美しい方ですけれど、大江さんが「鯨の死滅する日」の後ろのほうで、渡辺先生とお二人で並んで座ってられる写真がありますけど、全く見劣りがしませんからね。見劣りがしないというよりも、弟子と師匠と言った感じでそれからの大江さんの姿がありありと見えてくるようです。渡辺一夫先生が、小学館から出ている「大江健三郎」と言う、評論や、大江さんの紹介がこめられた、本の中で、これも集められたエッセイのひとつですが、渡辺先生の奥さんが、大江さんが先生のうちへおじゃましたときに際して、「大江さんは、初め、何だか病的な方のように思いましたけれど、しっかりした方だということが判りました」といってられます(笑)。渡辺先生は、大江さんが育ったご家庭が、何かしっかりした心棒が通っていたためかもしれませんが、と語っておられました。私は、大江さんがオピ二オンリーダーやトップランナーなどと呼ばれることがありますが、本当にそう思えました。最近父性の復権と言うことが言われますが、確かにその通り。けれども、同時に大江さんの人格のありようが考えられても良いと思うのですがね。
追伸、今日の文章もそうなんですが、私の文章、非常に、へたっぴーです。先日の文章も読んでくれた方、非常に読みずらかったでしょう。あまり書き直してもどんぐりの背比べなので、ご容赦ください。悪い文章を読むのは健康に悪いですからね。(笑)
1999/8/26, むらかみ
 みなさん、こんにちは。ララさん、はじめまして。
 スピノザについては、正直なところ、学生時代に『エチカ』を読もうとして途中で放り出した経験もあって、あまり偉そうなことはいえないのですが、「すみません」を連発されて、僕としても恐縮な気分(笑)になり、力不足ながらちょっと言及してみる気になりました。
 スピノザっていうのは、教科書風に言うならば、「すべての究極原因である神は至るところに存在する」「神=自然である」という汎神論を唱えた17世紀の哲学者っていうことになるでしょうか。要は、神というのはどこか超越的なところに存在するのではなく、そういった超越的な視点は幻想にすぎない、というわけですね(エチカ「神はあらゆるものの内在的原因であって、超越的な原因ではない」)。もっと別な言い方をすれば、「この世界」は唯一の世界であって、「この世界」の外部というのは存在しない(=「この世界」は無限である)、この世界の外に考えられるものは、神だろうが、あの世だろうが、単なる想像されたものに過ぎない、ということになると思います。そこでは、救いをあの世に求めることはできないし、自由意志だって怪しいものになる(我々が自由に行動しているように思えるのは、それを決定づけている諸原因を知らないから)。
 で、大江氏がスピノザをどのように読解して、どう小説と結びついているか、ちょっと僕にはまだわからないところがありますけど、「宙返り」に関しては、これは超越的な神による救済の物語からは程遠いことは明らかで(パトロンも何だか俗っぽいし)、「『新しい人』よ、この唯一の世界をなんとかせい」っていうような励ましも感じられましたし、そういう結びつきはあるのかなあ、などと漠然と思ったりもします。こんな感じで、ちょっとはお分かりいただけたかどうか。
 ちなみにスピノザの『エチカ』『国家論』その他は、岩波文庫に入っているので、容易に入手できます(しかも安価)。あと、スピノザに関しては普通の解説書よりも、柄谷行人「探求2」(講談社学術文庫)がわかりやすくて面白く、僕も多くを負っています。ただ、本当に哲学をやってる人からみれば、僕の読み方は相当ズサンだと思われるので、読解が誤っていると思われる方がいれば、指摘していただけると幸いです。
1999/8/25, ララ
はじめまして、むらかみさん。
実を言うと私、まだ「宙返り」読んでないんですね(恥)。新聞に広告が出たとき、すぐこれを買いにいったんですが、少し読んでみたら、おもしろすぎて、怖くなってきまして、これは私のいつもの癖なのですが、楽しすぎる本に出会うと、なにかちょっとたじろいでしまいます。すみません。それで、今になってしまいました。私はそれでいいと思っていますが、これからゆっくり読みたいと思います。すみません。
さて、大江さんの小説のカーニバル性ということですが、私の、いやただ本で読んだだけなんですが、ご自身も語っておられるように、大江さんの子供性というところに興味を惹かれます。また魅力のひとつだと思います。もちろん、無邪気と言うことじゃなくて。私の考えは、こうなんですがどうでしょうか。本来の子供は柔軟でエネルギーがあって傷つきやすいですからね。
あとスピノザについてですけど不勉強で何にもしりません。スピノザについては、大江さんの個人的な問題のような気が、直感でしましてまだ読んでません。すみません。ただ単にどこで手に入れたらいいのかわからないだけなんですが。できれば軽く教えていただけませんでしょうか、スピノザについて。私の頭でもわかるようにですけど(笑)。甘ったれでしょうか。もちろん、スピノザは重要だと思っています。
1999/8/24, むらかみ
こんにちは。「宙返り」をめぐる大江氏の発言の抜粋、参考になりました。とはいえ、大江氏とキリスト教との繋がり、さらにそれとのスピノザの関係は僕にはよくわからないところであり、そもそも「新しい人」とは何ぞやという疑問もまだ残っているので、もう少し小説なり、関連の本なりを読んでみようかなどと思っています。
ところで、大江氏の小説について、メッセージを読み解くことはもちろん重要だとは思いますが、そうしたメッセージ性に縛られない、過剰ともいえる表現の豊かさ、小説の技法を読み取っていくのも、また一つの楽しみかと思います。大江氏も「罪と罰」を引き合いに出して、「小説全体のレヴェルではなく、まだ悲惨な事件が進行中の、ある文章のかたまりのレヴェルでも、明るく生きいきした昂揚感をもたらされることがあるのに読み手は気づくはずである」(『新しい文学のために』)なんて言ってます。そうしたカーニバル的な特徴をあらわにしたシーンの積み重ねがあってこそ、悲惨な物語であっても、自他を励ます文学の力を与えることができるのだそうで、これは「宙返り」にもそのまま当てはまるのではないかと思います。
読書会、まだだいぶ先のことで予定はわからないのですが、都合のつく限り、参加させていただければと思います。どうぞよろしく。
1999/8/24, たなか
ごぶさたしています. 最近, ミロは大江健三郎特集の『国文学』バックナンバーを古本市で手に入れてきたり, 『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『「雨の木」を聴く女たち』など次々と読んでいます. --- オフ会以来, 火がついたかのようです. ミロ曰く「送られてきたファンレターは読まれないかもしれないけど,同人誌には目を通すらしいよ」と. 私は「大江健三郎ファン倶楽部で同人誌が出せるようになったらいいねえ」などと適当に答えています. ああ私は早く『宙返り』を読了しなくては...
1999/8/23, いとうくにお
ララさん、はじめまして。このページをお褒めいただきありがとうございます。このサイトを始めたのは1995年ですから今年で4年。ネットでは実世界の四倍の速さで時間がすぎるといいますから、16年相当になりましょうか。(笑) 最初のころは、まさか大江さんにサインをもらったり、オフ会を開いたりするとは思ってもみなかったんですよ。何ごとも実行してみると、どういう形のものであれその結果が自分に戻ってくるものですね。
1999/8/23, ララ
さっきペトロと書いてしまったんですが、ご承知のとうりペテロです。申し訳ありません。
いま、過去の掲示板を読ませてもらったのですが、歴史のあるページなのですね。
驚きを感じました。重みを感じました。
それでは、また、さようなら。
1999/8/23, ララ
はじめまして。最近パソコンをはじめたのですが、いつもこのページをよんでいました。とても、すばらしいとおもいます。
私は大江先生のことノーベル賞取られるまでお恥ずかしながら知りませんでした。あの時、この人を知っていたらどんなに生きることが楽だったかと、この人の
作品を読むたびに思います。はっきりいって私のまわりには大江作品を読んでる
人が、いませんのでみなさんがどのように大江作品を読んでいられるのか知ることができて、とても楽しいです。
さて、ガンデンさんの言われる大江先生の本当のメッセージについて、私なりに語りたいと思います。マタイ伝のどこだったか、いま調べたのですがわかりませんでした、ペトロをはじめとするイエスの弟子たちが、イエスに対して、どうしてあなたは私たちに対して譬え言葉でしか話してくれないのですか、というところがあります。それに対してイエスは、あなたたちは神の言葉を知らないから、と答えます。
大江先生が言葉にならないなにかを小説に表現することが小説家の使命だとどこかでいってられたように思いますが、記憶が正確ではありません。
ただ私が思うのは、大江先生は若い頃からこの神の言葉を、信仰のない者の一人として、小説と言う形式をつかって考えられてきたのじゃないか。
人間社会で無意識にせよ意識的にせよ、この神の言葉が実践されたときには歴史的に人間はうまくいってきた、ということじゃないでしょうか。ちなみに私はクリスチャンじゃありませんけど。みなさんも日常生活の中でこの神の言葉をさぐりながら生きてられるのじゃないでしょうか。神の言葉を表現する。私のような凡人には非常につかれます。でも非常にたいせつなことだとも思います。
1999/8/23, ガンデン
ガンデンです。
文学評論よりも、大江先生のメッセージに感銘を受けています。
これからの人類はとうあるべきなのか?
インテリごっこではなく、現実問題とてのメッセージが投げ掛けられていると思います。
現在の地球の状態を見ていると、実践のともなわない思想はあまり意味を持たないような気がします。
思想的に危険な面もありますが、ノーベル学賞受賞者だから言えることもあったと思います。
文学ウンヌンよりも、大江先生の本当のメッセージについて語り合いたいです。
自分はシステムエンジニアですが、精神探求の書籍・実践を多くやってきました。
私はサラリーマンなので、責任ある行動しかできません。
もし「宙返り」について深く意見交換したいです。
もし良かったらメールを下さい。
僕のホームページは http://www.aya.or.jp/~ganden です。
プロフィールは http://www.aya.or.jp/~ganden/profile.html にあります。
1999/8/22, ぶる
たしかに、大江さんの小説にはメッセージ性の強いものも多数あります。『宙返り』のライン(つまり『燃え上がる〜』も含めて)は完全にそうですし、他にも光さんをモデルに据えて書かれたものはやはりそうでしょう。また、政治的なメッセージを含むものももちろんありますね。
大江さんはいわば「両方できる」作家なのでしょう。実際『治療塔』などのように、両者が同居しているような感じの作品もありますから。・・・こういうタイプの作家はあまりいないような気がします。
1999/8/22, JEAN(樹杏)
今日は。両性具有者のモティ−フについて。
 エリア−デは、バルザックの<セラフィタ>について、両性具有者の主題が認められるヨ−ロッパ最後の偉大な芸術的創造と言っているようです。「ようやく私は、<セラフィタ>を完成しているでしょう。けれども、果たして私は、生きているでしょうか。あるいは、そのとき正気でいるでしょうか。私には疑わしく思えます。」(バルザックの手紙)
 エリア−デ「両性具有は完全であるということの理想像をあらわしている。ふたつの性がとけあっている。」(大江氏の訳)
 大江氏「<両性具有>のシンボリズムが、プラトンの時代はじめ、まことに豊かな完全さのシンボリズムとして、精神あるいは思想の完全さをあらわすものに読みとられきた。」
 <燃えあがる>が、それですね。
 わたしには、論評する資格がない、と思います。
1999/8/22, いとうくにお
読書会オフの日時ですが、ミロさんからは10月9日か16日の13時からでどうかと提案をいただいてますので、9日を第一候補、16日を第二候補としたいと思います。9日で都合の悪い方はいらっしゃいますか? いらっしゃらなければ9日13時からとしましょう。
場所はミロさん宅で、西武池袋線 富士見台駅改札集合です。参加費は3000円です。
1999/8/22, いとうくにお
浜崎さん、おひさしぶりです。まだ下巻という「楽しみ」が残っているという状況、うらやましく思います。感想、お待ちしてます。
ぶるさん、こんにちは。小説は意味などなくてもよいという意見、僕も反対はしません。基本的には娯楽としての読み物として僕も小説を読んでいます。ただ、大江作品はメッセージ性の強いものが多いと思うのですよ。特に今回の作品はリアルタイムで読んだだけに、僕は大江さんが作品に込めたメッセージを受け止めてみたいという気持ちもあるんですよね。受け止められたとして、それはほんの一部分に過ぎないとは思いますが…。
ガンデンさん、はじめまして。ホームページ、あとでおじゃまさせてもらいますね。
1999/8/22, 浜崎まさえ
 こんばんは。以前にも一度、書き込みさせていただいたのですが、 その後、ご無沙汰しておりました。ただいま、「宙返り」の上巻を 読んでいる所です。
 上巻の半分までを読んで、小説を読みこなす知識も技量もない私の 率直な感想としては、今まで読んだ大江作品のなかで、最も「生」を感じる 作品であるということです。
 読み続けるうちに、自分の中でこの感想がどのように変化するのかも、 物語の進行同様に楽しみですが、また、この小説を読破したら、 私のつたない感想をこちらに書かせていただこうと思います。
 よろしくお願いします。
1999/8/21, ぶる
僕自身は、小説は「意味」なんか持たなくたっていいと思っています。そも そも「意味」にしても、それを本当に読み取れているのかどうか、という根 本的な疑問は常に付き纏います。たとえば大江さんの『同時代ゲーム』にし ても、わかりやすい「意味」など殆ど存在せず、「意味」の定義の不可能な 奇怪なイメージが狂騒的に溢れかえっている、といった感じですよね。大江 さんはこれを「美しい」と感じて書いたのではないかと思うのです(それが 万人にとっても「美しい」かどうかはまた別の問題です)。・・・その観点 から考えると、この作品はむしろ「詩」に近いのかも知れませんね。意味付 けすること自体がが無意味になってしまうというパラドックスを抱え込んで いるのではないかと思うのです。

ちなみに、朝日ホールでのサイン会の時に「僕は『同時代ゲーム』で大江さ んにハマりました」と申し上げたところ、大江さんはたしか「あの作品は、 わかる人は世界で5人ぐらいしかいないんだ」と笑いながらおっしゃってま したね。
1999/8/21, ガンデン
はじめまして。ガンデンと申します。

「宙返り」では、大江氏の年齢にそぐわない若々しい精神を感じました。
未来を担う若者がどうあるべきかをメッセージしているようにも感じました。
私はシステムエンジニアなのですが、宗教的感覚がとても好きです。
自分でも精神探求の書籍・実践を多くやってきました。
もし「宙返り」について深く意見交換したいです。 もし良かったらメールを下さい。

僕のホームページは http://www.aya.or.jp/~ganden です。
プロフィールは http://www.aya.or.jp/~ganden/profile.html にあります。
1999/8/20, JEAN(樹杏)
 今日は。
 告白すれば、日本の現代詩人たちに無関心ではいられない、例えば、大岡 信氏、飯島 耕一氏、入沢 康夫氏。他にも大勢います。
 大江氏は、詩を「あきらめた」と書きましたが、読んでいられるでしょう。
 入沢氏は、校本・宮沢 賢治全集の仕事をされています。
 それでは、また。
1999/8/18, いとうくにお
樹杏さんのお話、僕にはなかなか難しいです。芸術家が美を追求しているかどうか。個人的意見ですが、大江健三郎さんが追求しているのは、美ではないと思います。強いて言うと、思想ではないでしょうか。同じ作家でも、開高健なんかは、美を追求してたかもしれませんね。大島渚や北野武の映画にも、美の追求という印象を僕は受けます(その美に共感できるかどうかは別問題として)。この問題は、「現代の芸術家」として一括りでは語れないものかも。
ところで、Dreamweaverというサイト管理ソフトを試験的に使っており、サイトのデザインをいじっています。このページの投稿日付と名前のスタイルを変えてみたのですが、表示に不具合などありましたら、ご連絡ください。
1999/8/18, JEAN(樹杏)
再び、今晩は。作曲家・武満 徹氏について。
 氏が亡くなられて(大江氏は、「先行して」と書いています。)、立花 隆氏の出演した追悼番組は、録画してあります。その中で、大江氏は、武満氏を人生の「師匠・パトロン」と呼びました。
 その中で再放送された武満氏の「FAMILY TREE」の音楽と映像と詩は、まことに美しく、わたしは、しばし絶句してしまいました。深手を負ったケダモノ、と言ったところでしょうか。音楽の最後の幾小節かはその映像とともに、驚くべきものです。わたしのWAKE(通夜)は、まだ終了していません。わたしも、死んでいるようです。「わたしは、海よりももっと遠くへ行ける。」
 「地獄にいる能力」(「宙返り」)は、ぜひとも必要です。
 ところで、現代の芸術家は、「美」を追求しているのでしょうか?違うように感じられるのですが?
1999/8/18, いとうくにお
犬小屋さんが高く評価している芥川作品「蜃気楼」を読んでみました。妙に心に残る感じはしましたが、犬小屋さんがどういうあたりを評価しているのかは、わからなかった。身辺雑記風で随想のような雰囲気もありますよね。芥川が日常のなかで感じていた(かもしれない)、唐突にやってくる不安感や精神的圧迫感みたいなものを繊細に拾い上げて描いて見せている、そういう印象を僕は持ちました。だから、芸術至上主義という方向よりは「自分のことを言った」方向での成功作品なのではないかという気もしたのでした。「自分のことを言わなかった」ということの意味を誤解してるかな?
1999/8/18, JEAN(樹杏)
今晩は。しつこいようですが、画家・フランシス・ベ−コンについて。
 大江氏の評価に変化はないようです。  1996年8月6日(火)、武満 徹氏の追悼演奏会のあった夜、赤坂でベ−コン自身が出演しているヴィデオを発見・購入し、見たのですが、やはり、その発言にも驚愕しました。
 曰く「わたしの画を見て、好きだと言われたらお終いだ。嫌われたほうが、いいね。」
 ところで、大江氏も、自らの作品に対して、こういう考えを持っていられるのかどうか?本当の「作家」と「画家」とでは、差異もあるでしょうが、この画家の主題は、いわば、「SILENT CRY」で、これは、大江氏の「万延元年」の英訳名です。
 大江氏は、翻訳に対して、異議申し立てしていません。
 それでは、また。
1999/8/18, 早川和子
今晩は。私のホームページのアドレスは下記の通りです。
URLはhttp://www.akinet.ne.jp/kazuko/
私は詩と小説をホームページに載せています。
きがむければ覗いて見てくだされば幸いです。
1999/8/18, 犬小屋
芥川について少々。
俺は芥川は好きなんですが、おそらくjeanさんが言及されるように、意味という点ではあまりたいした仕事をしてないと思っています。jeanさんの引用は、朱儒の言葉からですね。あの作品は確かに、たいしたことがないと思います。
芥川の葬式に、久米正雄が、「結局何一つ自分のことを言わなかった」といったと伝えられています(原文売っちゃったんで、正確ではありませんが)。俺はこの言葉の意味が最初全然分からなかったのですが、一年後に改めて芥川を読み返してみて、全くその通りだと思いました。
芥川を読む時には、小説を読むべきであって意味を読んでもしゃーないと思うんです。芥川の思想は芸術至上主義で知られていますが、朱儒の言葉を読むと、ほとんどが真似してごちゃ混ぜているだけで、何ら定型を持たないように俺には見えるのです。さらに、芸術至上主義(と仮に書いておきましょう)に自己を押しつぶされ、結局自殺しちゃったのね、という風に見ています。つまり、小説家としての芥川と、生活者としての芥川との差違から死んじゃったと。
で、小説ですが、これは芸術至上主義と後年言われるだけあって、作品を選ぶと絶妙なバランス感覚を見せ付けてくれます。意味、著者の言わんとする所という観点を抜きにして、小説世界だけをじっくりと見ていると、本当に見事です。

何でこんな事を書くかというと、伊藤さんが青空文庫のアドレスを書いていたからです。蜃気楼という、ほんの十数ページの短編があったはずですが、これは見事ですよ。普通の作家には書けない一行、一文、改行があったりします。積極的な意味を持たない小説(というと語弊があるかもしれませんが)だと思いますが、そこに存在する小説世界は絶品だと思っています。
やっぱり作品、作家は、いい部分だけ見てあげないとね。そうじゃないと悪口合戦になっちゃうし。

北野武が黒沢明について、「七人の侍撮れたから、後は駄作でもいいんだよ。天才ってのはある瞬間に才能を発揮すればそれでいいんだから」といっていました。確かに「夢」は退屈で眠い作品だった。。。
1999/8/18, いとうくにお
早川さん、はじめまして。リンク、ありがとうございます。もしよかったら、早川さんのページのアドレスもお教えください。
樹杏さん、こんにちは。確かに「書いた文章」「話した言葉」が、いわば一次資料ですね。ベーコンは、経験論、帰納法のベーコンが祖先にあたるんですね。彼を描いた映画もありました。すごそうです。
http://www.sankei.co.jp/mov/review/99/loveisthedevil/index.html
http://www.watarium.co.jp/publications/video/video13.html

犬小屋さん、こんにちは。 エッセイを小説という形式で書いているのか、小説をエッセイという形式で書いているのか…。最初に読んだときは、僕はエッセイをエッセイの形式で書いているものとばかり思っていましたが、そうではないようですね。いずれにしろ、わからないところもたくさんありましたが、とても感動もしたし、楽しみもした、そういう本です、僕にとっては。ブレイクの『無垢と経験の歌』『天国と地獄の結婚』は、青空文庫というサイトで読めますね。
http://www.aozora.gr.jp/
1999/8/17, 犬小屋
新しい人よ眼ざめよを読了しました。
エッセイを小説という形式で書いているタイプですから、初めて読む方にはお勧めできないなぁと言うのが感じたことの一つ目。
共生、生死に関しての言及も、長編とは異なった表現から見て取れるのが面白いです。とくに、俺は持ってはいますがまだ読んではいない、小説の作法から引用している、想像力についての(ほんの数行ですが)言及が、凄く興味深いものでした。想像力、リアリティー、そういったものの真贋についてはどうも人並み以上の興味が湧くようです。足に関しての大江氏とイーヨーの距離感も面白いですね。それにしても、引用のブレイクの解釈は独特な上難解です。全部は読み解けなかった。
 
