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2006/12/23, 虫栗太郎
田村 省二 様
ラスコーリニコフ 様

 沢山の情報有り難うございます。おそらく「世界」は買って読んだ気がします。
が、どこにあるのか解らなく合っています。新聞は新聞検索で、手に入れようと
思っています。
 「定義集」を私も読みました。一度手に入れた理念は、どんな権力でも壊すこと
はできない。そんなメッセージとして読みました。
 政府は戦前の教育を再生しようとしていますが、必ず私達がこの教育基本法
の再生を実現できるはずだと思っています。
2006/12/20, みやじま紅葉
みやじま紅葉です。

 いとうくにお様、以下の主な文献で、最後にしますので
 ご掲載いただければ幸いです。手元には、多くの文献がありますが、
 以下で十分にフォローできると思いますので。

  虫栗太郎様
  ラスコーリ二コフ様

1)第一審後(1999年6月以後)
・ 1999年6月25日「東京新聞」高井有一氏のインタビュー
・ 1999年8月24日「毎日新聞」掲載「裁判と文学」加藤典洋氏

2)控訴審判決(2001年2月)
・ 「群像」2001年8月号掲載「「石に泳ぐ魚」の語るもの」加藤典洋氏
p154〜166

 以上を参考までにお知らせいたします。
2006/12/20, みやじま紅葉
 みやじま紅葉です。
 田村さんに追加になりますが、ご容赦ください。
なお、18日付けで、掲示板より送付していたのですが、うまく手元に届かなかったようなので再度送ります。

1)雑誌「世界」1999年9月号(665号)
これには、ふたつの文章が並列であって、ラスコーリ二コフ様が指摘されていた
「「柳美里裁判」の真実」木村晋介/梓澤和幸
「陳述書と二つの付記」大江健三郎
    に相当します。
  これに先立つ、1ヶ月前には、
2)雑誌「新潮45」1999年8月号
「「朝日新聞」社説と「大江健三郎氏」に問う」柳美里p44〜67
   があります。

なお、あわせて、雑誌「ダ・ヴィンチ」1999年8月号「大江健三郎氏のインタビュー」について、柳美里さんの反応も、この雑誌「新潮45」には、「追記」のかたちで述べています。
  参考までに紹介しておきます。
2006/12/20, 田村省二
12/17にラスコーリニコフが指摘されている雑誌『世界』は、1999年9月号です。「陳述書と二つの付記」が掲載されています。必要ならば、岩波書店のHPから注文可能のようです。
話は変わりますが、本日(12/19)の朝日新聞の朝刊31面に大江さんの「定義集」が掲載されており、大見出しは『心に「教育基本法」を』となっています。にっこり笑った小さな顔写真も掲載されているのですが、ちょっと若いかなあと感じました。定義集の中で大江さんは「私は、ついに失われてしまった教育基本法の小冊子を作って、新しく教師になる人、若い母親、父親が、胸ポケットに入れておく、そのようにして、それを記憶し、それを頼りにもすることを、提案します。」と書かれています。小学生の私の子供には難しいですが、改正されたことをちゃんと伝えなければならないと考えています。
教育基本法改正に異議を唱えていられたのは、加藤周一さんや井上ひさしさん等がいらっしゃいます。異議を唱えても、マスコミが積極的に取り上げないことが目立たない原因の一つだと感じています。
2006/12/17, ラッキー
いとうさま、皆様こんにちは。
待降節も第3週をむかえようとしています。私の知力では文章化できないのですが。「神秘主義」について大江さんはどのようにお考えになっているのか、知りたいのです。ご存知のように私はカトリック教徒です。信仰の「神秘」の部分は一番大事なところですが、わたしの頭脳では本当は理解できていません。いい加減だと思われるのを覚悟で大江さんのなかの神秘主義について教えてくださると幸いです。よろしくお願いいたします。
2006/12/17, 虫栗太郎
ラスコーリニコフ 様

 情報有り難うございました。
 大江さんは新聞紙上でも書いていたという記憶があるのですが。それは記憶違いでしょうか。
 また、あの事件で大江さん以外で原告に立った文学者はいましたか、その存在を私は知りません。いたら教えて下さいませんか。
 
 小説家の表現の自由をあれだけ擁護した小説家や評論家が、今起こっている教基法改悪に全く無頓着なのにがっかりしていますので、彼以外のその様な文学者を知りたいのですが。
 澤地久枝さんは知っていますが。
 乱筆乱文で申し訳ありません。
2006/12/17, みやじま紅葉
 みやじま紅葉です。
 携帯書き込みから、PC書き込みに移行しました。
  新刊として、いえ、特装版『「おかしな二人組」三部作』 (一冊本)が、講談社から、12月20日発売されます。
  ご存知の、『取り替え子』以下の3部作ですね。最初の構想に近ずけたものです。

  ラスコーリニコフ様の書かれたように、大体の趣旨はその通リです。
  文献を探しましたが、見当たらず、1994年の頃のこと(ノーベル賞受賞の年)でしたので、その後、大江氏によって、追加の記事はかかれることがなかったと思われます。
2006/12/17, ラスコーリニコフ
 私は法学部の学生ですが、「石に泳ぐ魚」事件について調べたことがあるので、以下に私の知る範囲で記述します。
 大江氏は、岩波の『世界』でこの事件についての論文を寄稿していました。何号かは忘れましたが、『世界』であることは間違いありません。
 柳美里氏に対して、あなたは原稿を原告の心を傷つけない形に書き直すべきだった、それによってよりより作品が出来上がるはずだった(私は書き直すことによって、そういう経験をしてきた)、そしてあなたにはそれだけの能力はあるはずである、というような旨の内容でした。
 同号では、原告側の弁護士の木村晋介氏らの論文も掲載していましたが、これはかなり柳美里氏に厳しい内容でした(柳美里氏の感受性は一般人のそれとは違っているとまで指摘していたと思います)。
 これに対して、柳美里氏は(たぶん)『新潮』において福田和也氏と対談する中で『世界』の同記事を批判していました。
 因みにその際に当時の『ジュリスト』等の雑誌で学者の判例評釈も読みましたが、私の調べた限りではすべての憲法学者は原告側を支持していましたし、私の周りでもその立場をとる教授や学生が多いです。
2006/12/16, 虫栗太郎
 皆さんこんにちは。
ちょっとお聞きしたいことがあって書かせて頂きます。

 大江さんが柳美里さんの裁判で、原告側に立って発言をしたことがありました。
私も、大江さんの考えに賛成でした。しかし多くの学者や小説家はそれとは反対でした。

少し憂鬱な気分になり、当時あまりその類の記事を読みませんでした。大江さんの発言も何もとっておきませんでした。

 今、そのことについて大江さんがどう考えたかを知りたくなりました。もし、その当時の大江さんの発言が、どこに何時載り(新聞なら検索できます)、何という本にに収録されているかを知っておられる方がいましたら教えて下さい。
2006/12/10, いとうくにお
田村さん、お知らせありがとうございます。大江さんの活躍は、それだけで僕らにも励ましになりますね。
2006/12/10, 田村省二
講談社の群像1月号には、本年10月6日にフランクフルト図書市で行われた特別講演「But Ratuher of Their Folly-『大江健三郎賞』創設記念フランクフルト講演」が掲載されています。また、新潮1月号には「詩集『形見の歌』より二篇」が掲載されています。集英社のすばる1月号には、連載第5回目の読書講義「本の中の『懐かしい年』」が掲載されています。年齢を感じさせない活躍ぶりです!負けていられません。
2006/11/28, いとうくにお
みやじま紅葉さん、情報ありがとうございます。「小説現代」に清水義範氏の感想が載っているのですね。
米原万里さんの遺作『打ちのめされるようなすごい本』にも大江作品のことが出ているという話なので、取り寄せ中です。
2006/11/28, みやじま紅葉
ファンにはうれしいー清水義範さんによる記事があります。「万延元年のフットボール」を初めて読んだ読書感想文。新鮮な興奮と驚きを丁寧に伝達ー「小説現代」12月号。皆様も一読価値ありです
2006/11/28, いとうくにお
しんしろうさん、情報ありがとうございます。小説ばかりでなく詩集も出すという話、とても楽しみですね。
2006/11/28, しんしろう
 いとうさん、みなさん、こんにちは。今日の新聞には大江さんの記事が二つ載っています。
 一つは毎日新聞の「特集ワイド」でほぼ全面のスペースです(写真も大写し)。見出しは「畏れ持たなければ」。「畏怖する」という言葉をあげて、「政治をやる人が、なぜこの人でいいのか、と気になる人が多い。首相にもそういう感じがありませんか」と述べておられます。つまり、自分の仕事に最も「畏れ」を抱くべき政治家が、そうではないという現実について語っておられるのです。
 もう一つは朝日新聞で、新刊「『伝える言葉』プラス」の話題です。渡辺一夫さんの享年73歳を、大江さんは自らの一つの到着点と考え、その年齢を意識しながら、「後期の仕事(レイト・ワーク)として、「200ページくらいの小説を二、三編書きます」とのこと。初めての詩集の題名が、「形見の歌」というのことを知りました。
2006/11/22, みやじま紅葉
追伸。「天の嘆き」戯曲に続く「火山」銀杏並木賞の掲載誌、「学園」昭和30年を読みたいです。情報をお願いします。
2006/11/22, みやじま紅葉
大江さんの講演予定や外国訪問などは予め知ることは難しいようです。講演記録は整理されて、出版を相談されるーテレビで言われていました。ちかじか中公文庫二百年の子供ーでますね
2006/11/17, いとうくにお
虫栗太郎さん、それについては、ぜひ皆さんで情報を出し合っていただき、この掲示板なりメーリングリストなりで情報を共有していただけたらいいなあと僕は思っています。
2006/11/17, 虫栗太郎
 先日京都へ加藤周一さんの講演を聞きに行きました。
そこで知り合いもでき、二重の歓びでした。
 かもがわ出版が主催した講演会でしたが、そのかもがわ出版のホームページには、加藤周一さんの講演の予定を知ることができるコーナーがあることを教えてもらいました。今度は12月8日に東大での講演が予告がされています。
 で、質問ですが、大江さんの講演の予定を知ることができる方法はありますか。
 九段会館の講演は、たまたまネットで知ったのです。良い方法はありますか?
2006/11/17, いとうくにお
田村さん、掲載が遅れてすみません。なるほど、過去の例を見れば、今回のレクチャーも本としてまとめられる見込みが高いといえそうですね。ありがとうございます。
2006/11/16, 田村省二
追伸
本棚を良く見ると『「話して考える」と「書いて考える」』も集英社であることに気づきました。最初からそうすればよかったのですが、集英社のHPを見るとこれまで計5冊が出版されてます。『「話して考える」と「書いて考える」』に掲載されている『「夢を見る人」のタイムマシン』は手元にある2004年5月号のすばるに掲載されていました。
以上です。バラバラですみません。
2006/11/16, 田村省二
いとう様、ご存知だと思いますが、ジュンク堂で6月から毎月行われている大江先生のレクチャーは、すばる9月号から順に『大江健三郎・読書講義 生きること・本を読むこと』という大タイトルで掲載されています。大江先生は、11月12日のレクチャーの掲載が1月号ぐらいかな〜と自信なさげにおっしゃっていましたが、以下のように順に並べると2月号になります。
 「さようなら、私の本よ(6/11)」    →すばる 9月号
 「故郷から切り離されて(7/16)」    →すばる10月号
 「文体を読み取る、文体を作る。(8/13)」→すばる11月号
 「核になる言葉に出会う(9/18)」    →すばる12月号
 「本のなかの『懐かしい年』(10/22)」  →すばる 1月号
 「「~祕的」と向かいあう(11/12)」   →すばる 2月号
 「そして、真っ直ぐに立つ。(12/10)」  →すばる 3月号
   ※カッコ内はレクチャー開催日

集英社が出版している大江先生の書籍は「大江健三郎・再発見(大江健三郎、すばる編集部編」しか知りませんが、この本を見ると初出が6つあり、その内、書下ろしが2つ、すばる掲載が2つ、その他2つとなっています。
いずれにしても、出版社の常道で連載したものは1冊にまとめられると思います。たぶん来年の桜の花が咲くころでしょうか?
2006/11/15, いとうくにお
田村さん、レクチャーのご紹介、ありがとうございます。すばるに掲載されるとのことですが、最終的には本になってくれると通して読めてよいのですが。
2006/11/14, 田村省二
11月12日にジュンク堂池袋本店で行われた大江先生のレクチャーに参加しました。タイトルは『「~祕的」と向かいあう』で、大江先生がレクチャーのために分厚い英文の書籍を数冊鞄に詰めて持ってきて頂きみなに見せてもらいましたが、非常に重たそうでした。話の内容は、すばるの1月号?に掲載されますので、それまでお楽しみです。非常に楽しく、勉強になりました。
2006/11/13, 大山和広
色んな本を読んで、また、大江健三郎に帰ってきました。
純粋な、ひたむきな、丁寧な、ひとつひとつの文...。
それらの編みめを、確かめながら読み進めています。
ありがとうございます。
2006/10/26, クルツ
おひさしぶりです。
いきなりで申し訳ないのですが、「不幸なら手を拍こう」という題名の「期待する人間像」に関する文章を読みたいです。ここの年表にもタイトルは載っているのですが、本文を見つけることができないでいます。

現実世界でいろいろあって、ちかごろ、めっきり大江氏から遠ざかっていました。「個人的な体験」じゃないですが、自分の身の回りがあまりにも手の施しようがなくなると、大江氏の書いていらっしゃることの8割くらいはどうでもいいことのように思えてくるものですから。ずっと以前の話になりますが、渡辺まりな(字がわかりません)さんが「本ばかり読んで」みたいなことをおっしゃっていたことを思い出します。
ですが、遠ざかる期間が長くなりすぎると、ふとしたことで大江氏が私に働きかけをしてくれているような気になるから不思議です。今回の「不幸なら〜」も発端は水俣病でしたから。いったいどこをどう辿って大江氏にたどり着いたのか、自分でも不思議です。
2006/10/25, 弥生
rosyeru 様

大江の文学論は本当におもしろい。それは、大江文学が、「生きること」と「読むこと」、そして「書くこと」を三位一体のものとして創作されているためだと思います。読みにくいのは、生きることが、決して平坦ではないからです。そして、読者である僕たちもまた、大江文学を「読むこと」で「生きること」の基本に立ち戻っていくような、そんな励ましを与えられるからだと思う。3部作ですが、僕が一番印象的な場面は、やはり「取替えっ子」のスッポンと格闘するシーン。その後の居間でのシーンです。ここには「生きる」ことの苦悩がある。これらの3作品に共通するテーマは、「再読」読み直しだと思います。ジュンク堂のHPの大江書店に「読みなおすことが、新しく生きることである(ことがある)」と書かれていますが、これですね。
2006/10/25, rosyeru
弥生さんへ
  お褒めいただきありがとうございます。でも自分ではそんなに深く読んでいるつもりはないので、なんだか気恥ずかしいです。「文学再入門」はいつか読んでみたいなあ、と思っていたんですよ。引用された大江さんの言葉も興味深いですね。実は今、岩波新書の「新しい文学のために」を少しづつ読んでいます。相変わらずの読みにくさを感じながらも、なかなか読み応えがあってみっちり丁寧に読んでいます。 あとは簡単な感想を書かせてください。
「さようなら私の本よ」をこの間読んで、続きを早く読みたい、と思いました。「憂い顔の童子」は全体の話は面白く読めたんですがドン・キホーテの扱い方は正直つまらなかった。これだったらわざわざ取り上げるまでも(ドン・キホーテそれ自体の面白さに比べたら・・・)、と感じました。
「チェンジリング」は忌まわしい事件「アレ」をめぐる大江、伊丹、千樫、三者の視点からの記憶の想起、再構成、絡ませ方がスゴイ!と思いました。これは他の作家にはなかなかできない大江さん(流石!)の力量を感じました。しかし結末は唖然としましたが、こういうことをしゃーしゃーと(失礼)書いてしまうのが大江さんのまたスゴイところなんだろう、と思いました。
2006/10/24, 鉄
初めまして。
私は27歳の男です。19歳の時に『宙返り』を読んで以来、大江作品を読んでいます。
ガルシア=マルケスの新作『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)の中に入っていたチラシに大江氏の文章が載っていたので、紹介します。
この文章に出てくるAさんとは、安部公房のことですね。

