とりあえず、元気でいます。
修習も講義なんかがあるのは、
もう一か月を切ってしまって、
2月21日からは最後の試験が始まります。
それまでにやっておかなければならないことも
たくさんあるのだけど、
とりあえず、静かに好きな本を読んで、
過ごしている時間が多いようです。
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ふわっと、線路に吸い込まれるような気分に
なることがあります、
そのときに、現実感を喪失しているといってしまえば、
簡単なのだろうと思いますけど。
それでも、本当に吸い込まれそうになるのです、
とってもそのときには恐ろしいと思います。
静かにですけど、首筋あたりから腰のあたりにまで、
寒気というか、冷や汗というものでしょうか、
きれいに通り抜けることがあります。
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静かに何かを恐れて生きて、でもそれが何かは分からないけれど、
日常の慣性の中では、当面の安心をそれに求めて、
失うこと自体に恐れているのか、
失うことを認識している自分を予定して、それに恐怖を。
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究極的に、痛みを感じることがあれば、
それを感じる受容体としての意識が必要です。
その意識自体を飛ばしてしまう程度の痛みというものを
思い浮かべたならば、確かに受け取ったはずの痛みは、
いったいどこに行ってしまうのでしょう。
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ふわふわと浮遊している状態が、
高校を卒業して以来、続いているように思います。
地に足をつけることができたならば、
そこからまた、ふわふわと浮かぶことができるのです。
鳥のように空を飛びたいと思うことは、
実は、飛ぶことの切り裂き感に恐怖を覚えているように思います。
切り裂き感は、恐怖のみならず、爽快感のような
快楽をももたらすものだと思うけれど、
実際には、ふわふわと浮かんでみたいと思うのが、
最近の私の感覚のレベルなように思います。
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軟着陸することは難しい。
平穏な日々というのは、静かに動いていると言うこと。
それ自体に慣性はそれほど含まれていませんから、
結構、急にストップしようとしても、
衝撃は小さいように思います。
何らかの希望を持つと言うことは、
結局、揺れを大きくすることだと思います。
リスクは、当然に分かるわけです。
それを背負うのが、おかしみと言えるわけで。
でも、とまることはできない。
もとの場所に戻ることもできない。
どちらにしろ不可逆的な喪失を繰り返している時ですから、
そのことのリスクは大したことではないのでは
ありませんか。
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あまりにおいしいとしても、
同じ食事を一生食べ続けることに対しての不安は
あるわけです、
慣れというものの収支を数えようとしているのは、
みっともなくないことではないと思うのです。
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方言を思い出しました。
もったいない、という意味の、
いたましい、
という言葉です。
思い出して、すなわち、それが好きになること。
良き思い出を持っていたと、
満足しているのです。
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良い人に恵まれているように思います。
そして、その環境が失われることも、
当然のように予定されています。
そして、自分が、
その良い人の中を、
一人で鳥にでもなったかのように、
切り裂いているのだとすれば、
それは、眠る時間を奪ってあまりあるほどの、
心の痛みを招くのです。
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ところが、その受容体が、
今ひとつ、実感がわいていないのです。
首を振ってみました。
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