1999/8/17, JEAN(樹杏)
大江氏については、その「書いた文章」や「話した言葉」を探求するのが、一番良いようです。「作家」なのですから。それらは、公開されて、われわれに向かって、開かれているのですから。
 ところで、「同時代論集」の、未来へ向けて回想する―自己解釈のどれだったかに、イギリスの画家・フランシス・ベ−コンに触れた文章があります。NHK・教育放送に、大江氏が出演して、画家について話したことも記憶にあります。(80年代でした。)氏は、世界で最も偉大な画家だと思う、と発言しました。
 何年か昔になりますが、画集を買って来て、見て、驚愕してしまいました。1944年の<THREE STUDIES FOR FIGURES AT THE BASE OF A CRUCIFIXION>(磔台の人物のための習作3点)などなど。以来、悪夢(?)に見舞われたような感じです。
 様々な文献も、収集しましたが、ダメです。どうにもなりません。  これも、氏が言う「私はこのことをお話しようと思って、あの恐ろしいところから生き延びてきました。(旧約聖書・ヨブ記)」ということなのでしょうか?
1999/8/17, 早川和子
今晩は。勝手にいとうさんのホームページを私の ホームページにリンクを貼らせて頂きました。 何のコメントも無いリンクですがこれが私に出来る 技術の精一杯です。私も今大江の「宙返り」を 読んでいます。これからも宜しくお願い致します。
1999/8/17, いとうくにお
あらたさん、ありがとうございます。宮内勝典さんでしたか。
1999/8/17, あらた
すいません、昨日書きこんだ、ことに間違いがありました。(かなり) ここで、正確に書きこみますので、ご参考までに。 1999年7月16日の読書人、作家、宮内勝典さんが、「宙返り」について、書いていました。「悔い改めよ、と告げるように命じる。しかしヨナは船に乗って逃げようとする。すると神は激しい暴風雨を引き起こす。ヨナはその怒りを鎮めるために自分自身を海に投げ込ませる。神は、大きな魚(クジラ)にヨナを飲み込ませる。クジラの腹の中でヨナは祈りつずける。(この祈りの中に「水が私をめぐって魂にまで及び」という言葉が出てくる。「洪水は我が魂に及び」という書名や、魚勇という名前の由来ではないだろうか。そうだとすれば、大江氏にとって「ヨナ書」は長い歳月、魂の最深部にあった書に違いない。炭坑のカナリアを隠喩として語りつづけてきた姿勢にも、ヨナに通じるものがある)。 まだまだ続くので、このへんで。長くてごめんなさい。
1999/8/17, いとうくにお
むらかみさんの文字化け部分、メールで原文をいただきましたので、修正しておきました。
1999/8/17, いとうくにお
去年の暮れにこの掲示板で、大江作品を映画化するとしてどういうキャスティングがいいかを勝手に決めてしまうという遊びをイナコさんとやってたんですが、『宙返り』を読了して、またやってみたくなりました。以下、僕のイメージするキャスティングです。

師匠(パトロン):大滝秀治。南アルプスの天然水の人(笑)。この人しかいないと思う。もう少し若いといいのだが。
案内人(ガイド):柄本明。急進派につるし上げられるシーンとか、目に浮かんできませんか?
踊り子(ダンサー):神田うの。体型的には最適。もうちょっと奥行きが感じられるといいんだけど、そこは演出でカバー。だめなら草刈民代か。
木津:筒井康隆。最近は役者が本業のようですし。知的で洗練されていて、暗さもあるからいいと思う。
育雄:格闘技団体リングスの田村選手。普通の俳優では手に余る役なので、別の分野の人をもってくるしかない。
荻青年:緒方拳の息子。北の国からの若者でもいいかも。
津金夫人:藤真利子。個人的趣味。
ギー少年:伊丹十三の息子(伊丹監督へのオマージュとして)
古賀医師:長塚京三。知的で壮健なイメージが合っている。
立花さん:白井貴子。まっすぐな感じがあるから。
森生:難しい。幼い印象を与える容姿の宮崎哲弥とかは?
重野夫人:岸田今日子。ぴったりではないでしょうか。

ふーっ、苦労した。でも、なんだかムチャクチャな組み合わせのような気もする…。
1999/8/17, いとうくにお
樹杏さん、はじめまして。文学への愛情が感じられる書き込みをありがとうございます。「本当の文学は、本当の生活と同じです。」という言葉は、大江さんが聞いたら喜びそうですね。
1999/8/16, JEAN(樹杏)
 大江氏の文学を読むということは、誠に大変な「労働」です。本当の文学は、本当の生活と同じです。そうじゃないでしょうか?
 芥川は、「人生は、一行のボ−ドレ−ルにもしかない。」と書きましたが、わたしは、こういう考え方が、嫌いです。晩年の著作で、キリストを永遠のロマンチストと書いたようですが、これもまともに受け取れません。
 本当の詩を引用しましょうか?
 「どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
  鍬を立てかけ 籠を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

  どこかに美しい街はないか
  食べられる実をつけた街路樹が
  どこまでも続き すみれいろした夕暮は
  若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

  どこかに美しい人と人との力はないか
  同じ時代をともに生きる
  したしさとおかしさとそうして怒りが
  鋭い力となって たちあらわれる」(茨木 のり子)
  それでは、また。
1999/8/16, JEAN(樹杏)
 はじめまして。このペ−ジは、よく読んでいます。
 「洪水は」は、旧約聖書・詩編第69篇の冒頭です。旧約・ヨナ書は、これを受けているようです。イギリスの作家・ジョ−ジ・オ−ウェルに「鯨の腹の中で」というエッセイがあり、ヘンリ−・ミラ−の「北回帰線」に触れています。執筆は、第二次世界大戦開戦前。サルトルの「存在と無」でも、ヨナについて、言及があるようです。(付言・わたしは、クリスチャンではありません。)
1999/8/16, むらかみ
 「宙返り」については、きわめて乱雑な読み方をしただけに過ぎないのですが、確かにさまざま疑問がわいてくるところがあって、いろんな方の見方を聴いてみたいところがあります。
 端的にいって、大江氏がいったん「小説を書くのは終わりにする」と言った後で、どうして「宙返り」のような作品が書かれねばならなかったか、そもそも、その必然性が今もよくわからぬところです。さらに、この小説では「世界の終わり」という観念が今までの作品になく強調されているようで、ミロさん指摘の「キリスト教」との絡みもあって、引っかかるところがあります。従来の作品での「世界の終わり」は、背景に「核(兵器)」の問題がはっきりイメージされたと思うのですが、冷戦が一応終結したせいか、「宙返り」では、なぜいま「世界の終わり」なのか、きわめて漠然としているようにみえました。実際、小説でも、世界の終わりのヴィジョンについて、パトロンは、「ひとつの都市が、死にたえたようになっているが、すでに終末が来たのではなくて、これから来ようとしているのらしい。それでいて、祈りの声はどこにもあがっていない。住民すべて気力を喪失している。そうした眺めです」などと語っていて、きわめてあいまいな「終わり」のような感じです。もっともこうした図は、80年代のポストモダン騒動を経て、おおかたの価値観が相対化されてしまい、それらをつなぐ回路が存 在しない現代の日本社会を表した寓話のようで、考えてみれば、それも「終わり」 と言えば「終わり」と言えないこともないような気がしますけど。

 手児奈さんは自身のホームページに「『宙返り』を読み解く方法」を書かれていましたけれど、僕がそうした混乱した読み方をしているせいか、なるほどこういう補助線の引き方もあるのだなあと参考になりました(手児奈さんへ;この補助線の引き方が妥当かは、これからゆっくり検討してみます)。そんなわけで、読書会にも期待するところ大なのでありました。

 ヨナ書は参照してみたのですが、「大水がわたしを襲って喉に達する」(新共同訳)となっていました。同じ部分なのか不安なのですが、訳によってこんなに異同があるもんなんでしょうか。
1999/8/16, いとうくにお
あらたさん、どうもです。「宮崎なんとか」って、宮崎哲弥さんですね(僕、けっこう好きなんです、あの人)。彼は大江健三郎も読んでいるんですねえ。宮崎氏の言うとおりだとすれば、大江さんは昔からヨナ的人物が好きだったんですね。『洪水はわが魂に及び』には、ヨナ書のこととか、出てたかなあ。記憶にないや…
1999/8/16, あらた
ヨナ書第2章第5節の「水がわたしをめぐって魂にまでおよび」っつうやつは、「洪水は・・・」の出所みたいですよ。
いつかの(結構最近)読書人っつう、新聞で宮崎なんとか(よく朝まで生に出ている評論家)が、このことについて解説していました。

1999/8/16, いとうくにお
ミロさん、進行役のほうよろしくお願いします。次回オフ会の日時ですが、僕はいつでもOKです。

1999/8/16, ミロ
次回のオフは9月末〜10月初旬のどれかの土曜日でいかがでしょう。
日時は、出席者の方々のご意見もお有りかと思いますので、何時が良いかあるいは悪いかをお知らせください。
テキストは『宙返り』ということで。
いとうさんから座長にと言われましたが、進行役ということですよね。
でも、前回のオフみたく皆さんで楽しくおしゃべりできたら。。で良いですよね。

1999/8/16, いとうくにお
妻の実家にて、『宙返り』読了しました。家に戻ってから「ヨナ書」も読んでみました。短いものですね、これは。『宙返り』については、一言では言い表せない読後感を得ました。
ところで、ヨナ書第二章第五節に「水がわたしをめぐって魂にまでおよび」(日本聖書協会1955改訳版)、「水は魂に達するまでわたしを取り巻いた」(ものみの塔聖書冊子協会版1985年日本語版)とあるのですが、これって『洪水はわが魂に及び』の出所なのでしょうか。
1999/8/14, いとうくにお
僕もバーバラさんに賛成で、『宙返り』についてもう一度ほかの人と話し合ってみたいと、前のメッセージを書いたあとで考えていました。先日のオフの時点ではまだ読了していなかったということもありますし、その後、読み進んできて「この本について話し合ってみたい」という気持ちも強くなってきています。
1999/8/13, 手児奈姫
みなさんこんばんはぁ
あのね、「宙返り」ね。
手児奈なりにね、まとめてみた。
よければ見てくださいませんか。
厳しい評価はしないで下さいね(笑)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~tegona/
の中にあります、
「六月歯医者」の中にあります。
NEWってgifがくるくる回っていますから・・・

おやすみなさい・・・
1999/8/13, バーバラ
いとうさん、みなさん、こんにちは
読書会ネー、私にはちょっと…と思っていたけれど、お茶汲みを兼ねてうかがってみようかなーという気になりました。(「アルコールを含む」に励まされ…)
ミロさんの『燃えあがる緑の木』を読み終わった後の『宙返り』の感想も伺ってみたいです。
大江さんは「『宙返り』に僕の全てを書いた」というようなことを6月の講演会でおっしゃっていました。『その彼の全て』が見えてこなくて、もう一度読み返しています。皆さんの感想をお聞きしたいので、『宙返り』をテキストにしていただければうれしいのですが。
1999/8/13, いとうくにお
ミロさん、読書会形式でのオフ会について賛同者がそれなりの数になってきましたから、実現に向けて話を進めましょうよ。できれば初回の座長はミロさんがやっていただけないでしょうか。大江作品を取り上げること、時期は9月か10月あたり、という2点を個人的な希望としてあげておきます。絶対そうでなくてはならない、ということではありませんが、一応、第一希望として。
1999/8/13, 犬小屋
読書会の件了解しました。次回もぜひ参加させて頂きます。
現在新しい人よ眠ざめよを読んでいます。小説と言うよりエッセイですね。
1999/8/12, ミロ
ミロです。


久しぶりに読了疲れ(大きな作品を一気に読み上げると、どっと虚脱してしまったりすることありません?)してます。

読了して、これはイカンイカンとか言って(?)『燃え上がる緑の木』を読み始めています。初期作品からのブランクを埋めなくては「なぜなぜなぜ?」を発することもできない気がしてます。この作品はプリズムみたいです。私自身の抱えている問題をも大きく引き出してくれるようです。

とはいえ、今気にかかっていることを。。。
なぜ、「魂のことをする場所」から神を排除しなくてはいけないのか。彼の作品をもう少し系統だって読んでから考えたいと思っています。特に、上巻は「彼による福音書」なのかと思ってしまいました。随所にちりばめられた聖書的なものは彼にとってどういう意味を持つものなのか。。
まだ、一部を読んでいる最中なのでなんとも言えませんが『燃え上がる緑の木』とは比べものにならないくらいキリスト教の思想を感じます。そこに、差異があるならどこから来ているのかどのような受容があったのか興味あります。
うーんやっぱりもうちょっと読まなくては。。迂闊なこと言えませんねー。


いとうさん むらかみさん

読書会に賛同してくださってありがとうございます。
いとうさんのホームページなのに、ミロの提案を快く受けて下さって本当にありがとうございます。家はきっと家族の誰よりも年上だと思われる「あばらな家」なんですけど、一軒家なので侃々諤々、意見囂々、しても大丈夫です(たぶん)それに 唯一の自慢は超芸術トマソンがあることです。(娘が「家は珍邸だー」と言っております。)
むらかみさんおっしゃるように「蘇る学生時代」と言う感じに出来たらいいですね。
1999/8/12, むらかみ
読書会の件ですが、興味アリです。なんだか学生時代を思い出すようで、ぜひメムバーに加えてほしいものです。テクストは大江氏の作品でもいいんでしょうし、大江氏が小説のなかで言及している書物でも面白いでしょうし。まあ、ダンテの「神曲」とか聖書は大仰だとしても、例えば、柳田國男とか折口信夫とか、僕はぜんぜん詳しくないのですけど、読めばそれなりに大江作品の解釈に役立ちそうですね。ブレイクの詩とか、それこそ最近言ってるスピノザの哲学とか、大江作品を読んでると食指を動かされる本、数多ありです。このへんは人それぞれ興味が分かれるところでしょうけれども、ぜひ実現はさせたいものです。
1999/8/12, いとうくにお
たなかさん、ミロさん、こんばんは。ミロさん、読むのが早いですね。僕はいまだに下巻です。
miwさん、こんばんは。斎木犀吉をめぐる文学論、僕としても同感です。モデル探しは、文学の楽しみ、喜びの「おまけ」みたいなものかもしれませんね。僕自身は、モデル探しも含め、作品と現実世界との関わりという部分にもちょっと興味をそそられます。関川夏央が、作家と文学作品を、その作家の生活環境や時代背景の中に位置付けて改めてその魅力や価値に光を当てる、そういうコラムをいろいろ書いていますが(朝日新聞とかで)、とっても面白く感じます。(大江健三郎、関川夏央、沢木耕太郎、この三人がいまの僕にとって物書きベストスリーです)
1999/8/11, miw
いとうさん、レスをどうもです。それにしても、斎木犀吉の名前をこんなかたちで拝見できるのは、なんだか不思議な気がします。私にとって、斎木犀吉は、実在の人間以上に実在的であります。私の中に斎木犀吉は生きていますし、良く考えてみたら、モデルとなった実在の人物がいたところで、そのことによって斎木犀吉の実在性に何の影響もないわけです。

おっしゃる通り、斎木犀吉は「国際政治学者と伊丹さんの両方の要素から作り上げられた」というあたりがきっと真相でしょう。ただ、この二人だけではなく、もう一人、恐らくは大江氏自身の要素からも大いに作り上げられたのではないかと思います。しかし、上に書いた通り、誰をモデルにしていようと、斎木犀吉は、斎木犀吉として(少なくとも私にとっては)実在の人間以上に実在的であります。

思うに、それが文学というものではないでしょうか。大江氏には斎木犀吉という人物を作り出さなければならない内的必然性があったわけで、この人物を通して、彼が表現したかったものがあった。それを読者が受け取り、理屈としてではなく、言わば共鳴によって、自分の中に受け取った。そして、大きな影響を受けた。その斎木犀吉はいつまでも心の中に生き続けている。このことこそが文学という営みではないかと思うのです。

伊丹氏については、すでに私の中で一つの決まった像というものがありますから、斎木犀吉の像と一緒にすることはとうてい出来ません。斎木犀吉のモデルとなったのが伊丹氏だという事実があったところで、大江氏が作り出した斎木犀吉は、あの日常生活の冒険者斎木犀吉に変わりはないのであって、このことこそが文学という営みの本質ではないかと思うのです。
1999/8/11, たなか
私がほかのこと (ある学会のホームページ作成, 歴史研究者の団体設立のための準備など) に時間をとられている間に, ミロはもう読了してしまいました. 聖書を引きながら『宙返り』を一気に読了してしまうとは,おそるべし.
1999/8/11, たなか
『宙返り』の読書の進み具合ではミロに大きく水をあけられてしまいました。
読書会については、彼女の国文科出身の血が騒ぐのらしい。(笑) 賛成です。
1999/8/11, いとうくにお
miwさん、はじめまして。なるほど、そういう方がいらしたんですね。ただ、『日常生活の冒険』の斎木の、映画に出演したり、デザイン事務所で働いていたりといったあたりは伊丹十三と共通してますし、何ごとについても「彼自身の価値(意見)を持っ」ているという点もやはり伊丹十三についても言えることだと思うのです。総合して考えると、miwさんのおっしゃる国際政治学者と伊丹さんの両方の要素から作り上げられたのが、斎木犀吉なのかもしれませんね。
1999/8/11, miw
「日常生活の冒険」で検索してここに到着しました。はじめまして。miwと申します。

>伊丹さんがモデルと言われる『日常生活の冒険』

と、書かれていますが、私はてっきり「われらの時代」のあとがきとして大江氏が書いている「《われらの時代》とぼく自身」の最後のところで言及されている人物のことだろうと思っていました。その人物は、日本人で最もサルトルと親しく交際していた国際政治問題の専門家で、パリで自殺したと書かれています。「生についても死についても彼自身の価値を持った男」、「彼こそが《われらの時代》のいちばん魅力的な青年だった」ともありますので、「日常生活の冒険」の主人公にぴったりあてはまります。どんなものでしょうか?
1999/8/11, いとうくにお
ミロさんのほうから、次のオフ会は読書会形式でやってはどうかというご提案がメールでありました。お店でやるのも楽しいですが、もっと落ち着いたところで、もっと文学について語り合いたいということです。
場所(文学のことをする場所、ですね)として、ご自宅(池袋から約15分)をご提供いただけるそうです。以下、ミロさんのプラン。
「私のプランではあらかじめ座長を決めて一冊の本を読んでくることが基本となります。(土曜日の昼くらいからのスタート)会費(3000円くらい?)で軽い食べ物、ドリンク(もちろんアルコール含む)をこちらで準備できます。使ったお金はその回毎に清算してきちんと会計の報告をします。本当に大まかなプランですが。。」
僕としては、賛成です。ほかの方のご意見もお聞かせ願えないでしょうか。「排骨湯麺とペプシコーラ」の中華料理店のほうは、いつ店が見つかるかわかりませんし…。
1999/8/8, いとうくにお
予告どおりトップページに写真を掲載しました。Tateiwaさんが都合で帰られたあとなので、7名となりましたが…。もっとサイズの大きい写真、ほかの写真などもありますので、オフ会参加者の中でご希望の方にはメールでお送りいたしますよ。3点あって、合計で70〜80キロバイ程度です。
1999/8/8, ミロ
金曜日のオフではありがとうございました。
掲示板に書き込みもしていない私まで混ぜていただいて大変嬉しい時間を過ごさせていただきました。

ハンドルを たなか(おしゃべりな方)にしようかと思ったのですが、長いのでやっぱり止めました (^^;;

本当に久しぶりに、文学を語ることができて嬉しかったですねー。
大江さんの作品は、本当に何十年ぶりかに読み返しています。一人で読んでいては読み過ごしてしまうような部分も、いろいろな方のご意見を聞くことで発見できたりしてとても新鮮でした。まだ、読んでない最近の小説も「バーバラさんが言ってたのはこれかー」とか「手児奈さんがこだわってた部分はここなのね」なんていう読み方がこれから出来るかと思うとワクワクします。
蘇る学生時代て感じでした。

出来れば、私も始発までゴーと行きたかったのですが帰ってみれば猫と子供がブーブー言っておりました。(予想通り。。。)

いとうさん オフの幹事お疲れさまでした、そして本当にありがとうございました。

>いずれまた第二回目をやりましょう!

是非、お願いいたします。

手児奈さん
「大いなる反感」と「総スカン」したつもりはなかっったような。。。
でもそう感じたならごめんなさい。なんせ一次会ではお誕生日の人が集団でいらっしゃたので、、、「ハッピバースデーー」が流れると思考停止してました(^^; ただ、二次会で信仰についてお話しできたことは、十代に辿り着いた私の考えがどうだったのかを再認識させていただきました。(馬齢を重ねているのを認識したって事だったりして。。)

では また。。。
1999/8/7, 犬小屋
ばんわ。おもいっきり二日酔いの犬小屋です。よく帰れたもんだ。
なぜかバスの中で読む小説をどこかでなくし、う○こをすると辛いものを食べただけに痛いっす。あーしんど・・・
酔っ払いの特権で好き勝手な事ばかりいっていたような気もしますが、大丈夫だったんでしょうか?