ガルシア=マルケス旋風
三十年近く前の夏の朝、まさに天才だった作家Aさんから、ガルシア=マルケス新作の英訳が届いたそうだが、と電話。読んだと答えると、一時間後には箱根の山荘への車に乗せられていた。細部の面白さに大笑いするかと思うと、要約して、次のヤマ場に行けと催促する。翌日の夕暮、Aさんは静かに満足して、二十世紀最良・最大の、南米に根ざしながら世界の時代を描く男! といった。私らは共感をこめて大酒を飲んだ。
2006/10/19, J・J男爵
かけるさんがお探しになっている言葉は、ウラジミール・ナボコフの『賜物』の文章を大江さんが『さようなら、私の本よ!』の終盤で引用しているものだと思います。
2006/10/18, かける
全くの曖昧な記憶なのですが、探している文章があります。
大江氏の著作で、ある著者の引用がされていたものなのですが、その文章の最後の言葉しか覚えてなく、しかもうる覚えです。どなたか心当たりのある方ご教授ください。
このような言葉でした、「私が終わりと書いても、そのもの物語は終わらないのである。」まったく違うような気もしますがよろしくおねがいいたします。
2006/10/9, 弥生
rosyeru様
>グロテスクなエネルギーを持っている作家
あなたは、素晴らしい読みをされています。大江の文学世界を見事に言い当てています。大江は、「小説の言葉は、ものの手応えのある言葉でなくてはならない。抽象的な言葉ではなくて、物質的、肉体的な言葉でなくてはならない。小説のイメージは、宇宙的、社会的、肉体的なものをひとかたまりにして表現する言葉の仕組みなのです。」と述べ、これを「グロテスク・リアリズム」と呼んでいます。(これは、1992年に放映されたNHK人間大学のテキスト「文学再入門」p43に書かれています。)
2006/10/1, いとうくにお
rosyeruさん、こんにちは。大江作品は、時代によってずいぶん文体が違いますので、いろいろな作品を読んでいくと発見や驚きも多々あると思いますよ。また感想を聞かせてください。
2006/10/1, rosyeru
みなさんはじめまして、僕は30歳男無職、大江作品を読んでまだ数年のものです。読み始めたきっかけは大江に批判的な批評家福田和也の文章です。
まだ読んだ作品数は多くはないのですが(初期の作品群、最近の三部作、エッセイ等。万延元年は未読)大江作品の全体を覆う暗いトーンは嫌いじゃないなあ、と思っています。読みにくさや衒学的な所(ドイツ語、英語が出てきたり)など読んでいて頭にくる点もありますが読み進めていくうちに作品世界にひきこまれていくのも事実です。自分は大江とその作品が好きなのかどうかがはっきりわからないんですが、なぜ読んでいるかというと現在生きている作家でもっとも変な作家だと自分で思っているからです。別の言い方をすればグロテスクなエネルギーを持っている作家、というか。ただその一点で読んでいる感じです。気になる作家なのは間違いないので、これからも出版される小説は必ず読んでいくと思います。旧作も遡って読んでいます(そのときにこのページの作品案内を参考にさせてもらいました)。家にも親が昔買った(いわゆる団塊の世代、昔、大江がスターだった頃を知っている)小説、エッセー、おそらく70年代に新潮社から出た大江健三郎全作品数冊あります。母親は今は大江に否定的でほとんど読んでいません。
オフ会の様子を拝見しましたが、いいなーこういう集まり、とうらやましく思いました。また作品の感想を書き込みたいと思います。あとメーリングリストに参加を申し込んだのでよろしくお願いします。
2006/9/27, いとうくにお
タチアオイさん、コンサートと詩のご紹介ありがとうございます。大江さんが詩を発表するのは、これまであまりなかったことですね。小説のなかで登場させることはありましたけども。
2006/9/27, タチアオイ
こんにちは
先日、モーツァルト「レクイエム」のコンサートが池袋の東京芸術劇場であり、そのなかで大江健三郎さんの詩が江守徹さんによって朗読されました
曲と曲の間にグレゴリオ聖歌、モーツァルトが父に宛てた手紙、大江健三郎による詩前半、後半、ヨハネの黙示録6章8−17、21章1−7

大江健三郎氏初めての詩として序文が載っているのですが
「私はホーネックさんの企てに、モーツァルトの(レクイエム)をかつてなく深く理解し、魂に刻まれました。
そしてキリスト教の圏外の自分の、子供の時から老年のいまにいたる時々の、死と再生への思いを、言葉にするよう励まされたのです。」

ホーネックさんというのはオーストリア生まれの指揮者です。
そしてその詩はこのように締めくくられています

   私の中で、
   母親の言葉が、
   はじめて 謎でなくなる。
   小さなものらに、老人は答えたい、
   私は生き直すことができない。しかし、
   私らは生き直すことができる。

読売日響 2006 月間オーケストラ9月号の中に全文が載っています
私は詩は全く判らないのですが、今までの一貫したテーマ生と死と再生と言う事がこの中に凝縮されているように思いました。
2006/9/24, ラッキー
いとうさま、皆様、こんにちは。

実は私も阪神・淡路大震災の後神戸に行きました。まだ瓦礫の神戸の中で、炊きだしのお手伝いをさせていただきました。あまり精神力がないので長く続けられなかったのですが(途中で手が震えだしてもう無理だなと思ったので)さまざまな年代の人々と一緒にご飯の炊き出しと、おぜんざいをつくって仮設住宅を一軒一軒まわりました。自分自身も切迫していてぎりぎりの絶望した状況でしたが、とにかく若い方々に支えられてあずきの缶を一生懸命あけていました。弥生さまの書き込みでその記憶が蘇りました。
2006/9/24, 弥生
HyKb様、皆様、久しぶりに投稿します。
>「人(人間)は、苦しみの中でも立ち直る勇気と希望を持つものだ」という文章の出典

正確な文言は見いだせませんが、岩波新書『あいまいな日本の私』所収のエッセイをご覧下さい。「癒される者」「井伏さんの祈りとリアリズム」などには、絶望のなかから生まれる新しい再生の可能性が書かれています。

実は、僕は神戸に住んでいて、あの震災を実体験しました。
その被災直後のさなか、元町商店街で唯一、営業を再開した書店「海文堂」で邂逅したのが、かの岩波新書でした。全くの新刊で、震災を予期して、被災者のために書かれたかのような本でした。
2006/9/22, しんしろう
 いとうさま、みなさま、こんにちは。
 昨日、国旗・国歌についての都教委通達訴訟で東京地裁は原告全面勝利の判決を言い渡しました。原告の先生たちや支援者、裁判長に深い敬意を覚えながら、一方では、なぜ当たり前のことがこの国では裁判にまでなるのか割り切れない思いも抱きます。
 判決は、都教委の一連の指導は教育基本法10条と憲法19条に違反すると明白に述べ、これが判決の根拠の一つにもなっています。ということは、もし教育基本法や憲法が変えられてしまえば、都教委のやっていることがまるごと「合法」になってしまう可能性があるとも言えるのではないでしょうか。教育基本法や憲法が変っても、現状が追認されるだけで、現実には何も変らないと考えている人は、私の周りにもいます。自戒も込めていえば、そうなってしまったとき、東京都の教育現場で起きていることが、日本では「普通」になるであろうことを、私たちはよくよく考える必要があると思います。
 そのように意味において、「九条の会」の働きの大きさに、改めて思いを馳せているところです。
2006/9/20, いとうくにお
HyKbさん、J/Bさん、僕もJ/Bさん同様、窮境のなかでいかに勇気と希望を持つことができるかというのは大江さんの一貫したテーマだと感じました。ただ、HyKbさんのお示しのその文言がどこにあるか、となるとやはりわかりません。大江作品を全文検索できるデータベースでもあるといいのですが。
2006/9/20, J/B
「人(人間)は、苦しみの中でも立ち直る勇気と希望を持つものだ」という考え方は、大江さんの基本的な考え方の一つだと思います。
それゆえ、残念ながら、私には大江さんの特定のエッセーなり小説なりを、この言葉から特定することができません。
「人(人間)は、苦しみの中でも立ち直る勇気と希望を持つものだ」を一つのテーマと考えるなら、小説でいえば『人生の親戚』、『静かな生活』あたりということになるのではないでしょうか。
役立たずの返信ですみません。
2006/9/17, おおさわ
 先年、後藤田正晴氏と大江氏が中曽根元首相と討論した番組を思い出し(自衛隊のイラク派遣についてだったと思います)中曽根氏の言った一言「理想的平和論だよ」は今現在どんな受け止め方をされているのでしょうか。
 日本の「憲法九条」のようなものが世界の六つか九つの国で制定されていることを放送大学で耳にしました。それらの国はどういう訳か戦争を起こしていないと言われました。意図的に解説しなかったのかもしれません。若い人たちが改憲をどのように考えているのか心配でたまりません。
 五十半ばの一個人がマスコミ報道で衝撃を受けた三つの出来事。豊田商事とかいう事件の社長みたいな人が報道陣のそばで殺された事、オウムのサリン事件、もっと怖いのは政治家、加藤紘一議員の実家が放火されたこと。それよりもっと怖いのは、マスコミが実に鈍感なこと。
2006/9/17, HyKb
はじめまして。
私は正直、大江文学に明るくないので、投稿することに気が引けるのですが、大江氏の「人(人間)は、苦しみの中でも立ち直る勇気と希望を持つものだ」という文章の出典を探しています。てにおはが少し違うかもしれませんが、ご存知の方、彼のどの著作にある言葉か、教えていただけないでしょうか。ある人が、神戸の大震災が起こったときに読んでいて、とても感銘をうけたそうなのです。
突然でお手数ですが、よろしくお願いいたします。
2006/8/22, J/B
直接、九条の会にメールを送信したところ、事務局の方から、丁寧な返信を頂きました。お騒がせしてすみません。
世の中はいろいろ複雑でやっかいだなあと思います。

それはそれとして、大江さんの発言は三島さんへの批判にしても、鋭いものですが、『よく考えられたうえでのもの』でしょう。
そのよく考えられたという部分は、タカ派、右よりの人にも、通じうるものだと思いたいです。文学、小説、言葉。それぞれの力を信じるところに、大江さんの仕事は築かれているのですから。

それではJ/Bでした。
2006/8/19, J/B
すみません。
『九条の会』に連なる、『宗教者九条の和』の賛同者の中に、「女人禁制」を残す、大峰山周辺の関係者が名を連ねていることで、男女共同参画を志向する方からの批判があるのですが、そのことに関する『九条の会』の側からの発言、あるいは大江さんの発言などありませんでしょうか。
2006/8/17, いとうくにお
「むしろ老人の愚行を聞きたい」という言葉がありましたね。65歳は、いまの時代、老人というには早すぎる感じではありますけど。
僕が思ったのは、加藤議員のいうような、世の主流からみて穏当な主張ですらあんな攻撃の対象になってしまうのなら、大江さんや井上ひさしさんなどは命がいくつあっても足りないんじゃないか、それに続く人たちも口をつぐんでしまうのではないか、ということですね。
逆にいうと、過去にもああいったテロはあったわけですから、それを考えると、大江さんらが政治的発言を続けているのはいかに勇気のある行為であることかということですね。いわば大江さんは闘い続けているわけで、その凄さを改めて感じます。
2006/8/17, J/B
ミドルエイジマンとして。あるいは老婆心。

いとうさん。
民俗学の周辺には「童翁論」というのがありますね。
子供と老人は社会の中心的な世代に対して周辺としてあり、その思考、あるいは行動様式には共通する点が多く見られるという考え方です。
大江さんの作品にも方向性は違いますが、元気で行動的な老人がたくさん登場するでしょう。
おおむね人生の経験は人に分別を与えていきますが、それが一気にパンクする可能性を老齢は持っています。

今回の一連の事件は『ゴツン』ではありますが、我々にとって、『不意撃ちのゴツン』ではないでしょう。
『なにくそ、なにくそ!お先真暗でも、元気を出して突き進もうじゃないか』の精神で乗り越えていきましょう。

それにしても暑いですね。湿度が高すぎます。

それでは。面接を明日に控えたJ/Bでした。
2006/8/17, いとうくにお
しんしろうさん、情報ありがとうございます。
2006/8/17, しんしろう
 いとうさま、みまさま、こんにちは。本当に暑い夏です。
ところで、「世界」9月号に、「対談 大江健三郎×リービ英雄 異言語に身を晒す 新しい文学のモデルをめぐって」が12ページにわたり掲載されています。実は、私もこれから読むのですが、小見出しを見るだけでも、興味深いものがあります。それでは皆様、ご自愛のほどを。
2006/8/17, いとうくにお
虫栗太郎さん、大江さんの発言についてはわかりませんが、苦々しく思っておられるのではないでしょうか。それにしても右翼による加藤議員宅への放火と切腹?というのは恐ろしいことですね。あれが加藤議員の発言や政治活動に対するものだとしたら、保守政治家の保守の範囲での言動すら許さないという人たちがいるということなのでしょうか? 保守の立場からの発言だったからこそ許しがたかったのでしょうか? 大江さんの描いた「セヴンティーン」は17歳の少年の右翼テロでしたが、今回は65歳の男性です。分別もあるだろうそういう年代の人間がなぜそんなことをという謎の深さが、一層の不気味さを感じさせる事件だと思いました。
2006/8/16, 虫栗太郎
 いとうさん、大江さんは昨日の靖国のことについて何かコメントを発表していますか。

もし、それがあって、読めるのでしたら、紹介して下さい。
 日本の政治家の知性の低さにあきれるばかりです。そして、それを支持する日本人にもそれを感じざるを得ないのは、悲しい現実です。
 「鎖国してはならない」「言い難き嘆きもて」を読み返そうと思っています。
 加藤紘一氏宅への放火も気になります。これから、発言する人は、ねらわれて行くのかもしれませんね。
 私達は、既に戦前にいるのかもしれませんね。
2006/8/15, J/B
『静かな生活』に関して言えば、私もそう思いました。
卒業論文にセリーヌを選んでいる女子大学生?としては、どこか徹底的に少女っぽい。
いまや薄れかけた記憶ですが、伊丹さんの映画ではいかにもピュアでかわいらしい女優さんが演じていて、「おっさん顔」の新井君?役の俳優さんとの年齢関係がいくらかわかりづらいものになっていたように感じたことをおぼえています。
全体としては、不思議な色彩設計がなされた美しい映画だと思いましたが。

父親の視点から見た子供というのはどうしてもより子供っぽいものに見えてしまうのかなと俗っぽいことを考えてみたりもします。
それはそれとして、世代を超え、ジェンダーを超え、ある手ごたえのある、生き生きとした、みずみずしい語りを生み出したのですから、小説家としての大江さんの力量たるや恐るべし、だと思います。

それでは。
2006/8/14, t.horikawa
はじめまして。大江健三郎さんの大ファンです。ここ数年再読を含めて大江作品を読みまくっています。私は、文庫本作品の8割ぐらい読み終わっていて、新しめの作品と評論集を読んでない状態です。読んで思ったことと質問をツラツラと書かせてください。

今のところ、一番好きなのが「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」です。これはもう最高。タイトルもいいし。大江作品の様々な要素が渾然一体となってるようなきがします。他の好きな作品は、「芽むしり仔撃ち」「人生の親戚」「万延元年のフットボール」「個人的な体験」、「取り替え子(チェンジリング)」などなど他多数。


大江さんのすごい所は、ずっと文体が変化していっているところで、そして文体スタイルそれぞれが、独特で異なっていることだと思います。これほど文体が変わるのも珍しいのでは、何かピカソみたいだと思う今日この頃です。異なるテーマを扱う人はたくさんいるでしょうが、こんなに文体スタイルを変えた作家って他にいるんですかね?


