…キルケゴールは、「思い出」すなわち追憶(アナムネシス)と同一でありなが
ら方向が正反対の運動として「反復」を考えた。追憶が後方への反復であるな
ら、反復は前方への追憶なのである。
キルケゴールは、小林とともに「一度起つて了つた事は、二度と取返しが附か
ない」と出来事の一回性を洞察しているのだが、その瞬間、まさにその洞察の
徹底性ゆえに後方から前方へと向き直る。過去に向かって「悲しみ」として備給
されていた情動を、喜びとして未来へと向け直す。
言うまでもなく、「反復」は単なる繰り返しではない。同時に取り返しでもあ
るような繰り返しである。初回があり、その二回目が初回を繰り返すのではな
い。「反復」する前に初回は存在しない。「反復」することによって初回が後方
に存在するようになるのだ。「反復」とは、だから、結果として後方に初回が浮
び上がるように前方に運動せよという倫理であり、そのような運動によって初回
を後方に存在させよという命令である。「原初(もと)の状態」(キルケゴール)
──たとえば「才能にあふれて美しく、多くの人から愛された」吾良──の一回
的でかけがえのない単独性は、二回目、三回目を「反復」するまでに、そのこと
によって二重にも三重にも存在させられ、取り返されるのである。
こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、
ぼくの関心をそそる。石とこれほど間近かに取組んで苦しんだ顔は、もはや
それ自体が石である! この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終り
になるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくの
を、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの
不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくる時間、これは意識の張りつめた
時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへとすこしずつ降ってゆく
このときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。
かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。