こちらもよろしく。
1999/8/7, バーバラ
昨夜のオフ会、オツカレサマでした。
ひょっとして一番疲れているのはこの私ではないでしょうか。午前8時半から午後5時半まで仕事をして今自宅でくつろいで?おります。(我ながらゲンキー)
オフ会は、想像以上に楽しく、ついつい最後まで、おじゃましてしまいました。
『宙返り』はとりあえず最後まで読み、ついでに『燃えあがる緑の木』三部も読まなくちゃという程度にざっと読んで臨んだオフ会でした。皆さんの御意見を拝聴し、私の疑問点をいくつかお尋ねしたい、と思っていましたのに、ふと気が付くと、なんだかノリまくってまとまりのないことをベラベラとしゃべっていました。でも初めてお会いした方々とあんなにいろいろとお話できて、うれしいでした。
いとうさん、御心配いただきましたが、あれから自宅に帰り、45分の仮眠とシャワーでリフレッシュして出勤し、無事仕事もミスなく終えました。
いとうさんには、このような機会を作って頂いたことに、感謝致します。私も話し足りない気分同感です。
手児奈姫さん、「ダ.ヴィンチ」のコピー有難う。もっと宗教についてあなたとはお話しなければならないと思っています。今日はダメ!頭モーローです。
そして、御出席の皆さんへ
こんなに大江で始まり大江で終わる、超豪華フルコースのおしゃべりは生まれて初めての経験で贅沢な一時でした。皆さんに感謝します。
では、GOOD NIGHT!!
1999/8/7, 手児奈姫
「私は信仰を持っていませんけれども、信仰と言うことにまったく無関心であったということではないのです。」(『人生の習慣』から引用しました)
「僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということを言ってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね」(雑誌「ダ・ヴィンチ」から引用しました)

みなさまこんにちはぁ
「宙返りオフ会」に参加させていただきましてありがとうございまいた。
さて、昨夜の一次会に於いて私(=手児奈)が「我々無宗教、或いは無信仰の者達が祈りという言葉を持ち出していいのか?」「みなさんは信仰を持たない者としての祈り(大江健三郎)は解決されましたか、『宙返り』を読んで?」と言った質問をぶつけて(特に前者の質問に於いては!!)「大いなる反感」と「総スカン」を喰らい「精神的ダメジ(笑)」を受けました。
あの後電車の中でゆっくり考えたのですが・・・
矢張り上記にあるように大江氏も一度「祈り」を語るために信仰に近づこうとしたはずです。でなければ余りにも不誠実じゃぁないですか<ファンダメンタリスト達に対してですね。
私はこれを「大江氏地獄降り」と勝手に命名します(爆)
地獄→煉獄→天国へと至る彼の道程に我々(少なくとも私はね!)は『なつかしいい年への手紙』『燃え上がる緑の木』『宙返り』を読み接いで、そして、やがて彼は(=大江)は、読者を「『宙返り』を書いて、そういう気持ち(信仰を持つ可能性:手児奈注)から切り離されて、本当に自由になった気がします」という「文学の光」に導かれたのではないか、って考えます。
バーバラさんが仰っていました、「師匠のいかがわしさ!」を私がこれ又勝手に「師匠はトリックスターかも知れないね」と言い、村上さんの大爆笑に繋がったことで大いなる勇気が与えられたことも明記しておきます(笑)
<最後に>
三次会までお付き合いいただきましたこと、こころよりお礼申し上げます。
いとうさん、拙い私の論理に終始援護していただきありがとうございました。
バーバラさん、犬小屋君、センチですが、二人に会えて良かったです。
むらかみさん、三次会で、手児奈、ウーロン茶こぼしてごめんね(爆)

☆此処をクリック☆
手児奈の(超くだらねぇえ!!)Home Pageです。
今回のオフ会は「魂のことをする場所」でした。
みなさんありがとうございました。
1999/8/7, たなか(か)
昨夜のオフ会、みなさんお疲れさまでした。たなか(ひ)のほうが喋りまくっていたので、私は影が薄かったかもしれないですが、(^^; 楽しい時間を過ごさせていただきました。今度は「『宙返り』読了記念オフ会」をしましょう。会場は例の中華料理屋さん(ってどこだ?(^^;)がいいな。(^^)
1999/8/7, むらかみ
きのう(金曜日)は、ひさびさに書生っぽい文学談義の場にまぜてもらって面白かったです。正面きってブンガクの話をできる場っていうのは、いまどきあんまりないですからね。

それにしても手児奈さんの「信仰を持たないものの祈り」の話はなかなか興味深いものがありました。僕はどちらかというと、大江氏の小説は、その異様な文体というか、「癒し」とか何とかいいながらもそれをはみ出て行く過剰な表現というか、そういうものが面白くて読んできた部分があるのですが、大江氏の小説を契機に「祈り」というのを真正面きって考えてみるのも悪くないかなあ、などと思いもしました。大江作品の細部というか、表層にこだわるという意味では、僕は蓮実重彦「大江健三郎論」(青土社)に多少感化されたところがありまして、これはいかにも80年代ポストモダン的な香りのする評論ですが、なかなか変な本で面白いです。そんなわけで、細部にこだわって「排骨湯麺とペプシコーラ」を味わうオフ会なんかが、今後開かれることを期待してます。また、よろしくお願いします。
1999/8/7, いとうくにお
今日は昼過ぎに起床しました。なんとなれば、昨夜はオフ会が明け方まで続いたから…。一晩中、大江健三郎をめぐって、性別世代に関係なく語り合った、なんとも刺激的な一夜でした。アルコールとしゃべりすぎのせいで今朝方にはひどかった喉の痛みも、いまはおさまっています。

ご参加いただいた犬小屋さん、バーバラさん、手児奈さん、むらかみさん、たていわさん、たなかさんと奥さん、どうもありがとうございました。「大江ファンが集まってオフ? いったいどんなオフになるの?」という若干の不安をいだきつつ開催したオフ会でしたが、杞憂でした。皆さんのおかげで大変楽しいひとときを過ごすことができました。皆さんも、普段は語ることのできない大江談義、文学談義を楽しまれたのではないでしょうか。話したいことを思う存分に語り合う、これって楽しいことですね。話は尽きず、二次会、三次会と会は続き、結局私たちが最後の店を出たころには新宿の夜は明けていたのでした。丸山健二はさんざんバイクを乗り回したあとでもバイクを降りるときには「まだ乗り足りない」と感じると書いてましたが、僕はさんざん語り合ったあとでももっと語り合いたいという気持ちが残っていたしだい。体力的にはあの辺が限度ではありましたが…。いずれまた第二回目をやりましょう!
1999/8/6, おねむりパーシー
世間は盆休みのようですね。(シゴトだ、悲)
いよいよオフ会ですね。私は、残念ながら上京できませんが、皆さん楽しんできてくださいね。(^。^)

本さん
13日ですか。楽しみです。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/3183/
1999/8/5, 黒猫
「洪水はわが魂に及び」は、私にとって最大の難関でした。
何度も挫折しかかってようやく読みきったのですが、どなたか、この小説の真の魅力を教えてくださいませんか?
比較的評価は高いようなのですが……。
1999/8/4, ぶる
「アジアン・キッチン」はランチで一度行ったことがあります。東南アジア系の飲み屋、という感じですね。夜にはけっこう賑やかになるかも知れません。楽しんできてください>皆さん。
1999/8/4, 犬小屋
ようやく洪水は我が魂に及びを読了しました。
オフ会前に読み切れてよかったです。

さて、読んでいる最中には主人公勇魚の樹木と鯨の代理人という思想が、世間と全くコミットせずシェルターという象牙の塔に隠れた単なる逃避に見えてイライラしましたが、最終的には絶対的とも言えるであろう心理を得て、全て解決する(語弊あり)事でホットしました。最後のシーンは圧巻でした。
1999/8/4, 本
こんにちは。本です。さてNHK-FMは今年の夏も特集番組をどしどし放送していますが、8月9日月曜日から13日の金曜日、午後2時から3時半まで「トークオンミュージック」と言うのが放送され、大江先生が13日の放送に登場します!!武満徹や大江光の音楽と絡めて、語られるということです。
1999/8/4, あやめ
はじめまして。大江作品で卒論を書こうとしている22歳です。
今日初めてこのHPを知りましたが、私の身の周りには大江を読む人がいないこともあり、ここで色々な人の考えを読むことが出来て、とても嬉しいです。
私は高校時代に「見るまえに跳べ」を読み、まるで自分のことを書かれているような気がして以来、はまってしまいました。好きな作家はたくさんいますが、これを書いたのは私だ、という気がする程のめりこんだのは大江作品だけです。でも今のところ、私がまだ22歳の学生であることも一因だと思うけど、前期の作品により魅力を感じ、最近のものはなんだか自分とは関係の薄いもののように感じてしまうのも事実。
卒論は、「日常生活の冒険」「遅れてきた青年」の辺りを中心に置いて書こうと思っています。
1999/8/3, いとうくにお
たなかさん、情報ありがとうございます。リフトン氏の著作のことは、大江さんが確か講演会でも話されてました。
1999/8/3, たなか
8月3日の夕刊読売新聞に大江健三郎さんのエッセー「人生の細部」が掲載されています。ロバート・J・リフトンの『世界を救うために破壊する』というオウム真理教にかんする研究と、エドワード・W・サイードの『場違い』という回想の書評というか紹介です。大江ゆかりさんによる挿し絵もあります。
1999/8/1, いとうくにお
たなかさん、奥様とお二人での参加ですね。了解です。参加申し込みは三日まで受け付けますので、まだお申し込みでない方ももしよければご連絡を。当初参加を希望されていて都合がつかなくなった方も何名かいらしたので人数の増減がありましたが、たなかさんご夫妻を含め現状8名です。
1999/8/1, たなか
こんにちは. 娘は赤坂の飲み屋で大人たちが学問的な話を (だけじゃないですが)している中でも平気なたちなので, 連れて行こうかなと思っていたのですが, 本人に「ついて来るかい?」と聞くと, 「いや!」というので留守番確定しました. 妻と二人で参加です. よろしくお願いします.
1999/7/31, いとうくにお
さやさん、はじめまして。なにかよい資料は見つかりましたか? いまのところ『宙返り』そのものと、それから「燃えあがる緑の木」3部作などを一次資料として研究していくしかないかもしれませんね。大江文学を卒論のテーマにしている人はけっこういらっしゃるようなので、来年になったら、さやさんのものも含めいろいろな論文が発表されそうです。どうぞ、がんばってください。
たなかさん、はじめまして。オフ会、ご参加大歓迎ですよ。ただ、会場のアジアンキッチンはたぶんレストランというより飲み屋に近いと思われることと、大江文学の話が主な話題になると思われることから、もしかしたらお子さんにはいごこちが悪いかもしれません。そのあたりご検討のうえで、ご返事いただけますか? 投稿でもメールでも結構です。
「魂が星のように降って、・・・」の排骨湯麺とペプシコーラの話は、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の「父よ、あなたはどこへ行くのか?」からの引用ですね。自転車でその中華料理店へ行く、とありますから、成城学園近辺の店でしょうか。そういえば、『宙返り』(まだ下巻冒頭までしか読んでない)の上巻p.388には、案内人(ガイド)の追悼集会を終えた事務局メンバーが「小田急の線路にそった狭い通りの中華料理店に出かけた」とありますね。同じ店かもしれませんね。うむ、僕はその店をなんとしてでも探し出して、オフ会の会場にすべきであったかもしれません。(^^)
1999/7/31, たなか
はじめまして。ちと不純な動機で検索していたら、ここにたどりついてしまいました。「魂が星のように降って、・・・」の中に出てくる「排骨湯麺とペプシコーラ」って、おいしそうですよね。かねてからその排骨湯麺を食べてみたいと思っていたのですが、その欲求が急に高まり、なんとか調べようと、インターネットをさまよってしまったのでした。どこの中華ソバ屋さんかご存知の方、いらっしゃいませんか? あ、大江さんの作品は高校生の頃から親しんできました。『宙返り』はまだ読んでいませんが、近いうちに読みたいと思っています。ところでオフ会、親子連れ(妻+小学5年生の娘がいます)で参加できますか?
1999/7/27, さや
はじめまして。私は国文科の4年生で、今度卒論で大江作品を取り上げることにしました。リアルタイムで読める作品、かつ後世に残るであろう作家を考えた末、大江氏の『宙返り』を選びました。
けれども、まだ論文は発表されていないようですし(私が気付いていないだけか?)、書評や大江氏自身の講演会・インタビュー等数少ない資料しかありません。『宙返り』に関する資料がありましたら、教えていただけると幸いです。
1999/7/26, 手児奈
みなさんこんばんはぁ

ITTENさんに
>小説を読んで、癒された、とか救われた、と申す人々は少なくなく、特に大江さんの小説には生への励ましが期待できるようですが、

同感です。人が何故小説を読んだり、音楽を聴いたりするか。
私は何時もこの事(生への励まし!)を考えて小説読むわけですね。
で、私は、その「人生への励まし・癒し」を大江氏や、津島佑子氏に求めて来たのです。
1990年の大瀬村の「大江健三郎・荘村清志IN大瀬村」で「小説や音楽は人生の役に立つのか」と言う講演でこのように話されております。

「人生の曲がり角のような所で足を踏ん張る必要があるとき、このことは前にも何処かで経験していたと思うことがあります。それはその人が前に小説や音楽で、読むことを通じて聞くことを通じて生き方の、人生の分かれ目の難しいところを乗り越えるための勇気を予め与えられていたんだと思います」

うろ覚えで悪いのですが、昔大江氏はこのようにも語っておられました。

「小説を沢山読むこと。それはたくさんの人間のモデルを読むこと」って。

小説を読む(大江を読む、津島佑子を読む)は矢張り「人生の経験・方法」がある小説家から、「励まされている!そして、勇気付けられ、且つその(生への)方法を知る」って私は感じます。
どうだろう、なんちゃって(^^)

☆*..゜.・゜*..・゜.*・゜・.・..☆*.
オフ会の日晴れるといいですね(^^)
何とか読み終わるといいのですが・・・(汗)<『宙返り』
幹事ご苦労様です<いとうさん
ERみーようっと
あっ、そうだ、ER(緊急救命室)のマーク・グリーン先生もこう仰ってましたよ!!
「人は感情じゃぁない。10年後、振り返った時、そこに経験が(私はこの場合、たくさんの小説を読むことによって、人間のモデルをたくさん読むこと、って当てはめてみました)有るかなんだよ」

おやすみぃ・・・
1999/7/26, k−kan
「魂のこと」について・・・・
柳美里氏の文章には、魂の居場所を求める彼女の悲痛な叫びが感じられてなりません。不遇な子供時代を過ごしてきた彼女の感性は非常に鋭敏で、時には人と人の心を傷つけるでしょう。彼女には物が見えすぎるのです。見えすぎるために見なくてもいいものを見てしまう。
では、魂とはなにか?
大江氏の作品には常に強い存在不安が感じられます。それは、主人公なり作者なりが社会、あるいは社会の流れの中に身をゆだねることができないことに起因すると思われます。彼は類まれなる明晰な理知を持つ人物です。全共闘の時代、その理知は強い社会批判へと向けられました。それから30年、我々が手にしたものは物質的な豊かさと精神的な貧困でした。なぜ、心は豊かにならなかったのでしょうか?
「燃えあがる緑の木」はそのテーマを追いかけているのだと思います。つまり人間の幸福とは外からやってくるものではなく、自分の心の中で起こる「内的体験」なのだ・・・と。
かように考えれば「ギー少年をください」という柳氏の言葉は見当はずれなものです。ほしがっている限りは永久に手に入らないという皮肉な逆説ですね(笑)。
私たちは魂の行き所を捜し求めています。でも行き所は「魂しか知らない」ものなのでしょう。そのような魂の赴く方向に身をゆだねていくことが実は幸福へ近づく一番の近道なのではなかろうか・・・と、こんなことを考えたわけです。

漱石は宗教の門をたたいて(『門』)手に入れることはできず、あきらめたわけですが(則天去私)、大江氏はもう2.3歩先へ進んだようです。柳美里氏もまだまだこれから。あふれんばかりの才能をもっと磨いて、いい作品を書いてほしいものです。
と、浅学でたわいもないことを書きました。よろしければメールなどくださいませ。
1999/7/25, ししまるれしぴ
はじめまして。私は、村上春樹氏、幸田文氏、庄野潤三氏、そして大江健三郎氏を愛読する23歳会社員です。つい先日「宙返り」を読み終えたばかりです。歩きながらも読んでしまう(ちょっと危ない・・・)くらいおもしろく、感動しました。
この想いを何とか気軽に、大江氏にお伝えできないものかと考え、氏がホームページを開いてないかしら?という淡い好奇心で検索したところ、みなさんのホームページに出会いました。
私が大江作品を読み始めたきっかけは、伊丹十三監督の「静かな生活」という映画でした。見終わると、どうしても小説が読みたくなり、本屋に走りました。こういう場合、映画とのあまりのギャップに愕然とすることが多いのですが、この小説の持つあたたかさ、やさしさを、伊丹監督は見事に表していらっしゃいました。以来、7冊ほど読みました。特に好きなのは「万延元年・・・」、「芽むしり 仔撃ち」です。 ついつい、長くなってしまいました。まわりに本を読む友人があまりいないもので、誰かにお話ししたくてたまらなかったのです。次に読もうと思っているものは「燃え上がる緑の木」です。(順序、バラバラですけど・・・) また、遊びに来させてもらいます。それでは、失礼いたします。
1999/7/24, いとうくにお
オフ会の会場を決めました。今度いつ新宿に出られるかわからなかったので、ネット上で調べて決めたので、もしかしたらあまり静かに話せる雰囲気ではないかもしれませんが、その場合はどうぞご容赦を。料理はうまそうな感じです。店の名は「アジアンキッチン」(03-3346-7871)といいまして、新宿NSビルの29階にあります。ここに地図があります。8月6日7時から2時間、僕の名前で予約してあります。
1999/7/22, いとうくにお
むらかみさん、はじめまして。オフ会へのご参加、もちろんOKです。都合がつくようでしたら、メールか投稿をお願いします。おねむりパーシーさんも、都合がつくとよいですね。お会いできることを期待しています。
ITTENさん、浅井さん、書き込みありがとうございます。「魂のことをする場所」、このサイトの名前にしてしまいましょうか…。ITTENさん、電車の前は、寝心地が悪いですよ。寝るのはどうか布団の上で。
1999/7/22, 浅井 眞紀
ITTENさんへ

はじめまして。
 江藤氏の自殺は漱石で学部卒論を書いた者としてもショックでした。

 さて、メッセージを拝見して、いろんなことを考えました。「寛容と非寛容」のことは他の方にバトンをお渡しすることとして、「魂のことをする場所がない」というお言葉について…
 私も去年までは何年も同じような気持ちを抱えて生きてきました。でも気がつくと、「魂のことをする場所」はすぐ目の前に近付いていたのです。そして今、その場所のとても近くにいると感じています。
 具体的な私的経験は煩雑になるのでここでは避けますが、ITTENさんに伝えたいのは「自分のやりたいことに忠実に生きてみては?」ということです。勿論「やりたい放題してみなさい」というのではありません。現実に流されそうになっても、自分の心が拒絶することには素直に“No”と言う、そのほんの少しの勇気だと思います。(表現が下手で分かりにくいかも…ごめんなさい)
 自分の気持ちに素直に生きていくのは勇気がいるし、つらい思いもすると思います。でもそうして生きていくうちに「ほんの少しのズレを含む繰り返し」を経て「魂のことをする場所」へ辿り着けると思います。自分を信じて!
 それと「急進派」にだけはならないで。急いてはことを仕損じます…。

 老婆心からお喋りが過ぎてしまいました。まぁ、もう若くないもののたわごとと流していただければ幸いです。私なんかが書けることではないと分かってたけれど、「電車ノ前ニ寝テヤルゥ!」と結ばれては……心配しました。
 では。焦らずにいきましょう。
1999/7/22, むらかみ
 みなさん、はじめまして。村上と申す者です。大江ファンとしてこの掲示板や大江健三郎ニュースなど興味深く読ませていただきました。大江氏の作品は高校生のころから10年余りにわたって読み続けてきたのですが、はじめ違和を感じたその文体にも、最近では(作品の変化もあるのかもしれませんが)触れるたびになにか懐かしさのようなものを感じています。「宙返り」はざっと一回読んだだけなのですが、こうした時代に「魂のことをする場所」を「転向」してまで築こうという小説に、大江氏の極めてポジティブというか、希望に満ちた思考を感じました。朝日新聞に掲載されていたスーザン・ソンタグ氏との往復書簡からも、それがうかがえるような感じがします。

 新潮45の柳美里氏の文章は私も読みましたが、乱暴に言えば、文学の名のもとにある程度のことは仕方がないというような、文学を特権化する姿勢が現れているように感じました。しかし、文学がなぜそんなに特権的に振る舞えるのか、私には今一つ解せないところです。
 
 ところで、来月6日にオフ会をされるそうですが、突然ながら参加させてもらってもいいものでしょうか? まだ仕事の予定がつかない部分があるのですけれども。
1999/7/22, ITTEN
 江藤淳が亡くなってしまわれましたね。それが誰であれ、自殺、と聞くと猛烈に悲しい気持ちになってしまいます。
つけっぱなしにしているTVから、ニュース速報の周波数の高い音が聞こえると、マサカ、アノ人ハ死ンデイマイナ?!と動揺してしまうのです。
大江さんは、光氏によって現世に(ゆるやかな?)鎖で繋がれているようなので、その点安心です。
小説を読んで、癒された、とか救われた、と申す人々は少なくなく、特に大江さんの小説には生への励ましが期待できるようですが、今の私に「魂のことをする場所」が見つけられない以上、日常の悲しみは深まるばかりです。
 随分と深刻になってしまいました。
 さて皆様、今月の「新潮45」、柳美里の文章はお読みになりましたか。ああ、この永遠のように続く無礼の文字が、憎憎しく、我慢ならないものとして、一人の教信家を苦しめたのです。皆様はこの件についてどうお考えでしょうか。果たして、寛容は非寛容にたいして寛容になるべきなのでしょうか。私は寛容であることを目指す粗暴な若人です。罵詈雑言を前に、怒りの力を示す急進派にも成り得ます。なにしろ、愚直なのですから。プンプン。なんだって、あんなに横柄で居られるんだ。あれが彼女のモードかね?
 柳美里さえ、「ギー少年をください」と書きました。どうでしょう、皆で沢山のギーの物語を書きついでは?
 どなたか、回答を下さい。直ぐにでも。さもないと、電車ノ前ニ寝テヤルゥ!
1999/7/22, おねむりパーシー
今日、新聞を見てびっくり。
大江氏の論敵?の江藤淳氏が「自殺」との記事。
以前、友人と「この2人はどちらかが死ぬまで和解できないだろうなぁ。」と話していた事があっただけに、とてもショックです。それと、大江氏の動向が気になる。(伊丹氏も亡くなった後だしなぁ・・・)