さっき上の文で「我らの狂気、、、」について、中期までの集大成の一つと書こうかと思ったのですが、最近はもうすでに前、中、後期で分類できない気がします。時期ごとに集大成的な作品もいくつかあるし、スタイルやテーマは変わっていくし、それも同時に何種類かあるから、誰かそろそろ新しい分類の定義をしてみてください(笑)


中期以降(笑)や新しめの本を読むといつも思うのは、大江さんの家族や親戚・友人は大変だろうなということです。事実と虚実を混ぜて書いているということは分かっているのですが、それでもやはりどうなんだろうと思ってしまいます。大江さんも、そのあたりの葛藤や相手への配慮を作品の中で、しかもエッセイとかじゃなくて、小説の中でけっこう書いていますが、そりゃーそうだろうと思います。


大江作品の魅力の一つは、作品が一人称で書いてあったり、大江さんのような人物が主人公のせいか、小説中の苦悩や弱さ、様々な感情の動きが、大江さん自身の苦悩であると感じられ、小説の中の人物を身近に感じるというより、大江さんを身近に感じるからだと思います。また身近に感じるといっても、憧れる人、ヒーローとしてでなく、苦悩する友人、師匠として感じるんだと思います。
 大江作品を読む限り、大江さんはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりと苦悩し、間違ったり、失敗してますます苦境に追い詰められたりと大変であるのを感じます。そして、その人間くささや泥臭さがきっと魅力なのだと思います。

 
さっき一人称と書きましたが、大江さんも語りの主体、ナラティブでしたっけ、についてよく書いていますが、最近の作品は、昔のと違って主人公が「僕」とか大江さんっぽい人じゃないので、どーも作品によっては違和感を感じます。「静かな生活」や「燃えあがる緑の木」、「宙返り」もそうだし、まだ読んでない新しめの作品もそうなんでしょうか?「燃え上がる緑の木」は作品としては好きですし、よい作品ですが、確か最後の小説の予定だったんですよね、なんでいつもと違う書き方をしたんでしょう。それから特に「静かな生活」の主人公は、どーなんでしょう。ちょっとぶりっ子というか、女性というより、かわいいかわいい昔の女の子という感じで、ちょっと読んでて抵抗感がありました。
 変化、いや進化をし続ける大江文体ですから、そうなるのも当然のことなのですが、それにまだ読んでない最近の作品はおそらくまた異なる文体で書いてある気がするので、楽しみにします。


池袋の大江健三郎書店に行きましたが、遠藤周作さんの「沈黙」「白い人、黄色い人」はおいてあったけど、大江さんは遠藤さんの「イエスの生涯」を読んだことがあるのかな?と思います。最近個人的に新旧約聖書やキリスト教に興味があるせいか、「燃え上がる緑の木」も新約聖書みたいだし、遠藤さんのキリスト観が独特で共感できるので、キリスト教に対して色々な考えを持っていそうな大江さんが、その本を評価しているのだろうか?とちょっと興味があります。二人の対談とかってあるんですかね?

 それになんで最後の小説の予定だった「燃え上がる緑の木」は、新約聖書みたいなんでしょうか?そのことについて何か知っている方がいれば教えてください。

と、ダラダラと話を箇条書きのように書いてしまいました。
2006/8/13, おおさわ
エッセイ『厳粛な綱渡り』の中で、「島嶼列島」(これは、「とうしょれっとう」と読みます。ワードの画面を見て、こういう字なのかと思い、改めて漢和辞典で確かめてみたいとおもいました。)という言葉のつかわれている作品はなかったでしょうか。思い出せなくて困っています。どなたか教えてください。
2006/7/27, J/B
私が、今ネットで検索をかけたかぎりでは、光さんのCDに「壊す人」というタイトルの作品はありませんでした。
タイトルをかえて収録されている可能性もありますので、はっきりしたことは言えませんが。
正直私は音楽はだめで、昔、大江さんのからみ?で、武満さんのCDを買ったのですが、なにがなにやらよくわかりませんでした。悲嘆……。
それでは。
J/Bでした。
2006/7/26, らんちち
 はじめて書き込みいたします。初歩的な質問に、どなたか回答いただけませんか。

 このごろ読んだ、「M/Tと森のフシギの物語」のなかに、「壊す人」という曲を光さんが作曲したとあるのですが、その曲を聴きたいのです。CDで出ていますか?
2006/7/21, 虫栗太郎
いとうくにお 様

 いとうさんみたいな見方が妥当なのでしょうけど。なんか消化不良という感じです。

DVDが出ると良いのですが。

 あの映画のHPを見るとすごく難しい言葉であの映画を批判している人がいます。
でも、そうあっさり言ってしまって良いのか、僕は疑問です。
2006/7/21, いとうくにお
あの映画の評価のしかたはいろいろあると思うのです。ハリウッド映画のような「息をもつかせぬ」という作品でないことは確かですし、大江さんも、ある場面を評して、カメラが執拗に対象を追い、しまいには何を撮っているのか撮影している側もわからなくなっている、と講演で述べたりもしていました。ただ、僕が思うのは、あの映画の価値は、サイードのことを映画にして世に出したこと自体にその第一義があるということです。構成や撮影に多少の問題があっても、退屈な場面が多かったとしても、サイードについての記録をこうして映像として残したことがまず重要なのではないでしょうか。しかも、いまのような時代に。
ですから、ピンクさんが鑑賞するのに辛抱を要したということと、大江さんが賞賛したということとは、相反するものではないんじゃないかと思うのです。
2006/7/21, 虫栗太郎
ピンク 様

 そうすると、大江さんの講演でのこの作品への賞賛は社交辞令なのでしょうか?大江さんはそういう人でしょうか?
2006/7/20, ピンク
あの映画は、監督である佐藤真氏の執念の作だと思います。多分、それ以上でもそれ以下でもないのだと思います。
あとに、大江さんの講演があるからこそ、辛抱して鑑賞しました。
大江さんのお話は素晴らしく、辛抱した甲斐があったとつくづく思いました。
2006/7/20, J/B
p31のサイードの言葉
『……僕が音楽に魅せられる理由の一つは、それが音でできているにもかかわらず、沈黙までも含みこんでいるからだ。……』
ここでサイードは聴覚的問題として『沈黙』について語っていますが、それをずらして考えるならば、ジャコメッティの作品、とくに油彩による素描は前後に(時間的な?)『沈黙』を存在させており、それが作品の魅力、迫力につながっているように思えます。

切れ切れのメール失礼いたします。
これからは読書感想文を書く小学生のように、「考えを良くまとめてから」メールをするようにいたします。

すべての海溝より深く反省しているJ/B
2006/7/20, J/B
ジャコメッティは永遠に繰り返されるリハーサルのそのどこか一点で、バタッと死を迎える、といった趣がありますが、最近の大江さんは、それとはまた違ったスタンスであるように思われてきました。それが「晩年の仕事」の考え方によるものなのか、まだ私はそれらの文章
を読んでいないので分かりません。

失礼いたしました。 J/B

バレンホイムじゃなくて、バレンボイムでした。ごめんなさい。
2006/7/20, J/B
映画は見れなかったので、バレンホイムとサイードの『音楽と社会』を読んでいます。それぞれに確かな蔓を伸ばすような言葉のやり取りに、なかなかページを進ませていくことができません。現在34ページ!!!
30ページのサイードの言葉が私の関心を引いたので、そのことについてちょっと書きます。
アポロン的なものとディオニソス的なものをめぐって、『……ニーチェが論じているのは、一方の側が他方を要求するということであって、そこが難しい。この二つのものが統合されるのは、悲劇のように特別で特権的な瞬間だ。それは、逆説的に言えば、念入りにリハーサルされるものであって、自然発生的に生じたり、奇跡的に生じたりするようなものではけっしてない……』
我々に対して、つまり大江さんのファンサイトの掲示板をのぞくような人に対して、このサイードの言葉はそのまま大江さんの仕事振りを連想させるものとして響いてくるのではないでしょうか。
繰り返し行われるという推敲、大きなモチーフを角度を変えて書く、『……この「M/Tと森のフシギの物語」も、「同時代ゲーム」の双子の妹のような作品だと思います。……』(拳児さん)、作品内での過去の作品への言及など、そのすべてが『念入りなリハーサル』を思わせるものでしょう。
ジャコメッティはある意味、『念入りなリハーサル』自体が作品化される彫刻家、画家でしたけど、大江さんにも、そのような側面があるようにも思いました。

それでは続きを読み始めます。 J/B
2006/7/6, 虫栗太郎
 皆さんにお聞きします。
 皆さんのなかに映画「アウト・オブ・プレイス」というエドワード・サイードのドキュメント映画をご覧になった方はいますか。僕は九段会館で観たのですが。僕の後の席に(堅いて狭い椅子でした)澤地久枝さんがいました。おそらく、彼女がいい席で観たいと言えば、前の記者席はがらがらでしたからゆったりと座れたはずなのに、一般席で観ていらっしゃいました。いいなあと思いました。
 ちょっと横道にそれましたが、その映画のこと、かなり難しいものでした。その時の講演会で大江さんは、本は何回も読み直したけれど、映画について何回も観るという習慣がなかった。それで、この映画で初めて、ビデオで何回も見直したと言っておられました。我々には何回もということは出来ませんが。DVDは出ていませんから。
 で、大江氏はこの映画をいい映画として話していました。でも、僕はわけが解りませんでした。良いか、悪いかの判断さえ出来ません。
 もし、観た方があったら、どこがポイントだったのか教えて下さい。なんか、未消化のままで、すっきりしないのです。すっきりしないのが現実かもしれませんが。
2006/7/5, 拳児
いとうくにお様。J/B様。こんにちは。
いとうくにお様。本を読み返すって良いですよね。また何か発見があったら教えて下さい。
J/B様。「同時代ゲーム」がお好きなのですね。私は今は絶版になってしまった「M/Tと森のフシギの物語」の方が好きなんです。「同時代ゲーム」に双子の妹が出て来ますが、この「M/Tと森のフシギの物語」も、「同時代ゲーム」の双子の妹のような作品だと思います。古本屋に時たまあります。「キルプの軍団」もそうですが、岩波書店にぜひ再販をして欲しいです。大江氏のような作家でさえ絶版になる本があるというのは恐ろしいような、もったいないような気分です。
2006/7/4, J/B
拳児さん。
本当におっしゃるとおりです。
『泣いた赤鬼』は切ない話でもあるのですが、人がこのように振る舞えたら、と思うなら、そこに希望が感じ取れてきます。確かにそうです。

ところで私も本を読み返すことは好きですが、赤毛のアンやローラ・インガルスの物語などは、永遠にそこに留まりたくなるような魅力を持っているので逆に警戒?が必要です。赤毛のアンは最近の翻訳だけでも三つあるので、さしあたり三回読み直すことにはなるのですが。大江さんの作品では『同時代ゲーム』を一番繰り返して読んだように思います。(アハハと笑う妹に関しては、私は若いころの石原真理子あたりを思い浮かべますが)

最近読んだ本では、シルヴァーナ・ガンドルフィの『むだに過ごしたときの島』これは読み終えて25秒後くらいには初めから読み直していました。面白い本です。

それでは。J/Bより。
2006/7/4, いとうくにお
拳児さん、こんにちは。本を読み返すと、新しい発見があったりして面白いものですよね。「洪水」もいずれ再読してみたいです。
2006/7/4, 拳児
いとうくにお様 J/B様 ナミ様 皆様 こんにちは。
最近忙しく、なかなかコンピューターを起動できず、従って返事も出来ず、すみません。

ナミ様。「個人的な体験」は2度読みました。確かにある励ましを感じますね。ただ、私はそういう作品を読んでも、思い出さないのです。これは完全に私の問題でしょうが、「個人的な体験」のことをすっかり忘れていました。確かに、希望のある純文学も他にあるでしょうね。
J/B様 「泣いた赤鬼」は私の大好きな児童小説です。あれを私は「希望」と受け取りました。「希望」というか、少なくとも、プラスの意味に取りました。
それにしても皆様は勉強家でよく読んでいますね。私の知らない話がドンドン出て来ます。私は単なる大江氏の1ファンに過ぎないので、皆様の勉強ぶりには、本当に驚きます。
ただ、気になったのは、皆様は同じ本を何回も読み返しますか?私は気に入ると何回も何回も読み返します。そうすると自然と新しい本は読めません。気に入っている大江氏の小説も、未読のが沢山あります。大江氏は「新しい人の方へ」(「自分の木の下で」かな?)で、同じ本を何度も読み返すことの大事さを言っています。私もその喜びを大江氏に教えて頂いたので、何回も何回も読み返します。
おかげで新しい本は読めなくなりがちですが、読書に限っていえば、幸せです。皆様もぜひその喜びを忘れず、気に入った本を何回も読み返して欲しいと思います。
私の好きな作品は、「洪水はわが魂に及び」です。「私が生まれるかそこらの時にこんなに新しい小説が書かれていたのか!」としばらく茫然としました。いとうくにお様の評価は低いようですが、私の中では、かなり上位です。面白いし、登場人物も良いし、セリフも良い。野間文芸賞を取りましたが、野間文芸賞にはずれ無し!(同じ賞を遠藤周作氏が「侍」で取りました)と一人納得しています。最近講談社文庫で、「河馬に噛まれる」が出ましたね。その前は「憂い顔の童子」も出ました。でも、この読み返す幸福を味わっているため、いつ読めるのか分かりません。そのくせ「ハリー・ポッター」は買いました。「ハリー・ポッター」も最初は「やられたらやり返すというあまり上品では無い作品だ」、と思っていたのですが、「炎のゴブレット」辺りから、きちんと人の死を扱うようになって、改めて好きになりました。
2006/7/3, ヒガシヤマ
皆さんこんにちは。「世界7月号」、私も読みました。先日LD児を持つ父母の会が主催するある講演会へ行ってきました。その後の懇親会にも参加したのですが、義務教育の現場がとても悲惨なのに驚きました。簡単に言うと、学校という器自体がとても狭くなっている気がします。いはゆる、「いい子」、大人にとって「扱いやすい子」だけが来るところ・・・。基本的にどのような子供でも受け入れる場所であるはずの、義務教育の場は確実に失われつつある、そんな危機感。中には教員もいたのですが、「まともで熱心な先生は学校に居られなくなる」という発言も出たほどです。父兄の方や、一部の教育関係者は、そういった現実に慣れている様子でウンウンと頷いている。こういったことが、大人、子供を問わずにだんだん当たり前になっていくとしたら・・・。背筋がゾッとする感じをうけました。ただ「これではいけない」と、声を挙げる人たちもいて、そのために働きかけを忍耐強く続けている、そのことはとても救いになりました。真に「教育」と呼べる力の再生を、私自身も願ってやみません。
2006/7/1, 虫栗太郎
 「世界7月号」の大江さんの「教育の力にまつべきものである」を読み返しています。
 この言葉は日本の戦前から戦後へと続く支配層が最も恐れたものだと思います。民主的な教育によって真の知を獲得した者は矛盾(差別や暴力)を克服しようとするからです。
 だから、基本法の実現させることを露骨に妨害してきました。そしてその成果は今のような状況です。
 もう一度我々は「教育の力」を再生しなければならないと思います。民主主義と平和のために。
2006/6/27, J/B あるいは月の満ち欠け
失礼いたします。
すでにタイトルも場所も失念しておりますが、大江さんの作品に、高校時代のエピソードとして、伊丹さんをモデルにしたと思われる独自のスタイルを崩そうとしない青年が、体育教師に殴られるが、意に介しないそぶりをするといったシーンがあったと思います。これは痛々しい場面でもありますが、同時に、ある滑稽(それは青年の量としての若さに支えられてということでしょうが)な印象も与えるように思います。

生命の持つある種のちぐはぐさ、連続と不連続はそれ自体どこか滑稽なものなのかもしれません。変わるまいという部分と変わりたいという部分が一体化してあるということの。
思えばもっぱら鉱物?だけの無機質な世界に、ある日生命が現われ、なにやらもそもそ動き始めるということはどこか滑稽なことかもしれません。変わらないということは生命のベースですが(蛙の子は蛙)、変わるということがなければ(トンビが鷹を生む)現在のこれだけの多様性はありえませんし。世界を全体として滑稽さの現われとして捉え、肯定することも可能かもしれません。それを支える若さを意思と呼ぶことも可能かもしれません。