久しぶりに来てみると、オフ会をされるとの事。
仕事の都合がつけば参加したいので、確認後、メール致します。

黒猫さん
私以外に「燃え上がる・・・・」から読み始めた人がいるなんて感激です。(^○^)
でも、全作品読んだんですか。すごいですね。
私も「宙返り」、そのうち読まないといけませんね。^^;

いぬごやさん
>鼻の中に何か入ってるのが気になってしまいました。
チェック厳し〜い。でもこんな事言えるのも、今、現役の作家だからですよね。

手児奈さん
ここでははじめまして。シノラーだったんですか?(笑)
この後見に行きます。
うちのHPにも文学コンテンツがあります。(私の管轄ではないけど)
よかったらどうぞ。
http://www.geociites.co.jp/Milkyway-Orion/3183/
1999/7/20, いとうくにお
「はなまるマーケット」は主婦向けのテレビ番組ですね。テレビタレントと大江先生のツーショットってのは、なかなか珍しいのではないでしょうか。
昨日、オフ会の会場を決めようと新宿界隈をほっつき歩いたのですが、どうも騒々しい店が多いみたいで、決め切れませんでした。今度はネットを当たってみることにします。
1999/7/19, akaosug
先週金曜日の「はなまるマーケット」に大江さん出てましたね。
ヤッ君が何を聞いていいのか困ってる風で (^^)
出掛けだったのですが、伊丹さんの話と光さんの話をしてるところだけ見られました。
サインいーなー。三好達治つっても「次郎の屋根に雪降りつむ」しか知らないけど。
1999/7/19, いとうくにお
moutonさん、どうも。『頑張って死んで下さい』、そう言われてみれば、そんな気が…。
Makiさん、はじめまして。今度のオフ会が、このホームページで初めてのオフ会です。つまり皆が初対面です。Makiさんもよかったら、ご参加ください。
1999/7/18, Maki
 今日初めてこのページを発見しました。16歳から大江作品を読み続けて早や12年が過ぎました。しかしまだ大江世界の淵にも辿り着けずにいます。そんな私の案内人(ストーカー)になって下さい。よろしくお願いいたします。
 ちなみに一番好きな作品は『新しい人よ眼ざめよ』です。読むたびに強く励まされます。
 オフ会にも出てみたいのですが、何せ日が浅いので、場違いのような気が詩的が引けています。
1999/7/18, mouton
 今日は。7/23(金曜)の23.30-0.30NHK衛生第2の週間ブックレビュー(番組)に大江さんが出ます.後、気になったのですが『頑張って死んで下さい』だったと記憶しています。元気では・・ちょっと
1999/7/15, バーバラ
いとうさん、
昨日、八重洲ブックセンターにて大江さんにサインして頂くことができました。有難うございました。このHPでいろいろな情報を得ることができるのでうれしい限りです。
既に上下巻とも持っていたのですが、どうしてもサインが欲しくて、上巻のみもう一冊買ってしまいました。それで整理券を手に入れ、大江さんの横に立っていた係りの人に、「以前買った下巻もサインをお願いできますか」と聞きましたらOKだったので、両方に貰うことができました。(ちょっとずうずうしかったかな?)只、ちょっと残念だったのは、私の名前をいとうさんのように入れてもらえなかったことです。講談社主催と書店主催のちがいでしょうか。
しかし『さすがに大江さんはすごい』と思ったのは、一人ひとりに目を見てしっかりと挨拶なさっていたことです。150人もの人に…と思うと脱帽です。『魂のあいさつ』でした。
1999/7/15, 黒猫
今日、「宙返り」を読み終えました。
まだ読後の整理がついていないのでなんとも言えないのですが、「最後の小説」以降に改めて書いたというだけあって、読み応え十分でした。
実際、「燃え上がる緑の木」の[rejoice!]という言葉に続くには、ふさわしい小説だったように思います。
1999/7/14, ぶる
>やまもとさん
お探しの初版本は、たぶん神保町のけやき書店で殆ど見つかると思います。ただしここはべらぼうに高いです。初版本、署名本を売りにしている店なのでどうしても値づけが高めになるようです。前述の小宮山書店でもいくつか見つかるとは思います。たしか先日見た時は『日常生活の冒険』『生き方の定義』『「雨の木」を聴く女たち』があった筈です。このあたりは他の店でも割合よく見ますし、あまり値段も高くはならないでしょう。問題は『ヨーロッパの声、僕自身の声』と『死者の奢り』でしょうね。前者はそもそもあまり見ません(けやき書店にはありましたが)。後者は、案外店頭や目録で見かけるのですが、芥川賞受賞作が収録されていることもあり、初版本は相当に高値になります。芥川賞・直木賞受賞本はコレクターがけっこういるらしく、値段が高くなることが多いのです。『死者の奢り』の場合、帯なしでだいたい8000円、帯があれば最低でも2、3万、下手すれば5万を越す、というのが今の相場ですね。あとは財布と相談してください。

>いとうさん
オフはちょっと無理そうです。なにせ今やっているのが2000年問題関係の仕事なんで、今年は後になればなるほど死ぬ、という状態なのであります。
次回に期待して、今回は欠席させていただきます。
1999/7/13, あらた
やまもとさんえ。 僕は、大学にはいるまで、純文学ばかリ読んでいましたが、友人の勧めで、はじめて町田康という若手作家の、「くっすん大黒」を読んだときは、ちょっとびっくりしました。この作品は、野間文芸、ドゥ・マゴ賞を取り芥川候補にまでなった作品です。
「こんなんもありか!」というのが、この本を読んだ時の正直な感想です。
一時間もあれば、読める、本ですので、暇があったら読んでみてください。
そのかわり、怒らないで下さいね。(僕は好きですけど・・・)

「宙返り」の表紙の横顔、あれ光さんですよね。最近やっときずきました、
1999/7/13, 朝霞
>いとうくにおさん
私が一番最初に読んだのは、「死者の奢り」です。やっかいなところに落ち込んでしまった、というのは、大分前から感じていました。(今手元に本が無いので抜粋がしづらいのですが・・・。)そして何よりも、妊娠している女子学生が印象強かった。なんというか、同じものを感じます、女として。
私が頭で考えていた事と同じ事が書いてあるんだから、本当にビックリしました。まだうまくまとめられないのですが、おおまかにこんな所でしょうか。 眠いのかな、。頭が働かない・・・。
1999/7/13, 喬木の母
御無沙汰しておりました。
時々掲示板を拝見しには来ていたのですが、な、な、なんとオフ会!!
いいですねぇ、うかがいたいですねぇ。でも私は名古屋なので、ちょっと無理。残念・・・。
「宙返り」は早く読んでしまってはもったいないと思いつつ、抗しがたい勢いで、四日で読んでしまいました。あーあ、もったいない。いいお値段なのに・・・。
実際、とても読みやすかったと思いませんか? 「三人称」のせいでしょうかねぇ?
しかしながら、私、あの作品を「今世紀最後の奥義書」のように感じてしまいました。
オウムの方々には、ぜひ読んでいただきたいものです・・・。
1999/7/12, いとうくにお
>「元気を出して死んで下さい!」そうですね、そんな言葉がありましたね。おっしゃるとおりでしょうね。僕も一人、自ら命を絶ってしまった友人がいるのですが、いつまでたっても完全にはその事実を受け入れることができないんですよ。その男のことを思うたびに、「なぜだ?」という気持ちがわき起こってきます。大江さんも伊丹さんのことを繰り返し繰り返し「なぜだ?」と考え、その結果の一応の結論としてああいう結論を出されたのでしょうね。あの二人の場合、伊丹さんがモデルと言われる『日常生活の冒険』によって、いわば伊丹さんの死を大江さんが予言してしまったような形になっています。それだけに大江さんにとっては、伊丹さんの選択をどのように理解するかということが、大きな課題としてのしかかっていたのではないかと想像するしだいです。
1999/7/12, はなび
>いとうさん
『小説現代』の中で大江さんが言っていた伊丹十三氏の死の説明を読んでで思い出したのが、小説の中でイーヨーが言っていた「元気を出して死んで下さい!」という言葉です。
伊丹氏の自殺は、きっと大江さんの中では想像を絶するほどの悲しい苦しい出来事だったと思いますが、それでも、大江さんの説明を読むと、その死をなんとかポジティブな方向に持っていこうとしているというのが痛いほど感じられます。
1999/7/12, やまもと
2回目の書き込みです。
今「ヨーロッパの声、僕自身の声」を探し求め、古書店を廻っています。
ついでに『死者の奢り』『われらの時代』『日常生活の冒険』『生き方の定義』『「雨の木」を聴く女たち』『万延元年のフットボール』『自立ということの意味』の初版本が手頃な値段であれば・・・と楽しんでいます。
年内に、全作品を年代順に再読しようと計画を立てています。
大江作品に影響され、共感してきた自分自身の再発見を計画していますが、大江作品を連続して読み続けるのは少しつらい経験から、過去の芥川賞作品と新潮社の「純文学書き下ろし特別作品」そして新劇に分類される戯曲を併読するつもりです。若い作家の作品を読みたいのですがほとんど読んでいません、その点が気になります。いい作品を教えてください。

大江健三郎作品の時代と状況は私自身と同世代を代表し、共有しているのが読み続ける因ですが、この掲示板を読んでいると若い方々にも通じていることがよくわかり、大江に凝り固まったことに安堵します。
1999/7/11, いとうくにお
朝霞さん、はじめまして。よろしく。どういった作品を読まれて「すごいっ!」と思われたのですか? よかったら教えてください。
バーバラさん、初版本ゲット、おめでとうございます。僕も『万延元年』と『個人的な体験』だったら、定価以上でも買いたいなあ。バーバラさん、オフ会参加希望者リストに一応名前を入れておきました。都合がつくとよいですね。
1999/7/11, バーバラ
手児奈さん、ぶるさん、いろいろと情報有難うございました。本日待望の『万延元年のフットボール』の初版本めでたく手にすることができました。中野書店でこの本を手にした時、ジーンと感動が込み上げ、涙目で「これください…」という状況でした。ありがとう!! 私にとっての大江文学は他のそれとはまるで違う、文学以上のものなのです。2年前に大江さんにあるコンサート会場で偶然お会いした時、私が大江さんにやっと言えたことばは「大江さんの文学は私の人生に大きく関わっています。」でした。あとからなんだかわけのわからないことを言ってしまったとはずかしくなりました。でも今考えると、大江さんがおっしゃっている『魂のことをする』という意味を考え、『祈り』について考え、それらが私の『生』の方向付けとしてポジティブな作用を私にもたらしていることを考えると、まんざら、違ってもいなかったなと思います。
手児奈さんの『燃えあがる緑の木』を読んで苦しかったという感覚よくわかります。私もドップリと浸かっていっしょにもがいていました。私はまだ第三部を読んでいないのですが、大江さんもきっと『神』について、『祈り』について苦しみながら書かれたのではないでしょうか。
今度のオフ会、今のところまだわからないのですが、うまく都合をつけて行きたいと思っています。私も頑張って今『宙返り』下巻の1/3あたりです。
1999/7/9, 朝霞
こんにちは。初めまして。
友人から勧められて、最近大江さんの小説を読み始めました。
こんな小説(家)が存在したのか!と、正直驚きを隠せません〜!!すごいっ!
まだ数作しか読んでいませんが、どうやら入り込んでしまったみたいです。広がる世界に。
考え込むことが趣味になりつつある今日この頃の私、
ここ数日間の議題と、ある小説のある部分が合致したんです、たまたま。
そこには、私が思っていた事と同じ事が、より明確な表現で書かれていました。
最初に読んだ作品でこれですから、次の作品でもやはり同じ感銘が。
勧めてくれた友人に感謝してます。
これからもこのページで、大江さんの本の事を調べるつもりです。
1999/7/9, いとうくにお
黒猫さん、ようこそ。楽しんでいってください。
はなびさん、こんにちは。小説現代にあった、伊丹十三の死について大江さんの説明は、なんだかとても説得力があったように、僕は思いました。はなびさんは、どう思われましたか?
1999/7/9, はなび
もうお読みになった方も多いかと思いますが、『小説現代 7月号』に大江さんと椎名誠氏と東海林さだお,氏の対談が載っています。ノーベル賞をもらった後、変わったこととか、伊丹十三のこととか、自分はホモセクシャルの気があるかどうかなど、結構興味深い話をいろいろしています。
面白いので是非読んでみて下さい。
1999/7/9, 黒猫
はじめまして。大江健三郎さんの小説は「燃えあがる緑の木」以来、リアルタイムで読み、つい先頃、さかのぼって全作品を読了致しました。現在「宙返り」上巻を読んでいます。
身近に大江読者がいないので、このページを発見したことを嬉しく思っています。
1999/7/9, ぶる
「万延元年のフットボール」の初版、小宮山書店には確か今は在庫がありません。ここは総じて値段は安めで、商品の回転も速いので、ちょくちょくチェックしておくべき店ですね。
もうひとつの、神保町ブックセンタービル(だったかな)の5階にある中野書店では奥の棚に1冊在庫があったと思います。ここは状態の良い本が多いのですが、値段はだいたい高めで、「万延元年の〜」もちょっと前にチェックした時には帯付きで3000円でした。・・・あ。同じビルの4階にも文芸書を扱う店があるな。ここに今あるかどうかはちょっと不明です。
1999/7/9, いとうくにお
手児奈さん、こんにちは。僕もやっぱりオフ会までに読了しておきたいなっていう気持ちになっています。できれば、本の感想なんかも話し合ってみたいですしねえ。
1999/7/8, 手児奈
みなさんこんにちはぁ\(^o^)/
「宙返り」オフのために「年内中に読みゃーいいや」って考えを改めさせられ(笑)毎日少しずつなのですが、読み進んでいます。8/6日までに読み終わればいいのですが・・・
ところで超ー古い話で申し訳ないのですが(^^;)
バーバラさんに(バレーボールのイエリッチ・バーバラなら知ってますが)
「万延元年のフットボール」の初版をお捜しになっていらっしゃるそうですね。
私の感では(当てになりませんが)神田の「小宮山書店」に有るかもね。
無かったらごめんなさい。岩波ブックセンターの方角のビルの上の階の方にある(こちらは名前忘れちゃいました)古書店には確か初版本がたくさん於いてあった気がするのですが・・・これも不確かな記憶ですので無かったらごめんなさーい。
真剣にお探しのようですので「手児奈のを譲って差し上げようかしらん?」って思い久しぶりに「万延元年〜」を取り出したところ、カビが生えており(*_*)且つ「19刷り」と有る。人生ドンマイだ<自分
「信仰を持たない者の祈り」について
これは私も数年考えさせられています。甘いかも知れませんが「燃え上がる緑の木」に「その答えが書いてあるのではないか」と思い入れ過ぎ却って苦しかったぐらいです。「宙返り」で大江氏は「無信仰の我々にも祈り(或いはそれに似た)という観念を具体的に提示して下さるのか」と云った(おおよそ小説を読む方法が最近こんな感じ・・・)期待と救いの(或いはそれこそ祈りですよ)思いで読み進んでいます。
甘いですか?(笑)<自分
1999/7/8, いぬごや
ダヴィンチか何かの雑誌に載ってた大江さんのインタビューを読みました。
が、インタビューよりアップ写真の鼻毛なのかハナクソなのかしりませんが、鼻の中に何か入ってるのが気になってしまいました。
うーん、カッコ悪いなぁ・・・
1999/7/8, あらた
今月のダビィンチに、大江さんのインタビューが掲載されてます。
が、表紙が、ちょっと、買いにくい。じつに。
「いや、おれは大江さんが載ってるから、買うんだよ。」
と、レジの女の子に、つい言いそうになりました。

大坂から東京は、ちょと遠い。
オフ会行きたいけど、ちょと、遠いな。
1999/7/5, 本
「宙返り」ですが、上巻を読み終わりました。
そしてなだれ込むように下巻に進んでいったのですが、
はっ!!と思わせられる箇所がでてきて正直驚いています。
みなさんはもう読了されたのでしょうか。
1999/7/5, いとうくにお
オフ会の件です。今日の時点までで3名の方から参加希望のメールをいただいています。僕を含め、4名になります。ということで、オフ会は実施することにします。なお、申込状況は掲示板ではなく、トップページに入れることにしました。
1999/7/4, いとうくにお
王さん、はじめまして。外国の方が大江文学を研究テーマに取り上げてくれるなんて、嬉しいです。『宙返り』のあらすじですが、講談社 のサイトで簡単な紹介文がご覧になれますよ。
1999/7/4, いとうくにお
『宙返り』刊行記念オフ会の提案

以前から、一度くらい大江ファン同士集まってオフ会をするというのも面白いかなと思っていました。やるとするならば新刊の出たこの時期は絶好のチャンスではないかと思いまして、オフ会を提案するしだいです。別段、大江さんを呼べるコネがあるわけでもなし、単に集まって飲み食いしながらファン同士語り合うというだけのことですが、もし参加ご希望の方がいらっしゃいましたら僕までメールをお送りください。僕以外の参加者がゼロ(笑)の場合は、開催できませんし、1人の場合は一対一で話すというのもたぶん互いに怖い(笑)と思うので、やはり開催は見送ろうかと思います。つまり2人以上参加希望のメールがあれば、開催ということです。
開催日:8月6日(金曜日)
開催時刻:午後7時から
場所:新宿駅か成城学園駅の周辺(詳細未定)

参加申し込み状況は、随時この掲示板でお知らせします。
1999/7/4, 王 志庚
大江ファンの皆様:
はじめまして、王@北京と申します。
私は中国人の大江ファンです。
四年間の日本語勉強だけで敢えて大卒論を大江にした中国人大学生は私は初めてではないでしょうかと思います。
私は九月から院生になります。続けて大江文学研究をやりたいと思います。
今後どうぞ皆様、宜しくお願いします。
最近のニュースで大江さんの新著(宙返り)が出版された事が分かりました。
早く拝読したいんですが、まだ読んでおりませんので、その粗筋を教えていただけないでしょうか。
皆様のメッセージを楽しみにしています。
ではまた。
1999/7/4, いとうくにお
手児奈姫さん、こんにちは。いろいろな大江グッズをお持ちなんですね。さて、リンクのことですが、猪木風に言わせてもらうならば「リンクは、いついかなるサイトからであっても了解する」というのが僕の方針です。(笑) というか、いったんインターネットという公の場にサイトを公開した以上、そこへジャンプするための道案内に過ぎないリンクを拒む権利など誰にもないだろうと思うのです。たとえそれが自分のサイトを批判するサイトからのリンクであっても、です。連絡も不要と考えています。そんな僕でありますから、同じ文学ファンである手児奈姫さんのサイトからのリンクを拒もうはずがありません。むしろ大歓迎です。
1999/7/4, 手児奈姫@シノラー
みなさんこんにちはぁ\(^o^)/

いとうさん超お久しぶりです。ご機嫌いかがですか(^^)
大江さんのサインを頂いたのですね。よかったですね。私も10年ほど前に在る雑誌のプレゼントで手に入れたことがあります(「同時代ゲーム」) ややマニアックになりますが(笑)5年ほど前に手に入れた(神田の古書店で買いました)「人生の習慣」にもサインが入っており、そのサインの横に例の「お手製のゴム判?」が付いておりました。メキシコにいたときに彫ったのかなぁ?メキシコ人らしい人物が楽器を演奏しているゴム印でした。
たまにしか来て無くて、且つROMばっかりでごめんなさい。
あとそうだ、TOPに「リンクフリーです」と在りますので恐れ入りますが私のページからリンクさせていただいてよろしいでしょうか。よいお返事期待しております。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~tegona/
「Transparence Space」 津島佑子さんファンサイトを作ってみました(*^_^*)
1999/7/2, バーバラ
いとうさん、サイン見せていただきました。ありがとうございます。早速、プリントして、大江ファイルに加えました。
サイン会によっては宛名を書いて下さらないこともあるらしいので、ラッキーでしたね。
アキラさん、わたしの血液型もA型ですが、邪魔しませんよ!でも、『宙返り』は『燃えあがる緑の木』を読み終わってからが、ぜったいにいいという、予感がします。
1999/7/1, いとうくにお
バーバラさん、お役に立ててよかったです。これが大江さんのサインです。僕は上巻しかもっていかなったので、下巻にしてくれるというゆかり夫人お手製のゴム判による落款はもらえませんでした。(上巻のサインだけで僕は満足ですし)
アキラさん、はじめまして。逃避とはいえ大江文学なら国語の勉強にも…ならないか。
1999/7/1, アキラ
いとうさんとページを読んでいるみんな、はじめまして。
オレは受験勉強と現実から逃避するために大江健三郎を読んでいる受験生です。
みんな「宙返り」読んでるみたいですね。オレは「燃え上がる〜」をまだ第一部しか読んでないので、まだ買ってません。
いとうさんやバーバラさんのように飛ばして読みたいんだけど、A型の血が邪魔して踏ん切れないんです。
東京の人はサイン会とか行けていいですね。札幌にも来てくれたらなぁー。
皆さんに聞きたいんですけど、ジャガーに乗ってる人、いますか?
オレは免許も金もないんだけど、いつか金持ちになったら、Jのように夜中にジャガーを孤独に疾走させたいと思ってます(地下鉄を彷徨する気は無い)。
これをもうすでに実現させてる人っているのかなぁ、って思ったんで。
1999/6/30, バーバラ
昨日大江さんの講演を聞いてまいりました。
最近時間に余裕がでてきて、ふと一昨日、「大江さんの講演会そろそろじゃなかったっけ」と思い出し、いとうさんにぶしつけながらお願いして、メールで講演会のインフォーメーションを送って頂きました。それでわかったのが、「なんと明日ではないか!」ちょっと忙しい日が続き、あきらめて葉書も出していなかったのですが、時間が空いたとたんにどうしようもなく行きたくなって、昨日、だめで元々と行ってみました。するとキャンセル待ちができるとのこと、 待つこと1時間、空席が出て、めでたく入れた次第です。いとうさん、ありがとうございました。
大江さんのお話は、最初の方はユーモアを交えた話しが続き、 なごやかな雰囲気で進みました。話しの概要はこのHP のニュース欄にも出ていますので、重複しないようにしますが、私が一番印象に残っていることは、『魂のことをする場所』が大切というお話しでした。このことは大江さんが『燃え上がる緑の木』でも主題とし、ここのところずーっと言い続けていらっしゃることですが、昨日のお話では:
1、頭で考えること
2、心で考えること
3、生きる為の技術(仕事)
この三つを統合したものが、人が生きる力となるもので それを行うところを『魂のことをする場所』というとおっしゃっていました。
そして「それは、常に社会に向け開かれていなければならない。」ともおっしゃっていました。
大江さんという方は、物事の真理、本質というものをよく見抜き、それをきちっと言葉にできる方だと改めて感じ、感動しました。
いとうさんは講演会のあとサインをして頂いたそうですが、そのサインもHPで拝見できればうれしいです。講談社の方の話しでは、『宙返り』上、下にそれぞれ違うサインをして下さるということだったので、是非見てみたいです。
それではまた
1999/6/28, JUNKI
6月28日毎日新聞朝刊の13頁に「文化という劇場」というコラムが掲載されています。柳美里さんの小説「石に泳ぐ魚」をめぐる一連の裁判で、大江健三郎氏が原告側から陳述書を提出しました。(このホームページのニュース6月24日を参照)
コラムから、少し引用します。

大江さんは柳さんの実力を認め、将来を期待しながらつづっている。
モデルになった友人を肯定的に描いたとしても、相手を傷つけたのなら、友人の不幸への直視やその乗り越えを表現するにあたって、間違っていたのではないか。私なら完成稿を捨てて、もう一度、書き直す。さらなる文学化、内面化を経れば、友人を苦しませるような細部は必要ではなくなっているのではないか。

この短い文を読んで、自分がなぜ大江氏に惹かれるのか、よく分かった気がします。

1999/6/28, いとうくにお
あらたさん、こんにちは。色紙には、このように書かれています。

あてどなき旅のひと日の
夕ぐれの汽車のまどべに
かの丘はしづかに来り
かの丘は来りぬかづく
     −達治

大江健三郎


達治とあるので、三好達治ではないかと思うのですが、ご存じの方、いらっしゃいますか?