それはそれとして谷本誠剛氏の『児童文学とは何か』のなかで、『指輪物語』のトールキンが妖精物語の三つの効用として逃避、慰め、回復を挙げているというところがありました。私に関心があるのは回復に関してで、それは『子供時代の新鮮なヴィジョン(ものの見方)をとりもどすことを意味している』そうです。そしてチェスタトンという人の『おとぎ話の中で金のリンゴがなるのは、リンゴが赤いことをはじめて発見した瞬間の驚きを思い出させるためである』という言葉を、トールキンと同じ立場にあるものとつなぎます。金色のリンゴは確かに奇跡ですが、リンゴが赤いということもそれはそれで、奇跡(有難い事)である。おおむね我々はただの赤いリンゴですが、それなりに奇跡としてあると私はつなぎたいわけです。大江さんは『二百年の子供』のなかで、イーヨーの抱えた障害を、人間の困難に一般化してみせる男に、マーちゃんが反論するシーン(この作品では名前が違いました。それが思い出せません。すみません)を書いていますので、それをそのまま受け止めるなら、大江さんの考え方は、拳児さんの考え方に近いのかもしれません。

それでは、失礼いたしました。
2006/6/27, 虫栗太郎
しんしろう 様

 返事が遅れました。ごめんなさい。
大江さんの今月の「定義集」は、6月20日の朝刊に載っていました。題は「滑稽を受容することとその反対 心に内在する『残酷さ』」です。僕もコピーをどこかにやってしまいました。
2006/6/24, J/B
@おもしろおかしく巧みに言いなすこと。おどけ。道化。諧謔
Aいかにもばかばかしく、おかしいこと。

「滑稽」は二つの側面を合わせ持ちます。
児童文学の作家でもあり批評家でもある古田足日さんの全集版『うずしお丸の少年たち』という本に載せられているエッセイ『ベトナムの子どもを殺すな』。このエッセイはアメリカがベトナム民主共和国に爆撃をしていたころの話です。
アメリカの無差別爆撃で、ベトナムの子供たちが殺されていた。ところが当時のアメリカのニクソン大統領はソビエトを訪問して第二次大戦中飢え死にした少女ターニャのことを持ちだして「一人の子どもたりともターニャのような生活を送らせないように」と語る。古田さんは「……このしらじらしさに腹が立つのは人間としてごく普通の感情です」と書きます。当時の古田さんやその仲間たちに、ニクソン大統領はAの側面で滑稽だ、このあり方は滑稽だと、という想いを共有していたのではなかったでしょうか。
しかし大統領も古田さんらをAの側面で滑稽と捉えうるのではないでしょうか。
それが間違っていることをいつどこでだれが示しうるでしょう。(一般的な論理学では矛盾の指摘はその論理を破綻させますが、現代文学は矛盾律を飲み込んだものとしてあるようです。)
現在のブッシュ大統領もその基本路線は変わらないもののように思えます。自分のそっくりさんとトークを繰り広げるブッシュ大統領は、自分の滑稽さに対して自覚的ですが、それはもっぱら@の側面に限定されているように思えます。
おおむね人は自己の滑稽を@の側面で転調の意思として捉え、他者の滑稽をAの側面で不条理(ばかばかしさ)と捉えるのではないでしょうか。
おおむね滑稽は、同じ回路を持つ人間(自分を@とみなし他者をAとみなす)の集団として世界をひとつにする可能性がありますが、それが希望に満ちた世界とはいいがたいように思われます。

ここで私は宮澤賢治を思います。
ほんたうの考えとうその考えを、実験によって知ることができれば、信仰も科学と同じものになるという登場人物のせりふを。
今それについて考えていますが見通しはあまり明るいものではありません。

それはそれとして。
いきつけ?の図書館で核廃絶の署名が始まりました。
私はそこである違和を感じます。
核兵器をX、次に開発される新兵器をX+1とします。X+1は巨大で完璧な殺傷能力をもつ環境に優しい兵器です。死は瞬間的に訪れるため人道的でもあります。また常に完全なそして瞬間的な死をもたらすため、後遺症の心配もありません。また死体は速やかに堆肥化されるため、持続可能な農業へと貢献します。(アウシュビッツで行われた事を思うなら、これはそれほどでたらめな想像ではないはずです)
このような兵器が開発されるならば、私たちは核兵器(X)とともに、この新兵器(X+1)にも反対していかねばならないでしょう。(それとも核兵器がずばぬけて悲惨な死をもたらすからこそ廃絶すべきで、クールなそれほど悲惨ならざる死?であればあんがいOKなのでしょうか。私は良く分からなくなりました)
であるならば、核兵器以前の兵器をY、核兵器をY+1とするとき、私たちが核兵器のみを特権的に取り上げて反対することは理に適ったことでしょうか。
カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』で描かれる、ドレスデンへの空爆の悲惨さを思うなら、あるいは地雷によって、足を失いつつある子供たちを思うなら、あらためて兵器一般の批判へと発展すべきものではないでしょうか。

児童文学の世界では「広島」を主題化した作品として松谷みよ子の『二人のイーダ』(挿絵は司修さんです)ドイツでのユダヤ人問題を主題化した作品として、ハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリッヒがいた』があります。
二つの作品に共通して感じられることは、日常生活の確かなデティールが、−『二人のイーダ』でいえば、イーダの一人である、まだまだ赤ん坊のゆう子が冷たい麦茶に、牛乳を入れて、コーヒー気どりで飲むのがすきだったというところ、『あのころはフリードリッヒがいた』でいえば、写真を撮りにいって大笑いするところ、−がてんびんばかりの片方の分銅として、もう片方の悲惨さや困難とつりあって、作品を支えているということです。
片方の歴史的な特異な悲惨さや困難と日常のデティールが支点を介して支えあうのならば、歴史的な特異な悲惨さや困難が究極の体験であるのと同様、私たちのそれぞれの日常のそれぞれのデティールもまたそれぞれの究極の体験と呼びうるものではないでしょうか。
それを明かすこともまた小説が書かれ続けられなければならない理由のひとつとも言えるのではないでしょうか。

私の文章は、一般に掲示板への書き込みとして想定されるサイズを超えてしまっているようにも思われます。
なんとも憂鬱な気分ですが、このメールを送信します
    J/B

ps
わざわざ私のサイトを訪問し、ゲストブックにせっかく書いてくれたナミさんの書き込み(書き込み第一号)をファイルごと消したのは私です。私は迂闊でした
ここでお詫び申し上げます。

CGI
使いし我の
勘違い
消したファイルの
名こそ儚し
(ほんとにおそまつ)
2006/6/22, しんしろう
虫栗太郎様

 しんしろうです。二晩ほど過去の新聞の切抜きを探してみたのですが、ご紹介した記事は発見できませんでした。申し訳ありません。今年の2月か3月(いや4月か?)の毎日か讀賣です。ごめんなさい。
2006/6/20, 虫栗太郎
 皆さん、今日の朝日新聞の「定義集」を読みましたか?
今回は、「滑稽」についてです。大江さんはユーモアたっぷりな人ですが、すでに高校時代義兄の伊丹氏に「滑稽」な奴だといわれたそうです。大江さんも彼を滑稽な人物だと思っていたようですが。
 ところで、今の社会は、滑稽であることは駄目な人間と見られることの方が多いのでは。でも、現在の混乱した状況で「滑稽」である人は、最も正常な人ではないでしょうか?
 皆さんはどう思いますか。
 ミスが多く周囲からひんしゅくをかう私が言うと自己弁護になってしまうかもしれませんが。
2006/6/19, 虫栗太郎
しんしろう 様

 昨年、大江さんの孫が生まれたということ、恥ずかしながら初めて知りました。そのことについて、もう少し詳しく知りたいのですが、記事が掲載された新聞や雑誌などあったら教えてください。

 このサイトに書く人たちは、すごく控えめで、優しさがいっぱい溢れている言葉で書いてくれますね。嬉しいかぎりです。

 ちょっと、マイナスめいたことを書きますが、ご勘弁を。先日「すばる」を買って講演記録を読んだのですが、あの講演会の感動的な雰囲気がかなり抜け落ちていると思いました。講演を活字で聴くのは、かなり難しいことなのだなあと思いました。DVDかCDがでないのでしょうか?
2006/6/19, ナミ
J/Bさん。深い内容のご意見、感謝いたします。
とても勉強になりました。
J/Bさんの示された考え方の、どれも、わたしの中にはありませんでした。
そして、そういう部分があるんだろうなあと、受け入れられる考えかたでした。
J/Bさんの文章の引用ですが。。。
『真珠湾も広島も忘れてはならないものとして、私たちにあるのではないでしょうか。
Rememberという単語には、思い出す、記憶するといった意味のほかに幸せを祈る、死者の慰霊祭をするといった意味もあるようです。いくらか前の話になりますが小説が書き続けられなければならない意味の一つに、Rememberし続けるということもあるように思います。』

ここを読んで、あ、そうだ、と深く共感しました。
大江さんのメッセージに、記憶しつづけること、を訴えるものがありました。その大江さんの文章の、「記憶しつづけること」に多義性を持たせるなあと。活字として文章にしていなくても、大江さんの内側に、J/Bさんの示されたリメンバーの側面はあるような気もしました。
わたしも、前回の書き込みをするにあたて、大江さんの文章をリ・リーディングしていて、ああ、ここの部分が、「リメンバー・パールハーバー」と言われたあとも、相手に届く返事となりうるなあと感じていました。記憶し続けること。重要ですね。
被爆者に語気を荒げて、謝罪・同情などの感情を抱かないと言い、リメンバーパールハーバーと聞いた瞬間は、大江さんのいう、「ディセンシーに欠けるなあ」と感じましたが、逆に、同じ言葉を返されそうにも思いました。
それは、J/Bさんの書かれた土地・母国への感じ方を踏まえてアメリカ側で考えればなおさらに。だからといって、とまた、行き詰まっていましたが。
おかげで、突破口が見えました。

聖地という感覚。『肘の角の叩くとびりっと来る場所のような』という文章にギクリとなりました。そういう感覚はあるんでしょうね。だから、報復に、正当性を持ちやすい心のシステムができるのかもしれないです。
2006/6/19, J/B
直接的な意見はいえないのですが。

アメリカ人というのは2つのトラウマ?を抱えているように思います。
自分たちが追い出されたということと、自分たちが追い出したということ。
追い出されたのはふるさとの国からアメリカにやってこなければならなかった自分たち、追い出したのはもともとあの大陸に暮らしていた人たちです。

追い出されたという側面がアメリカ人にとってアメリカを特別な場所とするのでしょう。約束の地というか、神聖な場所というか、最後の場所というか。追い出したという側面は直視し得ないものとしてあります。「自由と民主主義」というモットーと相容れないものですから。
パールハーバーへの攻撃をアメリカ人がポイント、壁として置くのは、約束の地を侵されたという怒りと、ハワイという場所が、もともと、そこに暮らしていた人から奪った土地であることが、明示的に示される場所であることにもあるように思います。肘の角の叩くとびりっと来る場所のような。
「リメンバー・パールハーバー」とアメリカ人が口にするとき、それはおおむね前者の視点から口にされますが、逆に後者の視点から同じ言葉を繰り返すことは、ほとんど絶望的なことではありますが、新たな対話の一歩となるような気がします。それはそのまま、沖縄やアイヌの問題を私たちに突きつけるものともなるのですが。

真珠湾も広島も忘れてはならないものとして、私たちにあるのではないでしょうか。
Rememberという単語には、思い出す、記憶するといった意味のほかに幸せを祈る、死者の慰霊祭をするといった意味もあるようです。いくらか前の話になりますが小説が書き続けられなければならない意味の一つに、Rememberし続けるということもあるように思います。

それはそれとして。
時々思うのですが、アメリカと隣接し、良く似た経過をたどって成立したカナダが、それほどアメリカ的?にならずにやってこれたという事実にある種の可能性を感じることがあります。
カナダといえば私のとっては何より赤毛のアンの故郷としてあるのですが。私のやっているサイト(http://members3.jcom.home.ne.jp/juvenilebook/tansin1.htm)にアンをめぐるいくらか長い文章があります。モンゴメリーの憂鬱を自分勝手に想像したものですが、関心があればのぞいてみてください。

PS この掲示板には、励まされますね。THANK YOU!!!
(Juvenile Bookは長いので、J/Bという省略形?にしてください。今までお手数かけました。)
2006/6/17, ナミ
大江さんは核の脅威をさまざまな文章で繰り返し、注意深く、発信されていて、その内容は重要なことで未来にもつないでゆくべきメッセージですが。
いつだったかTVで、原爆投下にかかわったアメリカの元軍人が(漠然としていてすみません。科学者だったかもしれません)長い時を経て、日本で被爆者たちと対談していました。
最終的に、アメリカ人のお爺さんは、「リメンバー・パールハーバー」と言い切って、被爆者たちに申し訳ないとかそういう気持ちを抱かない、と語気を荒げていました。
「リメンバー・パールハーバー」という言葉で壁をつくられた場合に、大江さんだったら、どのような言葉を返されるでしょうか?
「リメンバー・パールハーバー」には、核が与えた被害というより、日本が奇襲をかけたことに重きを置いていると感じますので、核脅威について訴えても効果がない感じがしました。
いろいろ自分で、それに抵抗できる言葉を考えますが、行き詰まります。
幼稚な言葉でしか抵抗できません。
どなたか、意見を頂きたいのですが、宜しくお願いします。

追伸
juvenilebookさん、古い書き込みのお返事(?)うれしかったです。
ジュンク堂の対応は悲しいものがありますね。

拳児さん。
わたしの好きな大江作品ランキングを考えてみると、
全てわりと明るい作品なんですね。拳児さんの意見に共感する部分もあります。絶版になりましたが、「いかに木を殺すか」は面白いうえに、励まされます。図書館か、古書店で入手するしかないかも・・・ですが。
「メヒコの大抜け穴」は、カルロスという登場人物について、ガンをめぐっての行き違いが作家のほうにあったのちの短編ですので。
それを踏まえて読めば涙がでます。
大江作品に共通して流れるのは、深い祈りなんですね。九条の会みたいに「希求」というものから、個人の魂についての切実な祈りから・・・
2006/6/17, いとうくにお
しんしろうさん、「世界」のこと、教えてくださってありがとうございます。励まされる内容ですね。
2006/6/17, しんしろう
いとうさま、お久しぶりです。「世界」7月号は教育基本法の特集です。そこに大江さんの、「改定案から欠落している一句」が掲載されています。大江さんは、教育基本法の改定と、それにつらなる憲法改定について、「黒々とした見通し」を述べつつ、サイードの「どこにも希望のないところで、意志の力によって、楽観主義を持ちこたえた」生き方への共感を示しておられます。それに続けて、こうも語っておられます。「教育基本法がついに改定されても、あの大戦の悲惨な敗北の後、日本人が再出発への規範としたその条文を忘れませんし、憲法改定もまたなしとげられてしまうにしても、それまで、さらにはそれ以後も「九条の会」の活動を続けるつもりです」。
 私には、大江さんの、今の教育基本法、憲法への惜別の情のようにも感じられ少し寂しいのですが、それでも希望は持ち続けなくてはいけないというメッセージとも読み取れます。
 現行の教育基本法にあって、改定案にはない言葉として「教育の力」が示されています。なぜ、改定案の推進者たちがこのことばを入れなかったのか。それは彼らにしても、「教育の力」に幾分なりとも畏れを抱いたからなのでは。
 昨年、大江さんにはお孫さんが二人生まれ、それにかかわる新聞記事に「この子たちが生きる時代を思うと身震いする」という趣旨のことを言っておられたことを思い出します。
 大江さんの次の仕事も、これからの日本に希望の光が射すものであればと願っています。
2006/6/17, いとうくにお
juvenilebookさん、こんにちは。ジュンク堂スタッフへの応募の件、残念でしたね。ジュンク堂には、お店の労働力についてもぜひ「後期のスタイル」の価値を認めていただきたいものです。大江さんのレクチャーが、そのきっかけになることを期待したいと思います。
2006/6/17, juvenilebook
ジュンク堂がいい企画をやってくれていることを認めるのは私としてもやぶさかではありません。
それはそれとして。
リンクをたどって、ジュンク堂のスタッフ募集を知った私はさっそく電話をかけてみたのですが、あっさり断られました。私がミドルエイジマンだからでした。ジュンク堂の募集ページでは定時社員については年齢の制限の記述がありますが、アルバイトにはありません。私が電話をかけて以降もページは修正されていません。これは誠実なやり方ではありません。
このような書店で大江さんが誠実に「後期のスタイル」(晩年の仕事!!!)について語ることになるのであれば、それは単に滑稽なことです。

イエスは「貧しきものは幸いなり」と言いましたが、私の幸いは当分続くでしょう。それはそれでいいのですが。
「……人間は労役しなければならず、悲しまねばならず……」

豊かなものがその豊かさをベースに正しさや上品さを語ることこそ、イエスが最も批判した人間の在り様の一つではないでしょうか。
DECENT GIRLといえば金で寝ない女、つまり非売春婦のことを意味することもあるそうですが、イエスはむしろそのようなDECENTならざる女性たちに近しかった。
新しい人を語る起点にイエスを置かないのであれば、キリスト教に触れることは、端的に無意味です。
「……兄さんは忘れていますね……」(細かい言い回し失念)

憤怒の大気のなかに立つのは冷たい嬰児ばかりではないと言うことで、ミドルエイジマンとして元気を出して、このメールを送ります。
2006/6/14, いとうくにお
ヒガシヤマさん、ごぶさたです。「すばる」の記事、読まれたんですね。ご感想ありがとうございます。僕は講演を聴きましたが、文章でも読み直してみたいと思っています。早く買ってこないと。
2006/6/14, ヒガシヤマ
いとうさん、とても久しぶりです。東山です。佐藤真監督は、以前に「まひるのほし」という映画を友人と見たのがきっかけで、とても尊敬していました。self and others も良かったです。が、今回のout of place は、まだ見られずにいますが・・・。このお二人が、仕事上で出会ったことに深い喜びを感じています。(他人事ではありますが・・・。)さて、「すばる」は私も読んでみました。とても読み応えがあり、力強く伝わるものがあります。今の私に「ジャストミート」してくれました。並々ならぬ励ましを与えられ、皆さんも一読をお勧めします。
2006/6/11, いとうくにお
きりんさん、情報ありがとうございます。教えてもらわなければ僕は気づかなかったことでしょう。いま「すばる」のサイトを見てみました。”大江健三郎「『後期のスタイル』という思想 サイードを全体的に読む」は、佐藤真監督のロードムービー『エドワード・サイード OUT OF PLACE』の完成記念上映会での講演録”とありました。
2006/6/11, きりん
すばる7月号(6月6日発売)に大江さんの講演記録が載っています。
先月行われた「OUT OF PLACE」の完成記念上映会+記念講演会の内容でした。(既出の情報でしたらすみません。)
2006/6/10, こもだまり
追伸です。
ジュンク堂のトーク(正式には「レクチャー」でした)は、今月から12月まで毎月1回、行われることが判明。詳しくはこちらをごらんください。抽選で毎回60名参加、だそうです。

http://www.junkudo.co.jp/ooe-talk.htm
 
2006/6/8, いとうくにお
こもだまりさん、情報ありがとうございます。ジュンク堂はいい企画をやってくれるなあ。こもだまりさんも、大江さんにお会いできるといいですね。
2006/6/8, こもだまり
おひさしぶりです。
ここにいらっしゃるかたはもう既にご存知のかたも多いと思いますが、 わたしは今日!知ったので、念のためお知らせ申し上げます。
池袋のジュンク堂にて、6/11〜12/10、「大江健三郎書店」の特設コーナーができます。
初日である次の日曜には、14時からご本人がいらしてオープニングイベントがあるとのことです。
残念ながら15時からのトークショーは締め切っており間に合わなかったのですが、まだお姿を拝見した事がないので、ぜひ行ってみようと思っています。
http://www.junkudo.co.jp/
2006/6/8, まこと
大江健三郎さんへ
この度「新しい人の方へ」を読ませていただきました。私は、この本の中で「うそをつかない力」のところが心に残りました。幼いころ、うそをつくとその思いにずっと縛られて苦しかったことを思い出します。本当のことがいつか誰かに分かってしまうのではないかという不安に心が苦しくなり、早く誰かが私のついたうそを見抜いてくれないかと願ったものでした。そのような幼いころの思いも、いつのまにか薄れ、うそをついても、いろいろ自分に言い訳を付けて、自分の気持ちを欺いて、自分と向き合うことから逃げていたことを思い出します。友人に対しても、友人の間違いを正すことを避け、その友人から離れてしまったことを思い出します。今考えるとその友人は誰かに自分の誤りを忠告してほしかったのかも知れません。間違ったことをすることで、本気になって自分のことを心配してくれる友人を探していたのかも知れません。私には、自分の思うことを相手に伝える勇気が無かったのです。自分の思いが相手に受け入れてもらえない時のことを考えて黙ってしまったのです。そして、人とぶつかることを避け、独りでいることを選んできたのです。しかし、それは間違った選択だったと最近思うようになりました。自分の本当の気持ちを相手に伝えなければ、本当の友を得ることが出来ないことを教えられました。本気で自分の気持ちをぶつけてくれる相手に対して、偽りの気持ちを伝えることは人間として人間らしく生きることを願うならばやってはいけないことなのだと気が付かされました。私は幼いころから教会に連れられて行っていました。教会では、目には見えないけれど、世界を造られて方がいることを教えられてきました。そして、その方は人間も造られ、その人間の心の中までもすべて知る方だということを教えられました。ですから、人が誰も見ていなくても、いつも誰かに見られているような感じを受けながら生活してきました。それでも、これはやってはいけないことだと知りつつもやってしまうことが沢山ありました。その時のことは、今でもしっかり私の心に残っています。楽しかったことや嬉しかったことならばすぐに忘れてしまうのに、なぜか自分が悪いと思ってやったことは忘れずに記憶の中に残り続けています。人間を造られた方は、ちゃんと人間の能力の中に大切な部分を残していてくれているのだと考えさせられます。この記憶を消すことは、人間の力では不可能でしょう。しかし、私達を造られた方は、そのような悪いと思ってしてしまったことに縛られている人間を自由にしようと考えてくださいました。どうしたら、その思いから解放されるのかというならば、それは今から2000年前に誕生されたイエス・キリストを神の子だと信じることです。ただイエス・キリストが私を縛っている罪から解放するために私の身代わりに十字架に架かって死んでくださったことを信じたときに私は今まで縛られていた罪から解放されました。
そして、大江さんが「新しい人の方へ」の中で引用している新しい人になりました。そんな簡単に「新しい人」になれるわけがないと思われるかも知れません。しかし、聖書の中にこんな言葉があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」コリント人への手紙第二5章17節。長くてまとまりのない文でしたが最後まで読んでいただけたでしょうか。これからも、若い人に向けて考えることの大切さを教えてあげてください。
2006/6/6, juvenilebook
拳児さんへ。
確かに大江さんには空を飛ぶことへの憧れはあまりないようですね。
『同時代ゲーム』から『メヒコの大抜け穴』の流れの中で、死後の魂の飛行について語るくだりはありますが。むしろ穴を掘って、中にうずくまったり、小さなスペースにこもってみたりといった方向性が強いようです。森の中で育ち、慣れない東京で暮らすことで、自分自身
を一つの穴のように感じることもあったのではと勝手に想像しています。
児童文学と純文学に関してですが、確かに精神的に疲れているときにハードな純文学を読むのはつらいときがありますね。ただ児童文学にも、『赤いろうそくと人魚』や『泣いた赤鬼』など、救いがないといえばないような物語もあります。
大江さんの『人生の親戚』も救いがないといえばないお話ですが、ある力強さというか、困難さに対する励ましのようなものを読後感じました。安直な救いを示されるよりも、それは強く働き続けるもののように思います。『―どう受け止めてゆくかは、読者しだいです。―』というナミさんの言葉が重要だと思います。
ある作品を、『純文学』と受け止めるか、『児童文学』と受け止めるかも、読者しだいであるように思われます。漱石の時代から比べると、最近の純文学?はおおむね児童文学?化しているようにも思います。漱石の独特のやりきれなさを思えば、中期以降の大江さんの作品は、ある基本的な明るさをたたえているように思います。
2006/6/6, ナミ
それから。
純文学にもいろいろな種類がありますし。
例えば大江さんの「個人的な体験」はもう読まれましたか?
あの話のラストは希望の光がさしていますよ。
詳しく書くと、読んでいない場合、面白みが半減しますから、
これ以上は書きませんが。
純文学にも、たくさんたくさんの小説があるので。
それに、ハッピーエンドでない場合も。
だからこそ、読み終えて、悲しい小説の世界についてじっと考えてしまいます。ハッピーエンドだと、読後感もいいし、よかった!という感覚で終わりがちですか、そうでない物語だと、引っかかるものが残るはずです。
それが精神衛生上によいか悪いかといわれると、なんともいえませんが、
やっぱり、読んだあとも、心についてくる小説、考えさせられる小説という面は大切な部分に思います。
2006/6/6, ナミ
拳児さんへ。
前回の拳児さんのメッセージについて。

例えば・・・乙武さんの本を読んだあとと、大江さんの小説を読んだあとと、心にとどまるメッセージにそれぞれ個性があります。共通するものから、違うことまで、さまざまです。月並なことを書きますが、どちらも大切で、どう受け止めてゆくかは、読者しだいです。どちらも必要に思います。そして、小説の場合、基本的に想像力の働きが強いものです。
たとえば、村上春樹さんの小説を読めば、どのようにも読み取れてゆき、歴史や世界規模の問題と重ね合わせて読み進めることもあれば、個人の心の問題と重なることもあります。幅広く、魂・精神によく結びついてもゆきます。
小説にはそういう独特の力があると私は感じています。
2006/6/5, 拳児
いとうくにお様。皆様。こんにちは。
juvenilebook様。書き込みありがとうございます。
大江氏は森を題材にしたものが多く、宮崎氏も「ナウシカ」とか「もののけ姫」とか「となりのトトロ」を見ると森を題材にしていますよね。
ただ、宮崎氏はそれ以上に、空を飛ぶことがお好きなようですね。
先天性四肢切断症(だったっけ?)の乙武さんや、ナチスの収容所にいたVEフランクル氏は究極の体験をなさった。、と思います。
確かにお二人は本を沢山読んでいらっしゃるでしょう。
あと、もう一つ訊きたいことは、
「児童文学の方が、純文学より精神上良いのではないか」ということです。これは、児童文学の主人公は苦しみますが、最後にはすくわれます。純文学は苦しんだ上、すくわれない話が多いので・・・・・・。
私も純文学は好きなのですが、「何故こんなに悲しい世界があるのだろう。これを好きにならない方が幸せだったんじゃないか」と思う時がよくあります。
あと、教育基本法が改正されるようですが、私は単なる大江氏の1ファンに過ぎないのでしりませんでした。意識が低くてすみません。
ただ、憲法を変えたくないなら、選挙のたびに、どこの政党へ投票するか、よく考えなくてはいけない、と思います。
大江氏はどの政党に投票しているのでしょうか。
与党ではないでしょうね。
2006/6/2, ラッキー
虫栗太郎さま、いとうさま、皆さんこんにちは。

教育基本法改正問題で私が不安になったのは、訴えた高校校長の立場です、、。
私には学校現場がどうなっているのかがわかりません、、。校長という立場は一教師が卒業式を妨害したからといって、「起訴」しないではいられないまでに今、追い詰められているのでしょうか、、。式次第が2分遅れたら、子供たちが国歌斉唱のときに起立しなかったら、「訴訟」になるのでしょうか、、。そこまで校長先生にも、今、プレッシャーがかかっているのでしょうか、私はもちろん国歌国旗に敬意をいだいておりますが、、。自然な形で敬意を抱いている人間ですので、教師仲間を「訴える」校長先生のこころの中が理解できません、、。皆様のご意見を是非お聞かせ下さい。また御教えくださる方がいらっしゃると嬉しいです。
2006/6/1, 虫栗太郎
大江氏の高校での講演キャンセルの事



教育現場は本当に荒廃していますよね。国旗国歌法案の時、強制はしない政治家は言っていたのに。天皇だって「強制はいけない」と言ってるのに。



ところで、数年前ある北陸の高校が大江氏の講演会を開こうとしました。大江氏も快諾したようです。羨ましいかぎりです。

でも、その高校の校長は、ある時大江氏に政治的な発言をしないで欲しいという連絡を送ったようです。それに対して大江氏は、その講演をキャンセルする旨の返事をしました。

校長は大江氏の作品を今まで読んだことがなかったのでしょう。そして、講演の前に最近出版された本を読んでみたのでしょう。それがたまたま「鎖国してはならない」と「言い難き嘆きもて」だった。そしてビックリした。

前に、大江氏がノーベル賞をとったとき、ある読者が大江氏の過去の作品を初めて読んで、その大胆な性描写に驚き、むかしの大江氏はこんな作品を書く作家で、ノーベル賞に値しない下品な奴だという投書を読んだ気がしますが、それと同等な稚拙で無知な論理だと思います。

また、大江氏が生徒の前で直接的に政治的発言をすると考えてしまうのも大江氏のことを知らない人物であることがわかります。



こうゆう貧困な精神しか持たない人物が校長になりやすい状況に、今の学校は置かれています。教員が教育基本法についてほとんど関心を持たないのも、それと同じ状況から来ているのだと思います。
2006/5/31, ラッキー
いとうさま、皆様こんにちは。
私の住んでいる地方都市でも教育基本法改正問題について反対を唱えるデモが先日
(日曜日)行われました。4100名もの参加人員でした。地方都市で行われるデモとしては大規模なものです。主張としては、広く国民の意見を聞き、慎重かつ徹底して、審議を行うことを求めます!、というものでした。いろいろなご意見があると思いますが、私としては、大変勇気付けられるものでした。東京都では『君が代』国歌斉唱ボイコットを卒業式で訴えられた高校教諭が高校側から訴えられる事件がございましたね。式進行を2分遅らせた、という理由でした。また、生徒に起立を拒否させる扇動をした、というものでしたが、少しやりすぎだったかもしれませんがそれで、起訴というのはどういうものだろう、、と思いました。長い間一緒に教壇にたっていた教師仲間を訴えるというのは、、。リベラルとか左寄りとか
ご批判もあるとは思うのですが、ちょっと不安になる事件でした。
2006/5/31, M/M
いとうさま、皆さま、こんにちは。

虫栗太郎さま

早速にありがとうございました。
これから仕事なので、プリントアウトして
じっくり読ませていただきたいと思います。

教育基本法の改正は、少し先送りになりそうですが、
我が国に数少ない、良識ある知識人の方々のご発言が、
政治の世界にも浸透していくといいのにと
希望してやみません。
2006/5/30, 虫栗太郎
M/M 様

大江氏の教育基本法の「改正」の発言です。誤字や脱字があるかもしれません。ご勘弁を。

私が10歳の時、日本は戦争に敗れました。戦争の終わりの頃、私の村からは3時間かかる地方都市が爆撃で焼かれました。原爆のことも知っていました。村から戦争に取られていった若者が大半は復員兵として帰ってきましたけれど、戦死して帰ってこなかった人たちもありました。食糧難は都会のみならず私達の村にもありました。

夜になると停電してしまいますので、しかたなく家の前で焚き火をする。それを囲んで大人たちがこれからどうやって生活していくかっていうような話をしている。その不安に満ちたまじめな話し声が、子どもの私らにも、胸がどきどきするほどのものとして聞かれたものです。

教育基本法にある「希求」という言葉が9条にもある。「国際平和を誠実に希求……」として、戦争を放棄すると世界と国内に約束する、麗しいほど真面目な大人の声として聞こえてきた。

「希求」という言葉のレベルから、何とか苦しいところを乗り越えて、何よりもまず子どもらを、まともに教育しなければならないと未来の構想のレベルまで展開して、子どもに読み取れる教育基本法の文体・スタイルとなっている。

私は、この教育基本法という短い文章か、子どもの教育をこのように考えている、将来に向けて真面目に考えている大人たちの書いたものだということに励まされたものであります。

教育基本法が改正されるということになれば、戦後の苦しい状況のなかでなんとか次の世代のために心に足る教育をつくろうとした、憂い顔の真面目な日本人の「希求」というものは、地に打ち崩されてしまうことになると思います。

後にはアメリカの暴力的世界支配というものに操られて、巨大な人間の群れとして日本人が続いていくということになるでしょう。

憲法改正が行われる前に日本人の精神の課題としての自立した民主主義への道は、最終的に閉じられてしまうのではないか。これからは憲法改正の道は一挙の開かれるだろうと私は思います。