1999/6/27, あらた
あのー、すみません。
今日、徹夜してですね、テレビ予約しといたんですが。
TBSのサンデーモーニング、写ってなかったの。それで、つまり。
何方か、録画しておられたら、貸して見せてください。お願い致します。
あー、なぜ、なぜ、写ってないの。と落ち込んでばかりいても、体に悪いと。
思い、ここに頼ることを許して。

いとうさん、あの左上にある大江さんの色紙。
は、何と書いてるんでしょうか?気になって気になって。
なんとなく、いいなぁー。と、ボクにとって、なつかしい日を、
大切な思い出をおもいだす。
感じがあって。どなたの、書かれたものなのですか?(愚問ですが)
1999/6/26, バーバラ
『宙返り』を読んでいて(まだ第四章に入ったところですが)ふと気付いたことがあります。
moutonさんがこの掲示板で、大江さんのサイン会での彼の服装について「がくらんの様な襟」と書いていましたよね。6/21の読売新聞の写真でも、詰め襟をアレンジしたような素敵なジャケットを着ていらっしゃいました。大江さんは以前からこのデザインの服を愛用なさっていたのでしょうか。私にはこの服が大江さんからのあるメッセージに思えてなりません。但し、この服が極最近からのものと仮定してのことなのですが。その理由は・・・
ここからは、『宙返り』をまだ読み初めていない方と『燃えあがる緑の木』第二部を読んでいない方はひょっとしたら読まない方がいいかも知れません。







先ず、サイン会と新聞の写真の服装から私は『燃えあがる緑の木』二部の「亀井さん」の教会へ通う時の服装を思い出しました。その描写は「渋い淡さの草色の胴に、詰め衿を柔らかくしたような黒い衿の、喉もとまで鹿の角のボタンのついている上着」となっています。その後に「秋が深まって来る頃には、同じデザインながらミルク・コーヒー色に濃い緑に衿についた・・・」と続きます。色やボタンなど細部が違ったとしても、この「亀井さん」の服と大江さんの服はとても似ています。読んだ方はお分かりでしょうが、この「亀井さん」はかつて「ギー兄さん」を先頭に立って糾弾した人でありながら、 その後「ギー兄さん」の教会で重要な強力者となります。その「亀井さん」の描写で「外見において改悛した者の印象」を与えた理由のひとつとして「その服装があった」と書いてあります。「亀井さん」の「改悛」と『宙返り』での師匠の「棄教(宙返り)」は信仰を持つことと捨てることとで、まるで反対のようですが自らを「くつがえす」というところでは共通しています。
私は大江さん自身が「私もこの『宙返り』という小説で、自らをくつがえした」とあの服装で語っているのではないかと感じました。それが、単に小説を一旦休止し、また書きはじめたことなのか、あるいは、作風をガラリと変えたことなのか、そこの意味まではわかりませんが。
これは、前にも書いたように、「あくまでも、あの服を『宙返り』発表と同時に着初めたのだとしたら」の仮定の上での私の意見です。もし私の考えが当たっていたとしたら、大江さんってなんてステキな人でしょう。
とまあ、こんなことを楽しく考えながら『宙返り』を読んでいます。まだまだ先が長いので、読み進んでいくうちに、この思い付きも変わっていくかもしれませんが・・・
1999/6/25, あらた
この掲示板のおかげで、大江さんに会うことができました。みなさんに、感謝してます。
いとうさん、講演会のお話、ぜひお聞かせ下さい。楽しみにしてます。
1999/6/25, ぶる
講演会、僕は葉書は1枚しか出さなかったのですが、みごと当たりました。いっしょに行く彼女も1枚でしたが無事当たっていました。百発百中であります(^^)。

講演会後のサイン会、整理券配布が18時からで、しかも100枚だけというのは、勤め人にとってはちょっと厳しいなあ。会社を定時に飛び出してもたぶん間に合わないよ。うーん。
1999/6/24, momiji
大江健三郎ファンのみなさま、いとうくにおさま、葛飾ドラさん、はじめまして。伊丹監督の映画「静かな生活」を見て以来、どんどん大江健三郎さんの文学世界にひきよせられるようにハマっています。周囲に大江ファンがいないので、このHPを発見し、とても嬉しく思いました。先日、読売新聞の「宙返り」についての記事を読みました。自信作のようですね。早く読みたいです。
1999/6/23, いとうくにお
moutonさん、情報ありがとうございます。大江さん、連日のプロモーションで大忙しですね。講談社もけっこう人使いが荒い?
大曲さん、ようこそ。気が向いたら、いつでもこちらへお寄りください。歓迎します。
ジェダイさん、講演会、残念でしたね。僕は幸運なことに当たりました。3枚ハガキを出したうちの1枚が、やってくれました。
1999/6/23, ジェダイ・マスター
 ニュース23は見たものの、サイン会は地方在住のために行けず、講演会のチケットも抽選ではずれた模様。涙を呑んでおります。しかも、購入した『宙返り』は落丁本。仕事が忙しくて講談社にはまだ電話してません。というわけで、唯一の楽しみもお預け状態に。昨日のテレビであらすじを紹介していて楽しみを少しとられた気も。ある意味、とてもツイているのでしょうか。それにしても早く続きを読みたいなあ。
1999/6/23, 大曲
談話室にも書かせていただきましたが、昨日の大江氏には感激しました。新たに文学を志し疾走するものの事、日本のこれからの社会(これは以降の文学に直結する問題)をああも気にかけ顧みてくれる人物をはじめてみました。
いとうさん、私も仲間に入れてください。
文学を志す大学生です。大江さんのいる山まで取りも敢えずも駆け上りたいのです。そういう衝動におされました。
1999/6/23, mouton
 大江さんが6/27日曜のサンデーモーニング(TBS)8.00〜9.54に出演するようです。
1999/6/23, いとうくにお
犬小屋さんとワカモノさんの書き込みで知ったのですが、大江さん、ニュース23に出演されたんですね。見たかったなあ。犬小屋さんがおっしゃるとおり、小説家は小説のなかで言いたいことは言い尽くしているんだとは思いますが…。昔、小松左京が「小説の説明を求められても困る。小説でなければ表現できないことがあるから小説を書いているのだ」という意味のことを言っていたのを思い出します。(犬小屋さん、ここでHPの宣伝もしていただいてかまいませんよ)
 バーバラさん、こんにちは。色紙は墨で書かれてますね。大江さんも毛筆を使うことがあるんですね。「大江文学はクロニカルに読んでいかなければ拾えない部分が」とのお話、よくわかります。でも、まあ、読みたいものを読みたいときに読むというのが読書の楽しみでもありますしね。僕も燃えあがる緑の木を飛ばして『宙返り』に取りかかってます。しかし、なんだかノホホンとした題名じゃありませんか。向井宇宙飛行士の俳句を連想しちゃいます。
1999/6/23, ワカモノ
こんにちは。筑紫哲也の夜のニュース番組で、大江氏が対談をされており、それでなぜか興味をもってインターネットで情報をあさろうとし、ここに辿り着きました。
著書の紹介欄を読んでいると、どうやら大江文学というのはそれほど硬くて難解ということはないのですね。読みもせずに勘違いしてました。
その、今日の夜の対談で大江さんの語るところを聞き、少なからず感銘を受けた気がしています。 日本の国家の在り方、時代の分析など、大きな話が主ではあったにも関わらず、僕は結構それは僕個人の問題に置き換えて考えることも出来るのではないかと思ったのでした。特に、魂という言葉、目的地ではなく方向性という言い方が頭に残っています。見ていない方には分かりにくいかと思いますが、すいません。

いつも見向きもせず、興味も関心もなかったのですが、いつか機会があれば著書を読んでみようかとも思います。(著書紹介の欄も頭の片隅に残しておきます)
1999/6/22, バーバラ
いとうさん、皆さん、こんばんは
大江さんの色紙、字に暖かみがあっていいですよね。私が持っているものはボールペンで書いていただいたものなのでちょっと感じがちがいます。これは墨ですか、サインペンでしょうか?いいですね。
私も20日のサイン会、行きたかったのですが、用事があって行けませんでした。残念でした。
昨日(21日)の読売夕刊に大江さんのインタビュー記事が素敵な写真と共に出ていましたね。タイトルは「小説世界に『宙返り』」です。その中で彼は、「正直いうと、小説をやめたらキリスト教に入ると思い、それへの最後の抵抗としてスピノザを読んだ」
と小説を書かない宣言をしてからのことを書いていらっしゃいます。スピノザを読んでいたのは何かで読んで知っていましたが、キリスト教に入らない為とは知りませんでした。彼にとってのキリスト教とはどういうものなのか、何を読んだら出ているかどなたか教えてください。
大江さんの書かれている、魂とか祈りとかいう精神世界は、感覚的には良くわかります。私も宗教を持たない一人として、今自分なりの『祈り』について考えています。『燃えあがる緑の木』で、宗教の世界に入り込み、2部を終わったところで待てずに『宙返り』へと飛んでしまいました。こういう読み方ってよくないのは分かっているのですが。特に大江文学はクロニカルに読んでいかなければ拾えない部分がありますね。しかし始めてしまったものは止められません。
1999/6/22, ぶる
moutonさん、はなびさん、どういたしまして。ということで僕もサイン会に行ってきました。はじめての大江さんのサインです。あがりまくったなあ。サインしていただいた『宙返り』は家宝として大事に保存していこうと思います。
1999/6/22, 犬小屋
本日(六月二十一日)ニュース23のそれから対論に、大江健三郎氏が出ていました。しかし、作家の言葉というのは、小説の残滓のように感じます。伝えたい事は全て小説に吐き出されているのではないかと。小説が分からない者(もちろん俺も含みます)に対しての解説としての物凄く大雑把な言葉の集合のように見えます。どうもいいかげんに見えちゃうなぁ・・うーん・・・

伊藤さんコメントありがとうございます。HPの方は稚拙ですが出来上がっています。公の掲示板で個人宣伝するのはマナー違反なのでメールで。
1999/6/22, 森谷
はじめまして。森谷と言います。
私も津田沼の丸善まで行ってサインをもらって来ました。しかしながら、サインをもらうよりも私個人の大イベントを敢行しました。
私が書いた小説を渡してきました。ただそれだけのことですが、是非大江健三郎に読んで欲しいと思ったのです。特に今回のものは。
講談社の人が「群像に出せ」と言っていたので、私が「文学界に出します」って言ったら、大江健三郎も笑っていました。文学界の締めきりは30日です。
このページの充実さには頭が下がります。これからも頑張ってください。
http://www.moriya.net
1999/6/21, はなび
私もぶるさんのおかげで、20日に大江さんにお会いすることが出来ました。講演会には何度か行ったことがあるのですが。
ほんの短い時間でしたが、お話しすることもできました。大江さんのサインの入った『宙返り』、一生の宝物です。
並んでいる人を見ながら、この中にも「大江健三郎ファンクラブ」を見ている人が結構いるんだろうな、と思いました。moutonさんも来ていたのですね。
1999/6/20, mouton
 ぶるさんの情報で、今日大江氏を拝見する事ができました。もともと新聞は(スタンドでしか)かわないし、税金も考えあって払っていませんNEKもむろんの事。--伊丹さんを思わせるがくらんの様な襟でいらっしゃいましたね。末筆ながら告知ありがとうございました。
1999/6/20, いとうくにお
昨日は太宰治を偲ぶ桜桃忌でしたね。太宰作品はウェブでも読めるので、先日は久しぶりに「人間失格」を読んでしまいました。いまは「宙返り」に手をつけたところですが、ちびちび読むので、読了はだいぶ先になることでしょう。
ところで、大江健三郎を卒論にする人、けっこういらっしゃるんですね。来年になれば、大江さんについての論文がたくさんウェブで読めるようになるかもしれませんね。
犬小屋さん、こんにちは。夢のホームページができたら、URLを教えてくださいね。ちなみに、イーヨーは夢を見ないそうですね。
葛飾さん、大江健三郎ファン倶楽部のトップページに大江さんの書いた色紙の画像を入れておきました。左下に大江さんのサインが見えますが、お手持ちの古本にあったサインと比べてみてどうでしょうか? 色紙は数年前のものですから、1964年のものと比べるとだいぶ違っているかもしれませんね。
1999/6/19, 犬小屋
伊藤さんお久しぶりです。
夢についてのHPを立ち上げる為、夢に関してのHP,書物を読み漁っています。たまたまですが、大江に関してよく話に挙がるウィリアムブレークとぶつかりました。ブレークは画家でもあったんですね。鬼気迫る、物凄い迫力の絵を描きます。こちらも一見の価値ありです。
葛飾さん、困ったときの大宅文庫。
去年五月下旬のの過去ログにどなたかが詳しく書いてありましたので、そこを参照してください。五月下旬の方にありました。
1999/6/15, 葛飾ドラ
お願いです。セブンティーンの続編といわれる『政治少年死す』をぜひ読みたいのですが、どなたかコピーなどおもちでないでしょうか?1961年の文学界にしか掲載されていないようですが。お持ちのかたご連絡ください。
1999/6/15, 葛飾ドラ
古書店で大江健三郎集(現代の文学43 河出書房新社版)をみつけ買いました。なんとこれがサインがはいっていました。1964、9、7大江健三郎と!名前はくずし文字ですが本物かどうかわかりません。この当時はくずし文字でサインしていたのでしょうか?わかる方いませんでしょうか。初版発行は昭和39年8月8日で29歳当時だと思います。調査願います。
1999/6/15, 葛飾ドラ
エッセイ集、厳粛な綱渡り、持続する志、鯨の死滅する日、(講談社文芸文庫)あいまいな日本の私、日本の私からの手紙、新しい文学のために、(岩波新書)私という小説家の作り方(新潮社)小説の方法(同時代ライブラリー)小説の経験(朝日新聞社)人生の習慣(岩波書店)核の大火と人間の声(岩波書店)ヒロシマの生命の木(日本放送協会)小説のたくらみ、知の楽しみ(新潮文庫)文学ノート(新潮社)とヒロシマノート、沖縄ノートも読んでおくとよいでしょう。
1999/6/15, 葛飾ドラ
大江氏の軌跡を知るには、最良の方法があります。それは大江氏のエッセイ集をすべて読むことです。最低2回は読むことです。各作品が良くわかるようになると思います。5冊か6冊あるでしょうか。それにまつわる作家、哲学者、詩人、文化人類学者、宗教学者、その他いろいろ影響をうけた人物をおいかけてみるべきです。卒論には最適です。(経験者)
それと講演集です。新潮社から4、5本カセットであります。
サイン会は6月20日丸善、津田沼店で午後1時より先着100名。
1999/6/4, ぶる
6月20日(日)16:00から、大江さんのサイン会がおこなわれるようです。150人限定で『宙返り』購入者に整理券を配布予定だそうです。場所は神田の三省堂です。
あと、正確な日にちは忘れましたが、東京で講談社主催の講演会があります。往復葉書で応募する必要がありますが、無料です。ただ、希望者多数の場合は抽選になるようです。詳細はたしか朝日新聞の今週の書評欄(月曜日?)下の広告欄に、小さく出ていました。
1999/6/2, cgd
はじめまして。三流大学に通う国文科学生です。卒論で大江の初期作品を取り上げるので、大江関連のHPをさがしてみてここに辿り着きました。初期の作品についての意見、文献など、教えていただければ幸いです。
1999/5/25, ぶる
大江健三郎氏を研究、とくに『同時代ゲーム』や『M/T』のラインの作品を中心に研究するのなら、筒井康隆氏の大江作品に関する言及は押さえておいて損はないと思います。ちょっと探してみて見つかったのは以下のとおり。

「極私的大江健三郎論」(『虚航船団の逆襲』収録)
「日日是慌日」十一月三日(『日日不穏』収録)
「新しい自己照射の試み」(『ダンヌンツィオに夢中』収録)
「新しい手法への意志」(同上)

(以上順不同)

まだ探せばあるかも知れません。とりあえず参考まで。
1999/5/24, ジェダイ・マスター
 新作『宙返り』は原稿用紙1800枚との噂を聞きました。
だとすれば、今までで一番長くなるのかも(自信ありませんが)。
読み応えてんこ盛りのこと間違いなし。装丁の司さんが講義で、「読むだけで大変」と言っていたと、講義に出ていた人の友達の友達に聞きました(ちょっとあやしい?)。
 うおー!たのしみだあ!
1999/5/23, W.O
「新しい人よ眼ざめよ」の中の短編「魂が星のように降って、あし骨のところへ」は想像力をテーマにしたブレイクの詩句の解釈も比較的わかり易く、そして特に障害者施設のために「僕」とイーヨーが一緒になって音楽劇を作りその実際の上演の様子を描いたエンディングは、この短編集の中でも最も視覚的に美しく高揚したシーンではないでしょうか。
さてイーヨーの音楽を実際に聴いてみたいという願望は、多くのファンが待ち望んでいたことであり今は何枚かのCDも聴くことができるようになりました。(僕は「大江光 ふたたび」の中の夢というバイオリンの曲がとても好きです。)
以前NHKでラジオドラマという形で「新しい人よ眼ざめよ」が30分ぐらいの編集で上演されたことがありました。確かおかあさん役は日色ともえさんがやっていました。イーヨーの声は自分のイメージとだいぶ違っていて若干失望もしたのでしたが、このドラマの中でこの短編の音楽劇の音楽を聴くことができました。「軍船が近づく、恐ろしいことが起こる..」
ほとんど今はメロディも忘れてしまいましたが。
1999/5/22, 犬小屋
大江の奥さんの兄、伊丹十三のエッセイであるヨーロッパ退屈日記に こんなのが載ってました。以下抜粋。

大江健三郎より書簡。
来年の六月に子供が生まれる由。子供の名前に戸祭などはどうだろう、という。
苗字とあわせて大江戸祭になる、というのだ。
ふざけた男である。

卒論の資料にどうぞ(笑)
1999/5/21, ITTEN
お久しぶりでございます、皆様。卒論は大江健三郎で!と決意した中学生も、すくすく育ち、何故か建築の勉強を始めることになりました。
今は、大江健三郎と建築家原広司の関係を追いかけて建築雑誌をめくる日々。
ところで、皆さん、「宙返り」!楽しみですねー。うれしいですねー。げへへ。(悶絶)
「群像」六月号『「新しい人」に向かって』、十九日付朝日新聞夕刊を読みましてからというもの、昂奮して夜もぐっすり眠れます。
ところで、私は後期作品が大好きだー!(絶叫)
この項続く
1999/5/17, akaosug
山口だと昌哉っすか。
なるほどー、愛媛をレヴィ・ストロースのように捉え直していたなんてことがやっぱりあるんでしょうかねえ、とか考えてたら、「淋しい熱帯魚」ってやっぱり「悲しき熱帯」から取ったのかしらとか考えてしまいました。ごめん(_ _)
「個人的な体験」は面白いと思うけど、日本といっても戦後戦後してる日本だよなあとも思うのでした。
1999/5/13, 麗子
初めまして。学部の卒業論文で大江の初期作品を取り上げました。
「サルトル、ブランショ、カフカ、フーコー等との関連から、大江の新しい読みを探る」というような、古くさい論文に仕上がりました。
修士課程では『同時代ゲーム』『M/T』を中心に研究したいと考えています。「大江にとっての森という空間」「神話を語る意味」についてまずは研究していきたいと思っているのですが、お勧めの参考文献があったら、ご紹介ください。また、是非、ご意見もお聞かせください。
今は、大江が読んだと思われる山口や柳田の著作の調査をしています。
大江は「構造」の何に惹かれたのか、そこから何を生み出したのか。
大江ファンの皆様はどうお考えでしょうか?
1999/5/8, akaosug
 僕も大江文体のファンですが、たしかに長めですよね。あの文は意味を正確に伝えようとするために練った結果できあがる文章と僕は理解しています。
 ちゃんと検証してるわけではありませんが、例えば、
「僕は本屋に行った。そこで大江の新刊を手に取った」
「僕は本屋に行き、そこで大江の新刊を手に取った」
 同じ意味でしょうか? 人それぞれかもしれませんが、僕は後者には「書店に大江の新刊が出ていることを期待してでかけた」というニュアンスを含むような気がします。前者は「偶然に大江の本に目を止めた」感じ。
 例として適切か分かりませんが、後者を選び続けると関係代名詞や形容詞が連なる文になってしまうのではないかと、、、とかいう話は文芸評論の人はとーぜんしてるのだろうか?
 で「意味を正確に」は実は「意志を正確に」が大江さんの強く意識しているところではないかと。(この文、変)
1999/5/7, いぬごや
個人的な体験を読了しました。
友人に「あれ、たいして面白くなかったよ」と言われていましたし、海外向けの掲示板を覗いてみるとどうやら外国人の気を引くような、いわば川端的な日本の美と言ったものを想像していましたが、どっこい全く別物。凄く楽しめました。(比喩も含めての)死、再生。それらをテーマにした、一大思考実験場としての小説の存在を確かに「認めました」(笑)

現在、洪水は我が魂に及びにかかっています。読了予定は一ヶ月後です。
1999/5/6, 各務
はじめまして。大学の国文学科に通う4年生です。色々考えた末に、卒論を大江氏の「洪水はわが魂に及び」論 で書こう、と決めたところです。具体的なテーマ、内容等はまだ決まっていませんし、難しい内容であることもわかっていますが、この作品読んで受けた衝撃を言葉にしたいと思っています。頑張ってみます。
今は資料集めの最中で、偶然このHPを発見することができました。皆さんの投稿を読ませて頂いて勉強になります。これからもお邪魔させてください。
1999/5/3, いとうくにお
W.Oさん、はじめまして。心にしみるような投稿をありがとうございます。山本さん、はじめまして。大江文学の読者ならばもちろんどなたでも参加していただいて結構です。「ヨーロッパの声・僕自身の声」は評論集のようなものでしょうか。見つかるといいですね。
1999/5/3, 山本 正
はじめまして、52歳の演劇青年を自称しています。
今から何十年前に、高校一年に大江健三郎作品に魅せられ、読みつづけています。残念ながら、文体がどうのこうのと考えずに読みつづけてきましたのでこのHPに参加させていただいてよいのかどうか・・・
最近になって、著作集を整理しはじめましたが「ヨーロッパの声・僕自身の声」が見当たりません。他にも所蔵できていないものがあるかもしれないのですが、記憶の中ではこの本が確かにあった筈なのに残っていません。もしお譲り願えるならお願いします。それと「政治少年死す」を読んだ記憶がありませんので是非一読したいと思っていますが、ことの善悪を抜きにして読んでみたいのですがご教示お願いします。
これからもよろしくお付き合い願います。
1999/4/26, W.O
「新しい人よめざめよ」他の作品がブレイクの詩を物語の媒介としているように、「「雨の木」を聴く女たち」はアメリカのマルカムラウリーという作家の作品をベースに物語を紡いでいます。僕は星屑のように美しいイーヨーの言葉がちりばめてある「新しい人よめざめよ」も大好きですが、同じ頃に書かれたこれらの小説のどちらかを一つあげろといわれたらこのレインツリーの小説集をあげていると思います。白地に薄い水色で楽譜が書かれている新潮社のブックカバーも清楚な感じがして好きでした。何本も鉛筆で傍線を引いた本も幾年も前に大事にしていた友達にあげちゃって、今は新潮文庫が手元にあるだけですが。
以前この掲示板にも「泳ぐ男」のことを書いたことがあります。「高安かっちゃん」と奥さんになるペニーが始めて登場するのが表題作の「「雨の木」を聴く女たち」です。僕はこの作品の語り口もきっと好きだったのでしょう。自分の朗読をテープに吹き込んだりもしたものでした。
机の中を整理していて、今は別れてしまった妻との結婚披露のはがきが出てきました。はがきにはレインツリーの中でたびたび引用されていたマルカムラウリーの言葉が僕たちの白黒写真の下に入れてありました。
"Dear Load, I earnestly pray you to help me order this work,ugly chaotic and sinful though it may be, in a manner that is acceptable in Thy sight.. It must also be balanced, grave full of tenderness and compassion and humor."
人生においてなにかを成し遂げようとしてうまく成し遂げられない悲嘆の思いが自分の思いとも重なり、高安かっちゃんのねじまがった行動と伴に胸を打ちあの頃僕はいつもこの言葉を本当に祈るように唱えていたのでした。いつかこの人の作品を読んでやろうと、代表作の"Under the volcano"やこのセンテンスが載っている"The forest pass to the spring"が入っている短編集"Hear us o Load from heaven Thy dwelling place"もペンギンクラッシックで買い求めましたが、いまだに読み切ることができません。どなたかよい翻訳をご存知の方、教えていだだければ幸いです。
1999/4/25, アラタ
「他人の足」
内容がどうよりも、このタイトルが気になって気になって・・・。
ボクは、生まれつき足に病気を持っていて、4歳になるまで立つことができなかった。でも、走るのを好きになった。中学で陸上競技を始めた。今年の5月12日、大学4年最後の大会で引退です。足が弱く、今までずっと怪我ばかりで、他人の足がうらやましかった。
全然、作品に関係なくてすいません。でも、ぼくにとって、とても印象深いタイトルで、なんか気になる。
1999/4/24, いぬごや
大学図書館に、大江の作品集がありました。とりあえず、初期作品から順番に読んでいこうと思います。

万嬰元年を二週間ほど前にようやく読み終わりました。とにかく徹底的に考え抜かれていて、楽しめました。
友人と話していたのですが、大江の作品は想像力を読み手側に、力ずくで喚起させる力がありますね。まだ三四作しか読んでいないので、人生に楽しみがいっぱいあってハッピーです。
1999/4/22, いとうくにお
イストーチニクさん、はじめまして。5つ投稿が届いてましたが、最初の投稿の再投稿となっている分はご指示どおり掲載しないでおきます。なにぶん投稿メールの掲載は手作業なもので、投稿してからここに掲載されるまで1日くらいかかる場合もありますので、ご了解ください。
 さて、「万延元年のフットボール」は本当に傑作ですよね。「このミステリーがすごい!」というような広告のコピーがありますが、その伝で「この文学がすごい!」といいたくなります。
今後ともよろしくどうぞ。
1999/4/21, イストーチニク
 申し訳ありません。またまた間違えてしまいました。
 停滞期にもかかわらず感情移入でき、好きな作品として挙げた作品のうち、「日常生活の冒険」は「遅れてきた青年」と混同していました。(「日常生活の冒険」は「個人的な体験」の前身というべき作品ですから、停滞期に含めるのは適当ではありませんので。)
 ですから、正しくは「叫び声」「われらの時代」「青年の汚名」「遅れてきた青年」ということになります。(もちろん「日常生活の冒険」も傑作ですが・・・・・)
1999/4/21, イストーチニク
いとうさん、皆さん、はじめまして。
 大江文学の大ファンです。最初に読んだのは大学の国文学の講義のテキストに使われていた「個人的な体験」でしたが、もう一冊の「杏子」(古井由吉)の方を面白く感じたためか、あまり印象に残りませんでした。(なお、その講義は教養課程で聴いた中では最も面白いものでした。)
 その10年以上後になりますが、父が若い頃に買って本棚に入れていた「叫び声」と「性的人間」を実家で発見し、読んでみたところ、特に前者には完全にのめり込んでしまい、「この人はこんな面白い小説を書くのか」ということが遅まきながら解ったのです。当時は古本屋で本を買いまくっていましたが、ある日新潮社の「大江健三郎全作品」(全6巻)を何と3000円という安さで入手したので集中して読みました。従って「個人的な体験」までの小説は、「政治少年死す」を除いて全て読んでいます。
 それ以後、大江氏の名は全作品を読むべき作家リストに加わりました。(他にはトルストイ、ドストエフスキー、ヘッセ、チェーホフがおり、最初の3人は大体終わっています。)古本屋で氏の文庫本(新潮、講談社学芸、文春)を見かけたら必ず買っていますが、手に入るのは稀で、また道草ばかりしているので読破計画は一向に進んでいません(まだ10冊ほど)。今後は新品で集めようと思っていますが、講談社学芸文庫は値段は(不当に)高いのが珠に傷ですね。
 さて、これまで読んだ中では「個人的な体験」以降では圧倒的に「万延元年のフットボール」が面白いと感じました。大変な傑作だと思います。次が「人生の親戚」。「ピンチランナー調書」や「同時代ゲーム」は尻切れトンボのように感じて少々不満が残りました。私はむしろ、氏の「個人的な体験」以前の作品、中でも停滞期にあるなどとして批判されていた頃の作品に共感を覚えることが多かったように思います。(JUNKIさんが書かれていたような感情移入ができたのも、特にこれらの作品でした。)ですから、好きな作品を挙げると「叫び声」「われらの時代」「青年の汚名」「日常生活の冒険」ということになります。また「個人的な体験」も、それ以前の作品を年代順に読んでいった後に再読した時は非常に感動しました。
 長くなりましたのでこの位にして終わります。なお私のペンネームは、ドストエフスキーのHPで使っているもの(私の姓をロシア語に直訳したもの)です。

追伸
 いま少しずつですが「懐かしい年への手紙」を読んでいます。
 亀井勝一郎氏は、人間の発した最も悲痛な言葉は、フョードル・カラマーゾフの「もう一つぺん最後にはっきり言うてくれ。神はあるのかないのか、これが最後だ!」という言葉に要約されるであろうと述べていましたが、私は「叫び声」での語り手の独白、「ああ、神様、神様、本当にあなたに、存在しないでもらいたい、と僕は呉鷹男のために祈りたい思いだったのだ」も加えたいと思います。
1999/4/11, バーバラ
ヨダさん、ぶるさん、はじめまして
それぞれの情報有難うございました。
今日午前中この掲示板を見て、ヨダさんのおっしゃってた駅前の「BOOK OFF 」に早速行ってみましたところ、全く読んだ形跡のない「燃えあがる緑の木第一部」を見つけ、早速買いました。これからは時々寄って、「万延元年・・・」を待ちます。
ぶるさんの「インターネット古書店案内」、これから開いて見てみます。神保町は以前歩き回ったことがありますが見つからず、今のところ時間がなく御無沙汰しています。それにしても、大江健三郎専門店なんて聞いたことないけどあってもいいんじゃないでしょうか。
喬木の母さん、はじめまして
威厳について、ご同感頂きうれしいです。
私は今子供を一人で育てているので、母親だけではなく父親役もこなさなければならず、結構ハードな毎日で、ついつい子供に対しても感情的になったりすることもあります。そういう時、喬木の母さんの表現を借りると「大江的威厳」を思い出すことにしています。
それにしてもチャットタイムで話しが盛り上がっているようで、私もJAVA についてちょっと研究してできるだけ早く仲間入りしたいと思っています。
ではまた
1999/4/11, 音田 亘
ある意味では一番悲劇的であると同時に一番美しい作品じゃないかと思える作品が「人生の親戚」です。
イーヨーが生まれてから、障害児と共生する人間の有り様を実に様々な形で(障害児をうまく引き受けられなかった「空の怪物アグイー」のようなケースも含めて、(「治療塔」では年を取ってからのイーヨーが出てきてまたまた驚かされた。)それはもう本当に実に様々な形で、つまり「想像力」を駆使して)描いてきた一つの頂点がこの作品ではないでしょうか。さてストーリーは読んでいただくとして、僕が今日触れたいのは主人公の実に魅力的な?女性「倉木まり恵」さんのこと。ベティブーブのような顔をしたまり恵さんの印象は、その引き受けていった大きな受難とは裏腹に実にアッケラカンとしたものなのです。最後にメキシコで村の指導者?となってガンで死んでいくまり恵さんは全裸でベッドに横たわりVサインをこちらに向けているビデオが残される。なんかこれを思い出すたびにアハハと笑うしかないねって思います。
1999/4/11, いとうくにお
では、チャットタイムを毎週金曜日の11時からとしましょう。気が向いた方は、どうぞいらしてくださいね。
1999/4/11, 喬木の母
いとうさん、それは名案です。ぜひともチャットタイムを決めましょう!!
個人的には、テレホーダイが始まってからがいいんですけど・・・、でも、何時でも参加させていただきます! ワクワク!!
1999/4/11, ぶる
「万延元年のフットボール」の初版本ですが、「インターネット古書店案内」というサイトで検索をかけてみてはいかがでしょう。以前にその本は見た記憶があります。URLは以下のとおり。

http://kbic.ardour.co.jp/~newgenji/oldbook/index.html

他に、神保町あたりでは時々見ますが、やはりちょっと値段が高めであることが多いです。
1999/4/10, いとうくにお
喬木の母さま、チャットルームの件ですが、僕もときどきいっては見てるのですが、ほかの人とタイミングが合うことはありませんねえ。よかったら時間を決めて、チャットルームに集まることにしませんか。例えば毎週金曜日の10時をチャットタイムとして、チャットをしたい人はチャットルームへ集合するというように。
1999/4/10, 喬木の母
バーバラさん、初めまして。親が子に威厳を持って・・・。というお話、本当にそのとおりだと思います。
近代日本にありがちな「逃げ腰・空威張り的威厳」ではなく、ここでしか通用しない言葉ではありますが「大江的威厳」でもって子供に接することができれば……、と私も思います。
我が愛息も、明日が入園式。わずかながら障害のある子なので、私の方がプレッシャーで熱を出してしまいましたが、明日は頑張ってきます!!
滅入りそうな時は大江を読んで、新たな気持ちで子供と向き合えたらと思います。
ではでは、また……。
追伸:チャットルーム、いつ行っても誰もいらっしゃいませんけど……。さみしーなぁ。
1999/4/9, ヨダ
 はじめまして。ヨダといいます。掲示板は最後まで読んでいませんが、とりあえず、書き始めました。
 バーバラさんへ。『万延元年…』の初版本というのは、本当の初版でないとだめですか?初版に限りなく近いものでよければ、チェーンの古本屋(「BOOK OFF」など)でわりと見つかるのでは?(私はそこで3冊ゲットしました。そのうち1冊はナ、ナント!サイン本)。チェーンの古本屋はこだわりなく、安くしてあるので重宝します。今年、『万延元年…』で修士論文を書くつもりなので、万延ネタは食指が動いてしまいます。「群像」に連載されたものと、単行本を読み比べるのもマニア度が増して楽しいですよ(って別にマニアなわけじゃないですよね)。掲示板を全部読んだら、また遊びにきます。
1999/4/7, いとうくにお
バーバラさんがここを読んで元気を取り戻したというお話、とても嬉しかったです。お礼なんて不要ですよ。僕も皆さんの投稿を読んで、刺激を受けたり楽しんだり励まされたりしてるわけですし。今後ともよろしくどうぞ。
1999/4/6, バーバラ
いとうさん、それからここに投稿なさっている皆さんにお礼が言いたくて今日はまたまた書きます。最近個人的なことでずっと元気がなかったのですが、このいとうさんの HPを見つけ掲示板を読んでいるうちに、心が癒される思いで元気を取り戻してきました。有り難うございます。
昨日、大江さんの初期の短編「人間の羊」と「不意の唖」を読みました。この二つの作品を読み終えて、「内容も暗いし、結末も決して後味のいい終わり方でもないのにこの爽快感はいったい何だろう」と考えた時、人の心の中にある、本人も気付かない醜さ、エゴのような負のものを膿みとして体外に出してくれる作用があるのではないか?と、ふと今日になって思いました。長編を読んでこの「膿みが出る」という感覚はなかったのですが、ひょっとしたら、大江さんの他の作品にも通じるもののように思えてきました。音田さんの書かれている「レインツリー」の連作はまだ読んでいませんが、音田さんのコメントを読んで「やっぱりこれも『膿み...』じゃないかなー」と想像しました。
1999/4/5, アラタ
ちわ。ひさしぶりです。
4月5日読売新聞夕刊に、大江さんの文が載っています。
では、また。
1999/4/4, 音田 亘
死んだ伊丹監督の映画「静かな生活」の中で、ちょっとこの小説からは予想していなかったようなエロチックなシーンが出てきて、子供にも見せてあげようとしていたお父さんお母さんをびっくりさせましたが、ご存知のとおりこのシーンはレインツリーの最後の中編「泳ぐ男」からの挿話です。僕は、初めてこの小説を読んだ時からどうしてこんなにグロテスクで歪んだシーンを作り出さなきゃならなかったのか、すごく驚くと同時に、どうしてもこの小説から離れられないものを感じて何度も読み返してしまいました。結局中年の男は若い「玉利くん」を助けるために(猪之口さんの協力まで受けて)猪之口さんを犯しそしてほとんど無意味に鳥かごの中で死んでしまいます。それは絶望の中にいる男を女が助けてくれること(まさにマルカムラウリーの引用に照らし出されるテーマの通りなのですが)に自分が深く引き付けられたからなのかなって思ったりします。でもどこかで男のエゴスイティックなものが感じられて女性には不快な小説なのかもしれないって思っていました。でもレインツリー小説の女性ファンって結構いるみたいですね。そんな方がいれば感想を聞かせていただきたく。
話しがだらだらしちゃったけど、僕は伊丹監督があのシーンを映画にいれてくれたことに変に感動しているのです。
1999/4/3, バーバラ
掲示板を読んでいらっしゃる皆様にお尋ねします。
「万延元年のフットボール」の初版本を探しています。どなたか持っていらして、譲ってもいい(いませんよね)とか、どこの古本屋にありそうだとか、友達が持ってるので頼んであげるとか、何でも良いので情報を待ってます。
私はコレクターではないし、読む時もハードカバーでも文庫本でも何でも構わないのですが、この本だけはちょっとした私のセンチメンタリズムでどうしても持っていたい1冊なのです。よろしく!
空いた時間にこの掲示板をさかのぼって読んでいます。皆さんの大江健三郎に対する愛情が伝わってきます。子育て真っ最中の喬木の母さん、そしてカシアートさん頑張って下さい。私も15歳と12歳の子の母で、もう子育てと呼ぶには大きくなりましたが、悩んだり、楽しんだりの毎日です。
大江さんは「ヒロシマノート」の中で、「威厳」について書いています。あの本の中で、大江さんが被爆した方たちに対して感じる威厳を拡大解釈すると、自分を持っている人、自立した人は威厳が自ずから備わってくるのだと思います。私自信も「威厳」を持ちたいし、子供たちもそう育って欲しいと思います。受験なんて目先のことじゃなく、ずーーーっと先のことを見つめて、それに向かって進んで欲しいし、私もパラレルな関係でいっしょにまだまだ成長していきたいと思っています。私の教科書はやっぱり「大江健三郎」です。
私は9年近く、アメリカに住んでいて2年半前に日本に帰って来ました。子供達もあちらで育ったわけですが、日本には威厳のない人がなんと多いことか、と感じます。親が子に、先生が生徒に、威厳を持って対することができれば、こんなに荒れ果てた、日本にはならなかったと思いますが如何でしょう。
日本に戻ってきて、あきれることは山のようにありますが、どうして年令のことを皆気にするのでしょう。これもひとつの社会の未成熟の現れかとも思いますが、若けりゃ良いという風潮はおかしいと思います。私のバーバラは実はそこから来ているのです。怒れる婆らを代表して....
(随分ずれた話になって失礼しました)
1999/4/1, ながひろゆきお
初めまして、以前大江氏の検索をしまたが、ファンクラブの様な物はありせんでした。掲示板を拝見し、嬉しくなってきました。まずは、御挨拶まで。
1999/4/1, いとうくにお
けっこうサインをお持ちの方、いらっしゃいますね。僕が持っている色紙には萩原朔太郎の詩が書かれています。「達治」とありますので、三好達治の作品だと思うのですが、未確認です。