新聞全教2006.5.20

5.6「九条の会」埼玉での公演より
2006/5/27, 虫栗太郎
M/M 様

 大江氏は、様々なところで発言しています。
でも、どこに載っていたというのを、指摘できません。記憶が曖昧なのです。
 はっきりしているものは、「全教」という教職員組合の新聞に載っていたのを今週読みました。
 九条の会、教育基本法についての発言が、テレビや新聞で取り上げられないですよね。特に、テレビは無視していますよね。テレビ番組制作者の良心に期待したいのですが。
 僕が見た限りでは、「報道ステーション」も「ニュース23」も、紹介されていません。ホリエモンや小泉チルドレンはもの凄い時間を割くのですが。

 先の新聞の大江氏の発言の記事は、短いので、後で文字にしてここに載せてもらいますね。
2006/5/27, M/M
虫栗太郎様
ころころ変わる文科省に振り回されながら子育て中の私にとって、教育基本法改正がどうなるかとっても気になっています。大江さんがこの問題について言及されているとの事、とても興味深いです。読んでみたいと思うのですが、新聞に載っていたのでしょうか?
2006/5/26, juvenilebook
拳児さんへ。
大江さんに宮崎さんを持ってくるのは面白いと思いました。どちらも樹と森の愛好者ですし。
たしか大江さんは(どこでだったかは失念しました。すみません)農業中心の社会主義国家に対する共感を示していたことがあったと思います。
たぶん『未来少年コナン』のハイハーバーのような暮らし方は大江さんの好みにあっているのではないでしょうか。私の想像ですが。
「『五体不満足』やV・E・フランクルは究極の体験をしたと思うが、ああいう本が出ても、まだ小説家は何かを言えるのか」
確かに難しい問題ですが、『五体不満足』の作者にしろやV・E・フランクルさんにしろ、たくさんの小説を読んでいるように思われます。そうでないとなかなか文章は書けませんし。またいつか究極の体験をした人が、それを言葉にするためにも、誰かが小説を書き続けなければならないのではないでしょうか。ここ当分は。
そんなふうに私は思います。
2006/5/26, 虫栗太郎
大江氏は、今の社会を勇敢に批判していますね。一時期、落ち込んでいた時期があったと思いますが、復活しましたよね。(僕の思い違いかもしれませんが)

教育基本法の「改正」についても、鋭く優しく語ってくれています。

希望を捨てないで、この困難を乗り越えようとする意味が、現実的な論理で語られることに、日々励まされています。僕も本物の民主主義を「希求」する行動を自分のやれる範囲で実行しています。
2006/5/23, 拳児
いとうくにお様。皆様。こんにちは。
もし、大江さんに会えるなら、訊いてみたいことが沢山あります。
V・E・フランクルをどう思うか?宮崎アニメをどう思うか?
『五体不満足』、『だからあなたも生きぬいて』、遠藤周作、『機動戦士ガンダム』、『エヴァンゲリオン』、手塚治虫、景山民夫、義家弘介、江原啓之、細木和子、『ゴルゴ13』、『こち亀』・・・・・・・。数え切れません。
大江氏は、非常に勉強家だと思うので、これらを知っていると思うのです。
特に「笑いと純文学のような真剣さ、どちらが人間に必要で、高尚なのか」
「『五体不満足』やV・E・フランクルは究極の体験をしたと思うが、ああいう本が出ても、まだ小説家は何かを言えるのか」
「へたな小説を読むより、手塚治虫を読んだ方が、感銘は深いのではないか」
「人間のよみがえりを信じていないようだが、大江さんの死生観は?」
等は是非訊いてみたいです。

大江さんのエッセイは持っているのですが、未読の方が多いです。
大江さんはエッセイも上手いのですよね。感心します。
2006/5/17, 虫栗太郎
 ノムラサヤカ さん。僕もサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が大好きですよ。

 今回この作品の新訳を出した村上春樹さんの作品も好きです。
 「羊をめぐる冒険」や短編が最高です。
 大江さんとは別種ですが、根っこの方でつながっているような気がします。おそらく彼もノーベル賞もらうだろうし。
2006/5/17, ノムラサヤカ
 いとうくにおさま、虫栗太郎さま、サクラダシンジさま、お返事をありがとうございました。いろんな人の話を聞いたり、サークルなどに行ってみてだいぶ吹っ切れました。娘の今まで見えていなかったことが見えてきて、娘そのものを丸ごと受け入れられるようになったというか。今、ようやく娘と私の本当の人生がはじまったのかも知れません。
 サクラダシンジさんの言葉はうなずきながら読みました。娘がそうなってから私の周りはずいぶん変わりました。家族の会話が増えたり、連絡も取っていなかった相手が力強い味方となったり。私も物の見方が180度変わりました。
 彼女の「周りを変えていく」という力は、彼女の持つ障害自身よりもずっと大きな「才能」なのですよね。
 
 長文になってしまいました。アメリカの小説(フィッツジェラルド、サリンジャーなど)は好きでいくらか読んでいたのですが、大江健三郎さんの作品ははじめてなので、エッセイから読み始めてみようと思います。本当にありがとうございました。
2006/5/11, 虫栗太郎
 皆さんごめんなさい。映画の「静かな生活」の父親役は山崎努さんでした。伊丹さんは、監督でした。
 彼(父親)が、下水の修理をしようとして、事態をさらに悪化させて、大騒ぎになって、修理屋さんを呼ぶと、全く些細なことで簡単に直ってしまう場面があったと思います。また、記憶違いかもしれません。その父親の落胆ぶりが凄くリアルだと感じた記憶があります。「共感!」ていう感じです。僕自身が何時もそんなことばかりやっているので。
 でも、これも記憶違いかもしれませんね。もう一度、読み直し、観直してみたいと思います。
2006/5/11, サクラダシンジ
ノムラサヤカさん

私は自身が障害を持っているのですが、そのことをとても肯定的に受け止めているのですよ。今は一人暮らしと部分的な仕事を楽しんでいます。そして私の両親はとても素晴らしい人たちに変わったのですよ。障害を持つということそれ自体はイコール不幸ということではないのだと思います。本人にとっても近親にとっても。障害そのものよりも、それに付帯する状況や過程がとても重要だと気づかされます。どんなに苦しい修羅場でも、それをひとつ乗り越える度に、新たな境地に立つことができます。

大江さんの『静かな生活』は素晴らしい作品だと思います。もちろん『新しい人よ、目覚めよ』も。障害者本人にとってもとても大きな力を与えてくれる魅力を持っていると思います。

ただ大江さんが、「日本のサリンジャー」と呼ばれるように、ストイシズムに貫ねかれた作家であるため、どこかで解毒剤が必要だとは思いますが。「寄りかからず」ということを言った偉大な詩人もいますからね。
2006/5/11, 虫栗太郎
ノムラサヤカさん、いとうさんのあげたもの以外で僕が薦めたいのは「新しい人眼ざめよ」です。いいですよ。
 それから映画「静かな生活」も観ていないようだったら、是非。伊丹十三さん扮する父親は、大江さんに間違いありません。ですよね。
2006/5/10, いとうくにお
ノムラサヤカさん、はじめまして。光さんとの共生ということが大江文学の大テーマですので、光さんのことや、光さんを中心として動く家族のことは、小説やエッセイに何度も書かれています。もし、大江さんの作品をまだあまり読んでらっしゃらないのでしたら、小説では『静かな生活』、エッセイでは『恢復する家族』、『ゆるやかな絆』をお勧めします。読みにくいとか難しいとか言われることもある大江作品ですが、ここに挙げたものはどれも読みやすいですよ。
2006/5/10, ノムラサヤカ
 初めての書き込み失礼します。絵本の原作を書いています。先日、4歳の娘の脳に障害があることがわかりました。どうとらえていけばいいのか、何をどう考えていけばいいのか悩んだ時に思い浮かんだのが大江健三郎さん、光さん父子の事でした。今、とてもお二人がどう生きたのかを知りたいです。

 もしよろしければお勧めの本を教えてください。
2006/5/2, 虫栗太郎
サクラダシンジさん、貴方のご両親のことよくわかります。僕は、子どもが2人いますが、彼らが生まれるたびに「個人的体験」読みました。子どもの全部を引き受ける覚悟をするために。
 2人目の息子は、障害がありますが、それによって自分が癒されることがしばしばあります。大江さんのおかげだと思います。この虫栗太郎というハンドルネームは彼の兄がつけた彼の親愛を込めたニックネームなのです。
 彼は、笑いながらそれは止めてくれないと、兄に言いますが。
2006/5/1, サクラダシンジ
皆様、いとうくにお様、失礼致します。

大江さんの講演、地方都市に住んでいるため、なかなか拝聴する機会がないのですが、とても興味があります。ただ、TV番組などで観るかぎり、大江さんは書くときと話すときの使い分けがお上手のようですね。話すときはとてもフランクというか、ざっくばらんな感じですね。文章の、あの凝った感じが全くないというか、決して技巧的ではないですよね。そんな大江さんの講演、次回を楽しみにしています。

もう大分前になるのですが、私に障害があるかもしれない、ということが分かったとき、私の両親は大江さんの講演に足を運んだそうです。また、大江作品もいくつか読んだようです。もちろんご子息の光さんと私は障害の種類が違いますが、それでも参考になるところはあったのでしょう。ある程度、自立して行動できるということは、本人にとっては苦痛になることがしばしばです(もちろん光さんにも大きな苦悩があると思いますが)。両親はその講演のせいか、または長い時間をかけたせいか、私につらくあたらなくなりました。

私自身の経験では、障害を持っているひとというのは、美化できない側面を持っています。ドストエフスキーの小説『白痴』(このことばの使用をお許し下さい)には精神障害者の主人公が、純粋無垢な存在として描かれていますが、彼もまたトラブルメーカーであり、ときによっては周りに非常な嫌悪感を与えるのです。この小説は、本当によく書かれていると思います。

ひとはなぜ障害を持ったひとに魅せられるのか、そして辟易するのか。感動し、また嫌悪するのか。その疑問に十分に答えられるひとは少ないと思います。しかし、人間が生き死にするということはそれ自体がひとつの宿題のようなもので、健康であると病気であるとに関わらず、万人がかけがえのないひとつの人生を生きていると言えるのではないでしょうか。

それが、私が今まで大江さんの作品や、他の優れた作家の作品の読書から得た感想です。これからは、ひとの中に入って行きたい、そんな風にも思っています。
2006/4/30, ピンク
本当に、素晴らしい講演でした。私は、いまだに心がふるえ続けています。
2006/4/30, いとうくにお
虫栗太郎さん、僕も行ってきましたよ。僕も大江さんの講演が活字になることを期待しています。
2006/4/29, 虫栗太郎
今日、九段会館でエドワード・サードのドキュメンタリー映画会とそれについての大江さんの講演会に参加しました。映画は何回か観ないと感想など書けないくらいの重厚なものでした。参加者が笑う時にも僕は笑えませんでした。 しかし、大江さんの講演はリラックスした雰囲気で、大笑いしてしまいました。読むことと聞くことの違いに驚き感動し、静岡からわざわざ出てきたかいがあったと思いました。 この講演が、CDや活字になってくれればと思います。数々の大江さんがした引用した言葉をもう一度確認したいからです。
2006/4/11, とうこ
伊丹十三さんの記念館が来年できあがるというニュースから、ここのホームページににたどり着きました。心から尊敬していた、愛する叔父のような伊丹さんが亡くなって、8年が過ぎたのですね。わたしの孤独な青春時代、東京で15歳から20歳まで一人で暮らしていたときに、自己の価値観を確立するときに出会った伊丹さんのエッセイは私の成長の過程で私に染み込んでいるのです。会いたい。
伊丹さんに...。寂しいからと心のふたをしていたのに。
2006/4/11, ラッキー
大きなニュースが続く毎日ですが、沖縄名護市のキャンプ・シュワブ 辺野古地区の基地拡張問題についてもし、皆さんのご意見が伺えたらとても嬉しいです。
防衛庁と名護市の急な合意は驚きました。皆さん、どう思われますか?
2006/3/31, 桜咲くや姫
 先日お知らせしていたDVDの収録が終わり、編集に入っています。ステージに立つとみんなスターになってゆくんですね!舞台、メイク、カメラ、ディレクター、グランドピアノ、照明、緞帳、見慣れないこのような道具の中で一体どうなるんだろうと心配していたのは親だけでした。
 完成したらまたお知らせしますので、宜しくお願いします。
2006/3/27, 虹二
ひろさん、大江さんの「ヒロシマの本」は、ホームページ「中国新聞平和ライブラリー」の「原爆関連図書」で検索すると6冊あります。また、大江健三郎台本、芥川也寸志作曲のオペラ「ヒロシマのオルフェ」もCDで出ています。
なお、こうして書いていますが、私は、「ヒロシマノート」を読んでいるだけです。
2006/3/27, ひろ
こんにちは。最近、カナダ人の友人から大江さんの小説で広島の事を扱った本でお勧めは?と聞かれたのですが、ヒロシマノートしか思い出せませんでした。他にあれば教えて下さい!よろしくお願いします!
2006/3/23, 桜咲くや姫
 初めまして!大江様のファンでして、ひかるさんの曲に励まされておりました、桜咲くや姫と申します。お知らせとお願いです。
四月にSAYAKA&AKIRAのDVDが製作完了の運びとなりました。ダウン症の女の子と、養護学校の男の子のほほえましい、しかもここまでできるんだ、という驚きも含まれるDVDです。もし宜しければ送料込み千円でお届けできますので、4月に完成の暁にはお申し込みくださると喜びます。
 私、桜咲くや姫からご送付いたします。
 お問い合わせは桜咲くや姫までお願いします。
2006/3/11, ラッキー
いとうさま、『ひびき』に文章を寄せた方々の名前はひかえさせていただきました。巻頭に文章を寄せた担当司教はもちろん、命がけの覚悟はできているとは思いますが、9名の執筆なさった方々の勇気にも驚かされます。時節柄、何がおこるかわからないのでお名前は控えました。私自身、この季節に平和とはなんなのかをもう一度考え直したいと思います。いとうさまのご覧になったきたろうさんのお話、ちょっと嬉しいですね。
2006/3/11, オオタ
いとうさん、大江さんの、ノーベル賞受賞理由についてのご教示ありがとうございました。たいへん参考になりました。大江さんのことなら、このサイトで伺えば、何でも出てきそうですね。
2006/3/11, いとうくにお
オオタさん、ノーベル賞のウェブサイトがあるのですが、そこには大江さんのことが次のように紹介されています。who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today. これが、受賞理由ということになると思うのですが、参考になりますでしょうか。
サトシさん、僕も子どもを持ったことが、大江文学に強く惹かれる下地になったと思います。山本周五郎と会ったことがあるかどうかはわかりませんが、出版関係の集まりなどで挨拶を交わしたことぐらいはありそうな気がしますね。
ラッキーさん、非暴力ということで連想したのですが、昨日、昼のテレビ番組でタレントのキタロウ氏が、暴力に如何に対応するかという話を冗談交じりに語っていて、「これは大江健三郎がずっと書いていることでもある」というようなことを言ってました。意外なところで大江さんの名前が出てきて驚きました。
2006/3/11, ラッキー
カトリック教会では四旬節に入るにあたり四旬節キャンペーンがはじまりました。
小冊子 2006『ひびき』ー非暴力による平和への道ー(無料)が各教会におかれています。内容はカリタス・ジャパン担当司教の「はじめに」の文章から9人のかたがたの文章が掲載されています。それぞれの立場から平和のあり方について考えてこられた方々です。よろしかったらお読み下さい。
2006/3/1, サトシ
32歳のサラリーマンです。
最近になって大江さんの小説を読むようになりました。きっかけは、「新潮」創刊100周年記念に出版された、短編小説を集めた特集号を読んだことです。大江さんの「ベラックヮの十年」が収録されていました。私小説とも空想小説ともつかないストーリーに、読後しばらく僕自身が空想の虜となり、どのような実体験の一点からこのような物語が創り出されたのか、作者の想像力に深く興味を持ちました。
その後、短編、長編を何冊か読み、大江さんの破天荒な物語の世界にはまりこんでしまったようです。特に、“親子の血のつながり”を意識させられる作品は、自分に子供がじきできるということもあるのか、「個人的な体験」から「憂い顔の童子」に至るまで、作者の息子に対する姿勢の移り行きを眺めつつ、とても面白く感じながら読んでいます。
ところで、僕は山本周五郎が好きです。唐突にすみません。でも、どうしても気になることがあるのです。山本周五郎はある対談(昭和41年のもの)で「大江健三郎が好き、会う機会があればぜひ会いたい」と言っています。気難しいことで知られた山本周五郎が、この人に会いたいと言うのはかなり珍しいことだと思い、これを読んだ僕は、数年前に大江作品を読もうと挑戦したことがあります。しかし、その時は残念ながら挫折してしまったのですが…。
僕の気になるのは、大江さんと山本周五郎が実際に出会うことがあったのか、ということです。なぜか僕はこの二人の作家に、作風のジャンルは異なるとはいえ、共通する何かを感じてしかたがないのです。大江さんと山本周五郎の接点、あるかないか、馬鹿げた質問ですが、ご存知の方があったら教えて下さい。
2006/2/28, オオタ
大江健三郎の、ノーベル文学賞受賞理由について、正確なところを知りたく思っています。どなたかご教示いただければ幸いです。
2006/2/27, サクラダシンジ
初めから脱線しますが、オリンピックのフィギュア・スケートで荒川静香さんが金メダルを取られました。今回の大会では日本人のメダルがなかったため、彼女の活躍は私たち日本人の心に深く残るものとなったと思います。アジアの一国の一女性が世界のマドンナとなったのですから。
私たちの住むこの世の中は様々な区分や差別で成り立っています。もし人間が人の上に立つことをやめ、人と合わせることをやめ、人と競争することをやめたら、世界はその運行を止めてしまうでしょう。欧米中心の構図の中で、文化的にも経済的にもその頂点に立ちたいという欲求を、その他の国々がやめてしまったら、貧困はいつまでも克服されないでしょう。しかし、立ち止まってよく考えておきたいことがあります。
ある意味で非常にシビアな世界に生きている私たち。私自身ハンデキャップを抱えており、自分より強いもの、自分とは違った人々の偏見の眼、また見守る眼の中で生活しておりますので、そのシビアな側面をより強くかんじるのです。
そこで障害者の息子さんをお持ちで、彼との共生の体験をすることで、あるいは彼を救うために奮迅の活躍をなされてノーベル賞受賞にまでいたった大江さんへと視線は移ろって行くのですが、一つ引用したい文章があります。『静かな生活』でのイーヨーの妹が告白する場面。

―<略>自分で反省してみると、私はやはり兄を特別な場所に閉じ込めるようなことをして来たと思います。<略>なんでもない人というよりは、兄のことを特別な人として扱う場所に。それは外部の人から見れば、「落ちこぼれ」という言葉が示すとおり、なんでもない人より以下の特別さでしょうけれど。<略>
しかし私は家庭の中でイーヨーを不思議な面白い人として受け止めるのに慣れすぎて、もっと実際的に兄を見るということはしなかったのじゃないでしょうか?兄が、障害は別にすれば普通の、なんでもない人間である点を見ないで。(『自動人形の悪夢』)

私たちは細かいところをはずせば、互いに似通っているのではないか、よろいをはずして互いにけん制をやめれば、全てのいさかいは戯れだったと、反省する時期が来るのではないか。そして、健常者と障害者の関係を、世界に存在する様々な関係に置き換えてみたらどうでしょう?
私はそのような感想を抱きながら、毎日とは言いませんが、気の向いた時に、楽しく大江作品を読んでいます。宗教対立という理由で無数の命が奪われるこの世界の住民として・・・。
2006/2/27, いとうくにお
北川さん、こんにちは。僕も『吉里吉里人』は思い出に残る作品です。おっしゃるとおり『同時代ゲーム』と共通したところがありますね。関係ないことですが、友達が岩手の人で、吉里吉里駅の切符を土産に買ってきてくれたことがあります。
2006/2/18, 北川悟童
1968年のある日、その背表紙のタイトルが妙に気になって手にした本、「日常生活の冒険」を読んで以来、ずっと今まで大江健三郎の小説、エッセイを読みついています。今私が、自分がこれまで読んできた日本の小説の中から、面白かった2冊をあげると、大江氏「同時代ゲーム」と井上ひさしの「吉里吉里人」を挙げます。この2冊を読んだことのある人なら、ある共通性に気づかれると思います。地方の中央に対する反逆、荒唐無稽、道化性、方言の力、しかつめらし硬直した権威に対する哄笑のエネルギーなどです。これらの小説ほど、ためになって、面白く、痛快で、知恵と知識は使いようという、「民衆のための愉快な反権力読本」はないと私は思っています。
2006/1/31, にくちゃん
林檎さん、はじめまして、にくちゃんと申します。

『懐かしい年への手紙』の講談社文芸文庫版p.45、講談社の単行本p.37に、「この世は良いものだし・人間は根本的に善良だ」という文章があります。林檎さんの探しているフレーズとは少し違うので、参考にならないかったら、ごめんなさい!

我が家のホームページもよろしくね!
「ぽこあぽこ」
http://www1.pbc.ne.jp/users/kaiman00/
2006/1/31, 林檎
大江ファンの皆様はじめまして

林檎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
どうしても知りたいことがあり、こちらにカキコさせて頂いてます。

かつての大江作品のなかで「人間とは元来優しいものです」というフレーズにはいった文章の出ている作品を探しているのですが、どなたかご存知じゃないでしょうか?

ネット上でも色々と探してみたのですが、どうしても見つからず、かなり必死になって探しております。見つけたからと言って別に何をするわけでもないのですが、どうしても気になって気になって・・・。 

どなたかご存知でしたら教えて下さい。お願いいたします。
2006/1/29, ラッキー
皆さん、私の書き込み引用しました文章でミスがありました。訂正させていただいてお詫び申し上げます。失礼しました。

 奇跡的誕生 7行目  間は間だ→間はまだ
       11行目 永遠なる者→永遠なるもの
       19行目 奇蹟的誕生→奇跡的誕生
2006/1/28, トム(Tom5k)
いとうくにおさま、大江ファンのみなさま。いつも素晴らしい書き込みを拝見させていただき、ありがとうございます。
2006/1/20及び1/21にはじめて書きこまさせていただきましたが、ご挨拶が遅れました。『誰でもピカソ』の大江一家の出演で、かなり興奮し、その日は周囲に誰も話す相手がおらず、こちらにお邪魔した次第です。申しわけありませんでした。

わたしは大江健三郎さんを尊敬しており、憧れている者で、数多い大江ファンのなかのひとりですが、いつも批判的側面で色々と気になってしまうことが多く、それは大江健三郎さんを理想化しすぎている面が多いことからのような気がしています。逆に彼のような知識人が日本には少なすぎるからかもしれません。
今回も、後日友人と話していて、気づかされたのですが、『誰でもピカソ』について、書き込ませていただいた外に、大江ご夫妻双方がそれぞれを「主人」「家内」と話されていたことにも割り切れないものが残っています。

しかし、大江一家が孤高の中で日本の良心であり続け、さらに絶望のなかで光さんを育て上げたことなどからは、まだまだ多くを学ぶべきであると思っていますし、特にヒロシマとオキナワに対しての主軸がぶれていないことは、日本人として忘れてはならないことだと、いつも教えられているように思っています。

歴史家の羽仁五郎さんの評論集で、当時若かった大江さんに「大江君は、そこがわかっとらんのだよ。」と優しくたしなめられていた文面や、大江氏の『世界の若者たち』での理想に燃えた対談記録を思い出しています。

2006/1/21, トム(Tom5k)訂正
必至→必死
非情→非常
2006/1/27, ラッキー
皆さん、たくさんのご感想を書き込んでくださって本当にありがとうございます。
私は精神障害者ですが、皆さんのご意見はとても貴重なご意見だと思って感謝の意を述べたいと思います。時期的にちょっとずれますが、私が昨年マザー・テレサ神の愛宣教者会の修道院長からいただいた小冊子を引用させていただきたいと思います。(宣教ではありませんがご不快に思われたらお許し下さい)
 キリストの誕生 マハトマ・ガンジー
 イエスの新しい掟
 クリスマス・イブに当たって、新約聖書に書かれているキリストの誕生が、どんなに深い印象をわたしにのこしたかについて述べたいと思う。
 わたしが聖書を知ったのは、もう、45年も前のことで、旧約聖書にはさほど関心をもたなかったが、新約聖書の山上の垂訓に到達して、キリストの教えを理解しはじめた。それはわたしが幼い日に習い覚えた、ある教えにこだまする様な感をもったものである。その教えとは,復讐をしないこと、憎しみには憎しみを返さないことであった。
 聖書の中で、いつまでも心に残り続けたのは、イエスは新しい掟を定めに来たということである。確かにイエスは、「違う律法をもってくるために来たのではなく、モーセの古い律法を完成するために来た」(マタイ5・17)といっている。
だが、キリストはこれをどのように変えたのだろう。それは新しい律法になったほどである。もう「目には目を、歯には歯を」ではなく、逆に、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」(マタイ5・39)「一千歩、歩かせられれば、二千歩」(5・41)歩く覚悟でなければならなくなっている。これは若いときに習ったと私は思った。これは確かにキリスト教のものではないとわたしは考えていた。
なぜなら、当時の私がキリスト教をどのように考えていたかと言うと「キリスト教などと言うものは片手にウイスキー、卓上で大きなビフテキを楽しめる自由」だと
決め込んでいたのである。
 山上の垂訓は、わたしの誤りを解きほぐしてくれた。真のキリスト者、神の為に生きる人々との交際が増えるにしたがって、「山上の垂訓は、キリスト者の生活を行きたい人々にとって、そのすべてなのだ」と理解した。イエスを愛するようになったのは、この山上での説教のためであった。

 奇跡的誕生
 幸いなことに、聖書は破壊から免れた。各聖書教会は、聖書を多くの言葉で翻訳刊行させた。これは、遠い未来に対して、確かに大きな奉仕であった。生ける信仰の歴史には、二千年など、ほんの一瞬のことかもしれない。わたしたちが「いと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和」(ルカ2.14)と讃美しているにしても、現在の地上では、神に対しての栄光もなく、平和もない。
 こうして、これは満たされざる飢えとして残り、そしてわたしたちは、わたしたちの文明から暴力を引き抜かない間は間だ、キリストはまことにお生まれになってはいないと言えよう。真の平和が実現するであろうときには、わたしたちがいかなる証拠も必要ではないだろう。そうなれば、わたしたちは、キリストがお生まれになったと言えるだろう。
 基本的な宗教を考えれば考えるほど、そしてすべての時代、すべての国に生まれたいろいろな師たちを考えれば考えるほど、この物語の裏には、永遠なる者が潜んでいるのを、わたしは知る。
 それゆえ、この言葉に深意を与えずに、単に「クリスマスおめでとう」と言っても、それはほんの儀礼にすぎない。そして、もし生けるすべてのもののために平和を望まないなら、ユークリッドの定理のようなものである。「人生のすべての面から力強い平和への渇望がなければ、平和はあり得ない。」
 戦争の中にも確かに平和は感じられる。しかし、それは戦争をなくすために自分自身の命をささげ、自分自身を十字架にかけるときに感じるものだ。
 こうして、奇蹟的誕生は一つの実在であると同様、戦争のこの世において十字架も永遠なる実在である。それゆえ、私たちは十字架上の死を考えずに誕生を考える権利がない。生けるキリストとは、生ける十字架の意味である。これがなければ生活は死以外のなにものでもない。(F・バルバロ訳)(1931年クリスマス・イブに書いたもの。)

ちょっと長くなりすぎましたが私の心を打った言葉を引用しました。
2006/1/25, おおさわ
 『誰でもピカソ』の感想と意見。
 私はテレビ番組を見て、渡辺満里奈さんは光さんにもう少し問いかけて欲しかったと言う印象をもちました。でもいいんですけれど。
 私はあの「一日中本なんか読んで」というところに思わず笑ってしまいました。とっても大切な問いかけです。「本なんか」と「本ばかり」では大分違います。「本なんか」と言えば、それこそ「飢えて死ぬ子の前で」という事になってしまいます。私は「本なんか」と言われても読みます。
 漱石の作品に登場する高等遊民は現代のフリーターに極めて近いように思いますが、私はそのような人間の在りようを否定しません。それは本なんか読んで得た知恵です。
 私の実家は稲作を少しやる農家でした。子供の頃の記憶に花作り農家を軽蔑した言葉を耳にしたことがあります。「花なんか作って」。花は腹の足しにならない、ということです。(私は大晦日に花を持って父の墓参りにいきました。)
 
 大江氏は作家としても父親としても見事だと思います。
2006/1/23, イーヨー
少しタイムラグのあるメッセージですみません。
久しぶりの投稿で、どきどきです。いつもはロム専門なのですが、つい、言いたくなりました。


「たけしの誰でもピカソ」での渡辺さんの発言に対するトム様&サクラダシンジ様の発言に共鳴します。庶民(この単語は嫌いなのですが)が障害者と生活することは並大抵のことではありません。私が当事者としてかかわり続けているのはいわゆる精神障害者で、光さんとは少し違うのですが、「とんでもない目(としか思えない)」に合わされることには変わりありません。大江氏のエッセイにも思春期の光さんが暴れだすのを取り押さえるシーンがありますが、似たような経験は私にもあります。障害者って、きつい。大江氏のようにはなかなかできない。しかも、私がかかわっている障害者には光さんのような才能がない。私も凡人。彼女も凡人。

そういうことをふまえての私の感想です。

突然の話題転換ですが、
SMAPの番組の放送作家をやっている鈴木おさむという方のエッセイで、「ブスの瞳に恋してる」というものがあります。下ネタ満載の、ふざけたテイストで書かれた文章です。そのエッセイが今度ドラマ化されることになりまして、私は主演の稲垣吾郎さんのファンなので何気なく原作をチェックしてみたのです。それを、ふと、思い出しました。それは、売れっ子(スマスマとかを手がけています)で、女にももてて(つきあう女はモデルばかり)、お金もある男性が、「ブスで、おまけにデブ(鈴木氏談)」の女性に惚れて、結婚をし、日に日に愛情は募るばかりという日常を書いたエッセイでした。これが創作なら、よくあるシンデレラストーリーでしかないのかもしれません。ですが、これは少なくともある程度は実話です。私は、そこに、あらゆる要素を取り払った無条件の愛情の片鱗を見たように思ったのです。そして、それは障害者とその家族にとってひとつの実現可能なモデルではないかと思ったのです。「ブスで、おまけにデブ」の女性にだって長所はあるのですが、それは人目にはつきにくいものです。それは障害者の場合にもそのままあてはまると思います。鈴木氏は「ブスで、おまけにデブ」の妻の外見的な悪口を平気で書きます。彼女のことを「40すぎのおっさんにしかみえない」とさえいいます。その上で、彼女を「ぼくのかわいいおっさん」と呼びます。いいな、と思います。泣きたくなります。女っぽい感傷を刺激するのです。何が言いたいのか自分でもわからなくなってきましたが、お二人の発言からこの本を連想したことに意味があると信じて書き進めていきます。
こんな私ですが、大江氏の光さんへの態度は尊敬しているのです。特に「新しい人よ、目覚めよ」でされていた「言葉の定義」は本当にすきなのです。でも、大江一家はちょっと凄すぎるのです。大江氏は偉人過ぎるのです。私の状況があまりにもつらすぎると、彼らの呼びかけは他人事のように感じることがあります。「選ばれた障害者とその家族」に見える時もあります。その現実から遊離した感じは、宗教というものに関する違和感と似ている気がします。私はどうしても宗教の存在意義がわからないものですから。