あてどなき旅のひと日の
夕ぐれの汽車のまどべに
かの丘はしづかに来り
かの丘は来りぬかづく
−達治

海外文学にお詳しい大江さんですが、日本文学にも当然精通されていて、好きな文学ジャンルである詩のほうでは、数多くの作品を暗記されているらしい(大江さんなら「されているのらしい」と書くところでしょうか)ことが、皆さんのお持ちのサインに添えられた詩の多様さからうかがえますね。
1999/4/1, mouton
 お久しぶりです、いとうさん。 私は、これまで大江さんそして、彼の生涯の師である渡辺一夫さんからは、本当に十分すぎる程の喜び-ありとあらゆる感覚と感動を、与えて頂きました。これ以上、希望する事が見つかりません。 サイン会は丸善で丁度『恢復する家族』の出版されたころ、見学しました。(本は既に買っていたし読んでいた)時間よりかなり早く始められて、最後まで1人1人にお辞儀しながら時間は過ぎても気にせずに応対されていて、心から感動しました!! 後は、自分で生活の習慣をこれに倣ったものにする事です。  それでは 又。アビアント!!!
1999/3/29, バーバラ
大江健三郎ファンの皆様初めまして
昨日、このHPを知り、チャットルームに入ろうと試み、できませんでした。すぐにいとうくにおさんにメールでお尋ねし、お返事を頂いたのですが、なにしろコンピューターに関する知識の殆どない私ですので、よく分からないまま、再度このHPを開いたところ、掲示板を発見、(昨日はチャットルームしか目に入らなかった)仲間入りさせて頂きます。
私の大江健三郎歴はここ2年ほどで、まだ小説は7、8冊です。初めて読んだのは「万延元年のフットボール」でこれでもうのめり込んでしまいました。実はずーっと昔、大学に入るため上京する時に友達から「万延元年の...」の初版本をもらい、その時私にはその本の内容が重すぎて読めませんでした。それから20年以上の月日が経ち、2年前に再びあるきっかけでこの本を手にして読んでみるとなんとスラスラ読めるではありませんか。もう夢中で最後まで読み通しました。それ以来、毎日結構忙しいので、通勤の電車の中で読む程度でなかなか進みません。しかも読み始めると速いのでしが、私には読み始めるためのエネルギーが必要です。今あまり元気がないのでここのところ遠ざかっていますが、またエネルギーが溜まり次第読みます。今度は「M/Tと森のフシギの物語」をぜひ読みたいと思っています。
ところで、最近のこの掲示板を読んだら、数人の方がサインのことを書いていらっしゃるにで、私も一言。
実は私持ってます。1997年9月30日オペラシティコンサートホールで偶然に御会いし、ずうずうしいと思いつつ、書いていただきました。その時お名前だけではなく、中野重治の「10月」というとても爽やかな詩も書いて頂き大感激でした。それにしても、とっさによく、けっして短くもない詩をすらすらと書けるものだと、そのことも感心させられました。話しはそれでは終わりません。私はお礼のお手紙まで書いてしまいました。但し、返事はありませんでした。残念!
こんな私です。よろしく
1999/3/24, くじら
昔、大江さんがなにかの雑誌で紹介した、一つの詩を覚えています。
 波が
 二人の
 足を濡らした
 君は
 そっと
 片足あげた
誰の書いた詩なのでしょうか?もしかしたら、作家ではなく一般の人の作品かもしれませんが、知っている方がいたら、よろしく。
1999/3/22, のこりや長介
今、「同時代ゲーム」を読み終えた・・・
”文学的にハイになる”とはこのことか・・・
まさに彼の文体は麻薬だ・・・
こんな幸福な読後感は今だかつてなかった!
そうか・・・・・これが文学なのか!!!
1999/3/22, 白次 征爾
三島 由紀夫、安部 公房、大江 健三郎、この3人の日本を代表する文学者の中で、未だに現役なのは大江 健三郎だけであります。私は、ノーベル賞受賞という偉業をなしえた巨人と同じ時代・同じ国家に生き、彼の著作にリアルタイムで接することができることに誇りと喜びを感じています(三島は私が生まれる前に自決し、安部の著作を初めて読んだときには、すでに彼は故人でした・・)。特に大江 健三郎はこの3人の中でも、読者に対する「語りかけ」や「共生」といった要素が強いと感じます。こうした時代に対して切実な態度を表明し続けている精神に敬意を表し、誠意を持って学んでいきたいと思います。
1999/3/19, ぶる
いとうさん、隊長さん、はなびさん、こんにちは。うーん、たまたま最近は途切れているだけなのかも知れませんね。滞米もありましたし。そう言えば大江さん単独での講演会もしばらくおこなわれていないようですね。まあ、何か月か前に、ノーベル賞受賞者を何名か集めた朝日新聞社主催(読売のとは別もの)のシンポジウムが東京であって、大江さんもそれに出ていた、というようなことはありましたが。ただ、その時は残念ながらサインを戴けるような「場」は設けられませんでした。
それにしても、サイン会というのは、一般の読者が作家とじかに、しかも至近距 離で対面できるほとんど唯一の機会ですよね。大江さんも久々にしてくださると 嬉しいのですが・・・。
1999/3/18, はなび
大江さんのサインといえば…。私は持っていませんが、見たことはあります。私の通っていた大学に以前いらした、仏文学の先生がお辞めになる時にご自分の本をたくさん寄贈なさって、図書館にその先生の名前を冠した○○文庫というのが作られました。その中に大江さんの初版本があり、(『われらの時代』だったかな?)その表紙の裏に「○○先生へ 大江健三郎」というサインがありました。見つけた時は、すごく嬉しかったのを覚えています。
私も何度か大江さんの講演を聴きに行ったりして、サインをもらう機会はあったのですが、なんとなく躊躇して、もらいませんでした。屈折したファン心理かな。
1999/3/18, いとうくにお
皆さん、書き込みありがとうございます。このところ仕事仕事で、ゆっくり大江作品も読んでられない状況です。ところでサインですが、僕はサイン入り色紙を持っています。このホームページがきっかけて知り合った大江ファンの方からいただいたのでした。ありがたいことです。その色紙を見ると、大江健三郎という作家が少しだけ身近な存在に感じられます。
1999/3/18, 隊長
いとうさん、みなさん、どうもはじめまして。
ぶるさん、僕は大江さんのサインをもらい損ねたことがあります。
「野上弥生子とこの百年」という大江さんの講演会を、最前列で拝聴しました。 この時サイン会もあったのですが、その当時はある考えがあってサインをいただきませんでした。