「ブスの瞳に恋してる」自体はくだらないといわれればそれまでなので読んで欲しいとはいえないのですが、なんとなく結びつけて考えてしまいました。

でも、まあ、イナガキゴローはときどき鼻血ものにかっこいいのでそれを鑑賞するためにだけでも女子はドラマを見るよーに(笑)。と、ふざけて終わります。ながくなってごめんなさい。
2006/1/23, サクラダシンジ
作品名のロシア語訳ですが、『万延元年のフットボール』は『1860年のフットボール』、『同時代ゲーム』についてはそのまま『同時代ゲーム』となっておりました(文字化けするといけないので、原語はあえて掲げません)。残念ながら、『個人的な体験』については調べがつきませんでした。
インターネットで検索すると、『大江健三郎賞』についても、ロシア・マスコミ各誌は詳しく報道していました。
また、これは打ち間違いから気づいたことなのですが、ウクライナでの大江さんの認識度が非常に高いことに驚かされました。核問題を抱えた国だからでしょうか?私はウクライナ語が読めませんが、ロシア語に近い言葉なので、そのうち調査してみようと思います。
2006/1/23, いとうくにお
ジョンさん、英語版は『A PERSONAL MATTER』です。他の言語版のタイトルは知りませんが、ネットで調べればわかりそうですね。
2006/1/23, ジョン
大江健三郎『個人的な体験の』英語版、ドイツ語版、ロシア語版のタイトルを教えてください!!
2006/1/21, サクラダシンジ
トムさん

私はまだ二十代の若造ですが、トムさんの示されている見解に、多分に共鳴するところがあります。そして、あのような場においての渡辺さんの失言は、あの短い番組の中で大変大きな意味を持っているように思います。当然大幅な編集がなされているでしょうから、収録したスタッフもそこにただの失言とは考えられない必然性を見出したからではないのでしょうか。

光さんに対して失礼のないように申し上げたいのですが、障害者を抱えた庶民の家庭というものは、決して生易しいものではないと思います。乱脈経営の中小企業、とでもいったような光景が想像されるのではないでしょうか。「障害者自立支援法案」が立法した今、当事者の方たちは大変必死であると思います。

本を読む、ということは現在でこそ人格の形成にとって欠かせないこととして奨励されていることであり、私のような若者にとっては必須事項です。しかし、一方でそんなに抽象的で受動的な行為にばかりかまけていては、逆に社会の現実に取り残され、まともな働き口にもありつけず、はては結婚の資金すらつくれないフリーターとして、非人間的扱いを受けながら生涯を終えることになります。

渡辺さんが述べられたことは、「米粒のために」働くひとのちょっとした諧謔です。悪意がなかったことは確かでしょうが、偉大な人物にとってはひとつひとつの行為がコインの裏表のように受け止められます。

いろいろ問題点は尽きないとは思いますが、私としては、大江さんのこれからの活動、発言を暖かく見守っていきたいと思います。また、トムさんの問題提起に対する、いとうくにおさん、皆様の率直な意見を聞かせていただきたいと思います。
2006/1/21, トム(Tom5k)
連続の書き込みをお許しください。
『たけしの誰でもピカソ』での司会の渡辺満里奈さんの「本なんかばっかり読んでないで・・」の発言ですが、重要な発言であったと考えました。

現在、障がい者である長男の光さんを中心とした大江一家の生活が、豊かで人間らしく素晴らしいことは誰もが認め、同様に一般の社会でも社会的に弱者である人々を中心とした社会が幸福でかつ平和をもたらすことに間違いはないでしょう。また、番組もそれをテーマにしたものと感じました。

しかし、渡辺満里奈さんの言葉は、朝から晩まで必至に働き、しかも稼ぎが少ない余裕のない生活から、大江一家の素晴らしさをモデルにすることが果たして可能なのか否かを突きつける庶民の疑問の代弁であったような気もします。渡辺満里奈さんの失言は無意識で悪気のないうっかりしたものであったことで、逆に鋭い言葉になったような気がします。

番組中では、「本なんか読んでも意味がないけれど、何かを創作する姿勢になれるので意味がある」というような意味のことをジョークにして説明され、更に光さんが父の健三郎氏の誕生日に贈った『70才になったソナチネ』の演奏について「自分が生きて仕事をして、息子と一緒にいきてきたことはなかなか意味があったのではなかろうか。演奏会で自分も一緒に拍手を受け、幸福だった」とおっしゃっていました。

大江健三郎氏は、自らの作家という職業が本当に社会的なものであるのか否かを悩んでいられた時期があったと記憶しています。渡辺満里奈さんの発言を大江氏は今後どのように受け止めていくのか非情に関心があります。

わたしは、大江健三郎氏の『飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?』と中上健次の本を並行して読んでいた若い頃のことを思い出しました。
2006/1/21, 渡辺智子
「誰でもピカソ」私は残念ながら地方のため、まだ拝見できません。
トム(Tom5k)さまのご投稿の最後のご意見、私もそのように感じました。はじめは、「なぜ?北野武の?」と思いながら、よく考えてみました。
E・W・サイード氏は「いつも知識人は孤立するか迎合するかの瀬戸際にいる」と言いました。
孤立している知識人の声がどこに届くのだろうかと思います。文章はそれを読まない人には届かないし、まして直接的に思想を訴えるには、自分の講演に導くというところまで達さなくてはならない。
そのような中で、北野氏は一人の成功した表現者であり、知識人の一人です。そして、北野氏は最も強力な表象(代弁)する立場にいる人。大衆に大きな影響力を与えるメディアにおいて最たる人。少なくとも、北野氏は批判者であり、論客でもある。
そのような人物に迎えられることの意味の大きさを考えました。たとえば、その思想に相違があったとしても。いや、もしも、対立する思想の持ち主ならなおのこと。
テレビに出演することは、現代では最も効果的な意思伝達の手段だと私は思います。その直接的な番組内容ではなく、出演した知識人、表現者のその意思に目を向けさせる第一の手段ではないでしょうか?
一般視聴者の中の誰かが、大江氏に興味を持って、本を読む機会もあるわけでしょう。影響力というものが重要です。対個人でも、対大衆でも。
今やどんなメディアでも利用するべきである。それほど、切迫した危機感があると思います。
シモーヌ・ベイユが「現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられるいっさいが消滅し、すべてを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。権威主義的で国粋主義的な運動が勝利して、およそいたるところで、律儀な人びとが民主主義と平和主義に託した希望がくずれさっているが、これもまた、われわれを苦しめる悪の一部にほかならない」といった1934年の不安が蘇って来る前に。
大江氏には、これからもおおいに啓蒙活動をしていただければと願います。
2006/1/21, サクラダシンジ
ラッキーさん

私の住んでいるのは地方都市ですが、幸いにして『誰でもピカソ』を観ることができましたので、つたない感想ですが、述べさせていただきたいと思います。
まず、番組には大江さん、奥様のゆかりさん、光さんの三人で仲良くご出演なされました。光さんはいろいろな公演などにも出席なさっているので、場慣れしている?印象を受けました。大江さんは絶えず光さんの肩をなでながら、またゆかりさんはひんぱんに気遣いのまなざしを向けながら、番組は進行していきました。
光さんの曲がいくつか演奏されるなか、大江さんと光さん、ご家族のこれまでの道のりが写真や音楽、関わってこられた方々のインタヴューを交えて紹介されました。居間で、大江さんとゆかりさん、光さんがそれぞれの創作活動をなさっている風景も写されました。ある時期から光さんは作曲を中座してしまうのですが、それは音楽の複雑さを理解して、学ぶ段階に入られたということで、作曲家の方が大江家に招かれます。そしてしばらく時間を置いてから作曲されたのが、お父さんの大江さんへ70歳の誕生祝いに贈られた曲でした。光さんの絶対音感を発見したのが、故武満徹さんだったことも紹介されました。大江さんは、作曲を休んでたくさんの音楽を聴くようになった光さんの、作曲家としての回り道を、ご自身の小説執筆に対する態度に重ねているという意味のことをおっしゃっていました。最後に光さんが大江さんにプレゼントされた曲が演奏されました。
司会の渡辺さんが途中で、「本なんかばっかり読んで・・・」と失言した時の、スタジオの崩れようがユーモラスで、大江さんが多少うろたえておられました。
たけしさんは終始涙ぐむところを見せておいででしたが、大江さんとたけしさんの間でまっこうからの議論というものはなく、たけしさんが慎重なコメントをつけて、大江さんと芸術家としての共通点を見出すような会話がなされました。それは、映画をまとめて観たり、本をたくさん読むといったことです。

私の個人的な感想としては、障害者の息子さんを表に出されるということは、数々の公演とともに、大江さんにとって大変勇気のいる、そして単純な感情で割り切れるものではなかったと思われました。ただ、大江さんは歳を経るにしたがってかくしゃくたる雰囲気をまとい、同時に優しい方になられたなあという印象を受けました。光さんは作曲家として活躍されるという幸運をお持ちですが、他の陽に当たらない障害者の方たちが、本当に、人間らしくいきいきと暮らせる世の中になってほしいな、と、またそのための努力をしていかなくては、と感じました。

以上、書いたことには主観が入っておりますから、もっと適切な解説をしていただける方がいらっしゃれば幸いです。
2006/1/20, トム(Tom5k)
はじめて、書き込ませていただきます。
わたしの住んでいる地域は地方ですが、幸いなことに『たけしの誰でもピカソ』が放送されています。

司会者の方の悪気のない若干の失言があり、観ていたわたしも冷や汗をかく場面がありました。

内容については、ご子息の光さんを中心にした構成で、障害を持って生まれた彼が言葉を習得して、音楽が好きで絶対音感を身につけていたことから、音符を駆使して音楽を自由に創作してきた経緯の紹介と、それがご家族の光さんを中心とした愛情深い生活のなかから育っていったことなどが紹介されているものでした。たけしさんと大江健三郎氏の直接の対談はそれほど多くありませんでしたが、双方、映画監督であること、作家であることからの観察眼の鋭さをジョークに交えて言及されていた最後の場面が印象深かったです。

わたしは若い頃に読んだ、サルトルから影響を受けていた大江氏の『個人的な体験』と『空の怪物アグイー』を思い出し、たいへん感動いたしました。それにしても大江氏が、この時期に民放の番組に出演することを選択した意味は考えてみるに値する出来事のような気がします。
2006/1/20, 受験生かずちゃん
大江氏のご子息の光さんがクラッシク系のCDで日本ゴールドディスク賞をとった時に、付き添って受賞し、大江氏が言ったコメント覚えている方、いらっしゃいますか?「人生は〇〇〇のようなもの」(スイングのような感じ)その言葉に感動し、大江氏とそのご子息に興味を持つようになりました。ちなみに私は福祉関係の仕事をしていて、今度ある試験がありまして、その時の小論文に引用したぃのです。そして、今日の『たけしのだれでもピカソ』は火花が飛ぶことなく、大江ファミリー賞賛の内容だったと思います。
2006/1/20, 受験生かずちゃん
再度申し訳ありませんが、TVのニュース番組で聞いた言葉です。
試験は今週の日曜日で必死なのです。
ご存知の方がいる事を祈ります。
2006/1/20, ラッキー
大江さんの文体のお話で盛り上がっているところ、失礼いたします。本日1月20日テレビ東京系の番組『たけしの誰でもピカソ』に大江さんと光さんがたけしさんの司会と共に御出演なさるようです。地方局ではなかなか観れない番組なのですが
東京にお住まいの方だったら観れますね。あのお二人が果たしてどういうお話を光さんと交えてするのか、、なんだか火花が飛ぶような予感がするのですが、、。
私の住んでいる地方ではちょっと観る事ができず、残念です。ご覧になった方、ご感想をお願いいたします。
2006/1/19, いとうくにお
受験生かずちゃん、もう少しヒントがあると回答が得られるかもしませんね。何かほかにヒントになるような情報はありませんか? 受験生かずちゃんご自身はどこでその言葉を知ったのですか?
サクラダシンジさん、大江さんの講演集についての「丁寧にピラミッドのように、ひとかたまりの言葉の総体に積み上げられていっている」というご意見、同感です。僕はそういう大江さんの文章を読むと、見事な彫刻のように感じることがあります。細部が精密に出来ていて、そういう各細部が密接に関わっていて、そして全体の姿も美しい、そんなふうに感じられるものですから。
鈴木さん、はじめまして。『静かな生活』はいい本ですよね。伊丹監督が映画化したものもご覧になられましたか? 原作とはまた違う味わいですが、映画のほうもなかなかいいですよ。
2006/1/19, 鈴木哲也
はじめまして。前々からこのサイトの存在は知っていましたが、パソが苦手なこともあって、参加を見合わせていました。私の一番好きな作家である大江氏の小説を読む人が周囲にいなくて、今までずっと孤独でした。私がもっとも好きな作品は『静かな生活』です。凝りに凝った構成が生み出す世界観の素晴らしさには毎回新たに感動します。初版から読み始めて15年くらいはたつけれど私のバイブルです。それでもまだ作品の良さはわかってないんですけれども…。私は最近の作品のほうが幻想的で好きですが、『人生の親戚』は本当に難しかった…。私の読書は視野が狭くて、実は初期の作品は食わず嫌いなのです。これではいけないとは思っていましたが、なかなか取り組めませんでした。また読み直して感想を書きたいと思います。挨拶になってるかわかりませんがよろしくお願いします。
2006/1/17, サクラダシンジ
こんばんわ。
年が明けて私がまず初めに読んだものが、レールモントフの『現代の英雄』でしたが、大江文学に関してはしばらくお留守になっていました。そこであらためて手に取ったのが『鎖国してはならない』でした。この本を読み進めていって気づいたことは、《大江さんの小説作品よりも読みやすい》ということでした。もちろん講演集ですから、平易に語られる努力がなされているのは当然で、紙で何回も読み直しできる小説よりも、聴衆に一歩譲る形になっているのでしょうね。
これはちょっと皮肉な言い方かもしれませんが、大江さんの文章は、一語一語意味がはっきりしていて、あいまいさがない。小説にしても講演にしても、相手が自分の意図を99パーセント理解するという前提の、ゴールにむけて打ち込まれるひと飛びのボールの連打のような文章なのです。そしてこの文章が、まことに丁寧にピラミッドのように、ひとかたまりの言葉の総体に積み上げられていっているような印象を受けます。
ある意味で著者のエゴイズムを徹底している大江さんの姿勢は一貫しているようで、私たちがいかに解釈しようと批判しようと、作品の持つ強烈なメッセージ性には少しも傷がつかないわけであり、また、それが大江さんの文学の魅力のひとつなのかもしれません。

『誰でもピカソ』に近日出演を予定されている、ということなので、ぜひ観てみようと思います。
2006/1/15, 受験生かずちゃん
うろ覚えで申し訳ないのですが、ご子息の光さんが音楽の賞をとった時に大江建三郎様が言ったコメント「人生は…(音楽用語のような…)」覚えている方いらっしゃいませんか?
2006/1/10, いとうくにお
渡辺さん、拳児さん、こんにちは。一人では集められる情報はとても限られていますが、協力しあうとその限度はぐぐっと広がりますね。これからも皆さん、ご協力のほどお願いいたします。
今日の朝日新聞1面に大江さんに取材した記事が掲載されていましたね。未来に希望を託す、そういう大江さんの心境が紹介されていました。
2006/1/10, 拳児
いとうくにお様。皆様。こんにちわ。
以前投稿したことのある拳児です。大江ファンになって、もう12年経ちます。私も30代になりました。一生懸命何度も読み返しているのは『「自分の木」の下で』と『新しい人の方へ』と『二百年の子供』です。私もけっして順調とは呼べない人生を生きているので、この三冊にいつも励まされ、心を熱くしています。文学の力、というものをしみじみと感じます。「子供」という単語を「人間」に置き換えて読んでいますし、そう読んでも十分な内容のある本だと思います。
2006/1/2, 渡辺智子
謹賀新年

昨年の11月にkubokichi4830typerさまがおたずねになられた「大江健三郎講演会の情報」についてですが、私もひそかにどなたかからのお答えを期待していました。
いつもネットでキーワード検索するしか方法がなく、ヒットしたサイトで、近辺の講演会が終わってからの報告を目にする都度、残念でならなかったからです。
やはりなかなか情報は得られないのかな?
そんな中でも、ここのサイトやメーリングリストには、アンテナが鋭い方々がいらっしゃるために、多くの大江氏情報が得られて嬉しく思います。
そのおかげで通常では決して手に取らなかっただろう『ミセス』の新年号も、大江氏対談掲載のために入手できました。美しい写真が良かったです。
これからも楽しく拝見させていただきます。みなさま、よろしくお願いします。

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