そのときの様子を報告します。
サインをもらうためにまず本を買って、紙切れに自分の名前を書きます。 そうして自分の番が来きて本と紙切れを差し出すと、 大江さんが筆でサインと紙切れの名前を書いてくれます。 その後、隣に座っていた係の人が、大江さん自作の印をペタンと押して、 紙切れをはさんで返してくれます。 その時はノーベル賞受賞以前だったのですが、大盛況で数百人は並んでいて、 特別に講演後もサインをしていました。 その後、僕はその時にサインをもらわなかったことに後悔しました。 ノーベル賞受賞一ヶ月後に、別府市でフォーラム&講演会があり 聴きに行きましたがサイン会はありませんでした。 大江さんはサインをするのもして貰うのも好きなようなので、 まあ機会はあるでしょう。
1999/3/16, ぶる
五ヶ月ぶりに書かせていただきます。大江さん関係のまとまった情報があるページはここだけなので大変重宝しております。
ところで、大江さんは日本ではサイン会はもうやらないんでしょうか。海外では時たまされているようですが。ファンとしてはやはり大江さん直筆のサインが欲しいですね。・・・ううむ、もしかしたら僕はただのミーハーなのかも知れない。
1999/3/15, mouton
 お久しぶりです、『洪水はー』を図書館で借りましたら、大江さんと渡辺広士さんとの対談が付いていて、以前の喬木の母さんの質問に近いものが有りました。これによると、ドストエフスキーの思想(自然、一枚の木の葉、陽の光、すべてよしとする思想)になっています。 もちろん旧約聖書から小説の案を得ていますが。 これはここまでとして、文体への意思として、意識的に文体を作り替える気持ち、文章のスタイル--彼の仕事として情熱をもって語られてあり、私は、いとうさんや喬木の母さんと同じく文体そのものについても問題になると思っています。それは、言い表せないものを探していく、表現する=読書だと考えますから、もう少し複雑でデリケートな事ですが私は大切にしていますし、あくまで読んだあとにもわざわざ考えるものでした。 それではCIAO!!!
1999/3/13, いぬごや
ようやく掲示板を読み終わりました。 小説の難しさ、または文体についてなのですが、自分が読んだ限りでは特に難解だという印象は持ちませんでした。長いなぁと思う事はありましたけど。
われらの時代を読んでいて、最近興味を持ってなんとなく開いてみたパソコンの電気回路を連想しました。あるべきものがあって不必要なものがない。洗練された、一つの世界観(調和と言い換えてもいい)がある。何か、精密なものを見ているような印象が大江氏の文体にはあります。読み始めてすぐに気に入りました。ストーリーも大切ですけど、これも皆さんがおっしゃっる通り、大江作品を気に入った大きな要因の一つです。
人間工学の教授(自分は工学関係の学生なのです)の話によると、もちろん他の動物にはない特色ですが、どうも人間は具体的なものを抽象化する事が得意なようです。哲学や、さまざまの科学法則のように。小説は、ある場面、ある台詞が具体的なものとしてそこに提示されています。小説を難解だと思う人は、単語そのものの難解さ、あるいは文章の古さを取っ払えば、喬木の母さんの言葉をお借りすると、やはり肺活量の問題ではないでしょうか?
学生にとっては愉快な春休みに入りました。大江作品が大学図書館に全集が置いてある事はすでにチェック済みなので、おそらく大江漬け(なんか漬物みたいだな)になる一ヶ月となる事でしょう。蔵書二百万冊らしいので、何か貴重な作品も読めるかも。ムフフ♪
1999/3/9, JUNKI
初投稿させていただきます。二時間かけてこの掲示板全て読ませていただきました。みなさん、大江作品に並々ならぬ感慨をおもちで、大江ファンの一人としてこの掲示板を楽しく拝見しました。
作家の文体について、多く議論されてますね。大江氏の文体は難解とかです。ふと思ったのですが、私は小説を読むとき、その文体がいいとか嫌いとか、そういうふうに読んだことはありません。どれだけ、その作品に感情移入できるかが、面白い、つまらないの基準になります。文体が感情移入を妨げるのなら、そもそもそこに書かれていることに、共鳴するものはないということにはならないでしょうか。
大江論というよりは、文学論になってしまいましたが、感情移入こそが大江文学の本質だと思い、ここに書かせていただきました。
1999/3/9, 高安かっちゃん
ずっと気になっていた登場人物の一人が「浅間山荘のトリックスター」に出てくる新潟の中年のスナック経営者でした。彼は当時日本中を騒がしていた浅間山荘にノコノコと単身出向いて、機動隊と左派赤軍との仲介役を買って出る。機動隊が背後から「危ないからひっこめ」といわれているのに大丈夫という身振りをするも、赤軍の側から頭を撃たれて、それが原因で死んでしまう。「死んでもいいんだ。俺は日本人だ、いかせてくれ。」と書き残した以外に何がこのおっさんをこんな無意味な行動に駆り立てたのかは、何も書かれていない。そして今日もう一回読んでみて感動したのは、作者が自分もそういう行動を起こしうるものとして、撃たれてみた後のものすごい恐怖がかかれていた事。
1999/3/7, 東沢一男
高校時代に友人の薦めで読んでからずっと気になる作家でした。 個人的な体験の積み重ねが実は、「普遍」につながることを証明してきた作家であると考えます.
1999/3/5, mouton
 大江作品はなぜ、難解と言われるのかー皆さんの解釈を読ませて頂き、彼の魅力を同じく文体に感じていたので嬉しさに浸ります。ただ私の投げかけたかったのは、大江さん自身エッセイで書いていた様に、(光さんの持つ音感というものが、自分に欠如しているが故に=難解と言われるのでは)と振り帰って書いています。 それについて私は彼同様、考えたのです!彼の文体が損なわれずしかも、それが新しい読みやすさに満ちてくることは考えられるだけで、鳥肌がたつほど凄いかもしれません。 彼の文学の神聖な冒険は、真の意義を見い出すには賞賛ではなく、意義を自分で見つけていくという個人の作業にも掛かっていると、今、感じております。 では CIAO!!
1999/3/3, 関谷陽一
はじめまして、こんにちは。大江健三郎氏の著作では『セヴンティーン』が好きです。感動的です。この作品を超える作品はもう生まれないと思います。この作品は高校で取りあげればよいと思います。ちょうど17歳ぐらいの人に…。ただし、男限定。
1999/3/2, ザジコ
はじめまして。大江健三郎好きの方々を一気にこんなに見たのは初めてなのでうれしくなりました。わたしは『われらの時代』や初期短編が好きです。時代が違っても同じ世代として強く共感します(読んだ時18歳/現在21)。作品はもちろん人としても大好きです。ところで立花隆ゼミによる『二十歳の頃』についてみなさんどう思われたのでしょうか。(大江健三郎からサルトルに入った者としては、あのサルトルについての発言はかなりショックでした。いまさらカミュのほうがあってるだなんて...)それではAu revoir!
1999/3/2, 喬木の母
いとうさん、本さん、コメントありがとうございます。
お二人はもとより、ここに投稿される方のほとんどは大江ファン。したがって「大江の文体が嫌いだ」という方の貴重な(?)御意見はなかなかうかがえないわけで、そのあたりが残念でもありますよね。
本さんがおっしゃるとおり、難解な作家はほかにいくらでもいます。第一、大江の作品には特別好んで難しい語句が使われているわけでもなく、御自身でもセンテンスの長さから来る読みにくさを気にもなさって、いろいろと文体の実験をされているようでもあります。その点からも決して難解を良しとする高慢な作家ではなわけですし…。
では、大江の文体を愛する私に、いとうさんがおっしゃる「基礎体力」があるのかといえば、それほどのものでもない。私の場合は、大江との出会い方がよかったのだと思います。
大江との出会いは、中学二年頃に読んだ「飼育」がきっかけでした。これがもし、とっつきにくい他の作品だったら、もしくはシリーズ的に展開を把握せねばならない光さんを主題にしたものであったなら、さらに大江を読み進めることはなかったかもしれません。
ですから、もし私に「基礎体力」があるとしたら、それは大江によって育まれたものであり、大江の魅力ある文体こそが、知らず知らずのうちに虚弱な私に肺活量をつけてくれたのだと思うのです。
卵が先か、鶏が先か? ……結局は出会い方。縁みたいなものかもしれませんねぇ。
1999/3/1, 本
喬木の母さん、moutonさんはじめ、いとうさん、みなさん文体について指摘されていますが、独特の言い回しはともかくとして、僕も「肺活量」という意見には賛成です。
僕も大江先生の文体自体が、難解であるかというと、疑問符をつけたくなります。難解さで言うと、三島由紀夫の方がよっぽど読みにくい。
大江先生の比喩表現のすばらしさも含めて、あの、読者を恍惚感で満たしてくれる文章は、何物にも代え難いといえるでしょう。
P.S
今日の朝日新聞夕刊に往復書簡が掲載されていました。
「傷つけない者の純真さで次の千年紀の構想を立てよう」
大江先生の考えに共感します。
1999/2/27, いとうくにお
moutonさん、喬木の母さん、どうもです。文体について僕にも一言いわせてください。「あの文体こそ、誰にもまねのできない大江の魅力」という喬木の母さんのご意見に僕も賛成です。それが魅力のすべてとは思わないですが、僕にとっては大江作品の魅力の柱のひとつとなっています。
で、それが難解かどうか。じつは本多勝一氏が「日本語の作文技術」という本の中で、大江氏の8行で1センテンスとなっている、「肺活量」の必要な文を取り上げてます。つまりわかりにくい文章の例として。実際それはわかりにくい。文(センテンス)の長さが文体を(流行作家に比べて)難解にしていることは事実だと思います。
もう一つ思うのは、表現の独自性。慣用表現っていいますか、よくある言い回しを極力排除し、独特な表現のしかたをしている。だからこそ魅力的なのですが、会話だけで成り立つ漫画や、ソーメンのようにつるつるっと喉を通るひっかかりのない流行作家の文体に慣れてしまっている人には、やっかいかもしれません。ストーリーを楽しむ前に文体(一つ一つの文章)を楽しむ余裕がないと、大江ワールドには入っていけないかもしれないですね。
こう考えると、大江作品の魅力を堪能にするには、他の作家の文学作品もある程度読んで、「肺活量」を含めた基礎体力を身に付けておく必要があると言えるかもしれませんね。
1999/2/27, 喬木の母
御無沙汰してました。moutonさん、御指名ありがとうございました(笑)。
難解と言われる理由ですかぁ・・・。うーーん、確かに慣れないと読みにくいらしいですね。
私も何人かの友人に大江を薦めてみましたが、みんな「気合いを入れて読まないと理解できない」とか「何が書いてあるのかさっぱりわからない」とか「文体がクドイ」とか、そういう感想ばかりで、内容に関しての感想に至らないものばかりでした。私としては、そこをコラえて読み進めてほしかったんですけどね。やはり、moutonさんのおっしゃるところの、呼吸のしづらさがネックみたいです。
しかしあの文体は、必然性のある形として緻密にできあがっているものだと、物書きのハシクレの、そのまた隅っこにいる私なんかは、つくづく思わずにいられません。
息継ぎしにくさゆえの引き込まれるような心地良さ・・・。そして、しかしその実は少しも難解でなく、読む者をすっぽり包み込んでしまう豊穣な描写・・・。
あの文体こそ、誰にもまねのできない大江の魅力なんだと思うんですけどねー。
難解だと言う人々は、単に肺活量が足らないだけかも・・・?
1999/2/26, mouton
今晩は。私も他の方も書いてらしたように、大江作品は難解で、一部の人だけが読めるのかと思っていました。 (20代後期の私は、周りの人間に)とにかく難しいことは考えない方が良い!だとか、そんな物、読んで何に成る?と言われることに慣れたのに、読んでみたらこれが素晴しかった!! 難解と言われる理由は、主語・動詞・述語が一気に読まないと濃密だから、呼吸がし難いだろうという点くらいです。---慣れないと。『喬木の母』さんはどう思われます? 書くことを仕事にしている人としても。勿論、他の方でも。では、A BIENTOT!!!
1999/2/26, いとうくにお
このところ書き込みが増え、ちょっと嬉しいです。
中村さん、論文のことは、大江さんご本人に問い合わせるのが手っ取り早いと思います。講談社や新潮社の文芸編集部気付で手紙を送られてはいかがでしょうか。大江さんはけっこう返事も出されるようですよ。
葛飾ドラさん、mieさん、いぬごやさん、うののさららさん、はじめまして。大江さんは自分の本は売れないとか、読むとすぐ眠れるから寝る前に読むいいとか、自嘲的ギャグを言ったりしてますが、こうして皆さんに感動や励ましや楽しみを提供しているわけですね。確か「徹子の部屋」に出たときだったか、ノーベル文学賞は人を励ます文学に与えられる賞ということになっていると、ちょっと誇らしげに語ってらした大江さんですから、ここの皆さんの投稿を読めばきっと喜んでくれると思うんですけどねえ。
1999/2/25, うののさらら
はじめまして、こんばんわ。難解というイメージで大江作品を敬遠してきた私ですが、この冬ー「雨の木」を聴く女たちーを読みとても感銘を受け、過去の作品に遡って読んでいるところです。rain treeとは、一体どのような樹木なのでしょうか?私の中でイメージは、何故か宇宙的な広がり(絶対的な母性の象徴みたいなもの?)を持つ一方で、逃れることのできない息苦しい存在のような気もします。
大江作品は、主人公が自己の内面にどっぷりと降りているように一見見えますが、なにか読者にその小説世界の先にあるものを感じさせ、見つけにいかせる手がかりを残してくれているような気がします。
支離滅裂ですいません。
1999/2/24, いぬごや
はじめまして。つい最近大江健三郎の作品に触れ、われらの時代と、人生の親戚を読了しました。今、大江作品にはまっていっている所です。これから過去ログを読みます。よろしくお願いしまーす。
1999/2/23, mie
初めまして。私は今アメリカに住んでいます。こちらに来る際に何冊かの本を持ってきました。大江さんの本が一番多く持って来たものです。
私が最初に読んだ大江さんの本は『静かな生活』です。当時、色々な事で悩んでいた私はふと目にとまったタイトルにひかれ内容もわからづ買いました。その夜いっきに読了して私の心は癒されたのです。
私にとっては最高のバイブルです。大江さんの文学と出会った事は至福の喜びです。今でも落ち込むと大江さんの本を開きます。
「祈る」とゆう事を教えてくれた大江さんに感謝しています。
難しい事を書けなくてごめんなさい。
1999/2/23, 中村征樹
いとうさま、みなさま、はじめまして。中村と申します。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。
実は、知りあいのフランス人が、大江とサルトルを題材に、日仏の比較文化研究のようなもので修士論文を書こうとしています。それで、まさにサルトルを題材にした大江氏の卒業論文を入手したいとのことで、どうにかならないかと頼まれたのですが、友人を通じて東大・仏文の研究室に問い合わせてみたところ、昔のものだからだということだと思うのですが、もう保管されていないことが判明しました。
研究室の助手さんからは、全集をあたるか大江氏に直接コンタクトをとってみるかするようアドバイスを頂いたのですが、大江氏の全集のようなものは存在しなさそうなので、直接コンタクトをとるしかないのかと思案しているところです。
そこでお尋ねしたいのは、大江氏の卒業論文というのは、どこかで印刷されてはいないのでしょうか。あるいは、大江氏本人に直接コンタクトをとる前に、なにかしら尽くせそうな手というものはないのでしょうか。ぶしつけなお願いで大変恐縮なのですが、もしご存知の方がいらっしゃれば、教えていただけますと大変助かります。
1999/2/22, アラタ
こんにちは、オヒサシブリデス。今、NHKの就職エントリーシートを書き上げるのに必死です。お題が「独創と模倣」についてなんですが、大江光さんを取り上げるか、松本人志を取り上げるか迷っています。この二人の関係に深い意味はないのですが・・・。でも、どっか共通する部分もあるかもね。
1999/2/22, 葛飾ドラ
はじめまして。わたしは『響きあう父と子』の再放送を見てから、大江健三郎氏の小説、エッセイ、など大江作品に異常なくらい敏感になりました。ノーベル賞をとったからと、それでも作品は手にとりませんでした。なにか、あの映像、大江氏のちょっとなまりのある話し方。いや、家族、あの家のなかの雰囲気、空気、影、光。とても静かでまるで山のなかにでも住んでいるかのようなゆっくりとした時間。とても厳粛にかんじました。大江家は厳粛家族なのでしょうか。厳しいと言うのではなく個人が威厳をもって生活しているのだなと思います。威厳をもっている父親、教師、最近すくないのでは。大切なのは家の、家族の空気を創った父親がいた、大江氏がいた。わたしはそれをはっきりと見ました。大江家の空気によって死者が再生しいつまでも家族の目の見えるところにいる。ブレイクの詩を愛する大江氏のことですから、もしかすると大江家は、すでに何回かは再生を繰り返しているのかもしれない。
わたしは、最近むさぼるように大江作品を熟読しています。新たな発見がみつかりしだいご報告いたしますのでよろしくおねがいいたします。まずは動機からとなりました。
1999/2/22, いとうくにお
moutonさん、こんにちは。いつも書き込みありがとうございます。字の間違いって「響鳴」ですよね。しかし、これも意味が通りそうな熟語になっているじゃありませんか。「響きあう父と子」をも連想させますしね。
音田さん、ジャカルタからの書き込み、ありがとうございます。「シンガポールやクアラルンプールの道路沿いに植えてある美しい樹木」は地元でレインツリーと呼ばれているのですか?
1999/2/21, 音田
シンガポールやクアラルンプールの道路沿いに植えてある美しい樹木は、本物のレインツリーなのでしょうか。
そうだとすれば東南アジアではこの木はそんなにめずらしい木ではないのです。でも始めてみたときから美しい木だと思っておりました。細かな小さな葉がびっしりと繁るところ、幹が二つとか三つに途中から分かれていて枝葉の広がりがとても大きいところも小説の中の雨の木のイメージに合っています。
この木は私の住んでいるジャカルタにもあるけれど、シンガポールやクアラルンプールのに比べると少し見劣りします。
1999/2/21, mouton
 こんにちは、いとうさん。昨日書いたメールは、文章として出来上がったものでは無かったのですが、あまり書き込む人が居ないので出しました。勢いよく書いて。(字も間違ってる) それは、ここのホームページはここのところ書き込む方が少ないですし、以前の掲示板に書いていた人達も、1年位の単位で居なくなっているのを、寂しく思ったからです。ブックマークをつけてよく覗いているので、皆さま宜しくお願いします。 では。ちゃお!!
1999/2/20, mouton
 昨日、『個人的な体験』を読み終えました。 大江さんの魅力は、彼の他者に対する時の『壁』の少なさにある、と思っています。自分の苦手な事や、嫌いなことに『壁』をなるべく作らないで、他者の意見を聞き、その人の言葉で返事をする、響鳴する所を見つけるという姿勢が、とても寛容であると。
 そのぶん、彼は無防備とも見えるほど、静かに丁寧に反論にも対処しています。
 自己の考えの偏りも疑いながら、『言葉』というものに変えていく姿は、私に同感と尊敬の気持ちを与えてくれます。
 このページでも、同じ様な活発なやりとりが出来れば良いな〜と考えています。
 では CIAO!! ET A BIANTOT!!
1999/2/16, いとうくにお
やもとさん、はじめまして。投稿、ありがとうございます。好きな大江作品として「芽むしり仔撃ち」をあげる方は少なくないようですね。翻訳も出てますから、きっと世界に受け入れられる水準の高さなのでしょう。次作、楽しみですね。僕はその前に、燃え上がる緑の木三部作を読んでおかなくちゃと思っています。
1999/2/15, やもと
いとうくにおさん、初めまして。以前からこのホームページを楽しみにしていました。最近は、若い人たちも大江健三郎の作品を読むようになったのか、心強い限りです。小生はといえば、高校のときに、「遅れてきた青年」を読んでから、ほぼ30年近く大江健三郎を時には師としてあがめ、時には読書の水先案内人として慕ってきました。思い入れが強すぎるせいか、メールを送るのを躊躇してきましたが、房江さんのメールを拝見して、思い立ちました。小生も、「芽むしり仔撃ち」は大好きです。大江は、この作品だけでも、日本の文学史に名を残したはずだと、当時の批評家(誰だったかな?)が言っていました。小生としては、作品の中に大江自身と思われる登場人物のない(日本の私小説を意識しない)、構想力の大きな次作であることを願っているのですが、余り注文はありません。対談でもいいので、メディアに登場する機会を増やして欲しいと思っています。
1999/2/13, いとうくにお
江戸さん、ミラン・クンデラはチェコの作家ですね。http://www.joisis.com/sbr/unb/に、彼の原作で、映画化された「存在の耐えられない軽さ」の紹介があります。公開当時はけっこう評判になって、僕も見に行きました。原作のほうはまだ読んでいません…。面白いみたいですよ。
浜崎さん、はじめまして。若い方にも大江作品が読まれているのは嬉しいことです。よかったら、本の感想なども聞かせてください。
1999/2/13, 浜崎 まさえ
 初めまして! 今日、「洪水はわが魂に及び」を読み終えました。
こちらの掲示板は前から知っていたのですが、せめて、この本を読み終えるまでは・・と思い、今日、初めて書き込みさせていただきました。
私は商学系の大学生なのですが、高校生の時に「性的人間」収録の、「セブンティーン」に衝撃を受け、その後「われらの時代」や「叫び声」、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」などがたまらなく好きです。
それでは、大江ファンの皆様、今後とも宜しくお願いします。
1999/2/11, 江戸健一
『あいまいな日本の私』の井伏さんの祈りとリアリズムの中に、ミラン・クンデラーのことを書いていますが、ミラン・クンデラーとはどんな作家でしょうか?
1999/2/9, 房代
私は大江さんの「芽むしり仔撃ち」が、一番好きです。本当にこの作品には思い入れが強すぎて上手く言葉になりません。こんなにきれいな文章読んだことがないです。この作品についてもっといろんな人の意見が聞きたいです。大学の文学科に入って一番よかったことがこの作品に出会えたことです。大江さんの描く「弟」の存在が大好きです。本当に単純に大好きです。
1999/2/8, アラタ
こんにちは。いとうさん、ご存知かもしれませんが、2月8日の読売新聞夕刊の文化の欄に大江さんの文が掲載されています。
1999/2/8, mouton
 前より書き込む人が増えていて、楽しいです! 吉本隆明さんは同業者であれば、(内容からしても)大江さん自身に直接、話すことでしょう。 言葉ならやりとりができますしね* 今は『すべてよし』の意味について考えています。 アビアント!!
1999/2/5, 野村千里
 ご返事ありがとうございました。大感激です。
 ところで、「すべてよし」というのは英語のAll Rightだと私は単純に思ってしまっていました。今度その詩も読んでみようと思います。
1999/2/5, はなび
野村千里様  群馬県立土屋文明記念文学館というところで、「司修装幀・装画展」が開催されるようです。(2月11日〜3月14日)もし、興味がおありでしたら、行かれてみては?
(文学館ボランティアHPのURL http://www2.wind.ne.jp/bunbun)
 大江さんの初期の作品の文庫本はほとんど司修さんの装幀ですよね。大江さんの本で司さんのことを知りましたが、司さんご自身も小説や『戦争と美術』(岩波新書)という本を書いたりされています。この本はすごく面白いです。
1999/2/5, いとうくにお
江戸さん、文字情報が保存できない件ですが、もう少し詳しく状況を教えていただけますでしょうか。直接僕(kunio-i@ops.dti.ne.jp)宛にメールをお送りいただいたほうがいいかもしれませんね。一般的には、文字情報のほしいフレーム内で右クリックし、「すべて選択」を選択し、もう一度右クリックして「コピー」を選択し、メモ帳などで「編集」メニューの「貼り付け」を選択すれば大丈夫だと思います。
1999/2/5, 江戸健一
大江健三郎の著書紹介、年譜等を印刷は出来るのですが文字情報を保存できません。何故でしょうか。ほかの情報は保存されるのですが?私のパソコンはNECバリュウスターでビッグロブです。
1999/2/4, 喬木の母
moutonさん、アラタさん、そしていとうくにおさんの、祈りについての考察、うれしく拝見いたしました。わかちあえる仲間がいるっていいな、と思いました。野村さん、私も「洪水は…」ファンなので、ぜひぜひ、わかちあいましょう。
ところで「洪水は」の最後の「すべてよし」というセリフについて、どなたか御意見くださいませんか? あれはオイディプスの「すべてよし」からきてるのでしょうか?
1999/2/4, いとうくにお
野村さん、こんにちは。司修さんの装丁の本ですが、ハードカバーのものでは、燃え上がる緑の木3部作、つまり、「救い主」が殴られるまで、揺れ動く、大いなる日に、この3冊はそうですね。同時代ゲーム、静かな生活、私という小説家の作り方、もそう。僕は「個人的な体験」の英語版を持っているのですが(アマゾン・コムで買いました)、このカバーがなかなかいいんです。若い頃の大江さん、その手前に3,4歳ころと思われる光さんが立っている。その写真を版画のような感じに、黒ベタと白だけになるまでコントラストを強よめた、そんなのなんです。なんだか、ぐっと胸にくるものがあります。
江戸さん、はじめまして。『私のヒロシマ・ノート』は完成したら出版されるのでしょうか。それともインターネットで公開されるのでしょうか。完成したら、ぜひ教えてください。
1999/2/4, 野村千里
 心穏やかな、皆さんの文体に感動しました。大江作品も、大江健三郎も、けなそうとおもえばけなしやすい相手だとおもうけれど、でも悪口なんてくだらないこと言いたくなくなるほど凄いんだって私も思います。さて、私は大江作品では「洪水は我が魂に及び」が一番面白かった。娯楽として最高だと思います。英訳されていないようなのでちょっとがっかりしましたが。  ところで、司修さんが装丁された大江作品について、誰か知っている方がいらっしゃれば、それについてお知らせいただけないでしょうか?私は「洪水〜」のハードカバー版と,「河馬に噛まれる」でしか見たことがありません。
1999/2/2, 江戸健一
大江健三郎のフアンです。ペンネーム江戸健一は彼から2字もらったものです。最近読んだ吉本隆明『僕が考えたこと』に一般読者は知らないが、大江健三郎は権威主義者で嫌なやつである。同業者としてよくわかるとありましたが、どのように想いますか?。たしかに難しく解らない言葉や文章が多いとは思いますが、これは酷いことばです。いったい吉本隆明はそんなに偉い人物なのでしょうか?。今私は大江健三郎のヒロシマ・ノートをまねて『私のヒロシマ・ノート』を書いています。よろしく。
1999/2/1, アラタ
こんにちは。先日、芥川賞を受賞された平野啓一郎さんが、読売新聞のインタビューでミルチャ・エリアーデについて語っておられました。彼は、「哲学、宗教学、民俗学、心理学、文学、美学などのそれぞれの分野を貫いて、人類の文化を、つまりは人間そのものを全的に理解するための一つの巨大な視点を提示してくれると言う点において、エリアーデの仕事を非常に尊敬しています。」と言っておられました。大江さんの考えておられる事、彼でさえ表現に苦しんでいる「祈り」とは、エリアーデのそれに近いものではないでしょうか?
1999/2/1, いとうくにお
moutonさん、はじめまして。大江さんが「祈り」について語るのはなぜか、moutonさんのご説明で納得がいきました。大江さんが無神論者であることがわかっているにもかかわらずキリスト教系の大学での講演などに呼ばれるのは、「祈り」に対する大江さんの謙虚な姿勢や、聖書や信仰に対する謙虚な態度がキリスト教徒にとっても共感を与えるものだからなのかもしれませんね。
1999/1/31, mouton
はじめまして。私も、バルガスリョサの言った和平の考えに賛同します。感動しました!!大江さんは、とてもユーモアのセンスがよろしくて、楽しんで見られる人だと思います。  『祈り』について大江さんが熱心に話されるのは、彼自身が説明の出来ない思いを常に抱えている事と、聖書や神を信じている多くの作家も、とても好きであるからだと感じます。 私も信じる人と、信じない人というのは、かけ離れた存在だとは考えず、二つの考えにはたとえば(見えないものを信じる)とゆう様な接点も見え隠れしてるのでは?と今は(星の王子様)などを思い出してながら書いています。 大江さんは神を信じないことが、自己の現在までの体験で培われたうえに、宗教による弊害が世界的に広がったきたことで、新しい人間の生き方のスタイルが必要だと、固く決心していそうです。  とにかく、色々模索してます。他のかたがたは、どう思われます?理屈より好きなことが大好きなムートン*** アビアント!!
1999/1/31, いとうくにお
アラタさん、こんにちは。「響きあう父と子」は本当にいいですね。あれから大江さん父子に興味を持ったという人も多いようです。
1999/1/30, アラタ
こんにちは、みなさん。
昨日、NHK制作ビデオ「響きあう父と子」という、大江さんと光さんのビデオを見ました。感動しました。皆さんも、ぜひ。
1999/1/29, いとうくにお
なおこさん、こんばんは。なぜ大江さんが有名かというご質問ですが、ひとことで言えば、彼の作品がとても面白いから、ということではないでしょうか。面白い、という言い方は弊害があるかもしれませんね。シドニィ・シェルダンとかハーレクインロマンスのほうが面白いという人もいるでしょう。文学として優れているとか、深みがあるとか言えばいいのかもしれませんが、それじゃよくわからないですよね。やっぱり「面白い」ということじゃないでしょうかね。ふつうの小説は読み飽きた、もう面白くない、そういう人が読んでも面白いのが大江作品であり、ひいては文学というものではないでしょうか。
1999/1/28, なおこ
いとうくにおさん、お返事ありがとうごさいます。さっそく本を読んでみます。
もう一つ質問ですか、なぜ、大江さんは、有名なのでしょうか。きっと、彼の本が、他と違っているからと思うけど、いとうさんは、どうおもいますか。
あまり本は読まないほうなので、本の良し悪しがわからないけれど、よっかたら、彼の本の魅了を教えてください。
1999/1/27, いとうくにお
なおこさん、はじめまして。子供のころ「ニルス・ホーゲルソンの不思議な旅」というスウェーデン作家の本を愛読していた話は、大江さんはあちこちで書かれてますね。僕の手持ちの本では「ゆるやかな絆」(講談社)の中の「ニルスと『源氏物語』」で、触れられています。ニルスの物語は、日本ではアニメの「ニルスの不思議な冒険」(だったかな)として知られてますね。
1999/1/27, なおこ
はじめまして。最近大江さんについて調べていますが、大江さんは、ヨーロッパの北のほう、スカンジナビアの地域が好きだということを聞いたのですが、それは本当でしょうか? 何かしっていたら、掲示をお願いします。
何かヒントになる書籍があったら、お願いします。
1999/1/19, いとうくにお
Kojiさん、はじめまして。スピーチ、うまくいくといいですね。聞くところによると、大江さんの英文はかなり独特のものだそうですが、それがスピーチコンテストにおいてマイナス要因とならなければいいですね。
カシアートさん、「寛容」の件ですが、最近は対談や講演でも大江さんはその言葉をよく使われているようですね。ところで、今日の朝日の夕刊にバルガスリョサ氏の返答が掲載されていました。彼はフジモリ大統領と選挙で戦っただけあって、言葉が明快で説得力がありますね。「民主主義は必ず不完全なのです」「文明の存続のためには、民主主義によるうんざりするほどゆっくりした発展を求めたほうがましだ」そんな彼の言葉が印象に残りました。手紙の最後のほうで、「個人的な体験」「恢復する家族」「飼育」などの大江作品への言及もあって、なんだか嬉しかったな。
1999/1/18, カシアート
みなさん、こんにちは。
ニュースでも取り上げられていますが、朝日新聞でのバルガスリョサとの往復書簡を読みました。あの文章のキーワードは「不寛容」ですけど、以前より大江氏は「寛容」「不寛容」という言葉に思い入れがあるように思います。
だいぶ昔のエッセイ集「鯨の死滅する日」のなかに「寛容のパラドックス」という文章があります。大江氏の師渡辺一夫の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」とのテーゼを出発点とした文章です。結論としてこれまた渡辺一夫の文章が引用されています。「不寛容によって寛容を守ろうとする態度は、むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけであると、考えている。その点、僕は楽観的である。」 今回の往復書簡は、「寛容のパラドックス」の思考を引き継いだものといえると思います。
しかし私は往復書簡を読んで、私が連想したのは、すごい深読みですが、大江氏とも因縁がある本多勝一氏のことでした。本多氏には、筋金入りの不寛容とのイメージがあるものですから。最近の岩瀬達哉氏や「噂の真相」との論争では、噂真の岡留編集長が言うところの本多氏の「自己絶対化の呪縛」も相当なものだ、と思います。本多氏には今少しの「寛容さ」が大事ではないでしょうか。
閑話休題、往復書簡の中で、大江氏が今書いている小説のことが取り上げられていました。「私はいま四年ぶりに刊行する長編の最後の書きなおしをやっているところです」とありますから、もうすぐなのでしょう。本当に楽しみです。
1999/1/18, アラタ
喬木の母さん。ぼくは、3作品しか大江さんの本を、読んだことがないので、もっと、読んでみたいと思います。
1999/1/18, Koji
今度 英語スピーチコンテストで大江さんのノーベル賞受賞の時のスピーチをよまさせていただくことになりました。これを機会に大江さんの著書を読んでみたいと思っています。
1999/1/15, 喬木の母
みなさま、こんばんわ。アラタさんの核心に迫る「祈り」についての御質問に、誰か答える方が現れるかと待っていたのですが、今のところ明確に発言できる方はいらっしゃらないようですね。もちろん、私にも答えられません。だから待っていたわけで……。
しかし、しっかりと言葉でもって説明し得る事柄でしょうかねぇ? だって、みなさん思いませんか? 「祈り」は今の大江氏の心臓みたいなものでしょう? だからこそ大江は曖昧だと言われてしまうんじゃないですか? ――私はそんな隙だらけの大江氏だからこそ好きなんだけども。
ですから私なんかに言えるのは、「アラタさん、大江の本をいっぱい読んで、御自身で答えを見つけてみてください」ということだけ。
頼みもしないのに、健気に動き続ける心臓。では、それを動かしている力、それは一体なんぞや? ……なんて、そんなことを考えながら、炬燵で大江を読み返す。そんな冬の夜をお楽しみくださいませ。
1999/1/15, アラタ
こんにちは、みなさま。
いとうさん、ぼくも、教育テレビ40周年みました。確か大江さんは、「これからのテレビが、進んでいく方向」について、すごく短い時間でしたが、話しておられたと思います。僕自身は、映像で大江さんをみるのが、初めてでしたので、大変感慨深かったです。あの形のメガネが似合う人はそうはいない。
1999/1/15, いとうくにお
本さん、はじめまして。よろしくどうぞ。佐佐木さん、あけましておめでとうございます。本多勝一ファンクラブの閉鎖の理由ですが、結局開設時からほとんど内容を更新することができずにきていたので、整理して、こちらの大江さんのほうに注力することにしました。「噂の真相」誌などでの本多氏をめぐる論争や、佐佐木さんから教えていただいたことなどを見聞していて、彼に対する熱が少し冷めてしまったということがその背景にはあるのですが…。
1999/1/14, 佐佐木嘉則
いとうさん、あけましておめでとうございます。久しぶりに覗いてみたら、「本多勝一ファンクラブ」のページを閉鎖なさったようですね。どういう事情があったのでしょうか。資料集として活用させていただいておりましたので、ちょっと残念です。 そのむこうを張ったというわけではありませんが、このたび「本多勝一研究会」を発足しました。入会ご希望の方は私(Y.sasaki@unsw.edu.au)まで御一報ください。おって詳細をご連絡いたします。AML(Alternative Mailing List)に投稿した入会勧誘文が次に保存されておりますので、こちらも御参照いただけたら幸いです。
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9901/10716.html
もちろん、本多さんの「大江批判」も会の議論の射程内です。この件に関して一家言ある西村有史様や後藤文彦様も議論に参加してくださいます。
なお、「研究会」と銘打ってはおりますが、あまり堅苦しくお考えにならないでください。「本多氏に関してどんな話が出るのか、覗いてみたい」という方でも結構です。私としては、大江健三郎氏がらみでは本多さんの核兵器観の変遷について調べてみたいと思っています。(かつて本多さんは、中国の水爆開発を擁護していました。)
なお、会の活動は主として電子メールでおこなう予定です。これを機会に無料のメール口座を取得なさりたい方は、
http://www.goo.ne.jp/

http://www.mail.yahoo.com/
にアクセスしてみてください。
1999/1/13, 本(ほん)です。
みなさん、はじめまして。大江健三郎ファンのひとりです。どうぞ宜しく。
1999/1/13, いとうくにお
遅くなりましたが、皆さんあけましておめでとうございます。今年も当サイトをよろしくお願いいたします。正月だったか、教育テレビの40周年記念の番組でちょっとだけ大江さんのインタビューが出てましたね。何を話していたか、思い出せないんですけども。
アラタさん、プロレスラーさん、はじめまして。アラタさんのご質問、なかなか難しいですね。僕には手に負えないです。どなたかアドバイスを。
1999/1/12, プロレスラー
私は今大江さんの歴史について調べています。
みなさん
はじめまして!!!
1999/1/10, アラタ
こんにちは、みなさま。初めまして。
突然ですが、大江さんが、講演でよく、「祈り」について話されておられます。人が人のことを祈る、という、そういう心が、自分にもある、といっておられます。彼は「祈り」という事からから、どのようなことがいいたいのか、そして、そういったことを、彼はどのようにして、作品に取り入れているのか?もっと、具体的に知りたいです。
知っている方がいたら、教えてくださーぃ。
大江健三郎ファンとして、まだまだ浅いですが、「祈り」についての、素朴な疑問。 なんでもいいから、教えてくださいませ。
1999/1/3, 喬木の母
みなさま、あけましておめでとうございます。本年もよろしく!
カシアートさん、二人目のお子さんだったのですね。親業の先輩にえらそうなことを申し上げて、大変失礼いたしました。>喬木の母さん、お互い育児で頑張りましょう。ハイ、頑張りましょう! 真実一路、……ステキです。
それから、12月28日の投稿文の一部を訂正させていただきます。>じっと観察するような目をした人だったとかで、店先で働いている母をしみじみと見つめ「娘さん、あなた働き者ですね」と言った……、のはムロオさんではなく、カワバタさんの間違いでした。カワバタさんとは、もちろん川端康成です。どうでもいい話ですが、一応訂正させていただきました。では、また。
1999/1/1, カシアート
いとうさん、喬木の母さん、 そして、みなさん、 あけましておめでとうございます。
喬木の母さん、実はその後いろいろあって名前は一路(かずみち)に決まりそうです。上の子(娘)が真実(まみ)といいまして、二人会わせて真実一路(しんじついちろ)ということです。多分1月4日に出生届を出すことになるでしょう。年末ぎりぎりに生まれてくれて、今度の地域振興券(商品券)がもらえそうで、本当に親孝行な子供です。
女房は病院で下の子と年越し、私は上の子が寝た後、「罪と罰」を読みながら年を越しました。
私は大江さんの初期の作品では特に「見る前に跳べ」が好きなのですが、今の大江さんには気に入らない作品なのでしょうね。その事実じたい、私にとってはショックなことです。たとえて言えば、ジョンレノンがアルバム「ジョンの魂」の中のGodでDon't believe in Beatlesと歌っているのと、同じ様なものです。
それと「政治少年死す」がどうなるのか、このまま大勢の人には読めない作品になってしまうのか。私は大学生の時、大学の付属図書館のバックナンバーで読みましたが、すっかり忘れてしまいました。
喬木の母さん、お互い育児で頑張りましょう。それではまた。

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